創価学会破折
創価学会からの脱出



公明党市議になって知った学会の実態/『慧妙』H26.4.16

元・地区教宣部長が語る学会の狂気/『慧妙』H26.3.16

ニセ本尊への交換から苦難が始まった!/『慧妙』H26.2.16

破門後の学会で味わった不遇の人生/『慧妙』H26.1.16

人生に破綻を招いたニセ本尊の害毒/『慧妙』H25.12.16

現役の地区・教宣部長が脱会、帰伏!/『慧妙』H25.11.16

「主客転倒した創価学会はおかしい!」/『慧妙』H25.10.16

求めたからこそ気づけた、学会の誤り/『慧妙』H25.9.16

組織を揺るがした一粒種家族の脱会/『慧妙』H25.7.16

脱会を決意させた学会員の死相/『慧妙』H25.6.16

子供の頃から感じていた学会への違和感/『慧妙』H25.5.16

学会で教えた信心はもとより不純だった!/『慧妙』H25.4.16

"池田大作への思慕"から失望へ―/『慧妙』H24.12.16

「池田先生命」で過ごした青年期/『慧妙』H24.11.16

父の臨終に現われた奇跡的な現証/『慧妙』H24.10.16

闇に葬られた"弟(当時・公明党国会議員秘書)の自殺"/『慧妙』H24.9.16

学会活動をすればするほど不幸に―/『慧妙』H24.8.16

葛藤乗り越え、ようやく脱会して寺院へ/『慧妙』H24.7.16

破門後の学会には功徳がなくなった!/『慧妙』H24.6.16

「なぜ遺体の相が…」学会葬で懐いた疑問/『慧妙』H24.6.1

街宣での呼び掛けに20名以上が脱会!!/『慧妙』H24.5.16

怪奇現象に悩まされた学会時代/『慧妙』H24.5.1


公明党市議になって知った学会の実態

―「欺瞞の生き方はしたくない!」と脱会―
(長事県長野市妙相寺支部・N.T〈記事は実名〉大阪府羽曳野市在住『慧妙』H26.4.16)

【「平和」に逆行する学会・公明党】
 私は、平成24年1月に、創価学会の洗脳から覚醒(かくせい)し、法華講員となりました。
 昭和51年、21歳の時に創価学会に入った私は、平成3年に創価学会が宗門から破門されてもなお、学会を信じきっており、ニセ本尊もためらうことなく受け入れて、地元創価学会の本部長をしておりました。
 そして、平成13年
には公明党から出馬して地元・羽曳野市の市議会議員となったのですが、公明党議員として政治活動をしてくる中、それまで見えなかった公明党・創価学会の矛盾(むじゅん)が見えてきて、だんだん創価学会の在り方自体に疑問を抱くようになりました。
 まず、平成13年といえば、アメリカで"9.11同時多発テロ"が起こった年で、アメリカは報復として、国連決議のないまま、アフガン侵攻とイラク戦争という暴挙に出たのですが、当時の小泉政権はためらうことなくアメリカを支持し、与党・公明党もこれに追従しました。
 「公明党は庶民の味方」と謳(うた)ってきたはずなのに、その公明党が戦争支持に回ったのです。これでは、「庶民の味方」も何もありません。戦争に巻き込まれる人々は、"庶民"ではなかったのでしょうか。
 公明党の言う「庶民」とは、単に"公明党に票を入れてくれる人"という意味だったのでしょうか。
 しかも、公明党の母体である創価学会は、これに猛反対するかと思いきや、明確な姿勢を示しませんでした。
 要するに、"学会としても、公明党の戦争支持を認めている"ということです。いったい、「世界平和の団体」という謳い文句はどこへ行ったのでしょうか。
 私は、このことで生じた創価学会・公明党に対する疑念が拭(ぬぐ)いきれませんでした。
 そのような中、さらに平成15年には、不信に追い打ちを掛けるようなことがありました。
 この時、地元に偽装牛肉問題が起こり、精肉業者会長と市長の癒看(ゆちゃく)が問題になって市長が辞任し、新市長選挙が行なわれたのですが、その選挙で、当初に申し合わせた公明党議員団と南大阪学会首脳との取り決めを、選挙終盤になって学会が覆(くつがえ)す、という、じつに不可解な動きをしたのです。その時はわけがわかりませんでしたが、後で考えてみれば、要するに、"勝ち馬"に乗り換えた、ということだったのです。
 ちなみに、後日、私が、申し合わせを覆したことについて学会の大幹部である総関西長に質問したところ、「議員は、(学会から)言われたことを忠実にやればいいんだ!君は変わった議員だ!」と頭ごなしに言われ、驚いてしまいました。やはり政教分離などされておらず、公明党の支配者はどこまでも創価学会なのだ、ということです。


【間違った道と決別して法華講員に】
 さて、私は、平成13年の戦争支持問題、そして15年の市長選この2つの事から思いを巡らしていくうちに、「創価学会にとっては、世界平和や庶民の安心よりも、傀儡(かいらい)の公明党を政権与党に置いておくことが一番の大事なのだ」と、学会首脳部の本音に気づきはじめました。
 そして、学会を脱会した方達が書いた池田大作に関する書籍やインターネット情報を読み進めていったところ、自分が政治に関わる中で見てきた裏の構造とも相まって、創価学会の暗部・実態が浮き彫りになり、「自分は、とんでもなく間違った人生を歩まされている」との思いで、いたたまれなくなってきました。
 「平和・文化・教育」という、耳当たりの良い学会のモットーは、会員を欺(あざむ)く虚飾の立て前でしかなく、その裏で、創価学会は純真な会員を裏切る悪事を重ねていたのです。
 一度目覚めると、私の中の覚醒の炎は一気に燃え上がっていきました。そして平成24年1月、インターネットで知り合った長野県妙相寺支部の樋田さんと直接お会いする約束をしました。
 樋田さんと会う前に、どうしても確認しておきたかったのが、総本山の現状でした。創価学会で、「今の総本山は、荒れ放題」と聞いていたからです。
 そして、約20年ぶりで総本山に行ってみたところ、驚きました。この目で見た総本山は、以前よりも立派に整備されており、創価学会のウソを吹き飛ばすかのように、泰然自若(たいせんじじゃく)の佇(たたず)まいを見せていました。まさに、昔と変わらず、心洗われる"生命の故郷"だったのです。
 もう、私を躊躇(ちゅうちょ)させるものは何もありません。
 その5日後に、樋田さんと会って、あらためて折伏を受けた私は、学会を脱会して法華講員となる意思を告げました。さらに、同席した私の母と2人の姉もまた、学会を脱会して法華講に入ることを決意したのです。


【大幹部らの前で公明党離脱宣言】
 法華講員となってからは、次々と学会幹部が押し寄せてきて、まるで保護観察を受けてでもいるかのようでしたが、私は、それら上層幹部に、"学会は今や、三宝破壊の大謗法団体であること"や、"800万会員の成仏の道を閉ざした池田大作は、第六天の魔王であること"さらには"「公明党は平和・福祉の党」というのは立て前で、ただ池田大作と学会を守るために政権与党にしがみついているだけ"ということ等、ありったけの思いをぶっつけて、学会・公明党の誤った本質を訴えました。
 しかし、幹部らはそれには一切触れず、私を懐柔(かいじゅう)しようとして、ただ世間話や情に絡めた話でお茶を濁すばかりでした。
 そのような中で、私は唱題・折伏に励み、もう1人の姉家族の他に21名の身内を勧誡・御授戒に導くことができました。
 そして、いまだ公明党の市議であった私は、「公明党離脱宣言」の時機を探(さぐ)っていました。学会を辞めるのは個人の自由ですから、わりあい簡単ですが、学会員らの支持で公明党の議員になっている以上、責任も感ぜざるをえません。
 しかし、そのまま公明党にいるわけにもいかず、それは私の心の重荷になっていました。
 その離脱宣言のチャンスは、脱会から約半年後に訪れました。その年の6月下旬、学会の総県長から「池田センセーに詫(わ)び状を書きなさい」と要求された瞬間、私の心には、「時来たり!離脱宣言をするのは今だ!これで完全に学会の呪縛(じゅばく)を断ち切ることができる」との思いが湧き上がったのです。もちろん、池田大作などに"詫び状"を書くはずもありません。
 その数日後、役所に赴(おもむ)いた私は、会派室にいた公明党幹部を含む同僚議員達を前に、「本日、公明党を離脱します。学会は大謗法団体です。皆様にはお世話になりましたが、これ以上、謗法与同の生き方、自分を偽る生き方はしたくありません!」と言って、離脱届を提出しました。
 その後、知るかぎりの学会員に折伏の手紙を送りましたが、全て幹部に回収され、まるで潮が引くように、学会員は私の周りから消えていきました。


【法華講と学会では"月とスッポン"】
 さて、私は、創価学会が日蓮正宗から破門された後も、20年間、謗法与同をしていたわけですから、その時に積んだ罪障は計り知れません。
 熱心な学会員である妻と2人の娘は家を出ていき、また、私の経営する建築設計事務所からも学会員の従業員3人が去っていき、私は、表面的には裸同然の境遇になりました。これもまた、罪障によるもの、と思っております。
 しかし、その一方で、様々なところで御本尊様の御加護を得て、今、本当の意味で安寧の日々を送らせていただいているのです。
 何よりも、法華講で信心をするようになってから、聞く事、見る事、感じる事が、学会とは月とスッポン(もちろん、学会がスッポン)というか、「本物の信心とは、こういうものだったのだ」と感激することの連続です。
 日蓮大聖人は、『佐渡御書』に
 「世間の浅き事には身命を失へども、大事の仏法なんどには捨つる事難し。故に仏になる人もなかるべし」(御書P578)
と仰せられていますが、今、本師たる御法主上人猊下様、そして手続の師たる指導教師御住職と、正しい師弟関係の中で何の憂いもなく「大事の仏法」に残りの人生をかけていける境遇を得られたことこそ、最高の喜びであります。
 ここ20年というもの、創価学会の大謗法によって世間は乱れに乱れ、政治は信頼を失っています。まさに、悪鬼入其身の権力者が国民を蹂躙(じゅうりん)する様相、そのものであります。
 これを変えていくには、やはり、折伏による広宣流布しかありません。これからも、御法主上人猊下の御指南と御住職の御指導のもと、身軽法重、死身弘法の思いで折伏を実践してまいります。





元・地区教宣部長が語る学会の狂気

―"猊下を刺殺"の発言に会場内が熱狂!?―
(理境坊所属妙観講 S.S〈記事は実名〉静岡県下田市在住『慧妙』H26.3.16)

【目の前で学会員が女子高生に暴力】
 昨年11月16日号の本紙にも手記を載せていただきましたが、その後、学会時代のことで思い出した事柄や、法華講員となっての体験もできましたので、続編を述べさせていただきます。
 私は、昨年8月に創価学会を脱会するまで、地区部長・教宣部長として第一線で活動しておりました。
 先日、同じ講中の婦人、その方の娘さん(高校3年生)と一緒に、折伏する目的で学会幹部Aさん宅を訪問しました。
 Aさん一家はご夫婦も息子さん家族も皆、学会の活動家で、以前、私が近所に住んでいたこともあり、家族ぐるみで仲良くしておりました。また、ご主人は高齢ながら、折伏をしなくなった学会の中においては珍しく、よく折伏に出掛けている人でした。
 私が知っている学会員の中ではAさんが最も折伏の実践をしている人でしたので、大聖人の法門についてきちんと話し合うことができるのではないか、と、少々期待を持って訪問したのです。
 訪問すると、奥さんが出て来ました。「ご無沙汰しております。Sです。ご主人はいますか?」と告げると、「はい…」と答え、奥にいるご主人を呼びに行きました。その時の奥さんの表情が、かつて見たこともない、凍りついたようなこわばったものでしたので、"学会内では、そうとう私の悪口を言っているな"と直感しました。
 しかし、
 「仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ず憎むべし。よし、にくまばにくめ」(御書P906)
との御金言を思い出し、大謗法の学会から悪人のレッテルを貼られたことを、少々誇りに感じました。
 奥から出て来たAさんは、私の顔を見るなり、「エホバみたいにプラプラ回っているおまえらを相手にしている暇はない。帰れ!」と言ってきました。私が「Aさんは、学会の中でも一番折伏をしている人だから、今日は信心の話をしにきたんですよ」と言うと、Aさんは唐突に、池田大作がソ連のコスイギン氏や中国の周恩来氏と対談したこと等をまくし立ててきました。こちらから「信仰とは関係のない話でしょう」などと一言でも口を挟もうものなら、「うるさい!黙って聞け!」と怒鳴りだすので、とりあえず黙って聞いていました。
 池田大作の自慢を10分ほど話し続けたAさんは、独演を終えると、「こういうことがおまえらにできるか!?」「おまえ、何人折伏したんだ!」と声を荒げ、こちらの言うことは一切聞こうともせず、「いいから帰れ!」と言うや、同行していた婦人を2、3回、突き飛ばしました。そこで娘さんが「傷害になりますよ」と注意すると、Aさんはいきなり娘さんの左頬(ほほ)を、思いっきり平手で殴ったのです。本当に、狂気の沙汰というしかない光景でした。ちなみに、娘さんの顔はだんだん腫(は)れ上がり、完全に引くまで1週間もかかっだほどのケガで"した。
 さすがに若い女の子を殴ってしまって「まずい」と思ったのか、Aさんはすごすごと家の中に入り、再び出てきて、「今、警察に電話をした。叩いたことは悪かったが、警察が『帰ってもらえ』と言っているので、帰ってくれ」と一言残し、また中に引きこもってしまいました。なお、後日判明したところでは、警察に電話した、というのはウソでした。
 私は、「これが、あのAさんか」とショックを受けました。
 本当に"創価学会のほうが正しい"と思うのならば、きちんと"折伏"すればよいのであって、こちら側の話を一切聞こうとしないのは、最初から負けを認めているからだ、と思いました。ましてや、いい大人がいきなり暴力に訴えるとは、なんということでしょう。
普通の人間としても常軌を逸しておりますし、ましてや"仏法信仰者"と呼べるようなものではありません。
"謗法の池田大作を師匠と崇(あが)めると、ここまで人間がおかしくなるのか"と思い、いろいろ考えているうちに、私は、創価学会時代に目(ま)の当たりにした、ある恐ろしい出来事を思い出しました。


【恐ろしい発言に沸いた会場!!】
 それは、今から10年くらい前のことでした。私は、静岡県内の創価学会男子部の会合に参加しておりました。会合の名称は忘れましたが、当時の総静岡の男子部長も参加しており、各方面の代表による活動報告の場で、会場には2、3百人くらいの男子部が参加していた記憶です。
 その時、登壇者の1人(30代半ばくらい)が、得意満面に、
 「先日、エレベーターで偶然、日顕(上人)と一緒になった。一世一代のチャンスと思い、後ろから刺し殺してやろうと思った」
という主旨の発言をしたのです。
 この発言に、会場は異様に盛り上がり、それを喜ぶ笑い声さえ聞こえてきました。
 結局、その登壇者は「ここで犯罪者となっては、池田先生に申し訳ないので、思い止どまった」とのことですが、一歩間違えば恐ろしい事態が起きていたかもしれません。これは、猊下の乗る飛行機が墜(お)ちるように祈った、などという話とはレベルが違う話です。
 私は、「仏法者として、殺人を企てたり、それを容認するようなことがあっていいものだろうか。こんなことが当たり前のように発表される学会は、本当に正しいのだろうか」と、釈然としない思いに駆(か)られましたが、誰に疑問を問いかけることもなく、長いものに巻かれるようにその場をやりすごしてしまいました。
 今となれば、思い出しただけでもゾッとするような、狂気に満ちた場面です。いや、それ以上に、"日蓮大聖人の後継者たる御法主上人を亡き者にする"などという発言を耳にしながら、罪の重さも感ずることなく、ほとんど平然としていられた自分自身が、今さらながらに恐ろしくてなりません。本当に、毒気深入(どっけじんにゅう)していたのだと思います。
 こんな恐ろしい創価学会に在籍していただけでも、計り知れない罪障を積んできたことは間違いありません。今は、日々、学会時代の謗法与同を御本尊様に懺悔(さんげ)申し上げ、自身の罪障消滅を祈念しております。


【こうも違う!法華講と学会】
 話は変わりますが、私が創価学会を脱会したのは昨年の8月―私が日常的に関わっていた主な活動は、聖教新聞の配達(月曜日〜土曜日)と、地区部長としての役割であり、自宅は地区の拠点として提供していました。
 その一線で活動している最中に、(周りの学会員から見れば)何の前触れもなく、いきなりスッパリと脱会したので、その後の学会の地元組織がどうなったか、少々気になっておりました。
 最近、以前の学会仲間から聞いた情報によると、なんと驚いたことに、私が地区部長をしていた地区は消滅してしまった、というのです。支部に3地区あったのですが、私が部長をしていた地区は、他に人材がおらず、他の地区に吸収されたとのこと。
 私が学会にいる時も活動家の減少・高齢化は顕著(けんちょ)でしたが、私が1人いなくなっただけで地区が消滅してしまうとは、あらためて、学会の疲弊(ひへい)した姿を実感しました。
 こうした現実が全国的に広がっているにもかかわらず、創価学会は、連日、さも発展・前進しているかのように『聖教新聞』で報じているのですから、いかにいい加減かということです。
 さて、私が法華講員となって約半年が経過しましたが、この間に、総本山の行事への参詣、あるいは勉強会への参加や、先輩方との折伏の実践を通し、法華講こそが本当に日蓮大聖人の教えどおりの実践をしていることを、日々実感しております。
 生活上でも、学会時代は行き詰まりの連続でしたが、法華講員となってからは功徳が厳然と現われてきました。
 私は、学会からの脱会を考え始めた時期、損害保険の営業に転職することをほぼ決めていました。
 じつは、そのこともあって、脱会を悩み躊躇(ちゅうちょ)していたのです。と言いますのも、保険の外交といえば、周りに身内や人間関係の濃い人がどれだけいるか、が大きなポイントになります。ところが、私は他県出身者で、周りに血縁・親族は誰一人おらず、日頃親しい人間関係といえば学会の人達だけでした。そこで私は、学会員をアテにして営業の輪を広げていくことを考えていたのです。
 しかし、私が学会を脱会して法華講員となれば、当然、学会の人達からの協力など望むべくもなくなります。正直なところ私は、その損得勘定をして、かなり悩んでしまったのです。
 しかし、最終的には、「謗法の人達をアテにしてもしょうがない!正しい信仰につくことで、全てが開けていくのだ」と気づき、脱会を決断したのでした。その決断が正しかったことを、今、あらためて実感しております。
 昨年10月から保険会社に契約社員として入社した私は、保険の知識はゼロで、研修を受けるところからのスタートでした。また、契約社員ですので、研修で学びながら営業でも実績も上げていかないと、まず6ヶ月で契約打ち切りとなってしまいます。スタート時に6六ヶ月間のノルマを知った私は、厳しい数字に驚き、はたしてクリアできるかどうか、とても不安に思いました。
 ところが、総本山参詣、御講・会合の参加、折伏と、講中の先輩方と共に活動してくる中で、総本山参詣や折伏の直後に契約が飛び込んできたり、思わぬ人が応援してくれたりと、不思議なことが続いて実績が積み上がり、6ヶ月の契約更新基準を4ケ月でクリアすることができたのです。
 同期入社の約90人の中には経験者も多いのですが、その人達ですら、まだ更新基準がクリアできず苦しんでいる人も数多くおります。そんな中で、何の人脈も持たず業界未経験の私が、こうして実績を上げられたのですから、御本尊様の御加護を感じずにはいられません。
 おそらく、あのまま謗法の創価学会にいたら、私は、今度の転職もうまくいかず、ボロボロの人生を繰り返していたことでしょう。
 本当に法華講員になって良かった、と心から思います。
 今後も、理境坊御住職・小川只道御尊師のもと、講中の先輩方と共に、なおいっそう信心錬磨に励み、本年「折伏貫徹の年」に1人でも多くの人を大御本尊様の御前に導けるよう、随力弘通してまいります。





ニセ本尊への交換から苦難が始まった!

