海外広布
インドネシア広布
面積:約189万ku(日本の約5倍)
人口:約2.38億人
住民:大半がマレー系(ジヤワ、スンダ等27種族に大別)
言語:インドネシア語
【国土世間】
インドネシア共和国は赤道直下にあり、東西およそ5,100kmにわたる世界最大の群島国家で、大小およそ1万3千もの島々からなる。その総面積は日本のおよそ5倍で、石油や樹木をはじめ多くの天然資源を有する大国である。
人口の約90%がイスラム教徒で、世界で最多数のイスラム教徒人口を抱える国家であるが、基本的に信教の自由が認められており、多くの日蓮正宗信徒が日夜信心に励んでいる。(『大白法』H21.3.16)
【広布の歩み】
・現地組織として
把握する信徒数は約59万人、
政府発表の数字は120万人となっている。(『慧妙』H15.11.16)
・会館御本尊を御安置している
地方会館は全国10ヵ所にのぼり、その他、会館・礼拝所は各地に多数ある。
・目下の活動状況としては、毎月の研修会に千名を超えるメンバーが妙願寺布教所に集っており、そこで御授戒・御本尊下附をはじめ、婚礼や塔婆供養などの各種法要も、日本の寺院同様に執行されている。
<妙願寺>
首都ジャカルタ市より約70キロメートル南方のボゴール州にあり、平成11年1月に妙願寺布教所として開所。平成17年9月に前御法主日顕上人猊下大導師のもと山号寺号公称板御本尊入仏法要を奉修した。ジャカルタ市の法清寺と共にインドネシア広布に向け進んでいる。(『大白法』H23.9.16)
今日の揺るぎない組織の土台は、
平成5年1月6日に逝去した故セノスノト会長の功績によって築かれた。会長自らが、地方へ奥地へと寸暇(すんか)を惜しんで歩みを進め、弘教を成(な)したのである。
このインドネシア布教の歴史には、創価学会・SGIが、破門以前から陰湿きわまる嫌がらせをなし、メンバーが苦汁(くじゅう)をなめた時期があった。
当時、インドネシア政府は、
「日蓮正宗」を宗教とは認めていても、「創価学会」を一宗教として認めていなかった。また、インドネシア国憲法の規定により、外国組織である創価学会・SGIは、インドネシアの信徒組織をコントロールすることが許されなかった。
こうした状況下にあって、何としてもインドネシアの信徒組織をSGIのコントロール下におさめたかった創価学会は、セノスノト会長に対し「努力が足りない」と糾弾(きゅうだん)し、制裁措置として、インドネシアヘの出張御授戒の要請を故意に停止したのである(当時は、海外信徒への指導は全てSGIに委任せざるをえず、また出張御授戒もSGIからの要請によって行なっていた)。
その間も、インドネシア国内の入信希望者は増え続けたが、「御授戒を受けたい」「御本尊様を下附いただきたい」との懇願(こんがん)むなしく、多くのメンバーは内得信仰を余儀なくされた。
しかし、かえってこの状況は、自宅で勤行のできない人のために会場を提供するメンバーが次々と現われるなど、信心強盛な信徒を数多く生む、変毒為薬の機縁となったのである。
<2005.9.28>
・ジャカルタ市内に建立された
正蓮山法清寺の落慶入仏法要
<2005.9.27>
・
高開山妙願寺で、寺号公称板御本尊入仏法要
<2002>
・宗旨建立750年慶祝記念海外信徒総登山では、かつてない
650名もの大勢のメンバーが、インドネシア全土から歓喜の登山をして、さらなる広布発展を誓い合った。
<1999.1>
・メガマドン研修道場の中にあった建物を改築・整備し、
妙願寺布教所が開所。待望の僧侶常駐が叶(かな)った。妙願寺布教所は、首都ジャカルタから車で約1時間ほどの郊外、メガマドンにあり、敷地は本堂と庫裡を合わせて約1000坪、
本堂は約1500名を収容できる立派なものである。また、これと隣接して研修道場と講堂、そして
2000名収容の宿泊施設があり、ここで毎月インドネシア全土からリーダーたちが集まり、2泊3日の日程で研修が行われている。その内容は各地に戻ったリーダーたちによって、メンバーに伝えられる。
<1993.1.6>
・セノスノト会長逝去
<1991.6>
・晴れて宗務院海外部直轄の信徒組織として宗門より認可され、7年ぶりの出張御授戒を迎えることができた。さらに、創価学会の呪縛(じゅばく)から解き放たれたことによって、
インドネシア大統領より、「日蓮正宗インドネシア」を"仏教"というカテゴリーとは別に、単立の一宗派として認可されることにもなった。
<1991.1>
・故セノスノト前会長の指導のもと、NSI(日蓮正宗インドネシア)の
組織を挙げてSGIを脱会、宗務院直属の信徒となった。その後、名称をBDI(Nichiren Shoshu Buddha Dharma Indonesia)と改称。
<1990末>
・創価学会問題勃発