創価学会破折

コーヒーカップ骨壺訴訟

―「遺骨がコーヒーカップに!!」と騒いだ学会―
―自作自演!?法廷で解明された驚きの事実―

(『慧妙』H23.2.1)

 「これは許せぬ!我が子の遺骨がコーヒーカップの中に」「ひどすぎる骨壼のスリ替え」などの見出しが躍(おど)った平成4年12月2日付の『創価新報』。
 全国各地で、本宗末寺の納骨管理に対する訴訟が学会員によって起こされたが、この持経寺(神奈川県川崎市)を舞台に繰り広げられたコーヒーカップ骨壺訴訟事件は、インパクトといい、経緯といい、最も記憶に残る納骨訴訟の1つである。
 『新報』の報道を見てみると―
 「Oさんの預けていた骨壺は白布に包まれていた。布を開くと蓋(ふた)は裏表になっており、Oさん夫妻はこの時点で『おかしい』と感じた。だが、もっと異常な事実に気付いた。何と骨壺に取っ手がついているのだ。『これはコーヒーカップじゃないか!』
 それは、まぎれもなくコーヒーカップだった。直径約8cm、高さ約10cmの白いもので、周囲には赤っぽい線とウサギの耳のような模様。しかも縁(ふち)が欠けており、コーヒーのカスがこびりついている。まるで使い古して捨てられていたようなものなのだ」
と、学会員0夫妻の言い分を報じている。そして平成5年3月、0夫妻は、持経寺に対し慰謝料の支払いを求め、横浜地方裁判所川崎支部に提訴した。
 1審で持経寺側は、当日の0の挙動を問題にした。0の訴状によれば、「遺骨を受け取ったその場で白布の中を確認したところ、取っ手のついたコーヒーカップに遺骨が入れられていた」というが、じつは、その現場は監視カメラによってしっかり録画されていたのだ。というのも、当時、遺骨返還をめぐって宗門と学会の間でトラブルが多発していたことから、当寺ではその対応のために、現場にビデオカメラを設置しており、当日の一部始終が記録されていたのだ。
 その記録ビデオを見ると、他の16組の学会員と連れだって、持経寺に預けてあった子供の遺骨を引き取りにやって来た0夫妻は、白布に包まれた骨壼を受け取るや否や、中身も確認せずに本堂を出て行った。その約5分後、0夫妻が、付き添いできていた学会幹部や青年部と一緒に本堂内に戻ってきて、「骨壺に納めてあったはずの遺骨が、ウサギの絵の付いたコーヒーカップに入れられている」と騒ぎ出した様子が、克明に記録されていたのだ。
 このビデオテープを証拠として法廷に提出したが、なんと、1審ではこれに全く触れぬまま、また学会による宗門攻撃の実態を理解することなく、学会員側の一方的な主張を受け入れ、遺骨は持経寺での保管中にコーヒーカップに入れ替わったものとして、慰謝料各20万円を支払え、という不当判決を下したのであった。
 東京高裁における2審では、再度、当日のOらの不審な挙動について訴えると同時に、もう1つの決定的証拠を提示した。それは、「コーヒーカップの製造時期」である。
 問題のコーヒーカップが製造されたのは昭和59年以降で、Oらが主張する、遺骨が入れ替えられたとする時期、「昭和57年夏から58年暮れにかけて、納骨堂の改修工事等に伴って行なわれた、遺骨の移転作業の際」には、問題のコーヒーカップはこの世に存在しなかったことを、製造業者の証言等で立証し提示したのである。
 その結果、東京高裁は、
 「亡A(判決原本は実名)の遺骨を受け取った当人である被控訴人(0)が、遺骨引き取りの際、他の引取り者と異なり、引き渡しテーブルの場において白布の包みを確認せず、本堂から直ちに退出するという極めて不自然な行動を取っていること、かつ、その場で包みの内容を確認しなかった理由に関する同人の供述は客観的事実に反するものであること、控訴人(持経寺)において遺骨を移動した際に入れ替えられたとする可能性もない上、控訴人関係者の手によって本件カップに遺骨が入れ替えられる必然性も可能性も低いこと等、前示4の各事情に照らせば、被控訴人らの亡Aの遺骨引取りの後に、何者かによって右遺骨が本件カップに入れ替えられ、前記包みの中に入れられた可能性を否定できず」
と、学会員らの自作自演の可能性を指摘し、持経寺の逆転全面勝訴判決を言い渡した。
 この判決を不服として、原告側は最高裁に上告したが、平成10年10月7日、最高裁第3小法廷は原告側の上告を棄却し、持経寺勝訴の判決は確定した。
 また、法廷では、事件当時、学会員の遺骨の引き取りは全て学会の「指示」によって行なわれていたことも、判明している。
 学会からの指示を受け、幹部らも付き添って引き取りに行った場で起きた、この自作自演の事件。
 「親がコーヒーカップに子供の遺骨を入れることなど考えられない」(『創価新報』H4.12.2)というが、持経寺側でないとすれば、いったい誰の仕業(しわざ)なのか……。
 コーヒーのカスが付いた古びたカップに入れられたその子が不憫(ふびん)でならない。


▲「我が子の遺骨が"コーヒーカップの中に」と喧伝した創価学会だったが―。東京高裁は、この事件がでっち上げだったことを示唆し、学会員の訴えを退けた