―法華講員となって訪れた我が家の安寧―
(神奈川県大和市 大円寺支部T.F〈記事は実名〉『慧妙』H26.2.16)

【脅されてニセ本尊に交換】
 私が創価学会を通じて日蓮正宗に入信したのは、昭和37年で両親が学会員だったので、生まれてすぐに御授戒を受けたのです。
 以来、少年部・中等部で活動し、社会人になってからも学会活動に励んで、結婚式は正宗寺院で行ない、その後、子供も生まれて、幸せな生活を送っていました。
 ところが平成3年、ある学会員から突然、「もう大石寺に行けないんですよ」と言われました。私は、何が何だか理解できず、「今まで何度も行っていたのに、なぜ?」としか言えませんでした。すると、その人は、「もう、学会と大石寺は関係ないから」と言うのです。
 私は、大石寺が大好きで、両親と一緒に年に2、3度は参詣していましたので、本当に残念でなりませんでした。学会が宗門を悪く言っていることは知っていましたが、まさか大石寺に行けなくなるとは思っていなかったのです。
 釈然としない思いの中でも、学会活動と牙城会の任務はやっておりました。
 そんなある日、長女が女房の運転する車に轢(ひ)かれ、重体になる、という事故が起きました。幸い、長女は瀕死の状態から回復して、小学校にも上がることもできたのですが、本当の苦難は、ニセ本尊に交換した時から始まりました。
 平成6年6月、横浜市の市営瀬谷住宅に当選し、引っ越したのですが、その少し後、学会のブロック長から「御本尊様を取り替えなさい」と言われました。私が「どうして?」と尋ねると、「今持っている御本尊様は、日顕(上人)の書いた御本尊だから、取り替えないと大変な事になりますよ」と言うのです。私が「大変な事って、何?」と聞くと、ブロック長は「子供が病気になったり、不幸になる」と脅してきましたので、私は、渋々ながらも、それがニセ本尊だとも知らず、御本尊様を学会の本尊に取り替えてしまいました。


【仕事が激減、サラ金地獄へ】
 ニセ本尊に取り替えたとたん、我が家は、坂道を転がるように悪くなっていきました。
 私は大工の仕事をしているのですが、仕事はひと月に十日ほどしかなくなって、生活に困るようになり、とうとうサラ金に手を出してしまいました。その借金は5百万円ほどにふくらんだのですが、返すアテもなく、妻と2人で、昼も夜も借金を返すために必死で働きました。
 しかし、働いても働いても返し切れず、弁護士に相談に行きました。
 弁護士から、「お子さんがいるのだから、任意整理をしたほうがよい」と勧められて、そのとおりにしたところ、返済金額がそれまでの半分くらいに減少し、多少は生活が安定したかに見えたのですが、それもほんの束(つか)の間のことでした。
 今度は、次女の悩みです。三姉妹の真ん中の娘が、夜な夜な家を出て、夜遊びをするようになったのです。ある晩、学校に侵入して、壁にペンキで落書きをした、ということで、学校側から警察に通報が行き、家に刑事が来て事情聴取されました。その時は、ペンキを落とす費用を求められ、7万円ほど支払いました。
 相変わらず私の仕事も安定せず、さすがの私も、「唱題、学会活動、牙城会任務にと、頑張っているのに、ちっとも良くならないのは、何故なんだろう」と悩むようになりました。
 そんな折、借金の返済を優先していたために家賃の支払いが滞(とどこお)ってしまい、裁判所からの通達で瀬谷の住宅を出なければならなくなって、平成13年、綾瀬市(神奈川県)に引っ越してきました。


【法華講員となり、功徳を実感!】
 ある日、学会の会館で同時中継の本部幹部会に参加した私は、登壇する幹部達が口々に「池田先生、池田先生」と連呼していることに違和感を覚えました。
 その頃から、「学会は何かおかしい」と思うようになったのです。
 それを学会員に言うと、「池田先生は、世界を飛び回って、世界平和のために戦っているのだから」と言われました。私は、「それだって、私たちが毎年、広布部員として納めているお金で行っているんじゃないか」と言い返しました。
 さて、綾瀬に来てからも、仕事もろくになく、毎日毎日、地獄のような生活でした。
 そのように悶々としている日々が続いていた平成24年の秋、私は、仕事場で、左官職人のHさんに出会いました。Hさんの身体から線香の香りがしたので、この人は何か宗教をやっている人だな、と思っていました。
 そして、休憩時間に話をすると、Hさんは大円寺の法華講員だということがわかりました。
私は、「日顕(上人)は私たちが納めたお金で、女遊びとか、自分の家を建てたりしているんだよね。法華講は、いまや日顕宗だよね」等々と、学会から聞かされたまま、いろいろ言いました。
 そんな私に対してHさんは、「それは学会が言っているウソで、事実ではない」ときっぱり否定し、「一度、お寺に話を聞きに行きましょう」と言いましたが、その時の私は、まだ学会のマインドコントロールが抜けていなくて、Hさんを信用できず、素直になれませんでした。
 しかし、何回か話をするうちに、御書の一節がすらすら出てくるHさんの言葉に、なぜか素直な気持ちになることができるようになってきたのです。
 そして、平成24年11月11日、Hさんと一緒に大円寺に行き、御本尊様の前に座って題目を上げたとたん、涙が溢れてきました。この時、「本当の御本尊様はこれだ!」と心の底から思いました。
 その後、御住職のお話を聞き、全て納得した私は、創価学会をやめて法華講員となる腹を固め、さっそく家に帰ってニセ本尊をはずし、郵送で学会本部へ送り返しました。
 そして、その日の夜、女房と、長女と孫の4人でお寺に行き、勧誡と孫の御授戒を受け、晴れて法華講員となることができたのです。それからまもなく、三女と孫が勧誡と御授戒を受けました。すると、その2週間後には、学会の時には家にも寄り付かず、信心も嫌がっていた次女が、素直に勧誡を受けることができました。
 そして、家族全員で、平成25年1月の初登山会に参詣しました。待ちに待った奉安堂での御開扉は、感激もひとしおでありました。さらに3月の春季登山会も、家族全員で行くことができ、やっと我が家に安寧の日が訪れたことを実感し、大変ありがたく思いました。毎月のお寺での御講にも、子供達や孫達と一緒に参詣しております。
 学会をやめて法華講員となってから1年が経ちましたが、不思議なことに、仕事にも恵まれるようになって、この1年は仕事が切れたことがありません。おかげで生活も順調になりました。本当に、学会にいた時とは天地雲泥の差です。
 御住職はよく、「他人の幸せを祈れる自分になろう」と指導されています。これからも、学会に騙されている人達を1人でも多く救っていけるよう、折伏にがんばります。





破門後の学会で味わった不遇の人生

―学会ひとすじから、晴れて法華講員に!―
(滋賀県近江八幡市 慧照寺支部 U.M〈記事は実名〉『慧妙』H26.1.16)

【破門後の学会に再入会】
 愛媛県で生まれ育った私は、3歳の時、父の死をきっかけに母や妹と共に創価学会に入りました。しかし、母が心の病(やまい)になったり、親戚から「信心気違い」と言われたことなどから、次第に学会が嫌いになっていきました。
 そして、中学卒業後、働きながら定時制高校に通うために滋賀県に来てからは、創価学会とはまったく縁のない生活を送っていたのです。
 そのような中の平成5年、29歳の時に、当時働いていたスーパーマーケットで知り合ったTさん夫婦から勧められて、再び創価学会に入りました。今度は自らの意志での入会でしたので、すぐに学会になじみ、活動に励みました。
 すでに創価学会は日蓮正宗から破門された後でしたが、そんなことは全く知らないまま、何の疑いもなくニセ本尊を拝み、池田センセーを"人生の師匠"と仰ぐようになったのです。
 再入会から約1年後、連れ子のいる人と縁があって結婚しました。結婚できたことを、周りの学会員からは「初信の功徳だね」と言われ、自分でもそう信じていました。ところが、その結婚が不幸の始まりだったのです。
 私の退職金と主人の両親からの援助を元手に、夫婦で飲食店を始めたのですが、私は、子供2人の出産の時ですら、働きづめでした。主人から「商売人の嫁は皆、そうしている」と言われて、生まれる前日まで、そして出産
後もすぐに店の手伝いをさせられたのです。
 当初の3年間は仕入れ先への支払いも真面目にしていましたが、主人が突然、「これまでの信用があるから、支払いは待ってもらってもよいのだ」とワケのわからないことを言いだして、ツケでどんどん物を買い、経理をしていた私から通帳を取り上げたあげく、支払いを滞らせるようになりました。当然、借金は増え続け、ついには、3店舗あった店を全部、閉じざるを得なくなってしまったのです。
 その頃には、主人や義母との仲も険悪になり、とうとう私は、子供を残したまま、家から追い出されてしまいました。
 その時、下の子は1歳7ヶ月で、幼い子供達との別れは大変辛(つら)いものでしたが、それを振り切る思いで、私は、いっそう学会活動に打ち込みました。
 その3年後、主人が脳内出血で他界したことにより、「月に5万円〜7万円の養育費を入れてくれたら、月に1回は子供達と会わせてやる」との義母からの申し出により、子供達と会えるようになりました。これを私は、「学会で信心してきた功徳だ」と信じて、喜びました。
 ところが、月に5万円〜7万円もの養育費を払い続けることは容易ではなく、私は、夜中の仕事を中心に3つの仕事を掛け持ちしたあげく、体調を崩してしまったのです。義母に養育費の値下げを申し入れましたが、聞き入れてもらえず、そのうち、子供達とも会わせてもらえなくなりました。
 それでも学会を信じていた私は、会合参加はもちろん、幹部から「子供達が守られるから」と言われて聖教新聞の配達を始め、さらに「人間革命ができるから」と言われて、香城会(会館警備をする婦人の組織)の任務も引き受けました。
 とにかく、その頃になると創価学会の人材不足は著しく、3つの仕事を掛け持ちする私のような者にも、「役職をすると、福運がつくから」と言って、新聞配達の他にも、副白ゆり長・グループ長・地区折伏長・香城会役員と、どんどん役職が課せられたのです。


【不遇の中で法華講との出会い】
 学会だけが生きる支えのようになっていた私ですが、一方では、気の毒な会員を切り捨てるような地元幹部の心ない言葉を耳にし、徐々に反発を覚えるようになっていました。
 その後、近江八幡市に引っ越した私は、新しい職場での人間関係に悩み、頑張っても認められず、深く心を傷付けられるなど、相変わらず不遇の人生を送っておりました。
 そのような中の昨年10月、仕事の関係で、慧照寺信徒のK.Eさんと出会ったのです。
 生命保険会社のセールスレディをしていた私は、新担当としてKさんのお宅に挨拶に伺(うかが)った際、仏間に通されました。「立派なお仏壇ですね。どんな宗教をされているのですか」と尋(たず)ねると、日蓮正宗だとのこと。私は、自分と同じ宗教だと思い、嬉しくなって、「私は創価学会員なんです」と言いました。すると、そこから、Kさんの折伏が始まったのです。
 創価学会に不信を持ち始めていたとはいえ、まだまだどっぷりと浸かっていた私は、「学会は間違っている」と指摘されても、とても信じられませんでした。
 それどころか、Kさん自身も以前はバリバリの学会員だったけれども、脱会して法華講員になった、と聞いて、私は、「なんとか、この人を学会に戻して、救ってあげなければならない」と思い、後で学会の幹部に、その気持ちを話しました。当然、「一緒に救ってあげましょう」という答えが返ってくるものと思っていたのです。ところが、学会幹部から返ってきな言葉は、「関わってはいけない」というものでした。
 これが正しい仏法を信仰している人の言葉なのか!?そこから、私の創価学会に対する不信は、一気につのっていきました。何を信じてよいのか、わからなくなったのです。
 1週間後、保険のことでKさん宅へ再び訪問した際、今度は御主人をまじえて折伏されました。その時、私は、思い当たることもあったので、それまで胸に封じ込めていた創価学会への不信感を一気に吐き出していましたが、まだ創価学会を脱会する決意まではできませんでした。


【友人の帰伏に後押しされて】
 悶々(もんもん)とした日々を過ごす中、知り合いの学会員であるN.Mさんにそのことを話すと、Nさんが、「ぜひ、その法華講員の方の話を聞きたい」と言うのです。
 私は、それをメールでKさんに伝えました。
 そして、Nさんと一緒にKさん宅を訪問したところ、Nさんは、Kさん夫妻の学会破折に全て納得され、「今まで学会はおかしいと思ってきた。でも、その大謗法の学会に、そのまま籍を置き続けていたのだから、幸せになれるはずがなかった」と言って、脱会して法華講員となることを決意されたのです。私も、いちおうは「脱会する」と言ったものの、心が定まらない状態でした。
 勧誡は翌日の夜、ということになったのですが、当日、私はKさんに、「迷っているので、今日は行けない」とのメールを送りました。すると、Kさんから、「Nさんを連れてきたのはあなたなのだから、あなたは、Nさんの勧誡を見届ける義務がある。とにかくお寺に来るように」との旨の返信が来ました。
 迷いながらも慧照寺に行き、ニコニコと応対してくださった御住職・秦道二御尊師にお会いしたとたん、私は、何か心が解きほぐされたような気持ちになり、今までの学会での出来事や、疑問に思っていたことなどを素直に話すことができたのです。そして、御住職から、「ここに来たということは、心の中で脱会する覚悟ができていた、ということではないですか」と背中を押していただいたことによって、私の心はすっきりと定まり、Nさんと共に、勧誡を受けることができたのです。
 その後、私を創価学会に入れたTさんが学会幹部らと一緒にやって来て、学会に戻るよう説得しようとしてきましたが、私は、「もう、学会は信じられない。学会の本尊はニセモノだったし……。私は、本当の信心がしたい。Tさんも、学会に騙(だま)されているんですよ」と、胸を張って言い切りました。
 実際、ニセ本尊を処分し、法華講員として本物の御本尊様を拝むようになってから、私の生活は、ウツウツした状態からまるで霧が晴れたように一変したのです。まだ些細な事ではありますが、日常の中でも御本尊様の功徳を実感することの連続です。
 こういうことは、創価学会でニセ本尊を拝んでいる時には全く無いことでしたので、そのことだけでも、間違っているのは創価学会で、正しいのは日蓮正宗だ、としみじみ思います。
 思い返せば、学会時代、教宣部の唱題会で「日顕撲滅・打倒慧照寺」と大書した垂れ幕を前にして唱題していた自分が、本当に恐ろしくなります。
 そして、いまだに学会が大謗法の団体であることに気づかず、死ぬまで学会員でいる人はどうなるのか、どれだけ深く罪障を刻みつけることになるのか、と思うと、本当に気の毒で、1人でも多くの人を救っていかなければならない、と思っております。





人生に破綻を招いたニセ本尊の害毒

―不幸が充満するばかりの創価学会―
(岐阜県大垣市・経説寺支部 副講頭T.H〈記事は実名〉『慧妙』H26.12.16)

【破門後、不幸・苦悩のどん底に】
 私は、いわゆる学会2世でしたが、先に創価学会をやめて法華講員となっていた母親より折伏され、平成16年8月、日蓮正宗に戻ることができました。
 昭和37年生まれの私は、幼少の頃は母に連れられ、よく『聖教新聞』を配る手伝いをしていました。男子部
時代は創価班として、会合の時の駐車場整理や地元の会館警護を行なっておりました。
 また、生活面で悩みや困ったことがあれば、御本尊様の前に座りお題目をあげて、助けていただいておりました。高校卒業後、運転免許を取得して1週間目に車が大破する大きな事故を起こした時も自分は軽傷で済んだり、24歳で結婚し、翌年には長男も誕生して、仕事でも順調に成果を上げることができ、会社の中では信頼されるポジションで活躍するなど、御本尊様に守っていただいている、と感ずる日々を送っていたのです。
送っていたのです。
 ところが、平成3年に創価学会が日蓮正宗から破門され、創価学会で独自に作った本尊(ニセ本尊)を拝むようになった頃から、仕事の面、家庭内の面において、さまざまな問題が発生し、妻ともイザコザやケンカが絶えず、最後には「両親と別居したい」と言い出して、平成9年、実家近くのアパートに引っ越しました。
 それから少しすると、今度は父親が急に体調を崩し、精神的にもおかしくなって、近くの病院に入院し、家族総出で付き添いをすることになりました。
 当時の私は、学会幹部に言われるまま交換した"御本尊"がニセ本尊だなどとは夢にも思っておりませんでしたので、合い間を見つけては唱題し、父親の回復を願いました。しかし、願いはいっこうに叶うことなく、平成10年8月、父はとうとう自殺してしまいました。
 葬儀は学会の友人葬で行なったのですが、葬儀の最中から、「何か違う、おかしい。なんで、学会の幹部といえども、床屋のおじさんに御僧侶の代わりができるのだ!?」と疑問に思っておりました。
 また、父親の体調が悪くなったのは自分のせいではないか、家庭内がうまくいっていれば父親も死ななかったのではないか、と自分を責めて、悩み苦しみ、夜も眠れない日もありました。
 仕事においてもトラブルが続き、上司からは妬(ねた)みや中傷が絶えることなく襲いかかってきて、精神的に絶えきれなくなった私は、このままではウツ病になると思い、気持ちを切り換えて頑張ろうと、23年勤めてきた会社を辞め、転職しました。しかし、転職した先でもうまくいかず、また辞めることになってしまいました。
 その後、妻とは離婚しました。気付いてみれば、かつては順調だったはずの人生が一変して、不幸・苦悩のどん底に落ちていたのです。


【"ニセ本尊"と知って納得!】
 父親が亡くなってからしばらくして、母親は、創価学会を脱会して法華講員になりました。しかし、私はその気になれず、"御本尊様を信じて勤行・唱題をしていれば、創価学会が破門されていようと、御本尊様は必ずお守りくださるはず"と甘く考えておりました。
 そのような中の平成16年8月、父親の7回忌法要の前に、母親から「総本山に行かないか」と誘われました。
 創価学会からは、「総本山は、正本堂が壊され、桜の木は切られ、野犬がウロウロしていて、荒れ放題になっている」と聞いていましたので、私は自分の目で確かめてみたくなり、軽い気持ちで「いいよ」と答えました。
 母親から「じゃあ、まず、お寺に行こう」と言われて経説寺に行ったところ、御住職様から、創価学会が破門になった経緯や、現在自分が持っている本尊がニセ本尊であることを知り、ビックリしました。そして、その日のうちに父親の法要をしていただき、勧誡式を受けて、私は法華講員の一員とさせていただいたのです。
 後日、本物の御本尊様を御下付いただき、入仏式を済ませた際、不思議と気持ちが落ち着いたことを覚えております。
 その年の11月には、じつに約20年ぶりに総本山に参詣させていただき、御開扉を受けることができました。そこで、20年前と変わらぬ荘厳な総本山に感動し、歓喜して、今まで創価学会に騙されていた自分の愚かさを実感させられました。


【学会員に対して折伏慣行】
 謗法になった創価学会に何年も留まっていた罪の重さを思うと、「罪障消滅のためにも折伏したい」と考え、翌年からは、母と一緒に毎月、登山させていただき、学会員である元会社の同僚や高校時代の同級生に創価学会の間違っていることを話したり、学会員宅に学会破折のチラシを配る活動をしていきました。
 学会の個人会館へも折伏に行きましたが、その学会員は、「学会員の家を回わるな」と言うだけで、ニセ本尊のことを話しても総本山の桜の写真を見せても、「全部、作り話と合成写真でしょ」と言って、全く聞く耳を持とうとしません。
 私は、「なぜ、こんな簡単なことを、学会員に解ってもらえないのか」と悩みましたが、入講4年目、総本山での夏期講習会に参加させていただいた折に、ふと、気付きました。それは、私自身が"言われてする信心"から脱皮して、"自発能動の信心"に立たなければならない、ということでした。それまでの私は、母親や講中の方から誘われて活動する、という域を出ていなかったのです。
 そして、まずは自分に一番足りないのは唱題だ、と思い、毎日のようにお寺に参詣し、他の法華講員の方と共に唱題をしました。御住職様から「唱題したら、それだけで終わらずに、帰りにでも折伏に回りなさい」と御指導いただいたことにより、勇気を出して、公明党のポスターを貼っている学会員宅を探しては訪問折伏しました。
 そんな中、不思議なことに、3年以上も音信不通であった元妻や子供とも連絡が取れて、妻は無理でしたが、子供は素直に話を聞き、勧誡を受けることができました。また、その後は、弟夫婦とその子供3人も勧誡を受けて法華講員となりました。
 一緒に折伏活動する同志もでき、岐阜県下にチラシやリーフレットを配ったりして、ほぼ毎日、学会員宅への積極的な折伏活動していきました。ある時は大声で怒鳴られ、突き飛ばされ、塩を掛けられたり、ある時は警察を呼ばれたり、携帯電話に学会の教宣部員から暴力団のような口調で嫌がらせ電話が掛かってくることも何度もありました。
 しかし、不思議と、チラシを配ったエリアから、何人もの学会員の折伏ができてきたのです。地元大垣市のKさんの家族や御親族の方々、Sさんの家族、揖斐川町出身のHさん、大野町のOさんやMさん夫婦、Nさん等々、多数の方々が法華講員となられています。


【不幸だらけの学会員の姿】
 学会員宅を何軒も訪問してみると、とくにニセ本尊を拝んでいる家ほど、悲惨な状況に陥っていることが浮き彫りになってきました。私の近所の学会員などは、ほとんど家庭崩壊しているのが実状です。離婚も多く、家庭不和に悩んでいる家、妻が事故死した家、両親が事故死した家、学生の頃は優秀だったのにウツ病を発症した人、癌が再発した人等々、どん底の不幸な環境にいるのです。
 振り返ってみれば、私自身も法華講員になる前は同じような境遇でした。そして、その環境が当たり前になっ
てしまっていて、それが謗法の罰によるものだ、と気付けない。まさに毒気深入して本心を失った姿だったのです。
 しかし学会員は、そのような苦境にあえぎながらも、いまだに、過去(日蓮正宗の信徒団体だった当時)に頂戴した功徳の幻想にしがみつき、「創価学会こそが正しい信仰をしている」と思い込んで、「自分達の師匠は池田センセー」と言い張ってきます。「では、日蓮大聖人様と池田名誉会長の関係は?」と聞くと、押し黙ってしまいます。まさに、「頭破作七分」の悩乱状態である、としか言いようがありません。
 しかし、そのような人達でも、私が母親から折伏されて目覚めることができたように、誰かが創価学会の誤り、池田大作の信仰の間違いを教えてあげなければいけないのだ、と思います。
 私は、来年、日蓮正宗法華講員となって10年目の節目の年を迎えます。法華講員となってからは、本当に生まれ変わったように、生活面でも仕事の面でも御本尊様の功徳を実感し、充実した歓喜の日々を過ごさせていただいております。
 「邪正肩を並べ大小先を争はん時は、万事を閣(さしお)いて謗法を責むべし、是折伏の修行なり」(『聖愚問答抄下』御書P402)
の御金言を心肝に染め、今後も唱題を根本に、学会員への折伏を進めてまいります。





現役の地区・教宣部長が脱会、帰伏!

