脱落僧の"狂言"を嗤う

―非合理極まる脱落僧の"言いがかり"―
―日如上人への尊信を失わせようとの奸策―

(『慧妙』H26.5.1)

 日如上人への御相承を誹謗した『教宣ハンドブッツク』は、次に、「証言」として、脱落僧の渡辺雄範(平成4年5月に離脱)が登場している。ちなみにこの渡辺は、『大石寺・大坊物語』『転落の法主』などの著者で、些少(さしょう)の事実から膨大(ぼうだい)な妄想を膨(ふく)らませ、必死になって宗門を誹謗(ひぼう)したのだが、ほとんど誰からも相手にされず、宗内でも破折はおろか話題にも上らないほど影の薄い人物である。
 平成9年2月に学会が立てた寺院、いわゆる会館寺院であるシンガポール創価山安楽寺という会館にいて、僧侶不要を説く学会員相手に葬儀や法事をしているそうだ。
 さて『ハンドブック』では、渡辺は、自分が平成2年から2年間、当時、日如上人が御住職をされていた新宿区の大願寺に在勤していたとして、物知り顔で得々と語る。それは大きく分けて、第1に暴力性、第2に特権意識、第3に贅沢(ぜいたく)三昧、の3つに分けられている。

【針小棒大すぎる脱落僧の泣き言】
 第1の暴力性に関しては、"ある日、在勤者の所化が住職のお供として通夜に行った際、その席で出されたお寿司をなかなか食べきれず、帰りが遅くなったという理由で、住職から20発以上の往復ビンタを食らわせられた。大願寺において住職の暴力は日常的で、在勤者は日頃からおびえていた。また、阿部信彰尊師も同様であり、宗門では本山を含め日常的に暴力が横行している"と述べている。
 ここで、師匠が弟子に対して手を挙(あ)げて指導することを、単純に「暴力」と表現していることであるが、それは誤りである。ことに、日蓮正宗の御僧侶は、自らの成仏はもちろんとして、多くの信徒の人生を担(にな)い、正法によって一人一人の罪障消滅と幸福境界の確立がなされることを願っているのである。そのような重大な責務を全うできる僧侶になるために、所化である期間は、師匠との間に厳しい師弟関係があるのは当然である。
 現今の小・中学校教育において、教師が生徒の手でも叩こうものなら「暴力教師」として大問題になり、その上に胡座(あぐら)をかいた生徒が教師の注意を無視し、まったく教育指導のできないケースすらあるが、それと同じ轍(てつ)を踏んでいては仏法の師弟関係は成り立たないし、立派な僧侶を養成することもできないのである。
 時には厳しい指導も、師匠が弟子に対する慈愛の発露(はつろ)であり、将来へ向けての責務に他ならない。
 しかるに、学会の機関紙上に登場しては「暴力、暴力」と言っているのは、正法の修行の厳しさに耐えきれず、また、その覚悟もなく、重責から逃げ出した脱落僧のみである。
 こんな連中の「証言」と称する泣さ言や悪口を、客観的事実と受け取る方が悪い。1つずつ検証してみても、「証言」では、住職が所化を20発も往復ビンタしたとあるが、普通、20発も人を叩けるだろうか。常人では無理であろう。冷静に考えれば、ひどく誇張されている、と誰もが気付くことである。
 そして、その理由も、帰るのが遅くなったから、というのはきっかけにすぎず、所化の日頃の生活態度において時間にルーズな面が目立ったのだろう。それを注意されたのだ、と考えるのが自然である。
 さらに、このように一方的にふくらませた2、3の例を挙げて、「暴力が宗門全体に蔓延(はびこ)っている」などというのは、まさに針小棒大が過ぎる、というべきである。

【劣等感からくる"被害妄想"】
 第2の代々僧侶の特権意識に関しては、渡辺自身の劣等感から来る被害妄想である。現に日如上人は、在家出身の御僧侶でも登用されているし、御僧侶の子息でも厳しく処罰なされている。
 自分が在勤時代に思うようにならなかった、そのコンプレックスから来る難癖に対し、これ以上、論じる必要はなかろう。

【浅識が生んだ歪んだ寺院観】
 第3の贅沢三昧として、大願寺のことを事例に挙げているが、多くの人々の参詣する寺院が荘厳されていることは、非常に素晴らしいことではないか。
 新来者が連れられてきて、その寺院の偉容に心打たれることは、よくある話である。また、そこに参詣する信徒も、その寺院に見合うよう、日々信心に精進するものである。
 また、庫裏(くり)にも贅をこらしてというが、本体の寺院が立派なものであれば、それと一体で隣接する庫裏も、粗末なものではなくなるであろう。と言っても、寺院や庫裏は御僧侶や寺族の所有物ではない。御本尊からの預かり物なのである。ある程度、費用がかかっても、次の住職に不自由なく寺院をお守りいただくために、安普請で常に修繕が必要なものではなく、きちんとした立派なものを、と考えられるのは当然である。これこそ、その御住職の周到なる御高配が、垣間(かいま)見られる事例でばないか。
 以下に続く「ファミリー主義」云云に関しては、もはや勝手な妄想と言うほかなく、論ずるに値しない。

【相承否定せんと判決主旨を無視】
 次に、囲みの「日顕の"ニセ相承"でまたもや敗訴」の記事だが、これは、宗門が正信会に対して「日蓮正宗」の名称使用の禁止を求めた裁判のことである。
 学会には何ら関係のないことであるが、学会が宗門に裁判で大敗北を喫(きっ)しているので、何か言いたいのだろう。
 これとて、宗門にとっては不服ではあるが、司法が、日如上人が法主の地位にあるかどうかは教義上・信仰上の問題で裁判所では判断できないとして、訴えを門前払いにしたにすぎない。べつに裁判で"ニセ相承"などとされたわけではないのである。


▲脱落僧・渡辺雄範の"証言"。しかし、証言とは名ばかりで、内容は日如上人を貶めんとする"言いがかり"のみ