―現証、矛盾、ウソ情報に懐いた疑問―
(理境坊所属妙観講・S.S〈記事は実名〉静岡県下田市在住『慧妙』H25.11.16)

【教宣部の役割は宗門・法華講対策】
 私は、昭和43年、5歳の時に、学会員だった母親に連れられて正宗寺院で御授戒を受け、50歳になる本年8月まで学会員でした。
 ただ、平成3年頃からは、銀行の営業という仕事柄、毎日帰宅が遅い上に転勤も多かったために、ほとんど学会から離れていました。
 それが、平成13年、転職して移り住んだ下田市の学会男子部の人と気が合い、再び学会の会合に参加するようになって、御本尊様も学会版のニセ本尊に交換してしまったのです。もちろん、その時は"ニセ本尊"だなどとは夢にも思わず、また、ずっと信心のブランクがあっただけに、宗門と学会のどちらが正しいのか、という疑問すら持ちませんでした。
 そして、以後は、「信心を真面目に実践すれば、必ず宿命転換できる」と信じ、「今度はもう二度と学会から離れまい」と心に決めて、学会組織に自分をしばりつける思いで、まず、会館を警備する牙城会に入り、さらに、誰もやりたがらない『聖教新聞』の配達も自ら買って出て、地区部長の任と併せ地区の教宣部長も引き受けました。
 ちなみに、「教宣部」というのは宗門対策の部門で、月1回の教宣部長会では、宗門の動向についてや、法華講員に対する対策などが話し合われます。教宣部の役割の中には、「脱会者の阻止」の他に「登山止(ど)め」という項目もあり、大石寺に行きたがる学会員を引き止めたり、法華講員の総本山参詣を阻止する、ということも入っていました。


【いくら活動しても功徳がない!?】
 さて、『聖教新聞』の紙面には、「座談会」と称されるコーナーがあり、そこでは秋谷会長をはじめとする大幹部が、目を覆いたくなるような汚ない言葉で宗門の悪口を言い合っているのです。「世界平和]とか「学会の崇高な使命」等と言っていながら、あまりのギャップに、私は「なんだ、これは!?」とビックリしました。
 そのことを何人かの男子部幹部に聞いて回ったところ、皆が皆、薄笑いを浮かべながら異口同音に「悪い事をしたほうがいけないんだから、しょうがないんじゃない?」という回答でした。私は釈然としませんでしたが、婦人部の中には、私と同じように思っている人が何人もいました。その人達は「その紙面は読まないようにしている」とのことでしたので、私もそうするようにしました。
 そして、学会に全てをかける思いで、聖教新聞の配達や学会の活動に身を挺(てい)していったのですが、転職を繰り返したり、2度も離婚したり、経済面でも安定せず、願っている事が一つも解決しないのです。
 本部幹部会の衛星中継では、池田名誉会長がよく「私達は勝ちました」と言うのですが、私には、何に勝ったのか、全く理解できませんでした。私の周りの学会員には功徳の体験らしきものが見あたらないけれど、きっと、全国には功徳を受けている人がいっぱいいるのだろう、と漠然と思っておりました。


【おかしな事ばかりの創価学会】
 しかし、さすがに近年は、いくら唱題しても歓喜が涌かないことに疑問が深まり、婦人部幹部のTさんを訪ねました。
 そのTさんは、いつも「題目根本だ」と言って、毎日4〜5時間は唱題していたものの、ウツ病を発症したというので、何か感じていることがあるのではないかと思い、訪ねてみたのです。
 するとTさんは、「唱題しても歓喜が湧かないのはなせだろう」との私の疑問に対して、いとも簡単に「坂田君も年を取ったということだよ」と言うのです。これでは答えになっていません。私は、「御本尊様を拝むのに、老若男女は関係ないだろう」と思いました。
 しかも、ウツ病で苦しむTさんに対して、別の幹部が「もう十分に御本尊様に思いは届いているから、あまり根をつめて唱題をしないほうが良い」とアドバイスした、というのです。
 そういえば、以前、男子部の幹部が「精神的な病を持った人には、御本尊様(※もちろん学会版の本尊です)を拝ませないほうが良い」と言っていたのを思い出し、このTさんの件と重なって、私の疑問はますます深くなりました。昔の学会は、どんな病気でも御本尊様の功徳で必ず良くなる、と言っていたではないか。"精神病は除く"などという話は聞いたこともありません。
 その他にも、
@学会では「自身の胸中の仏界の涌現」を強調するが、大石寺の一閻浮提総与の大御本尊様をどう捉えていったらよいのか
A聖教新聞の配達員として、購読者数が減少し続けていることを実感しているのに、本部幹部会では目覚しい躍進を強調している
B学会では「池田先生の心を我が心としていく!」ということを強調するが、本部幹部会(同時中継)での池田名誉会長の下卑た振る舞いを見れば、とても「我が心」として受け入れられない(しかも3年ほど前からは、池田名誉会長は本部幹部会に出席せず、毎回、原田会長の指導の後、かつての池田センセーの録画を再上映して締めくくる、というパターンが続いている。なゼ、センセーは直接、幹部会に出てこられないのか)
C学会の友人葬の司会を頼まれることが多かったが、幹部の葬儀の時、遺体に激しい黄疸が出ていて恐ろしい相だった
等のことも、疑問に思っていました。
 しかし、そうした疑問も、日々の学会活動に打ち込む中でかき消されていきました。


【学会情報は全てウソだった!】
 50歳になる今年、私は「今年こそ、宿命転換するぞ!」との思いでスタートしました。
 そして2月のある日、0A機器の会社に勤めていた私は、飛び込みの営業先でA.Fさんと出会いました。Aさんはとても穏やかな方で、丁寧に話を聞いてくれました。
 Aさんに購入の意志がないことはわかっていましたが、初対面での印象がとても良かったので、6月に再度訪問しました。するとAさんは私のことを覚えてくれていて、嬉しくなり、何度か訪問を重ねました。
 そして7月のある日、またAさんの所へ訪問した際、Aさんが「今度の日曜日、時間はありますか?」と聞いてこられたので、「どんなことですか?」と聞き返したところ、Aさんが「日蓮大聖人の……」と言いかけた瞬間、私は、学会の教宣部長会で登場する「ア○○」という名前と結びつき、思わず「Aさんって、あのア○○さんですか!?」と言ってしまいました。Aさんも、まさか私が学会員であることを知らず、また活動家であるということを聞いて、2度ビックリという感じでした。
 私もビックリしました。教宣部長会で話題になる「ア○○」さんは、"勝手に学会員の家に上がり込んで御本尊を持っていってしまう人"ということになっており、私はずっと、「ア○○という人は、なんて野蛮な人なんだろう」と思っていたのです。
 ところが、私の目の前にいるAさんは、私が5年間営業をやってきた中で一番、親切丁寧に対応してくれる方でした。私はこんなに常識的なAさんを、とんでもない人間のように言う学会はどうかしている、ウソつきだ、と思いました。
 さて、Aさんは、「一度、一緒に大石寺に行きましょう」と誘ってくれました。「学会の人は、学会の情報のみを鵜呑みにして、こちらの情報を一切受け付けない。だから、一度大石寺へ行って、自分の目で確かめてもらいたい」ということでした。
 私は、たしかにそのとおりだ、と思い、その場で大石寺に行くことを約束しました。
 しかし、その後で、自分はとんでもない約束をしてしまったことに気付きました。地区員の"登山止め"をしなければならない地区の教宣部長自らが、大石寺に行こうとしているのですから。
 さんざん迷いましたが、Aさんが信用できる人でしたので、約束は守らなければ、と思い、「その時だけは学会組織の人間だということを忘れよう」と、8月半ばの日曜日、大石寺に行きました。
 25年ぶりの大石寺は、学会で言うような"ペンペン草"など生えていないし、それどころか、以前よりもずっと綺麗に整備されていました。桜の木もあるし、野犬もいないし、日曜日ということもあって参詣者で賑わっていたのです。
 その、学会の情報とは全く違う光景を目の当たりにした私は、「学会にダマされていたのだ!」と愕然としました。それと同時に、なぜ学会があれほど「大石寺に行ってはいけない!」と言っていたのかが、よくわかりました。大石寺に行けば、学会のウソがばれてしまうからです。
 私はAさんに、今まで学会にいて疑問に思っていたことの一つひとつを話していきました。Aさんはどんなことについても、丁寧に教えてくれました。
 全てに納得した私は、ニセ本尊に手を合わせることだけはしない、と決めたものの、学会を脱会するというまでの決断はできませんでした。


【法華講の座談会に出席して大感激】
 その翌週の日曜日には、Aさんから座談会に誘われ、とりあえず見てみるつもりで、富士宮市内にある理境坊の出張所へ行きました。そこで何名かの体験発表を聞き、またまた驚いてしまいました。功徳の体験はもちろん、与同罪によって罰を受け反省したことまで正直に話しており、その因果関係も明瞭で、しかも皆、ガンガン折伏をしているのです。また、研究発表も本当に力が入っていて、素晴らしい内容でした。私は、「これは本物だ!これこそが、日蓮大聖人の教えを正しく実践しているということなのだ」と直感しました。
 それに引きかえ、最近の学会の座談会は、体験発表などというものはほとんどなく、いつも近況報告的なもので、折伏実践の声掛けはするものの、実際に実践している人は少数で、信仰の喜びなどというものは全く感じられなかったのです。
 脱会の腹を決めた私は、その日のうちに理境坊で勧誡を受け、ニセ本尊は学会本部へ返送して、晴れて日蓮正宗法華講の一員となりました。
 正直なところ、創価学会を敵に回すことへの不安があったのですが、Aさんから言われた「大丈夫!私達には大御本尊様と大聖人様がついていてくださるんだから、何も恐れることはないよ」との一言で、最後の不安も吹き飛んでしまったのです。
 そして、その夜、脱会宣言をするために本部長宅へ行きました。これまで懇意にしてきた私より2歳年上の本部長は、突然のことに信じられないという様子でしたが、私の主張(ニセ本尊の事や、学会の情報が全てウソだった事など)に対して、学会情報を鵜呑みにして反論にもならない反論をしてきました。しかし、強硬に引き止める気力もなかったらしく、「もし、法華講が間違っているとわかったら、いつでも戻っできなさい」ということで終わってしまいました。
 その後も、副圏長・支部長・地区婦人部長の3人が連れ立って我が家に来ましたが、私が保管していた書類を受け取りに来ただけで、これまた、「法華講が間違っているとわかったら、いつでも戻ってきなさい」とは言ったものの、引き止めようとまではしませんでした。その後に電話をかけてきた副県長は、といえば、「世界中に広まっているから学会が正しい。池田センセーの名誉称号を見れば歴然だ」などと言うばかりで、私が学会に戻る意志が全くないことを知ると、最後は、「よし、現証で勝負しよう!」と言って、それっきりになってしまいました。
 このことからもわかるように、今の学会には、かつてのような元気はまるでありません。それは、活動家の減少や高齢化に伴う人材不足、聖教新聞の購読者数の減少などにも、はっきりと表われていますが。


【入講以来、生活に功徳を実感】
 私は、1ヵ月の内得信仰期間を経て、9月末に我が家に本物の御本尊様をお迎えすることができました。
 不思議なことに、法華講員となってからは、仕事も生活も順調にいくようになり、それをもってしても、創価学会の害毒、なかんずくニセ本尊の害毒が、いかに自分の人生を蝕んでいたかが、はっきりと実感できます。また、法華講で教えられる法門の道理は、自分の知らなかったことばかりで、いつも新鮮な感動の毎日です。
 これまで、学会で縁のあった人などを何人も折伏してくるなか、学会に不満や不信を感じている人が多いことも知りました。そして、先日は、私が創価学会に入れてしまった方が、大石寺への帰伏を決意してくれ、理境坊にて無事に勧誡を受けることができました。
 これからも、学会にダマされている人たちをひとりでも多く救っていけるよう、講中の先輩方々と共に精進してまいります。





「主客転倒した創価学会はおかしい!」

―大御本尊から離れた学会に見切りを付けて―
(東京都青梅市・慈本寺支部 S.T〈記事は実名〉『慧妙』H25.10.16)

【高校時代に学会で入信】
 私は、昭和56年、高校2年生の時に、創価学会を通じ日蓮正宗に入信しました。
 初めて信心の話を聞いたのは中学2年生の時、学会員である友人宅に泊まりに行った時でした。友人から「何かあったら、南無妙法蓮華経と唱えてみな」と言われた私は、怪談話などが好きだったせいもあって、「もし怖いことがあったら、南無妙法蓮華経と唱えてみるよ」と答え、軽く受け止めておりました。
 ところが、その後、自宅で寝ている時に"金縛り"に遭い、意識はあるのに声も出ず体も動かない状態になりました。そこで、友人に言われたことを思い出し、心の中で「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と必死にお題目を唱えたら、体が楽になり、声も出るようになったのです。「これはスゴイ!」と思った私は、翌日、友人に話し、「信心をしたい」と告げました。
 親に「信心したい」と言ったのですが、当然のように反対されました。両親にしてみると、「創価学会」ということが気になっていたようです。
 それからは、友人宅で勤行・唱題をしたり、自宅で大石寺の方角に向かって勤行をし、ようやく両親から許可をもらって御授戒を受けることができたのが、高校2年生の時だったのです。
 しかし、両親は御本尊様をお受けすることは絶対に許可してくれませんでしたので、入信後も内得信仰が続き、時には、自転車で時間をかけて八王子の法忍寺や所沢の能安寺まで行き、唱題をさせていただいておりました。
 どうしても御本尊様をお迎えしたいと思った私は、21歳の時、親元を離れて家を借り、晴れて念願の御本尊様をお迎えすることができました。この時の嬉しさと清々しさは、今でも忘れられません。
 私は、御本尊様に真剣にお題目を唱え、猊下様の御指南を拝し、学会の会合にも積極的に参加しました。
 その頃の創価学会では、「池田先生に呼吸を合わせる」ということをよく言っており、自分もそう思っておりましたが、当時はまだ日蓮正宗から破門される前でしたので、唱題の時はとても充実感がありました。
 男子部として、毎晩のように夜遅くまで学会活動をし、また、"牙城会(がじょうかい)"の一員として、学会会館や奥多摩にある研修道場の警備にも、「御安置されている御本尊様をお守りする」という気持ちで、喜んで臨んでおりました。


【主張が正反対に変わった学会】
 そのような中、平成2年末から、創価学会と宗門の問題が起こったのです。
 私は、ずっと「創価学会は日蓮正宗を信仰する団体」という意識を強く持っていましたから、急に日蓮正宗を誹謗しだした創価学会に、当初から違和感と反発を覚えました。
 私はそうした気持ちを誰にも言わなかったのですが、心が態度にも表れていたのでしょうか、平成3年に入ってしばらくした頃、牙城会の班長として会館警備をしていた私のところへ、会合を終えた圏幹部が来て、まるで探りを入れるように、「今回の宗門との問題をどう思う?宗門が間違っているよね。S君は、創価学会が正しいと思うよね?」と質問されました。
 私は、その場では「よく分からないので、考えてみます」と答えましたが、内心では、「何を言っているのか。今まで日蓮正宗創価学会と言い、大御本尊様、猊下様と言っていたのに、今は全く逆のことを言っている。絶対におかしい。主は日蓮正宗だ。間違っているのは創価学会だ。絶対に創価学会を脱会する」と決意していました。
 そして、その日の警備が終了した時、牙城会メンバーの1人に、「創価学会は間違っている。自分は大御本尊様の元を離れない。学会を脱会する」と言いましたら、その人は引き止めようとしてきました。しかし、私の心は決まっていましたので、「あなたも脱会した方がいいよ」と言って、その日を最後に学会を脱会することにしたのです。
 その後、慈本寺様を訪ね、脱会の仕方を伺って、「内容証明郵便」で学会本部に脱会届を郵送しました。平成3年春のことでした。
 脱会後は、学会員が入れ替わり立ち替わり、私の家にやって来ました、始めは優しい言葉で私を引き戻そうとしていましたが、学会に戻る気がないと分かると、今度は恐ろしい表情で「裏切り者!おまえなんか、絶対に幸せになれない!」などと脅しをかけてきました。その時、信仰をする者が脅してくる異常な行為を目の当たりにし、「創価学会を脱会して本当に良かった」と思いました。
 学会の人が来た時には、私は「自分は御本尊様を信じて入信したのであって、創価学会を信じて入信したのではない」と言います。そうすると、学会員は決まって、「学会に恩があるだろう」と言いますが、私は「御本尊様には恩はありますが、学会にはありません」と言い切りました。そして、きつぱりと「創価学会に戻る気はありません。大御本尊様から離れる気はまったくありません」と言ってきました。
 また、どちらが正しいかハッキリしている、ということを話しても、学会員らは全く理解しようとしませんでした。
 その後、学会の会合で私の悪口を言っていると聞きましたが、私は、言っている学会員のほうを可哀想に思いました。そうやって罪障をどんどん積み重ねてしまうのですから。
 脱会してからしばらくは、『聖教新聞』が郵便受けに入っていましたが、内容は日顕上人猊下様に対する悪口ばかりで、とても"新聞"とは思えないものでした。
 それを鵜呑みにした学会員が猊下様の事をさんざん言っていたので、「そんなに知りたければ、お寺様へ行って、本当のことを聞いてみればいかがですか」と言っても、学会員達は「創価学会が間違っているわけがない。お寺になど行く必要はない」の一点張りでした。自分で確かめようともしない学会員を見て、本当に洗脳されている、と思いました。


【法華講員としての信仰の喜び】
 慈本寺の信徒となった私は、平成3年9月の法華講慈本寺支部の結成式にも参列しました。当時は創価学会の妨害がかなりありましたので、私は、結成式前日から泊まり込みで慈本寺の警備をしました。
 その後も、寺院の行事のたびに警護させていただき、また、登山の時は輸送班として大石寺で任務をさせていただきました。特に、正本堂の跡地に奉安堂が建立され、平成14年に「奉安堂落慶記念大法要」が盛大に奉修されましたが、その時の任務は一生の宝物になり、子供達にも語り次いでおります。
 本山任務の時は体力的に疲れたりもしますが、任務を終えて帰路に着く時はいつも清々しく晴れやかな気持ちになります。この時は、大御本尊様からいただいた功徳で生命が洗われていることを心から実感いたしました。それはまた、総本山大石寺に御安置されております大御本尊様を離れては絶対にいけないことを、あらためて強く感じる時でもありました。
 私は、現在の妻を折伏し、平成12年、30半ばで結婚をしました。結婚する時に、妻の両親を折伏しましたら、「創価学会ではないな」と確認され、「違います」ということで、御授戒・御本尊様をお受けできました。後で聞きましたら、「創価学会だった絶対に入らなかった」と言っておりました。自分が創価学会にいる時は気付きませんでしたが、創価学会は本当に世間の人達から嫌われていたのです。
 その後、「法統相続」を真剣に御祈念し、子供を3人授かりました。その子供達も今は少年部員として、家族と共に、御講をはじめ寺院行事や総本山に参詣しております。こうして健全な家庭を築くことができたのも、本当に御本尊様の功徳だと、日々、実感しております。
 私は、支部において少年部長を拝命しておりますので、少年部員には、自宅の御本尊様、菩提寺の御本尊様、総本山大石寺にまします戒壇の大御本尊様の筋道をしっかりと教え、真剣に育成に取り組んでまいります。
 先日、「慈本寺創立30周年記念法要」が盛大に奉修されました。当日は、台風の接近に伴い、大雨が予想されましたが、法要が始まる前から雨も止み、晴れ間も見えたほどでした。本当に不思議な出来事で、諸天も慈本寺支部の前途を祝福している、と確信いたしました。
 これからも、学会員や、いまだ信心のことを知らないでいる方々を折伏してまいります。
 最後に、常に心に留めている御書の一節です。
 「蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし。」(御書P1173)





求めたからこそ気づけた、学会の誤り

―法華講で功徳厳然、願いが次々と現実に!―
(石川県白山市・最教寺支部Y.M〈記事は実名〉『慧妙』H25.9.16)

【学会員だった頃のこと】
 私は昭和49年、小学校4年生の時に、親戚の紹介により、家族そろって創価学会を通じ日蓮正宗に入信しました。
 小学生の頃は、信仰のこともよくわからないまま、両親に連れられて学会の会合や活動等に参加をしていましたが、中学・高校生になるにつれ活動に参加しなくなり、かえって「信仰は年寄りのするものだ」と批判をしておりました。
 信心に目覚めたのは、20才の時に離婚したことがきっかけでした。2人で幸せになろうと、自分なりに努力をするのですが、努力をすればするほど仲が悪くなり、離婚することになったのです。
 「なぜ、努力をしても思うように生きていけないのか」と悩んでいた時、学会員から「過去世からの因縁だからですよ。この信心をすれば、人間革命・宿命転換ができますよ」等、説得力のある話を聞き、真剣に信仰してみようと決意して、それからは、「池田先生の指導どおりに仏道修行をすれば、幸せになれる」との思いで学会活動に取り組み始めました。
 そんな中、創価班(創価学会の輸送部)の一員として、毎月の御報恩御講の際に、最教寺の駐車場警備につくようになりました。その時に御住職様の御法話等を拝聴し、総本山と創価学会との関係や、大御本尊様・御法主上人猊下様の御事等を知りました。
 そして、「大事な総本山をお護(まも)りしている創価学会・池田先生は素晴らしいのだ」と思い、いっそう学会活動に燃えていたところ、気がついたら、23才の時には、支部男子副部長・圏少年部長・創価班班長等、いろいろな役職についていたのです。


【学会の情報はウソだった!】
 時が流れ、平成2年の暮れに、御宗門と創価学会の間に異変が起こりつつあると感じていたところ、平成3年の年が明けたとたん、創価学会の中で総本山や御宗門に対する中傷誹謗を聞くようになりました。それは、日を追うことに酷(ひど)くなっていきました。
 そんな時に、私は素朴な疑問を抱いたのです。
 幼い頃から創価学会では、「大聖人様の正法を信じれば幸せになり、成仏できる。しかし、正法に背けば無間地獄に堕ちる」と教えられてきました。ところが今、正法によって幸せになれる宗教のはずの宗門と創価学会が決裂しようとしているのです。私は、「もし、両者が分裂したら、どちらかが幸せになれ、どちらかが無間地獄へ行く宗教になってしまう。どっちが正しいのであろうか」と考え、自分の人生にとって大変な問題だ、と感じたのです。
 そんな中、創価学会内には「総本山は野犬がうろつき、ペンペン草が生えて、ひどいことになっている」とか、「日顕上人は重病だ」との噂(うわさ)が広がっていたので、私は、総本山へ行って確かめてみたいと思い、登山をしました。すると、そこには、噂とはまったく違った光景が目に入ってきたのです。
 整備された綺麗(きれい)な境内、お元気な日顕上人猊下様のお姿―。この時、私は「創価学会は嘘(うそ)をつくのだ」と、心底からショックを覚え、それと同時に、創価学会で言っていることを鵜呑(うの)みにする信心(盲信)をしていたのだ、と気がつきました。そこで、まず、両者が何を言っているかを確認し、その是非を見極めて、正しい方を選択しよう、と考えたのです。反面、これまで創価学会を信じてきたので、「創価学会は絶対に間違っていない」との確信を持ちたかったこともあり、複雑な気持ちで調べ始めました。
 当時、論争となっていた「神札問題」やいわゆる「シアトル問題」「芸者写真問題」「11.16スピーチ問題」「昭和52年・教義逸脱問題」等について、創価学会幹部に話を聞き、あるいは最教寺へ行って御住職のお話を聞き、学会に対する宗門側の反論資料等を読み、または週刊誌等を読み、時間のあるかぎり、いろいろと調べました。調べるうちに創価学会の間違っている部分がわかってきて、創価学会への思い入れは徐々に薄れたのですが、それだけでは脱会するまでの決定的な根拠が見当たりませんでした。
 そんな中、最教寺の御住職様が御講の御法話で、大御本尊様と御法主上人猊下様の御事を幾度も言われていたことを思い出し、それからは「なぜ大御本尊様で、なぜ猊下様なんだろう」「大聖人様の教えとは?」「大聖人様の仏法と他宗との違いとは?」等、教学的な観点で学び直した結果、「大御本尊様を根本にしなくては、また、唯授一人の血脈相承を受けられた猊下様の御指南なくしては、日蓮大聖人様の仏法は成り立たない」「創価学会は、見た目は立派そうに見えるが、大聖人様の仏法の絶対的根源の大御本尊様がない。大聖人様の仏法をマネしているだけの団体であり、幸せになれる道理がない」との結論に至り、当たり前のことが分からないほど"盲信"になっていた自分に何度も自問自答を繰り返し、脱会することを決意しました。
 脱会することを両親や親しかった学会員に話すと、脱会させまいとして、毎日、学会員が説得に来ました。そうなると、御宗門が正しいと頭ではわかっているのですが、家族と別れ、1人になってしまうのではないか、との不安や、学会員にお世話になった、という人情から、なかなか心の整理ができず、脱会に踏み切る勇気が湧いてきません。
 そんな中、御住職様が、私の心中を察し、「何かあったらお寺へ来なさい。面倒を見てあげるから」と言ってくださったことで、決心がつき、平成3年5月、24歳の時、家族親戚の反対を押し切り、1人で脱会しました。


【現証をもって知る正邪の違い】
 その後、社長や従業員に学会員が多い、地元の会社を退社し、東京で就職することにしました。御住職様からは、「菩提寺(ぼだいじ)である最教寺を外護できる信心をしなさい」と指導されたこともあり、3年経(た)ったら石川県に戻るつもりでした。東京では、江戸川区の大護寺の預かり信徒として精進しました。
 そんな中の平成6年、御宗門から「6百億遍の唱題行」が打ち出されました。これは、僧俗一致で「1人が1日2時間の唱題を100日間唱えよう」との修行でした。
 私はこの時、2つの事を願っていました。1つは「信心を一緒に頑張っていける人と結婚したい」、もう1つは「最教寺に戻って御奉公する」でした。
 そして100日間の唱題行が終わって間もなく、大護寺の女性の信徒と知り合い、それから付き合いが始まり、結婚しました。それが現在の妻です。
 また、創価学会の問題で疎遠となっていた両親より、「そろそろ戻ってこないか。母屋の横の土地に家を建ててもいいぞ」との話があり、その直後には、東京の勤め先の社長より、突然、「取引している石川県のA社より、派遣で何人か来てほしいとの話があったので、お前行きなさい」との話が飛び込んできて、会社の指示という形で地元・石川県に戻ることになりました。
 今、私は、妻と子供の3人で、実家の横に建てた家に住み、微力ながらも最教寺で副講頭として御奉公しております。
 この他にもいろいろな出来事において、相手側から舞い込んでくる形でトントン拍子に事が進み、幾つもの願いが叶(かな)っていくのです。本当に不思議な大きな力を感じ、これが大御本尊様・諸天善神の御加護である、と実感しました。
 さて、東京から石川県に戻ってからは、創価学会の間違いや法華講員となってからの功徳の体験を学会員に伝えたく、知るかぎりの学会員宅を折伏に廻りました。すると、かつて学会活動を一緒にしていた男子部が若くして亡くなっていたことをはじめ、重い病気になっている人、離婚してしまった人等、学会員の現罰の姿をまのあたりにすることになったのです。
 このように、現証の面においても、宗門と創価学会では正邪の違いが歴然でした。あらためて、「やっぱり、総本山は正しく、学会は間違っていたのだ」と確信を深めた次第です。
 最後に学会員に言いたいことは、創価学会が破門されてから20数年が経ちましたが、宗門を中傷誹謗する前に、創価学会では、自分達の都合の良いように修行方法を変え、自分達の都合の良いように大聖人様の仏法を解釈する等、牧口・戸田会長の指導や平成2年以前の教えとは違う新興宗教になり下がったことを早く気づくべきだ、ということであります。そして、勇気を出して、日蓮正宗の寺院を訪ねていただきたいと、心から思います。
 私は、これからも、両親をはじめ、知るかぎりの学会員に何度でも会い、私の体験を通し折伏に精進していきます。





組織を揺るがした一粒種家族の脱会

―今、正信の功徳を実感する日々!―
(埼玉県草加市・宣行寺支部T.S〈記事は実名〉『慧妙』H25.7.16)

【学会活動に明け暮れた日々】
 私は、昭和28年、14歳の時に両親と共に、創価学会を通じて本行寺(東京都墨田区)で御授戒を受け、日蓮正宗に入信しました。その時、御授戒をしてくださったのが、当時、本行寺の御住職であられた日顕上人猊下でした。
 当時、私の父は、鳶(とび)職の頭領で、気性は荒く、性格的にも短気で、身体の50%も入れ墨をしていて、とても怖い存在でした。ところが、信心を始めて人一倍折伏をする中で、温厚な人柄へと変わり、周囲からも信頼されるようになってきたのです。
 また、縁あって、戸田第2代会長の自宅を改装する仕事に携わり、これがきっかけとなって戸田先生との親交が深まっていきました。
 戸田先生はいつも、「総本山から離れてはいけない。我々は、総本山を外護する団体である」と指導されておりました。こうした指導のもと、父は、江戸川区平井の一粒種から始まり、年間3百世帯もの折伏をし、学会本部より表彰を受けたこともありました。
 私が20歳代から40歳代の頃は、我が家を座談会の会場として提供し、毎日のように学会員が集まってきていましたし、江戸川区議選挙の時は自宅を選挙事務所として提供しました。
 私自身は、タテ線(※折伏系統による組織)の時は男子部の隊長として折伏を実践し、登山の際の輸送班としても頑張ってきました。とにかく仕事の時以外は、寝る間も惜しんで、生活の全てを学会活動に費やす日々で、25歳で結婚し、1男6女に恵まれましたが、家の中の事はほとんど妻が1人で見ていました。
 そして、学会がブロック体制に入った昭和40年代半ば頃、本部長の任命を受け、以後もひたすら地域の広宣流布を願い、学会活動に奔走していました。


【目の当たりにした"学会の大嘘"】
 そんな中の平成2年12月30日、緊急に招集された活動者会で、池田大作が総本山から総講頭職を罷免(ひめん)されたことが告げられたのです。いったい何が起こったのか、意味がわからないまま、学会では、登山会の中止、葬儀は学会葬、会員の法事は各学会の会館で行なう等々、考えられない事態になっていきました。
 しかし、「本門戒壇の大御本尊様から離れてはいけない」というのが、戸田先生の教えだったはずです。私は、本部長という立場でしたが、学会にはわからないように、毎月、家族と共に総本山へ参詣いたしました。
 そして、平成3年3月、登山の折、御供養をさせていただくために内事部に伺った際、偶然にも日顕上人猊下様にお会いしたのです。突然のことで恐縮する私に、日顕上人猊下様は優しくお言葉を掛けてくださいました。
 「いくつの時に入信されましたか?」
 「14歳です。」
 「よく退転せずに頑張ってこられましたね。」
 私は、この温かく包み込むような猊下様のお言葉に、これまでの学会の狂気の沙汰を思うと大変申し訳なくて、涙が込み上げてきました。
 その当時、学会では、「日顕上人は重病で、車椅子に乗っている」との情報が流されていたのですが、実際にお会いした猊下様は、そのようなご様子など微塵もなく、大変お元気でいらっしやいました。私は、「学会の話は全く大嘘ばかりだ」とますます確信しました。
 その頃、学会では、各会館で日顕上人猊下様の似顔絵を会員に踏ませて、学会への忠誠を誓わせていました。そうした異常な姿に失望した両親は、平成3年9月、「創価学会は日蓮正宗総本山を厳護する団体であったはず!」と、秋谷会長宛てに脱会届を提出しました。
 すると、両親の家には、学会幹部が毎日のように押しかけ、脱会届を取り消すようにしつこく迫ってきました。
 私までが学会を脱会されては困ると思ったのか、私宅へも、池田名誉会長の使いとして本部から副会長らが、「池田先生が心配しております」と、3回にわたり、高価な品物を持って訪問してきました。私は、「冗談じゃない!会員を騙すような嘘だらけの学会にはついていけない。帰ってくれ!」と追い返し、品物もゴミ箱に捨てました。
 私は、本部長という立場上、会員のことが心配で、なかなか脱会する決意ができずにいたのですが、両親が先駆を切ってくれたお陰で、平成3年10月12日、本門戒壇の大御本尊様御図顕の日、子供達を含め、一族揃って秋谷会長宛てに脱会届を提出しました。
 その後、また副会長らが数回にわたり、学会に戻るよう説得に来ましたが、そのたびに「池田が除名になったからといって、なぜ、私達会員が総本山に行ってはいけないのか」「総本山参詣は信心の根本ではないか」「なぜ、会員を巻き込み、嘘いつわりを植え付けるのか」「あなた方も登山して、自分の目で本当の総本山の姿を見てきなさい」ときっぱり言ったところ、副会長らからは一言も反論が返ってきませんでした。
 戸田先生は「これから魔は内部から出る。外部の魔は怖くない」と指導されていましたが、まさか、この"内部の魔"が池田大作になろうとは、脱会するまでの39年間、夢にも思いませんでした。


【功徳を満喫する人生に!】
 脱会してからというもの、生活は一変しました。自営で設備関係の仕事をしていた私は、お得意先に学会員が多かったのですが、その人達からも「裏切り者!」と罵られ、仕事を全て断わられて、収入の道を閉ざされてしまったのです。
 しかし、そうした圧力に屈する気持ちはまったくありませんでした。多少の蓄えとアルバイトなどで日々の生活をしのぎながら、「正しい道を選択したのだから、学会員には負けられない」と思い、『如説修行抄』の一節、
 「いかに強敵重なるとも、ゆめゆめ退する心なかれ、恐るゝ心なかれ」(御書P674)
との御金言を胸に、ひたすら御題目を唱え、訪問して来る学会員には総本山の真実の姿や日顕上人猊下様の御指南を話していきました。そうした中から、脱会して法華講につく人も出てきました。
 すると、御本尊様の御加護は厳然と現われてきました。
 今から10年ほど前に、建築・リフォームの会社を立ち上げることができ、御本尊様に守っていただいて、今日に至るまで経営も順調です。
 また、健康面でも、子供の頃から腎臓が悪く、いずれ人工透析を受けるようになることを覚悟してきたにもかかわらず、74歳の今に至るまでその必要はなく、いたって健康、現役で元気に働いています。これも御本尊様のおかげ、と感謝申し上げております。
 それ以外にも、15人の孫を含めた一族が皆、元気で和気あいあいと信心させていただいており、私にとっては、これが一番の功徳だ、と思っております。
 一方、かつて学会で共に活動し、学会が邪教となってからも離れることができなかった連中には、いまや、ガンや脳卒中などで悲惨な目に遭っている者が多いのが実状です。
 さて、私が脱会して21年が経ちました。現在、私は宣行寺支部に所属させていただき、御住職・武安力道御尊師のもと、御指導を賜わりながら、日々精進しております。
 これからも池田創価学会にマインドコントロールされている学会員を救い、平成27年、33年の御命題達成に向けて、御法主日如上人猊下様の御指南のもと、自分の使命を自覚し、唱題を根本に折伏に精進してまいります。





脱会を決意させた学会員の死相

―「法華講員となって本当に良かった!」―
(東京都小平市・広説寺支部 F.T〈記事は実名〉『慧妙』H25.6.16)

 私は、大阪で生まれ育ち、創価学会員だった主人と知り合って結婚し、昭和50年6月に大阪守口市の覚仁寺様で御授戒を受け、日蓮正宗に入信しました。その後、2人の子供に恵まれ、学会の先輩に言われるまま、信心活動に励みました。
 そんな中、主人から「母親が高齢なので同居したい」と言われ、義母の住む東京へ転居したのですが、義母とは時間があれば唱題に励み、一緒に折伏にも歩きました。義母の臨終の相はすばらしく、信心の確信を深めたことをよく覚えています。
 また、次男は、小学校を卒業後、得度して、総本山大石寺に小僧さんとして上がりました。日蓮正宗の御僧侶になることは次男の夢であり、、私達夫婦が願ってきたことでしたので、本当に感激でした。当時の学会の同志達もとても喜んでくれました。さらにその数年後には、長男が創価大学に入学しました。
 当時の私達家族は、創価学会員として使命に燃え、自宅を拠点に提供し、聖教新聞の配達や財務も、生活を切りつめ精いっぱいやっていました。全てが順風満帆(じゅんぷうまんぱん)に進んでいるように思えました。
 ところが、創価学会は、平成2年の暮れから宗門攻撃を始め、平成3年11月には日蓮正宗から破門されてしまったのです。
 『聖教新聞』や『創価新報』などで、御法主上人猊下を誹謗中傷したり、血脈を否定したりと、創価学会による宗門誹謗はエスカレートしていきました。
 私は、そうした今までと180度違う学会の路線に疑問を抱きながらも、「学会はいずれ目を覚まし、軌道修正がなされるだろう」と期待して、脱会を決断するには至りませんでした。
 ただ、周囲の学会員から「お山にいる子供が可哀想だから、連れ戻せ」などと言われることもあり、私達が学会に在籍していることで、次男がお山でいじめを受けるのではないかなどという心配もしました。しかし、次男から「そんなことは全くない。むしろ、温かい激励をいただいている」という言葉を聞いて、ほっとしました。


【衝撃を受けた学会員の急死】
 一方、創価大学に通っていた長男は、ある日、御書を拝読していたところ、「摧尊入卑(さいそんにゅうひ)」という言葉にぶつかり、「今、学会がやっていることは、まさに摧尊入卑に当たるのではないか」との疑問を抱いたそうです。そこで、ある会合の折、学会幹部に質問をしたのですが、まともな回答を得られず、長男は不信感を深めました。
 私達家族は次男が得度したことを機に、月に1回はお山に御登山しておりましたので、学会の問題が起こってからも、添書をいただくためによく広説寺に足を運んでおりました。その際に、小薮御住職(当時)の御法話や、お寺に置いてある宗門側の資料に触れ、長男が脱会を決意しました。
 親としては、長男が大学の中でつまはじきにされるのではないかと、長男の身の上を案じましたが、長男の決意は固く、私達の制止を振り切って法華講に入講したのです。
 その日より、長男は「学会は間違っている」「学会にいたら、成仏はできない!」と、毎日のように私達に訴えてきました。しかし、私達夫婦は、頭では話を理解できても、学会員との人間関係のしがらみや、過去に学会で体験した功徳の現証などがネックとなって、脱会を決意できずにいました。今にして思えば、「数々の功徳は、けっして池田名誉会長や学会からもらったものではなく、御本尊様からいただいたものなのだ」という原点を見失っていたのです。
 そんな葛藤が続いたある日、私が姉のように慕っていた学会員が、若くして急に亡くなりました。私は、大きなショックを受けると同時に、その人の、けっして成仏したとは言えない死相を通して、成仏・不成仏ということを深く考えさせられました。そして、長男の「日蓮正宗でなければ成仏できない」という言葉が脳裏を駆けめぐり、私の心は決まりました。やっばり、日蓮正宗の信心に戻らなければいけないのだ、と。
 一度、肚をくくったら、それまでのわだかまりは吹き飛んですっきりし、平成9年7月、主人と共に学会を辞め、法華講に入講させていただきました。
 以来、学会の幹部らが次々と来て、引き止めようとしたり、悪口雑言を浴びせたり、あげくは職場にまで押し掛けて来て大声で罵っていきました。こうした学会員の非常識な姿には唖然とさせられましたが、そうした圧迫によって私達の信心がくつがえされることはありませんでした。


【「ニセ本尊から不気味な人生が……」】
 その後、私のパート先の店が閉店してしまった上に、主人も定年退職となったことから、私は生活のために、早朝はコンビニ、昼から夜までは薬局と、2つの仕事を掛け持ちし、1年365日、ほぼ休みなしで働くようになりました。そのような仕事一辺倒の生活の中で、いつしか信心は惰性に陥り、仏道修行も疎かになってしまいました。これで生活がうまくいくはずもありません。いろいろな問題が次々と起こり、行き詰まっていきました。
 「このままではいけない」と思った私は、昨年の暮れ、早朝のコンビニの仕事を辞め、「信心の初心に戻ろう。一からやり直そう!」と決意して、1月1日深夜0時の元旦勤行会に参加させていただいて、とても清々しい気持ちで新年を迎えることができました。
 そして、1月3日の初登山に参加させていただいた折には、「広説寺支部の婦人部の折伏目標は60です。1人が1人の折伏をやりましょう!」との時野谷婦人部長さんのお話を聞き、「皆で1人やれば、できるんだ。私も折伏しよう!」と力が湧いてきました。
 その数日後、長男から「一緒に折伏に行こう」と誘われ、私が学会時代に折伏したSさんのお宅に向かいました。勇気を出してドアをノックし、数年ぶりに会ったSさんをランチに誘いました。
 そして、食事をしながら昔話をしていると、なんと、彼女のほうから「最近、学会活動していないのよ」と言い出し、さらに「学会の本尊を拝むと(赤い光が見えて、何だか気持ちが悪くなるから、仏壇をずっと閉めてるの」と言うのです。
 まさにニセ本尊の害毒です!そこから一気に折伏が始まりました。
 すると彼女は、学会を辞めて正しい信心をしていくことを決意し、すぐに勧誡を受けることができました。長年会っていなかったSさんでしたが、まるで私が行くのを待っていてくれたかのようでした。


【法華講員となって喜びの毎日】
 さらに、御本尊様に御礼の唱題をしていると、次々と、正法に導(みちび)いてあげたい友人が頭に浮かんできました。それをメモに書きとめ、「友人・知人・親戚・近所の人」と種類別にしたノートを作って、勤行唱題のつど、折伏を御祈念していきました。
 ある日、自宅で唱題していると、去年から折伏しようと思っていた、Yさんのことが頭に浮かびました。「よしっ!Yさんを折伏しよう!」と心に決めると、不思議なことに、その次の日に、なんと、Yさんがお店に来られたのです。
 そのYさんと約束して休日に会い、信心のお話をしたところ、Yさんは日蓮宗を信仰しているようでしたが、「自分のしている信仰に疑問がある」と言うので、すぐにお寺にお連れしました。そして、在勤の御僧侶が宗教の正邪を説いて折伏してくださったところ、Yさんは、入信を決意され、3日後の2月4日に御授戒を受けることになりました。
 魔が入らないよう、講中の皆さんにも応援の題目をお願いし、自分も真剣に唱題しました。そして当日は、無事に謗法払いができ、御授戒を受けることができたのてす。

 日蓮大聖人様は、『持妙法華問答抄』に
 「須(すべから)く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧(すす)めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」(御書P300)
と仰(おお)せられていますが、本当にそのとおりで、折伏を決意し、祈って動く、という日々がとても楽しいのです。
 そして、毎日の唱題行はもとより、休みの日はお寺に通って昼間の唱題会に参加、帰りには友人宅を訪ねて下種活動をする等、とにかく信心根本の生活になった時から、日常生活もリズムよくスムースに運びだし、会社の仕事でも私の売り上げがトップになって、店長からも認めてもらえ、希望する休みを取りやすくなったりと、何もかもが順調にいくようになりました。今、毎日が充実していて、御本尊様の功徳を実感するとともに、本当に法華講員になって良かった、と心から思っております。
 3月に入って、阿部正教御尊師を御住職としてお迎えしました。現在、広説寺支部は、新御住職のもと、新たに班体制にして、唱題会や会合を充実させるなど、さらに活動しやすい状況を作り、本年の折伏誓願達成に向かっているところです。
 私も、学会の中でいまだ真実を知らずマインドコントロールされている多くの親戚・知人を一日も早く救い出すべく、本気で祈り、折伏を実践してまいります。
 そして、何としても広説寺支部の折伏誓願目標を達成させ、支部の皆様方と共に歓喜を持って、11月の「御影堂大改修落慶法要」に参加させていただきたいと思っております。





子供の頃から感じていた学会への違和感

―「池田センセーは仏様じゃないのに」ー―
(東京都墨田区・常泉寺支部 S.K〈記事は実名〉『慧妙』H25.5.16)

【「池田センセー、ここにいないし……」】
 私は、祖父母・両親が創価学会員の、いわゆる"学会3世"として生まれました。とくに父は、地元組織で本部長という役職に就(つ)き、熱心に学会活動をしておりました。父のアルバムを開くと、池田大作サンを囲むようにして写る、若き日の父たち創価学会男子部の写真が何枚もありました。
 お父さんっ子だった私は、小さい頃から父についていって、学会主催の運動会、海外メンバーとの交流会、未来部の各種行事等に参加していましたが、そのような中で子供心にも違和感を覚えることが多々ありました。
 たとえば、大きな会合に参加すると、池田センセーからの差し入れと称して、果物やパン、飲み物などが振る舞われるのですが、それらを持ち帰ると、近所の学会員がやってきて「池田先生からいただいたものを見せて」と言い、心からうらやむように「仏様から食べ物をいただいたから、Kちゃんは一生、食べるのに困らないね」と言うのです。「池田センセーは仏様じゃないのに…」と思い、驚きました。
 また、所属していた富士鼓笛隊での練習の折には、隊長が「目線はどこですか!」と号令を掛(か)けると、皆が一斉に「池田先生です!」と応(こた)えるように訓練されましたが、私は「池田先生、見えないし……」などとモゴモゴ言って、注意を受けていました。
 さらに、少年部の会合で語られる池田大作サンに関する逸話(いつわ)―たとえば、"工事現場の水溜(たま)りに池田先生が釣り糸を垂(た)らしたら、魚が釣れた。池田先生には不思議な力がある"といった、荒唐無稽(こうとうむけい)な話を聞くたびに、私は内心で「子供だからって馬鹿にしているのか」と思っておりました。池田大作の本仏化が意図的に進められていたと思われる、昭和50年前後のことです。
 長ずるにしたがい、身近な学会員の多くが「池田先生のために」と言って学会活動や選挙活動をしている姿に、ますます違和感を覚えるようになっていきました。信仰の目的と違うのではないか、と思ったからです。
 そうした中、高校の同級生だったs.yさんを折伏させていただくことができ、彼女が20歳になるのを待ってお寺で御授戒を受けました。sさんは、腎臓(じんぞう)の病気で一生病院通いをしなければならない、と言われていたのですが、初信の功徳により、通院の間隔がだんだん延びていき、いつの間にか健康体になっていったのです。それまでの私にはこれといった体験がなかっただけに、このsさんの身に顕(あら)われた現証は、私自身の御本尊様に対する確信を深めることにもなりました。
 そして、御本尊様への確信が深まるにつれ、学会活動に対しては、さらに疑問が募(つの)っていきました。
 たとえば、毎年1回行なわれている「財務」で、地区の担当者が、学生だった私にも「1口1万円でもいいから、出すように」と言ってきました。私が「親に養ってもらっている身だから」と断わっても、「功徳があるよ。何倍にもなって返ってくるよ」と言うので、「財務は御供養なのですか?」と訊(き)くと、「同じようなものだ」との返事。私が「御供養なら、お寺にさせていただきます」と言うと、相手は「生活保護を受けている人だって、財務をしているのよ」とくい下がってきます。「御供養と同じ」と言いながら、学生や生活保護を受けている人にまで強要するようなやり方に疑問を感じた私は、押し問答の末、結局、財務をしませんでした。


【身に覚えのない「スパイ」扱い】
 さらに、平成に年号が変わるあたりから、創価学会の中に不穏な空気を感じるようになりました。
 「大事な会合だから」と先輩に言われて参加した本部幹部会(衛星放送)で、登壇した大幹部達が次から次へと、創価学会に離反した元幹部達(福島源次郎さん等)の名前を挙げて、「廃人同様になっている」「家のしきみは枯れ、仏壇は埃(ほこり)をかぶっている」等々と、聞くに堪(た)えない非難中傷をしたのです。私は、事実はどうであれ、衛星放送まで使って個人の悪口を喧伝(けんでん)することへの嫌悪感が先立ち、いたたまれない思いでした。
 そして最後に登壇した池田大作サンはといえば、「こうなることが私には分かっていた」と言いながら、あおるように水を飲んだ時、コップを持つ手が震えていたのです。私は、とっさに「池田先生は動揺している」と思いました。今考えても、池田サンは、側近幹部達が離反していくことに、誰よりも動揺していたのだと思います。
 会場の皆が一斉に拍手している中、会合の内容に賛同できず、一人ぼんやりしていた私は、女子部の幹部に睨(にら)まれてしまいました。
 それ以降、熱狂的に池田サンを信奉する学会員との温度差はますます広がり、どうしても、池田サンを心からは"先生"と仰げない自分の気持ちを女子部の先輩幹部に言ってしまい、きつく注意されました。
 そうした私の言動が危険視されたのでしょう、程なくして、sさんが興奮して我が家に来て、とんでもないことを教えてくれました。地元の女子部長から「K(名前)さんは顕正会のスパイだから、今後、お付き合いしないように」と言われた、というのです。もちろん、私には、顕正会とは何の接点もありませんでした。
 身に覚えのない「スパイ」に仕立て上げられた私は、もしかしたら、本部幹部会で誹謗(ひぼう)中傷されていた元幹部達もこれと同じパターンかもしれない、と思い、福島源次郎さんに直接お会いしてみることにしました。すると、「廃人同様になっている」はずの福島さんは、廃人どころか、お元気だし、とても聡明で誠実なお人柄の方だったのです。やはり、学会は会員にウソをついていたのです。


【熟慮の末に下した脱会の決意】
 そして平成2年の年末、池田大作サンが総本山から"法華講総講頭"の任を解(と)かれ、年を明けた平成3年初頭から、学会は、『聖教新聞』の紙上で、あるいは会合で、御宗門を大々的に批判し始めました。
 周囲の学会員の多くはそれに踊らされ、感情論で御宗門を非難していましたが、私自身は今までの経験から、一方的な情報だけで軽々に正邪を判断してはいけない、と考え、sさんと共に寺院に赴(おもむ)き、今回の問題に関する資料を手に入るかぎり集めました。創価学会側から配布された資料も集めて読みました。
 未熟ながらも、真剣に2人で比較検討し、話し合いを続け、最終的に出した結論が、
 「創価学会は本来、日蓮正宗の一信徒団体であり、その日蓮正宗を非難することは信仰の否定となり、本末転倒になる。信仰の本源を否定したら、もはや信徒団体としての創価学会は成り立たない」
ということでした。
 しかし、両親や兄弟にも「創価学会を脱会しよう」と告げることは、理屈では割り切れないものがありました。とくに父は、青年期から一生懸命に創価学会の活動に挺身(ていしん)してきており、その父に脱会を勧(すす)めることは、これまでの父の人生を否定することになるのではないか、と心が重くなりました。
 この頃の気持ちは、本当に複雑でした。「創価学会は間違っている」と思いながらも、様々なしがらみや、"これまでの人生を否定したくない"という感情を優先して学会員のままで行くのか、それとも、三世の生命を信じ、誤りに与(くみ)しない信仰を取るべきか。しかし、間違っていると気付いたからには、正していかなければ罰(ばち)を受ける、苦しいけれど、父母にちゃんと伝えよう、そう決めました。
 母と兄弟はすぐに脱会に同意してくれ、父も、一瞬寂(さび)しそうな顔をしながらも同意してくれました。そして、平成3年、私たち家族とsさんは共に、地元の幹部に脱会届を提出し、常泉寺に所属させていただいたのです。


【学会で刻んだ罪障を消滅】
 脱会直後、私たち家族に信じられないような試練が襲(おそ)いました。父が仕事で知り合った創価学会員から騙(だま)されて多額の借金を背負わされ、家と土地を失ったのです。家族仲良く住んでいた土地を離れ、両親と別れて兄弟だけで暮らすことになりました。
 しかし、病弱だった母は、この時、気丈にも私たちに「創価学会で積んだ罪障を消滅させていただこう」と言いました。この言葉に、私はハッとしました。
 思えば、私たちは創価学会が破門になる(平成3年11月)前に脱会できたとはいえ、学会の中ではずっと、本来の日蓮正宗の教義とは違った在(あ)り方を教えられ、それに基づいて御本尊様を拝していたのですから、それが罪障となって刻まれていたはずです。
 そのことはまた、常泉寺の法華講員として、手続(てつ)ぎの師匠である藤本日潤御尊能化の御書講義を拝聴しているなかで、なお強く感じました。創価学会の、いわゆる"学会教学"は、全くと言っていいほど大聖人様の教えとは別物だったのです。"似て非なる物"というのでしょうか。
 さて、法華講員となった当初は、家を手放し家族が離れ離れになったことが悲しくて寂しくて、一人になると泣いてばかりいましたが、なんとか法華講の末端に連なり、お寺へ参詣し、正しく信心させていただきたいと、未熟ながら折伏にも挑戦していきました。
 すると、その功徳は生活上に厳然と顕われてきました。私が提案した仕事が軌道に乗って、どんどん所得が増えていき、また家族の絆(きずな)は深まり、気がつけば家族一同、和気あいあいと過ごしていました。母も、学会時代に患(わずら)った肺の病気で、長くはもたないと言われていたのですが、どんどん寿命を延ばしていきました。
 さらに私は、良縁に恵まれて現在の主人と結婚し、家を追われてからちょうど10年目には新しく家を購入することになりました。新築の家には、主人の希望で私の両親も迎え入れてくれました。
 前から私の生活を見てきた友人から「Kちゃんって、すごく運がいいね!普通はこんなふうにならないよ」と驚かれ、その時、私はハッとしました。全て仏様のお導(みちび)きでここまできたのだ、と。「正しい道を行こう」と決意し創価学会を脱会した時から、御本尊様は私たち家族の手を引いてきてくださったのだ、と感じました。


【あまりにも違い過ぎた臨終の相】
 振り返ってみれば、脱会してからの20年は、あっという間に過ぎていったようにも思います。この間に父母が他界しました。
 生まれて初めての一番身近な肉親の死は、母によって迎えました。母は、家族と共にお題目を唱えながら息を引き取ったのですが、母の相は、臨終(りんじゅう)の瞬間に口元と頬(ほお)に赤身が差して血色が良くなり、それを目(ま)の当たりにした私たちは、三世の生命を確信しました。
 さらに不思議なことに、母の生え際(ぎわ)の白髪はいつの間にか黒髪になり、時間が経(た)つほどに色白く柔和(にゅうわ)な相になって、私の主人が「お棺の中のお義母さんが、すごく笑っているよ」と皆を呼びに来たほどでした。
 その後、父も、70歳を目前にして病気で亡くなったのですが、父の臨終の相は、まだ生きているのではないか、と見まがうほどで、主治医の先生やご近所の方々からも、「いろいろな人の最期を見ましたが、こんなにきれいな顔は見たことがない。本当に生きているみたいですね」と感心されました。
 一方、母が亡くなる少し前のこと、知り合いの学会員の息子さんがとても若くして亡くなりました。葬儀は学会葬でした。地域の学会幹部が導師を務めるなか、棺の中の息子さんは、肌が濃茶色に変色して頬が突き出し、前歯も飛び出て苦しそうに目をギュッと閉じていました。この形相を見て、この学会員は、いったい息子さんをどこに導いたのだろうか、と恐ろしくなりました。ところが驚いたことに、親族の学会員らは「成仏の相だ」と言っているのです。私は、あまりにも息子さんが可哀そうで、あらためてお寺で塔婆供養をお願いしました。
 日蓮正宗と創価学会の正邪の違いは、破門から20余年を経(へ)てさらに歴然としてきており、訪問折伏で学会員宅にお伺(うかが)いすると、自殺をされた方、夜逃げした家族、精神を患っている方と、じつに多くの悲惨な現状に遭遇します。もし、あの時、脱会していなかったら、私がこの人だったのではないか、このご家族だったのではないか、と胸が痛くなります。
 学会員の皆さんには、何も心配しなくて大丈夫だから、正しい信仰の元に戻ってきてほしい、これ以上罪障を積まぬよう、一刻も早く創価学会から脱出して正法に帰依していただきたい、と願わずにはいられません。





学会で教えた信心はもとより不純だった!

―法華講員となって知った正信の在り方―
(山梨県甲府市・正光寺 Y.H〈記事は実名〉『慧妙』H25.4.16)

【学会活動のあげく、夜逃げ同然に】
 私は、昭和42年8月28日、創価学会員であった両親のもとに生まれました。
 その頃の創価学会は、正本堂建立に向けて勢いを加速させていた時期であり、その中で私の父も男子部として積極的に活動し、私の名前を池田大作に付けてもらうほど、熱心な学会員でした。
 当時の創価学会では、生まれた子供の名前を池田に付けてもらうことが流行っていたそうで、私と同世代の学会員には、名付け親が池田、という人がけっこういました。
 もっとも、後から聞いた話では、実際に池田が名前を付けるのはごく一部の大幹部の子供だけで、一般の会員の子供については担当の部署で依頼を処理していたそうです。
 しかし、そんなこととは知らない父は、「池田センセーが息子に名前を付けてくださった」と大喜びし、先に自分で付けた名前を届け出ていたにもかかわらず、それを取り消すよう、当時住んでいた杉並区役所に押しかけ、すったもんだの末に改名を認めさせたそうで、その記録が私の戸籍謄本にしっかり残っています。
 生まれながらにして創価学会員となった私は、物心つくころから御本尊様の前に座らされ、とくに母から勤行を教えられました。また、年に1、2回、総本山大石寺に家族と共に登山したことや、3つ年下の妹が未熟児で生まれた時、医者が「この子はもう助からない」と匙(さじ)を投げたのを、両親が自宅に連れ帰り、御本尊様に向かって一心に唱題し一命を取り止めた、という体験も、私の脳裏に焼き付いています。
 その後、少年部の会合等に参加するようになった私は、「将来、君達が池田センセーのもとに馳せ参じ、センセーと共に戦うのだ」等々の指導を受け、「池田センセーこそ人生の師匠である」と心の底から思うようになりました。
 私の両親は学会の地域幹部として活動し、とくに父は、選挙ともなると仕事もそっちのけで公明党のために選挙活動に奔走していました。
 今にして思えば、こうした学会の在り方は、本来の日蓮正宗の信心とはかけ離れたものであり、そのような活動に没頭していた我が家の生活は、当然のごとくうまくいかなくなり、消費者金融などから督促の電話が頻繁にかかってくるようになって、ついには、私の小学校卒業を間近に控えた時期、夜逃げ同然に住み慣れた東京から千葉へと引っ越すことになってしまったのです。
 不幸に見舞われたのは、私たち家族だけではありませんでした。私たちが住んでいた地域では、その後、一生懸命に活動していた学会員たちに、信じられないような不幸な出来事が相次ぎ、その話が耳に入ってきました。
 たとえば、ブロックの拠点だったNさん一家は、『聖教新聞』の全国版に「一家和楽の家族」と紹介されたほどの活動家でしたが、そのNさんの18歳の娘が、自宅の浴槽で滑って変死してしまったのです。その後、Nさん一家は失意のうちに引っ越してしまったそうです。
 また、私の母と一番仲が良く、婦人部の唱題会の拠点でもあった近所の婦人部Iさんは、何があったのか、創価学会をやめて御本尊様を返却してしまったのです。よほど、創価学会に失望するような事があったのでしょう。
 ちなみに、先日、30数年ぶりにこの家を訪問し折伏しましたが、かつて御本尊様が安置されていた仏壇には阿弥陀如来の仏像が置かれ、私の話には全く耳を傾けてもらえませんでした。
 「南無妙法蓮華経に余事をまじへば、ゆゝしきひが事なり」(御書P1219)
との御金言がありますが、あれほど熱心に学会活動をしていた方々の信じられない不幸な出来事や退転ぶりは、 大聖人の仏法に池田教という"余事"を交えた結果だとしか思えません。


【学会の在り方に疑問を抱き】
 さて、私は、千葉に引っ越して3年後の中学3年の頃、学校内で不良グループにいじめられたり、膝の怪我で陸上競技の部活ができなかったり等々、悩み多き中学校生活を送っていました。
 当時、両親も信心から離れつつあり、私自身も御本尊様の前に座ることを忘れていましたが、この時ばかりは「もう御本尊様に祈るしかない」と決意し、勤行を始めました。勤行してお題目を唱えると心の中に強い気持ちが生じ、不思議なことに不良たちからいじめられなくなりました。また、決意してわずか2週間後に膝の痛みが嘘のように消え、怪我をする以前よりもはるかに速く走れるようになりました。
 この体験を経て、私は毎日欠かさず勤行をするようになりました。
 そして、昭和61年4月、大学駅伝で新鋭だった山梨学院大学に進学した私は、寮の近くの学会員を紹介してもらって、山梨の学会組織について信心をするようになりました。
 その頃、創価学会・公明党の内部から池田大作を批判する人たち(藤原氏や大橋氏など)が現われたのですが、その人たちに対して創価学会は、組織を挙げて口汚なく罵ることに終始しました。その学会の在りようを見て、私は、幼い頃から信じて疑わなかった創価学会への思いがどんどん冷めていくのを感じ、「人生の師匠」として絶対の尊敬心を持っていた池田センセーに対しても、冷めた見方をするようになっていったのです。
 そんな私の変化に気付いた学生部の同僚は、「会合に参加すれば、Yの誤解も解けるから」と私を会合に誘いました。
 久しぶりに参加した学生部の会合は、終始、池田礼賛のオンパレードでした。
 さらに"指導"という名のもとに、池田センセーを批判する学会員に対しての誹謗中傷が続きました。私は、思わず挙手して、なぜそこまで悪く言うのかと質問したところ、その幹部は「大恩ある池田センセーを裏切る行為は魔の所為そのものだ」と言い、「そのような質問をすること自体、君の信心がおかしくなっているのだ」などと決めつけたのです。
 その日を境に、今まで私と親しかった学生部の人たちの態度が豹変しました。彼らは「創価学会の信心は、御本尊様と池田センセーを信じることだ」「池田センセーを疑うYは、もはやセンセーの弟子ではない」「Yの信心は日蓮正宗だけだから、片手落ちだ」などと罵倒し、以後は私を無視するようになり、会合にも誘わなくなりました。
 こうして私は、学会組織と距離を置くこととなったのですが、これからの生き方を真剣に考えた時、やはり御本尊様から離れた人生はありえない、と思いました。そのような時、当時は学会男子部の幹部ながら学会から異端児扱いされていた小池一彦氏(現在・正光寺講頭)と出会ったのです。その後の私の人生を決定する出会いでした。
 初めて出会った時、小池講頭は「池田センセーや創価学会を批判する前に、まず日蓮正宗のことをしっかり学ばなければいけない」と私を諭してくれました。平成元年4月、21歳の時のことです。
 以後、私は、小池講頭が自宅で開催していた勉強会に参加させていただき、日蓮正宗の教学の研鑽を通じて、"日蓮正宗の信心の根本は、本門戒壇の大御本尊を信じ奉り、血脈付法の御法主上人猊下に信伏随従していくことである"と初めて知りました。この当然のことすら、創価学会では教えていなかったのです。


【目の当たりにした学会の邪悪な体質】
 そして平成2年2月、一緒に勉強してきた学会男子部の諸先輩方と共に、日蓮正宗の信心をどこまでも正しく貫くために創価学会を脱会しました。創価学会が宗門批判を露わにする10ヶ月ほど前のことでした。
 すると、予想していたことではありましたが、創価学会は、"日蓮正宗信徒として信心していきたい"との思いで学会を脱会した私たちに対し、狂気とも言えるような反応を示してきたのです。
 まず、学会員を集めて、私たちを呼び捨てにしてデマや悪口・人格批判を徹底して行ないました。また、執拗な尾行や見張りをはじめ、犯罪まがいの様々な嫌がらせを仕掛けてきました。
 私はこの時、創価学会の本質―創価学会の意にそわない者に対しては、徹底的に排除し、叩きつぶすためにはどんな事でも平気で行なう、という、謀略的かつ邪悪な体質を目の当たりにしたのです。
 現在、学会の機関紙誌では、有識者と称する人々が登場して創価学会を賞讃したり、あるいは、様々な団体から感謝状などを授与されたことが報じられていますが、こうした記事を見るにつけ、このような有識者や団体が、創価学会の実態・正体に無知であるのか、あるいは、それを認識しているにもかかわらず、おのれの利益(りえき)のために学会におもねっているのか、非常に残念で、憤りさえ覚えます。


【昔から異質だった創価学会の信心】
 さて、私たちの脱会から約10ヶ月後の平成2年末、創価学会問題が勃発し、翌平成3年1月には正光寺に法華講が結成されました。
 私も今日に至るまで、正光寺の法華講員の一人として、そのつど指導教師御住職に御指導をいただき、諸先輩方に励まされつつ、信行に励んでまいりました。
 平成6年の6万総登山を目前に控えた4月、縁あって現在の妻と結婚しました。妻は、幼少時に両親が離婚し、最初の結婚を機に創価学会に入会したものの、その中でも辛酸を嘗めるような人生を送ってきた人で、お互いが日蓮正宗の信仰による宿業転換を願っての結婚でした。
 その後、3人の子供に恵まれ、子供たちには家での朝夕の勤行の実践、各種行事への参加を通じて、日々の生活と日蓮正宗の信心が切っても切れないものであることを教えています。
 平成13年には、念願であった自分たちの家を持つことができ、生まれてよりこのかた借家を転々としてきた生活に終止符を打つことができました。それは、いつか自分の自宅を講中の拠点としたい、との永年の夢が実現した瞬間でもありました。
 創価学会の家に生まれて23歳の時に法華講員となった、これまでの45年の人生を振り返ってみた時、創価学会が日蓮正宗の信徒団体だった当時から、法華講と創価学会の信心の在り方には正邪の違いが歴然とあったことを実感しています。
 創価学会員だった時の私は、信心の根本が定まらず根無し草のようにさまよっている人生でした。しかし、正光寺の法華講員となって、御住職・島田靖道御尊師をはじめ諸先輩方の指導を謙虚に受け、今日まで過ごしてきた中で、創価学会員であった頃とは比べものにならないくらい恵まれた境涯を得ている自分に気がつきました。
 私は今、創価学会を脱会し、同志と共に歩んできた自分の信仰者としての選択は間違っていなかった、と確信しています。
 これからも良き日蓮正宗の信徒として、そして正光寺法華講員の一人として、どこまでも師弟の筋目を違えることなく信行に励んでまいる決意です。





"池田大作への思慕"から失望へ―

―元公明党市議が味わった苦難と喜び―
(埼玉県さいたま市・常生寺支部 T.Y〈記事は実名〉元浦和市議会講員=公明党『慧妙』H24.12.16)

【池田大作に心酔した日々】
 私は、生まれ故郷である宮城県仙台市の東北大学に通っていた昭和36年に、創価学会を通じ日蓮正宗に入信しました。当時の私は、肺結核や胃潰瘍を患い、厭世的な毎日を送っていたものですから、「健康になりたい」と思うと同時に、生き甲斐を求めての入信でした。
 大学を卒業した昭和39年には千葉県旭市の会社に就職し、その地で男子部部隊長として活動。さらに、その3年後には、転職のために埼玉県浦和市(現・さいたま市)に移住してきて、そこで男子部本部長と青年部参謀を兼任しました。
 当時の創価学会は大変な勢いで教線を拡大しており、私もとにかく夢中で闘いました。そのような中で、ご多分に漏れず"洗脳"され、池田大作に心酔しきっていったのです。
 何と言っても、当時の私の愛読書は池田大作著『若き日の日記』であり、いつも枕元に置いて、そこに書かれているとおりに実践し、男子部にも押しつけていったものですから、地元の男子部からは「鬼参謀」などと呼ばれていました。
 とにかく、「7つの鐘」の鳴り終わる年といわれる昭和54年には必ず広宣流布が達成するのだ、と信じて、部屋の壁には「天下を取れ」との池田の言葉を大書して貼り、「自分達は"革命"の主体者になるのだ」と思い込んでいたのです。
 また、当時の学会には"家庭を大事にするのは悪"といった風潮があり、家庭はまったくかえりみず、寝る間も惜しんで学会活動に奔走(ほんそう)する日々でした。
 ある時などは、池田大作が浦和市に来るということで、警備をするように命ぜられましたが、どうしても仕事の休みが取れません。それを上の幹部に言ったところ、「仕事を抜け出して、警備をするように!」と言われ、勤務中、そっと抜けだして池田の警備に就きました。
 会杜でそれが発覚して大問題になりましたが、とにかく、創価学会の活動は、個人の事情など一切おかまいなしだったのです。今にして思えは、かなり異常な組織だったと思いますが、その中で私は青年期を過ごしたのでした。


【宗門への反逆が勃発】
 昭和46年、33歳の4月、創価学会からの推薦で浦和市の市議選に立候補し、初当選しました。以来、平成7年まで6期にわたり、公明党の浦和市議を勤めてきましたが、5期中の平成2年暮れに、宗門と創価学会の問題が勃発しました。
 同年12月30日、私たち浦和の創価学会員は、埼玉池田講堂(現・埼玉文化会館)に集められました。「この暮れの押し迫った時に何事だろう」と思いながら駆けつけたところ、その会合は最初から最後まで、県の学会最高幹部らによる、宗門御僧侶に対しての口汚ない非難中傷の連続だったのです。
 私は、驚いたというより、まさに青天の霹靂(へきれき)でありました。それまで、宗門に対しては一点の疑いを持ったこともなかったからです。
 「何が起こったのだろう」と思った私は、かつて池田大作の著書で幾度も目にした、宗門や御法主上人猊下に関する記述を確認すべく、市内・大手書店の学会出版物コーナーに行きました。そこで判ったのは、『広布と人生を語る』等の最近の改訂版では、宗門および唯授一人の血脈相承に関する記述がほとんど削除されている、という事実でした。
 さらに、古参の学会員から池田大作の著書の旧版を借用して、あらためて最新版と比べてみると、やはり、学会にとって都合の悪い部分は全て、削除されているか書き換えられていたのです。
 理解に苦しんだ私は、そうした事実を示しながら、学会の県幹部に疑問点を質問しました。すると、幹部から、「公明党の議員でありながら、学会に疑問を持つとは、とんでもないことだ。不知恩の極みだ」と強く叱責されたのです。
 私は悶々としましたが、しかし、平成3年4月の市議会議員選挙を公明党候補として多くの学会員と共に戦っているうちに、いつしか学会側の主張に同調してしまっている自分がいました。


【「公明党は学会を守ることが第一」!?】
 その後、何度も池田大作に忠誠を誓わせる会合がもたれ、そこで一貫して指導されたのは、「公明党議員は、市民や県民、国民のために尽くすのではなく、創価学会のために尽くすことが第一である。それを片時も忘れるな」ということでした。その意とするところは、「学会を守るためだったら、民衆を欺いてもかまわない」ということです。
 私はそれまで、「公明党議員は大衆のために死んでいく」という理念を自らの誇りとして、情熱を燃やし政治活動を行なっていました。しかし、その私の信念は揺らぎ、議員としての誇りも失われ、次第に議員であることが重荷になっていきました。
 その頃には、創価学会に対する疑問や批判記事などが、多くの週刊誌に掲載されていました。私の同僚議員も強い関心を示し、その内容を巡って様々な議論をしました。しかし、それが学会に漏れるのを恐れた同僚議員は、話し合いの場から1人去り2人去りして、ついには私1人が孤立する事態となっていったのです。
 私は、自分の信念もあり、学会の問題点を指摘する言動を止めませんでした。その結果、常に私の言動はマークされ、要注意人物として監視されるようになりました。
 この間、宗門と学会の戦いは激しさを増し、私は、学会の主張と共に、宗門側から出される出版物や情報にも強い関心を持っようになりました。その結果、この問題の本質が次第に見えてきて、心が学会から離れていったのです。


【一山・数万円の土地が高額墓苑に】
 この頃、私にとって忘れられない光景がありました。実家の仙台へ行った帰り、蔵王山の麓にある青根温泉に立ち寄ったのですが、その途中、数台のブルドーザーで山を崩している大規模工事に出くわしたのです。
 ゴルフ場にしては一面的で平坦すぎる造成だし、こんな交通不便な僻地に、いったい何を造るのだろう不思議に思って宿の人に尋ねると、「それは創価学会の墓苑工事だ」というのです。そこで「1坪いくらぐらいの土地ですか」と尋ねると、宿の人は「1坪なんてものじゃない、一山・数万円ですよ」との返事でした。
 その後、「東北池田記念墓地公園」として売り出された時、1区画の墓の価格を知って驚きました。土地代や造成費、墓石代からみて、原価はせいせい20万円程度と推定されるものが、なんと、70〜80万円に化けていたのです。
 この事実を、公明党県本部の宿直の時、数人の議員に語りました。そして、うかつにも「創価学会は、会員が死んだ後も金を取るのだね」と口走ってしまったのです。
 その私の言葉は、その日のうちに学会県幹部に伝わりました。翌日、学会県本部に呼び出され、当時の担当副会長から強い口調で叱責を受けたのです。
 この後も続いた出来事も含め、私は、次第に公明党の議員職に嫌気がさし、次の選挙への不出馬を決意したのでした。そして、平成7年3月、6期24年の議員生活にピリオドを打ったのです。


【ついに学会からの脱出を決断】
 もはやその頃には、創価学会と池田大作から完全に心が離れ、「日蓮正宗こそが正しい」との確信を持ち始めていた私ですが、しかし、脱会する決断には至らず、悩み苦しむ日々が続きました。それまで親しかった多くの学会員や、長い政治生活の中で世話になった人々の顔が次々に浮かび、そうした人と縁を切ることの辛さ、難しさを経験しました。
 一時は、「学会にも宗門にもつかずにいようか」とさえ考えました。
 しかし、学会に入会した原点は何だったか、と自問自答を繰り返した時、大御本尊様にお会いしたいとの思いが沸々と湧き上がってくるのを覚えました。同じ時期、私の長男が「学会が嫌になった」と言つて、いとも簡単に脱会して法華講に入ってしまいました。その時は、何のしがらみもない長男をうらやましく思ったものです。
 私が迷っているうちに、ついに決断を迫る事態が生じました。それは、知人の法華講員から送られてきた、宗門からの文書、「平成9年11月30日までに脱会しなかったら日蓮正宗の信徒資格を失う」という旨の最後通達でした。
 それでも私達夫婦は何日も悩みましたが、「ここで脱会しないと一生、大御本尊様にお会いできなくなる。たとえ、どんな非難中傷があっても信心を貫こう」と決断しました。そして、脱会期限の最終日、平成9年11月30日の夜9時頃、夫婦で、最寄りの正宗寺院である常生寺に向かったのです。常生寺の御住職様は、大変温かく私達を迎え入れてくださいました。
 その後、学会の幹部らが次々と来ては、引き止めようとしたり、悪口雑言を浴びせたりしてきました。また、「裏切り者!誰のおかげで議員になれたと思っているんだ!」等と一方的に罵る電話も相次ぎました。学会では会合のたびに、私の悪口を言っていたようです。
 しかし、いったん決意してしまえば、何も怖いものなどありません。私達夫婦は、それらの圧力にまったく動ずることなく、法華講員として、多くの学会員に真実を伝えるための戦いをスタートさせたのです。


【勝ち得た"喜びの人生"】
 法華講員となってからは毎年、講頭職を拝命してからは毎月、総本山に参詣させていただき、そのたびに正信に戻れた喜びに身が震える思いでした。とくに、平成14年10月、奉安堂の落慶法要の際の御開扉では、あらためて我が身の幸せを思い、大御本尊様の御前で唱題しながら滂沱(ぼうだ)の涙を止めることができませんでした。
 脱会後の5年ほどは、罪障が絞り出されたのでしょう、病気になったり、様々な事がありましたが、しかし、それも御本尊様の功徳でしっかり乗り越えることができました。
 そして、その後は、前以上の健康を取り戻し、社会保険労務士としての仕事も順調で、安定した生活を送れるようになりました。とくに、長男が、長年の念願だったバイクショップを国道沿いの1等地に開くことができ、それも、店舗付き3階建ての2世帯住宅として造ったことで、私達夫婦は息子夫婦と同じ所に住めるようになったのです。75歳の今も何の不安もなく毎日を送れることは、本当に御本尊様の功徳だと思っております。
 「あの時、学会をやめて正宗に戻る決断をして、本当に良かった」―その思いを噛みしめると同時に、「いまだ迷える創価学会員を1人でも多く目覚めさせることが私の使命」と心に決め、多くの法友と連帯しながら戦いを続けています。
 これからの残された人生の全てをかけ、この使命を果たしていくことを、あらためて誓うものであります。





「池田先生命」で過ごした青年期

―その私が創価学会をやめた理由とは―
(総本山塔中 本住坊支部J.Y〈記事は実名〉東京都在『慧妙』H24.11.16)

【少年期に培った護法の精神】
 大阪で生まれ育った私は、昭和30年、5歳の時に母と共に御授戒を受け、創価学会員となりました。母の姉
が創価学会員で、母はその姉から勧(すす)められたのです。
 私が学会活動をしだしたのは中学2年生の頃からで、それから半年もすると"分隊長"という役職をもらいました。
 その当時の創価学会は盛んに折伏を行なっており、とくに昭和39年から43年頃は、"大折伏戦"と銘(めい)打たれ、「立っているものは、電信柱以外、全部お寺に連れて行け」という号令のもと、平日であろうと休日であろうと、とにかく折伏・折伏でした。また、御書を中心とした勉強会も盛んに行なわれており、未成年だった私は、先輩について活動することが楽しくてなりませんでした。
 ちなみに、創価学会で文化祭を行なうようになったのもその頃からで、昭和41年に甲子園で行なわれた「雨の文化祭」には、私も"人文字"要員として参加しております。
 また、正本堂建立御供養の時は、まだ中学生でしたから、活動には電車を使わずに自転車を使うなどして必死で小遣(こづか)いを貯め、御供養しました。金額にすれば数千円ですが、当時の私にとっては精いっぱいの御供養ができた、と思っております。
 なお、現在の学会員は、正本堂が解体されたことで、御供養が無に帰したように騒いでいますが、私はそうは思いません。"精いっばいの御供養の志"は、功徳となって自らの生命に刻まれているのですから。
 とにかく無我夢中でそうした活動に参加する中で、私の心には、仏様(日蓮大聖人様と御本尊様)にお仕えする喜びが培(つちか)われていきました。


【「破邪顕正」を捨てた学会】
 創価学会が目に見えて大きく変質しだしたのは、昭和45、6年頃からだったと思います。
 私自身は後で知ったことですか、そのブロック制になる直前に「言論出版妨害事件」が起こって、国会やマスコミで糾弾された創価学会は、社会に向けての謝罪を余儀なくされました。そして、急速に、世間への迎合路線に舵(かじ)をきりはじめたのです。
 組織は、選挙区を意識した地域割りの、完全なブロヅク制になり(それまでは、折伏系統による縦線が主流だった)、やがて、「折伏」に取って代わって、「仏法対話」とか「友好活動」という言葉が使われ出し、「邪宗」は「他宗」になり、さらには"創価学会は「世界平和」を目指す団体である"ということが盛んにアピールされるようになりました。
 日蓮大聖人の仏法はどこまでも「破邪顕正」であり、この「破邪」を忘れたら、「顕正」も成り立ちません。それを創価学会は放棄したのですから、今にして思えば、どんどん信心に濁りが生じてくるのは必然でありました。
 一方、少年期に折伏の精神を植え付けられた私は、相変わらず「折伏」を心がけており、そうした創価学会の変貌・変質に気づかないままでしたが、さすがに、「『聖教新聞』の啓蒙(けいもう)が現代の折伏になる」という指導に違和感を覚えたことは記憶しております。


【たしかにあった「池田本仏論」】
 また、創価学会が変貌する、もう1つの大きな要因は、正本堂建立(昭和47年)と前後して囁(ささや)かれ出した、いわゆる「池田大作本仏論」であったと思います。
 末法の御本仏は、日蓮大聖人様ただ御一人です。私は、ずっと、そう教わってきました。ところが、会内で「池田先生は現在の仏様である」と囁かれ出したのですから、私はこれにも違和感を覚えました。
 しかし、創価学会に身を置いているうちに、いつしか、そうした風潮に感化されて、「池田先生命」になっていたことも事実です。恥ずかしながら、青年期は、「我が家を建てる時は、池田先生にお泊まりいただける部屋を造ろう」などと本気で思っていたほどでしたから。
 また、昭和52年の池田大作の『仏教史観を語る』という講演を、私は会場警備の創価班として、関西戸田記念講堂で生で聞いておりました。その中で池田は「会館は現代の寺院である」とか「在家でも御供養を受けてよい」と明言し、それが創価学会の「第1次教義逸脱問題」の発端となったのですが、私は、その池田の言葉を聞いて、さほど違和感もなく「そうだったのか。先生はすごいことを言い出したなあ」と納得していたのです。
 こういうことは多々あったはずで、今にして思えば、本当に怖いことです。明確に"池田本仏論"でなかったにしろ、洗脳によってそれに近い状態となってしまっていた、ということですから。


【宗門からの『回答書』に驚く】
 さて、ブロック制になった頃から時代が下ってくるにつれ、学会の変質はどんどん進んでいき、これには、洗脳されつつあった私も折に触れて得体の知れない違和感を感じるようになりました。そして、役職から離れたい、と思うようになり、男子部卒業(当時の役職は本部長)を機に、知っている人のいない兵庫県へとわざわざ引っ越しました。
 しかし、すでに資料が回っていて、そこでも地区幹事、そして地区部長と、役職を持つことになってしまいました。
 地区部長をしていた平成3年の初頭、目を疑うようなことが起こりました。『聖教新聞』に、御宗門に対する創価学会かちの『お尋(たず)ね書』が、立て続けに掲載されたのです。
 その内容は、激しく御宗門を攻撃するもので、『聖教新聞』の記事を読むかぎりでは、"宗門はそれに対して、何の返答もしない"というのです。
 不審に思った私は、総合本部の幹部会で、「学会から質問しているのに、宗門からは本当に返答がないのですか?」と質問しました。すると、「まったく無い」との回答でした。
 ところが後日、地元の正宗寺院に行ったところ、なんと、受付の所に、御宗門側から創価学会へ送った『回答書』の写しが、何通も並べられていたのです!
 「なんや、あるやん!」
 創価学会は、宗門からの『回答書』を隠して、我々会員を騙(だま)していたのです。しかも、双方の内谷を見比べてみれぱ、宗門側が誠意ある対応をしているのに対し、学会側は、明らかに言い掛(が)かりや揚(あ)げ足取りに終始しています。もはや、正邪の帰趨(きすう)は明らかでした。
 しかし、「自分が青春を懸(か)けてきたのは、何だったんだろうか」という想(おも)いから、脱会の決意もできず、ただ悶々(もんもん)とするばかりでした。
 一方、結婚を機に入信(昭和46年)した妻は、入信当初から「学会員としてではなく、他に日蓮正宗の信仰をしていく道はないのか」と聞いてきたほどでしたので、創価学会をやめて寺院につくことには何の抵抗もなかったようです。妻は、「私は、日蓮正宗創価学会だと思うから今まで学会にいたけれど、創価学会から"日蓮正宗"の4文字が取れたら、学会にいる必要はない」と言いましたが、まさにそのとおりだと思います。
 そうした妻の支えもあって、平成3年9月、創価学会の破門と同時に、家族揃(そろ)って創価学会を脱会し、日蓮正宗の信仰に戻ることができました。私の決断の理由はただ1つ、「おかしくなったところに、おるわけにいかん!」ということです。


【創価学会と日蓮正宗の違い】
 法華講員として信心してくる中で、初めて気づいたことがあります。それは、創価学会は昔から日蓮正宗の信仰をしていなかった、ということです。
 似て非なるものというのでしょうか、我々が学会時代に「これが日蓮正宗の信心だ」と思い込んでいた、池田発・本部発の指導は、じつは、創価学会を利するためのものであり、仏様をお護(まも)りするためのものではなかった。それに気づいた時、私は、「けっして、1からやり直すのではない。むしろ、マイナスからのスタートだ」と自覚しました。
 今、法華講員として本当に充実した日々を送っております。総本山参詣も折伏も、楽しくてたまりません。
 おかげさまで、夫婦とも、学会時代にあった身体の不調が全て改善されて、いたって健康になり、家業は、この御時世ですから厳しい面もありますが、ピンチの時には不思議と乗り越えられます。何よりも、3人の娘を含めて、家族が本当に心を通わせることができるようになり、さまざまな面で御本尊様に守っていただいていることを実感する毎日です。
 これからも、日蓮正宗の正統な流れの中で、しっかりと仏道修行に励んでまいります。





父の臨終に現われた奇跡的な現証

―成仏への道は日蓮正宗にのみあり!―
(大阪・覚仁寺正義講講頭 Y.K〈記事は実名〉『慧妙』H24.10.16)

 日蓮大聖人は、
 「人の寿命は無常なり。(中略)かしこきも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり。されば先(ま)づ臨終(りんじゅう)の事を習ふて後に他事を習ふべし」云々(御書P1482)
と、臨終の大事をお示しくださっています。
 臨終とは、自分の業(ごう)が次の未来世へとつながっていく過程です。因果の道理からして、臨終に至るまでに悪業を消しきれなければ、あるいは、正法に違背して臨終を迎えたりすれば、それは地獄への扉を開くことになるのです。
 そして、成仏したのか、また六道輪廻の生死の縛(ばく)から出られずに地獄へ向かったのか、それは臨終の相に如実(にょじつ)に現われるというのが仏法の教えです。
 それを踏まえて、以下、学会を辞めて法華講員となった私の父親の臨終について、述べさせていただきます。


【創価学会に入った父】
 私の父・Y.k〈記事は実名〉(享年67歳)は、昭和19年2月28日に広島で生まれました。父は、若い時から、荒ぶる獅子のような暴れ者で、地元では、豪傑な不良としてかなり名を馳せていたようです。
 そんな父が創価学会に入ったきっかけは、19歳の時に少年院に入った時、私の祖父からもらった手紙でした。その手紙には「日蓮正宗創価学会を信仰しなさい」と書いてあったのです。祖父は、父の行く末を心配して創価学会に入ったようです。
 そこで父は、「どういう宗教か?」と祖父に訪ねたところ、祖父は「親孝行できる宗教だ」と答えました。
 その答えに父は、「今まで、さんざん親に迷惑をかけてきた。親孝行ができるならする」と決心し、入信を決めたのだそうです。
 ただ、入信したからといっても父の蛮行は変わらず、恐喝・脅しのたぐいを生業(なりわい)として生きていました。相手が暴力団だろうが物怖じせず、強いものに向かっていく父は、喧嘩に明け暮れていました。


【「第1次教義逸脱問題」で法華講へ】
 そのような時の昭和53年12月、当時34歳だった父は、大阪府枚方市にある経王寺の山田亮道御住職(故人)と出逢いました。
 その当時の創価学会は、「第1次教義逸脱問題」の渦中であり、創価学会の在り方に少なからずの違和感を持っていた父は、山田御尊師から学会の教義逸脱を聞き、迷わず学会を脱会し、寺院所属の法華講員となりました。そして、法華講員として信心するようになると、不思議なことに、父の荒々しい性分が徐々に抑(おさ)えられてきたのです。
 学会時代から信ずる心だけは強い父でしたが、法華講員となってからは、山田御住職のもと、自ずと正しい信心の在り方が身に付いてきて、その功徳で徐々に六根が清浄になっていったものと思われます。
 その後、再び寺院で幅を利かせるようになった創価学会との確執に始まり、所属を移った先の広島の寺院住職が創価学会に絡め取られて離脱するなど、いろいろな問題を経て、平成15年、私達は、最終的に大阪の覚仁寺の所属となりました。当時の講員数は、身内関係を中心に2、30名程度でした。
 そして、早川勤道御住職のもと、覚仁寺正義講支部として折伏も進めてきました。


【臨終間近の身体が再生!】
 そのような中で、父が67歳で臨終を迎えることになりました。
 平成23年6月17日、父が倒れたとの報せに、私達は病院へ駆けつけました。
 父は、その前から肝硬変などで入退院を繰り返していたのですが、駆け付けた時にはもう意識もない状態で、私は「いよいよ臨終の時が来た」と思いました。
 医師の話でも、「もう手の施しようがない」とのことでした。
 ところが、父は、大きな声の呼びかけに意識を取り戻したのです。
 その後、父に、臨終が近いことを告げると、父は、「家に連れて帰って、『臨終用心抄』に則った臨終の準備をしてほしい」と言ってきました。そこで私達は父の希望を叶えるために、倒れてから2日後に、父を家に連れて帰ったのです。
 第26世日寛上人の『臨終用心抄』には、臨終に際しての作法として、
 「その場を清めて御本尊を掛け、香を焚き、灯明を灯す」「(周りの者が)遅からず早からず題目を唱え続ける」「臨終が近づくと喉が渇くので、清紙に水を浸し、少しずつ潤してあげる」
等々のことが細かく御指南されています。
 私達は、父の指示したとおりに、父の床の周りは全て片付けて、枕もとに御本尊様をお掛けし、しきみ・ロウソク・線香をお供えして、題目を唱え続けました。毎日、朝・昼・夜を問わず、身内や講中の皆さんが交代で傍に付き添い、唇が乾けば水を含ませた布で拭き、耳元で題目を唱え、父が苦しめば落ち着くまで唱題を続けました。
 これが成仏を妨げる魔の用(はたら)きなのでしょう。時には、題目を唱えても苦しみ続ける父の姿を見て、「本当に成仏するのだろうか」と疑念を抱いた人もいました。
 そのような中、父の顔がドス黒く変色していき、唇や舌から血が噴き出しました。その血はかさぶたとなって唇と舌が真っ黒に変色し、目は血走り、口臭も血生臭(ちなまぐさ)く、誰が見ても地獄の相でした。それでも題目を唱え続け、父自身も、苦しみながらも必死で題目を唱え続けました。
 どんなに信ずる心が強くても、今世で人を苦しめてきた報いがこのように現われたに違いない、と私は思いました。
 ところがです。自宅に戻ってきてから5日が経った頃、真っ黒になっていた父の唇と舌の皮が絡麗(きれい)に剥(は)がれ落ちたのです。そして、剥がれた後は、ピンク色の縞麗な唇と舌が現われました。
 私は、こんな現象を初めて見ました。臨終間近の身体が再生するなど、ありえないことです。ただただ驚くばかりでした。
 とはいえ、父は刻々と弱っていき、か細い声で聞き取りにくく、会話もできない状態になっていました。
 そんな折、以前にお世話になった岡田門道御尊師が御見舞いに来てくださり、父に、
 「吉井さん、最後の勤行を一緒にしましょう」
とお声をかけてくださって、父は体の力を振り絞りながら、一緒に勤行をさせていただきました。
 その翌日です。寝たきりだった父が、元気に起き上がり、ベッドの背もたれに寄りかかって座り、皆と会話をし始めたのです。
 不思議としか言いようのない光景で、誰もが驚くばかりでした。今までの父の姿はいったい何だったのか、と思うほどの元気さで、周りからも「このまま、回復するのではないか」「臨終なんて嘘でしょ」との声が出たほどでした。
 皆も、父の臨終を覚悟しながらも、元気な父の姿を見ると嬉しくなり、父を中心に会話をしました。
 これが、臨終2日前の父の姿でした。今振り返れば、あれが父との最後の団欒(だんらん)であり、妙法の功徳で仏様がくださった時間だと思います。


【御金言どおりの成仏の相に感激】
 その翌日には、父は、また寝たきりの状態になり、いよいよ息も弱くなっていきました。そして、昼夜を問わず3人くらいずつで、ゆっくり題目を唱え続ける中、倒れてから10日後の6月27日の朝方、とうとう臨終を迎えました。
 父の臨終の相は、浮き上がっていた血管と紫がかった肌が嘘のように消えて、生前よりも綺麗な、透き通るような白い肌になり、臭(にお)いも一切出ず、死後硬直もなく柔らかいまま、半眼半口(はんがんはんく)の柔和(にゅうわ)な相でした。
 私は、「こんなに優しい父の顔を見たことがあっただろうか。修羅のごとくに生きてきた父の臨終の相が、こんなにも気高く、荘厳なものとは、誰が想像したのだろうか」と、不思議としか言いようのない思いでいっぱいになりました。
 全てが浄化された、静寂で清浄な空間の中に自分達がいるような感覚でした。
 なお、早川御住職からも、「ここまで綺麗な成仏の相は、私は見たことがない」と言っていただいたほど、見事な相だったのです。
 その後、出棺・火葬に至るまで、初夏の蒸し暑い最中だったにもかかわらず、父の遺体は最後まで臭いもなく柔らかいままでした。
 以上、父の臨終の一部始終を述べました。日蓮大聖人は、
 「日蓮が弟子檀那等『正直捨方便』『不受余経一偈(ふじゅよきょういちげ)』と無二に信ずる故によ(因)て、此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり」(御書P1388)
とお教えくださっていますが、父も御本尊様の宝塔の中に引入させていただけたものと確信いたしました。
 なお、臨終に向かう途中の父は、一時、地獄そのものの姿を現じましたが、これは、自らの作った悪業が現われたものだと思われます。しかし、父のように、世間法に添った生き方をしてこなかった人でも、妙法を謗法なく強盛(こうじょう)に信じ行じていくならば、必ず罪障消滅ができて、成仏へと導いていただける、それが証明された、ということだと思います。
 ひるがえって、創価学会では、一生懸命に学会活動をしていたような人ほど、悲惨な臨終を迎えているのが現実です。学会員には、この現実を直視せよ、と言いたい思いでいっぱいであります。
 なお、我が正義講は、父の臨終の現証を通じて、正法正師のもとで信心させていただける有り難さと喜びを共有し合って折伏を進め、現在、250名ほどの陣容に成長しております。今後も、学会員をはじめとする謗法の人達をどんどん折伏してまいります。





闇に葬られた"弟(当時・公明党国会議員秘書)の自殺"

―脱会して得られた真の幸福な日々―
(理境坊所属 妙観講 N.T〈記事は実名〉元・学会副本部長 東京都在住『慧妙』H24.9.16)

【学会活動にのめり込んだ日々】
 私が創価学会を通じて日蓮正宗に入信したのは、昭和30年、中学3年の時のことでした。
 その頃、私の実家は、父の会社が倒産して、どん底の生活に陥っていました。その上、3人いた弟のうちの1人が百日ぜきで亡くなるなど、不幸が相次いでいました。そんな折に折伏を受けましたので、家の宗旨である真言宗こそが、じつは不幸の原因である、という日蓮大聖人の教えが、たいへんな衝撃をもって心に突き刺さったのです。母と共に進んで入信し、妹、弟たち、そして父も信心につけて、それからは、のめり込むように学会活動をしていきました。
 高等部、女子部時代には、身を挺して池田大作と学会組織を守る人材になるよう、ひたすら育成訓練をされまました。「池田先生が地獄に堕ちるなら、自分も共に……。それが師弟不二である」と教えられ、それを本気で信じて、学会活動に励んだのです。
 昭和46年に、やはり学会員であった夫と結婚しましたが、婦人部になってからも、「大切にすべきは家庭ではなく組織である」と教えられ、家のことなど二の次で学会活動に夢中になっていました。
 3人の子供に恵まれましたが、主婦である私は学会活動で四六時中、家にいないし、主人は毎日、1人寂しく酒を飲んで、時には子供に当たり散らすこともありました。いま思えば、子供たちは(どれほど辛く寂しい時を過ごしていたことでしょうか。
 また、副本部長の任を与えられてからは、家計が苦しい中、『聖教新聞』を何部も取ったり、地区総会などの時は自腹で赤飯や飲み物を振るまったりもしました。
 こうして私は、30数年もの間、池田大作のため、学会組織のために、身を粉にして頑張ってきたのです。



【弟の自殺と非情な学会】
 ところが、平成3年頃、夫が創価学会の異変に気づき、池田大作を批判したり、私の活動にも文句を言うようになってきました。
 私は、聞く耳をもたず、「先生に弓を引くようなことをしてはならない!」と夫に言っては、ケンカになることも度々でした。
 しかし、やがて組織からは「お寺に行くな!登山はしなくていい!」という指導が頻繁に出るようになり、これには私もさすがに疑問を持ちはじめました。
 そんな矢先の平成3年8月13日、とんでもないことが起きてしまいました。公明党の国会議員秘書をしていた弟が自殺してしまったのです。
 私には、とても信じられませんでした。
 優秀な弟でした。国会答弁の原稿を作ったり、マスコミ関係者との交流もあり、公明党の中国訪問団の一員として、先陣を切って中国へも行った弟でした。
 弟の謎めいた日記のようなものも見つかり、「なぜ?どうして?」と、嘆き悲しむばかりでした。
 さらに不審だったのは、公明党の職員が来て、その人と、創価学会の圏幹部をしていた3番目の妹と母とで話をした結果、"このことが外部に漏れては池田先生に申し訳ないので、弟の葬儀は行なわない"ということになった、というのです。
 弟と同居していた母も、その後しばらくは、近所の人々の目を避け、隠れるように妹の家に身を寄せました。
 長姉の私には何の相談もないまま、事が進められたのです。
 それにしても、いったい、どうしてこんなことになったのか。弟は、一生懸命に学会活動をして、組織のために頑張ってきたのに、自ら命を絶つという、仏法上、考えられない末路となってしまいました。そして、その弟の死について、創価学会や公明党は、なかったことのように扱い、一切は闇に葬られてしまったのです。そのあまりに非情な対応に、私は悔しくてなりませんでした。
 そして、そのことがキッカケとなって、うすうす懐いていた池田大作と創価学会に対する不信が確たるものとなり、夫とも話し合えるようになっていったのです。



【法華講で知った本物の信心】
 そのような時、たまたま妙観講の方が2人、我が家を訪ねてきてくれて、近くのファミリーレストランで話を伺いました。
 ところが、その日の夜遅く、妹からひどく興奮した電話が入りました。私が妙観講の人たちと話していたのを、地域の幹部が目撃し、青梅市の妹に連絡がいったのです。
 妹は必死で私を説得してきましたが、私は、弟の一件もあって、もう創価学会には何の未練もありませんでした。
 善良な庶民の顔をして、人を惑わし、たぼらかす創価学会―こんなに恐ろしい組織はない、と思い、そんな団体で活動を続けてきた自分が情けなく、なんと愚かな月日を費やしてしまったのかと、後悔するばかりでした。
 そして、夫と共に創価学会を脱会して、晴れて法華講員となったのです。平成4年10月のことでした。
 法華講員となって、まず最初にびっくりしたことは、勤行・唱題の姿勢でした。創価学会では、皆、競うように大きな声を張り上げて唱題し、それが確信の強さであるかのように思っていたのに、講中では、皆さんが導師の声に耳を澄ませて唱和し、自分勝手に大声を張り上げる人など、1人としていません。その唱題の声に、本当に御本尊様をお慕いする心、御本尊様の前に身を低くして信心に励む謙虚な心が滲み出ているようで、深い感激を覚えたのです。
 学会とはまるで違う荘厳な唱題の声に、私の心に安堵と喜びが込み上げてきました。そして、「一から信心をやり直そう。素直になって先輩の皆さんに異体同心していこう」と思いました。
 それからは、学ぶことの全てが初めて聞く話ばかりでした。たとえば、「法統相続がなぜ大切か」とか「謗法厳誡」というようなことは、学会では1度も聞いたことがありません。また、「何のために信心をするのか」「罪障消滅とは」等々、御金言を通して教えていただき、目からウロコが落ちるようでした。


【成仏の相を現じた夫の臨終】
 こうして新たなスタートを切ってから5ヵ月後の平成5年3月、夫が「体調が思わしくない」と言いだし、精密検査の結果、末期の胃ガンであると診断されました。夫の身体は、学会時代からすでにガンに蝕まれていたのです。
 私は、突然の宣告に目の前が真っ暗になり、涙が溢れ出て、どうすることもできませんでした。涙でグシャグシャの顔で家にたどり着き、御本尊様に、「たとえ1ヵ月でも、夫の寿命を延ばしてください!どうか成仏させてください!」と祈っていきました。
 手術の前、夫は、講中の皆さんの手を借りて、総本山に参詣させていただくことができました。これが、夫の最後の登山となったのですが、夫は大変感激しておりました。
 そして手術となりましたが、予想どおり、ガンはあちこちに転移していて、もはや手の施しようがない状態でした。
 覚悟はしていたものの、あまりに辛い現実でしたが、私は講中の先輩方に励まされ、「残された期間の中で、何としても罪障消滅し、成仏させなくては」と心を定めました。
 3人の子供達も、講中の皆さんから折伏していただき、夫のために唱題するようになってくれました。
 長男は21歳、長女は19歳、次男は高校に入学したばかりでした。とくに次男は、「どうせ法華講も創価学会と同じで、いつか家庭をかえりみない母親になるに違いない」と決めつけ、なかなか信仰できずにいましたが、ようやく共にお題目を唱えてくれたのです。
 こうして、夫は、10月14日、家族が見守る中、息を引き取りました。
 日蓮大聖人様は、
 「善人は設(たと)ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛(がもう)の如し、軟らかなる事兜羅綿(とろめん)の如し」(御書P1290)
と仰せです。
 夫の遺体は、このとおりの成仏の相でした。病院から帰宅した夜、さらに次の夜と、講中の皆さんが途切れることなく唱題してくださる中、遺体を納棺しようとしたところ、あまりの身体の柔らかさに驚いてしまいました。
 また、ドライアイス等を入れなかったにもかかわらず、最後まで臭いも出ることなく、顔色も良く、いつまでも柔らかいままで、今にも枕から首が落ちてしまうのでは、と思うほどだったのです。
 私は嬉しくて、子供達と共に、「これが成仏の相です」と言っては、親戚や友人に、夫の足の指まで動かして見せてあげました。
 さらに火葬の際には、真っ白なお骨に、夫の兄弟達も皆、驚いていました。火葬場の方が「縛麗ですね」と言うので、「胃ガンだったのですが…」と答えると、「ガンの人は骨が黒くなるんですよ」と言われました。
 この時、主人が御本尊様の御加護でガンを克服し、霊山へ旅立つことができたのだと確信することができ、本当に有り難くてなりませんでした。



【功徳に包まれた日々】
 さて、主人が亡くなってから、私は、働けるかぎり働いて生計を立て、御供養もしていきたいと願い、御祈念していったところ、東京都の交通局での仕事に就くことができました。
 女性ばかりの職場でもあり、コンビを組む相手によっては、とんでもないトラブルが発生することも多いと聞いていましたが、私の場合、良いパートナーに恵まれて、68歳の定年までの15年間、無事に勤めることができました。
 この不況の中、このように安定した仕事につけたのも、本当に御本尊様の御加護と感謝しております。
 さらに定年後は、介護のケアスタッフとして働いているのですが、そこでもお客様から信頼していただき、毎日楽しく元気で働かせていただいております。
 また、長男のことですが、長男は、夫が亡くなった後、交際していた彼女を折伏して入信に導き、結婚いたしました。
 その長男は、以前は覇気(はき)に欠け、仕事が長続きしなかったり、働いているのに収入が得られなかったりで、それが私の1番の悩みでした。
 ところが、法華講員として信心するようになってから、打って変わって明るくなり、しっかり働けるようになったのです。今では、4人の子供の頼もしい父親として、信仰を中心とした家庭を築き、嫁と共に確実に法統相続を実践しております。
 なおまた、私と嫁とは、近所の人から「本当の娘さんかと思った」と言われるくらいに仲がよく、世間で聞かれるような嫁姑の確執などは、私たちには縁がありません。
 このような満ち足りた幸せな人生が自分に巡ってこようなどとは、創価学会時代には夢にも思いませんでした。本当に法華講員になってよかった、と御本尊様に心から御礼申し上げる日々です。
 この大きな御恩に報いていくため、これからも子供や孫たちと共に自行化他の信心に励んでまいります。





学会活動をすればするほど不幸に―

―今、正宗に帰伏して人生が大好転,―
(大阪府大阪市 覚仁寺・正義講 O.K〈記事は実名〉『慧妙』H24.8.16)

【垣間見た学会のいいかげんさ】
 私と母が創価学会に入ったのは、昭和58年のことでした。当時、私はまだ11歳だったのですが、両親が離婚し、それを機に母が学会員である叔父(母の妹の夫)から折伏されて、母子で入信したのです。叔父は、地元・三重県の学会で、かなり上の幹部をしていたと思います。
 そして、中学生になった私は、学会の音楽隊に入りました。音楽隊の隊員としての活動は、高校を辞(や)めて東京の専門学校に行くことになる16歳の時まで続きました。
 その音楽隊の活動の中で、私は、「何か変だな」と思うことに遭遇しました。
 正確な日時は覚えていませんが、三重県でSGI総会(だったと記憶しています)があり、私も音楽隊として参加しました。その日は「池田先生が来られる」ということで、当然、皆、大感激しておりました。
 ところが、池田の出席は突然キャンセルとなり、その代わり、開始前に「成功おめでとう」という電報が届いたのです。
 私は、「まだ始まってもいないのに、『成功おめでとう』だなんて、ずいぶん適当だな〜」と思いました。
 それ以外にも、折伏の目標を1度も達成していないのに、「勝利した」と発表するいいかげんさにも、違和感を感じていました。
 さて、その後、親元を離れて上京した私は、活動こそしていなかったものの、自分が学会員だということは自覚しておりました。そして気がつけば、創価学会は日蓮正宗から破門されるに至りましたが、私は深く考えず、「自分は学会員だから」と、気にも止めませんでした。
 そのような中の平成3年、祖母の葬式にはさすがに驚きました。いわゆる学会葬だったのですが、御僧侶はいなくて、在家の学会員がお経を読む、というお粗末なもので、戒名もなかったのです。私は、「こんなことで祖母は浮かばれるのか?」と疑問を感じました。
 ちなみに、私が日蓮正宗に帰依(きえ)してからわかったことですが、母は、この祖母の葬儀に疑問を感じたことから、創価学会をやめて地元の正宗寺院に付き、法華講員となったそうです。


【難病、失業……一家を襲った不幸】
 それから月日は流れ、平成8年に結婚しました。その時は、妻も妻の家族も、信心はしていませんでした。
 ところが、私たちの結婚の直後、妻の弟が脳内出血で倒れ、さらに多重人格分裂症になったことから、妻の両親、そして妻が、近所の学会員から「病気が治る」と言われ、相次いで創価学会に入ったのです。
 それからは、妻の家族のためと思い、私も精力的に学会活動を行なうようになりました。
 ところが、学会活動に励めば励むほど、今度は私たち家族の身に次々と不幸が訪れ始めたのです。
 まず、5年後に、妻の父が心筋梗塞(しんきんこうそく)で倒れ、さいわい発見が早かったために大事には至らなかったものの、いつ何があるかわからない、という不安を抱(かか)えるようになりました。
 さらに、その4年後、33歳になった妻が、特定疾患に指定されている難病のモヤモヤ病に罹(かか)り、脳内出血を起こしたのです。いちおう脳内出血の手術は成功しましたが、後遺症でテンカンの発作が起こるようになり、あげく若年性糖尿病まで発症してしまいました。
 また、当時の私は内装業の会社に勤務していたのですが、妻の脳内出血から2、3ヵ月後、親会社の未払いによって会社が倒産し、突然、失業してしまったのです。
 妻の病気と失業―すっかりやる気が失(う)せてしまった私は、半ば引きこもりのような状態になっていきました。当然、経済的にも行き詰まりました。
 次々と襲いかかる不幸に太刀打ちできなかった私たち夫婦は、ついに離婚ということになり、平成21年、私は、逃げるように三重県の実家に戻りました。


【法華講員との出会い】
 実家に戻った私は、私なりに感じていた創価学会に対する疑問を、学会幹部である叔父に問いただしました。ところが、叔父からはまともな答えが返ってこず、話にならないと思って、学会の活動に参加するのをやめました。
 しかし、活動をやめたくらいでは、学会で刻んだ罪障から逃れられるものではありませんでした。いくら職を探しても、不景気の波が深刻化している地元では仕事が見つからず、ここでも引きこもり状態で苦しい日々を送っておりました。
 そのような時、インターネットで覚仁寺正義講の藤原さんと知り合いました。
 藤原さんは、諸事情からお寺を離れてしまい、自分なりに日蓮正宗の信仰を見つめ直している最中だったようです。しかし、お寺から離れた藤原さんは、仕事もうまくいかず、私と同じように悶々(もんもん)とした日々を送っていたのです。
 その藤原さんが、大阪から私の住む三重にまで来てくれて、
 「今、俺達が苦しみながら暮らしているのは、お寺から離れているからだ。一緒にお寺へ行って、正しい信仰をしていかないか」
と言ってくれたのでした。
 私はその言葉を聞いた時、なぜだか、とても素直な気持ちで「うん!行こう!」と答えました。なぜ、あんなに素直になれたのか、その時の感覚は、今思い返しても本当に不思議です。
 後になって思えば、正義講の方たちの御祈念の功徳と、母が先に正宗に戻っていた功徳が、私にも巡っていたからなのかもしれません。
 そして平成24年1月1日、元旦勤行の時に覚仁寺で勧誡(かんかい)を受け、私は日蓮正宗に帰依いたしました。


【学会の宣伝はウソだった!】
 その3ヵ月後の4月初め、覚仁寺正義講の支部登山がありました。私にとっては、29年ぶりの総本山大石寺への参詣です。
 総本山に着いてすぐ、私は驚いてしまいました。総本山は、29年前と変わらず、活気がみなぎっていたのです。
 学会では、「総本山は、登山者がおらず、ボロボロに廃(すた)れている」と聞かされており、正直に言うと、登山するまでの私は、学会の言葉を少し信じていたのかもしれません。
 ところが、実際の総本山は、廃れているどころか、きれいに整備され、爽やかさと活力に満ちていたのです。私は、「学会が言っていたことは、ウソだった!」と、あらためて目を醒(さ)まされた思いでした。
 また、講中の勉強会に参加する中でも、吉井講頭から学会の矛盾(むじゅん)などを詳しく説明していただいたおかげで、創価学会の間違いを深く理解することができました。
 そして、日蓮正宗に帰依できて本当に良かった、と実感する毎日です。


【功徳厳然!念願の定職に】
 日蓮正宗に帰依してまだ半年ですが、正しい信仰の功徳によって、私の生活は一変しました。
 まず、それまで何をする気にもなれず引きこもり状態だったところから、自然と前向きな気持ちに変わってきて、大阪でアルバイトを始めました。すると、今度はある方から仕事を紹介されたのですが、それが、なんと、かつて東京での経験を活(い)かせる内装業の仕事だったのです。そして、トントン拍子でその会社に採用していただくことができ、念願だった定職に就(つ)くことができました。
 現在は大阪で暮らしながら、仕事と信心に励んでおりますが、毎日が本当に楽しく、御本尊様の功徳を実感しております。あの、苦しいばかりの学会時代とは大違いです。
 一方、別れた妻はいまだに学会から抜けられず、病魔と闘っております。何としても彼女を正しい信仰に導いてあげたい、と決意しております。





葛藤乗り越え、ようやく脱会して寺院へ

―正しい信心の喜びを胸に、折伏に邁進―
(千葉県鎌ヶ谷市・鎌谷寺支部Y.G〈記事は実名〉元公明党松戸市議会議員『慧妙』H24.7.16)

【亡き母に教えられた謗法厳誡の精神】
 私は、平成19年、意を決して、50余年の長きにわたって在籍していた創価学会を脱会し、法華講員となりました。
 私が母と共に創価学会員として日蓮正宗に入信したのは、昭和29年、5歳の時でした。
 当時、私達は福島県に住んでいたのですが、母は、不治の病とされていた肺結核を患っており、その上、経済的にも大変厳しい状況でした。そのような中、学会員であった叔父から、「日蓮大聖人の仏法を信仰すれば、必ず幸福になれる」と強く折伏されて入信したのです。
 素直で一途な性格だった母は、以来、叔父から教えられたとおりに信心に励み、村中を折伏に駆け回っておりました。そして、幼かった私にも、あらゆる機会に"謗法厳誡"ということを教えてくれたのです。
 その後、母はみるみる健康な身体を取り戻し、一家の経済的な問題も解消して、そうした体験を経てくるなかで「御本尊様は絶対だ」との確信を深めてきました。生涯を通して、何があっても御題目を唱え、常に折伏に励んできた母の姿は、私の信仰の手本であり、原点と言っても過言ではありません。
 その母は、昭和58年、73歳で臨終を迎えました。当時はまだ、創価学会は日蓮正宗の信徒団体でしたから、当然、葬儀は正宗寺院(松戸市・一月寺)にお願いしました。
 成仏の相について、御書には
 「善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛(がもう)の如し、軟(やわ)らかなる事兜羅綿(とろめん)の如し」
と示されていますが、母はまさにこの御金言のとおりの相を現じました。私はあらためて、日蓮大聖人の仏法の正しさと偉大さを確認させていただき、感動したものです。


【学会の謗法化に苦悩しつつ】
 昭和61年11月、私は、公明党公認として松戸市議会議員に立候補し、初当選しました。その時の私は、「信心を根本に、より良い地域行政を確立し、悩み苦しんでいる人のために献身的に活動をしよう」と決意し、以来、その初心を忘れずに平成18年までの5期20年間、懸命になって松戸市政に参画し、それなりに多くの成果を残すことができたのではないか、と自負しております。
 しかし、その間に、創価学会には大変残念なことが起こってしまいました。
 始まりは、平成2年、池田大作を筆頭とする学会首脳部の宗門批判が公然化してきたことでした。
 私は、「宗門批判は、大聖人様を批判することに通じるではないか」と思い、唖然としました。そして、どんどん激しくなる学会の宗門誹謗に、「創価学会は、間違った道を歩み始めている」と感じ、「このまま、創価学会にいてよいのだろうか。脱会すべきではないか」という葛藤(かっとう)を抱きました。しかし、その一方で、「自分は、公明党議員という公職に就いている公人なのだから、勝手な行動はできない」などと自分に言い訳し、本来なすべき"脱会"という行動に出られずにおりました。まことに恥ずかしいことながら、それが自分の弱さだったのです。
 やがて、事態は、創価学会が日蓮正宗から破門されるところまで進み、学会員は総本山大石寺に参詣できなくなりました。それでもなお、私は、「いずれ、創価学会も日蓮正宗に戻れる日が来るのではないか」という勝手な期待を心の拠(よ)り所にして、学会の問題については"見ざる・聞かざる・言わざる"の心境で、ひたすら政治活動に専念したのです。
 しかし、その本当に淡い期待も砕け散ったのは、平成14年の「創価学会会則」の改変でした。"創価学会は完全に日蓮正宗から離れ、独自の道を歩き出した"……それを認めざるをえない改変だったのです。
 その時の私は、同年の市議選で5選を果たしたばかりでした。「もう、学会と共には生きられない」という絶望感と、「しかし公明党を離脱するわけにはいかない」という思いとの板挟みで、漆い逡巡(しゅんじゅん)が始まりました。
 あらためて、創価学会破門の経緯について述べられた宗門側の書にも目を通しました。そこで、平成10年に解体された正本堂が池田大作の慢心の塊(かたまり)だったことを知り、唖然とすると同時に、「それなら要らない!」と正本堂に対する愛着もすっばり消えました。


【多くの学会員の悲惨な姿に疑問】
 そこまで気づきながら、なおも自分の立場や、長年にわたって学会で生きてきたことなどへの執着を捨てきれなかった私は、学会から抜ける決断がつかず、新たな苦しい葛藤が始まりました。そうした中の平成17年、私は秘かに遺書を書いております。それは、謗法厳誡を守れなかった自分に嫌気がさしての行動ですが、そこには「友人葬(学会葬)はお断わりする」との一文も認(したた)めました。
 じつは、私は立場上、地元学会幹部の葬儀において幾度も葬儀委員長を務めてきました。
 その中で、黒いスーツ姿の学会幹部が葬儀の導師をする異様さや、遺体の相についても、詳述は控えますが、かつて正宗寺院で葬儀をしていただいた母のような"成仏の相"には、ついぞお目にかかれなかったことにも違和感を感じました。
 そして、何よりも違和感を懐(いだ)いたのは、その人達の亡くなり方です。50代・60代のまだ若い学会員がガンであっけなく死に至ったり、「なぜ、こんな軽い事故で命を落とすのか」というような事故で亡くなったり、自殺したりしているのです。あまりにもそういうことが続くものですから、その現実を見ただけでも、私は「やはり学会は間違っている」との感を深めました。


【地位や名誉よりも大事なもの】
 そうした現実を思い合わせ、去就の決断に苦しんでいたある日、真剣に唱題をしていたところ、突然のように「そうだ!地位や名誉を捨ててでも初心に返り、正しい信仰をやり直そう」との決意が心を満たしたのです。その瞬間、不思議と勇気がわいてきました。
 とは言ってゐ、学会員の支持を受けて市議になっている以上、すぐに脱会とはいかないと思い、タイミングを見ることにしました。
 その間の平成17年と18年の2回、創価学会で言っている「総本山は荒れ放題」とか「桜の木を切った」などということが本当かどうかを自分の目で確認するために、自家用車で総本山へも行きました。外側から見るだけでしたが、総本山は、『創価新報』などで報じていたこととはまるで違っていて、立派に整備され、正本堂の跡地に建立された奉安堂に至っては、その威容に目を見張りました。そして、遠くから手を合わせ、「ここで御開扉を受けたい!」と強く思ったのです。
 その後、6選目となる平成18年の選挙は、党に「公認辞退」の届けを出し、自ら立候補を辞退して、その半年後の平成19年6月23日、自ら鎌谷寺に赴いて御住職にお会いし、勧誡を受けて法華講員となったのです。
 晴れて法華講員となり、やっと念願が叶(かな)って17年ぶりに総本山に参詣でき、大御本尊様の御開扉を受けられた時の大感激は、今でも忘れられません。大御本尊様にこれまでの謗法をお詫び申し上げ、生涯、正しい信仰を貫いていくことを、心よりお誓い申し上げました。


【恐れるに足りない学会の学会の反発】
 さて、法華講員となった私は、身近な学会員に対して、自分が感じてきた創価学会の誤りを率直に話していきました。その内容は、信仰の根本道場たる総本山へ参詣できなくなった事実、御書よりも『小説・人間革命』を優先する在り方、折伏よりも選挙で票を取ることに狂奔(きょうほん)する行き方、そして何よりも、日蓮大聖人様の正統なる後継者であられる御法主上人猊下を誹謗することの大罪など、多岐にわたります。
 そうした私の言動に対し、学会員からは「今回の選挙で公認を取り消されたのだ」というような、まるで逆のことを言って誹謗もされましたが、何をかいわんや、公認は"取り消された"のではなく、私から辞退したのです。
 また、議員報酬がなくなった上に年金受給の年齢に達するまでまだ数年あるというのに、学会員の会社から顧問契約を解除されたりして、経済的には厳しくなりましたが、それでも信仰の正しさはお金には換えられません。一時的には厳しくても、正しく信仰していけば必ず良くなる、と信じておりました。おかげさまで、今は経済的な問題も解消されつつあります。


【今こそ学会員に救いの手を】
 振り返れば、「もはや脱会して日蓮正宗に戻るしか、自分の生きる道はない」と心に決めてから実際に行動に移すまで、じつに4年の歳月を要しました。私にとって、その4年の逡巡期間は、辛く悲しい空白の時であり、法華講員となった当初は、「もっと早く脱会すべきだった」と自分を責めてもみました。即座に行動に移せなかった背景には、少年・青年・壮年時代を創価学会に命を託し夢中で闘ってきた、あまりにも長い人生行路があったからだと思います。
 その執着を離れ、法華講員となって正しい血脈の中で信心をしてくるなか、本当に清々(すがすが)しい信仰の歓喜が蘇ってきて、次第に「気の毒な学会員を何としても救いたい」という素直な気持ちになってきました。
 私のように、創価学会の間違いに気づき、創価学会に失望しながらも、最後の勇気が持てずに今なお学会員として苦しい日々を送っている人は、全国に数多くいるはずです。今後は、そういう学会員にも少しでも救いの手 を差し伸べるべく、折伏に頑張っていぐ所存です。





破門後の学会には功徳がなくなった!

―法華講員となって得られた真の功徳―
(奈良県・寧楽寺支部K.C〈記事は実名〉『慧妙』H24.6.16)

【学会に対して懐(いだ)いた違和感】
 私は、平成21年12月5日、W.Tさんの紹介で寧楽寺で勧誡(かんかい)を受け、創価学会を脱会して法華講員となりました。
 私が創価学会に入ったのは、昭和38年、17歳の時でした。京都の実家を出て大阪で働いていた時、路上で見知らぬ学会員から声を掛けられて座談会に行き、そこで日蓮正宗の話を聞いて素直に入信したのです。
 当時の学会は大変に勢いがあり、座談会も仏法を信仰する喜びで満ちていたように思います。
 そういう中で、私も信心の在(あ)り方などを先輩幹部から教えてもらい、信心に励みました。
 そして、20歳の時、結婚を機に京都に戻った私を、親身になって面倒を見てくれたのが、地区部長と地区担をされていたWさん御夫妻でした。
 しかし、そのWさんが昭和49年に三重県に引っ越され、だんだんWさんとの交流も疎遠になっていきました。
 私は、ある時期から、会合に出るたび、創価学会の様子が変わってきているのを感じておりました。
 昔のような、信心の喜びや仏法に対する厳格さがなくなって、学会の信心自体が本質的に変わってきているように思えたのです。
 それが何なのか、はっきりはわかりませんでしたが、学会に対する違和感が拭(ぬぐ)いきれなかった私は、自分で建築関係の事業を立ち上げたばかりの平成2年頃から会合に出なくなりました。
 その後も、いちおう『聖教新聞』は取っていましたが、宗門に対する誹謗(ひぼう)記事を見た時、「おかしい!これは間違っている!」と思い、それからはほとんど『聖教新聞』に目を通すこともなくなりました。
 そのような状況だった私は、学会員でありながら、学会が日蓮正宗から破門されたことも知りませんでした。学会活動から遠ざかってはいたものの、朝夕の勤行はしておりましたし、ニセ本尊にも交換しておりません。


【学会にいるだけでも謗法】
 そうこうしているうちに、世の中の不況は深刻になり、私の関わる建築業界では、廃業や倒産が相次ぎました。
 その影響を受けて取引先からの仕事もなくなり、事業を縮小しても追いつかず、本業以外の拾い仕事をして食いつなぐのがやっと、という状況になってしまったのです。
 その状況を変えたくて、朝夕の勤行で唱題をするのですが、いっこうに良くならないのです。
 今にして思えば、ニセ本尊にこそ替えてはいないものの、日蓮正宗を倒そうとする創価学会に身を置き、大御本尊様からの功徳が流れなくなった御本尊を拝んでいるのですから、いくら唱題しても良くなるはずがありませんでした。
 しかし、原因がそこにあるなどと思いもよらなかった私は、「世の中が不景気なのだから仕方がない」と不景気のせいにし、半ば諦めの気持ちで、好きな酒を飲んでばかりの毎日になっていきました。
 そうした最悪の状況であった平成21年の秋、Wさんの奥さんが我が家へ訪ねてきてくださったのです。
 じつに20年ぶりの再会でした。
 Wさんは、その2年ほど前に、創価学会を脱会して寧楽寺の法華講員になっていたのです。
 思い出話から始まり、学会が様変わりしたこと、Wさんが学会を辞めて法華講に入った経緯、今の総本山の様子など、楽しく会話が弾みました。私達夫婦は、その中で初めて、創価学会が日蓮正宗から破門されていたことを知ったのです。
 日も暮れて、Wさんは「また来るね」と言って帰られ、その後また、御登山の帰りなどに寄ってくださいました。
 こうして私達夫婦は、Wさんの温かく自然な折伏により、再び日蓮正宗に戻ることを決心したのです。


【同じ御本尊なのに、この違い!】
 さて、勧誡を受けたその日、寧楽寺御住職・渡邉雄布御尊師がわざわざ我が家に来てくださり、勤行をしてくださいました。その勤行の時です、気持ちがフワッと明るくなり、これまではいくら唱題しても全く感じられなくなっていた歓喜が、胸の底から込み上げてきたのです。本当に不思議な感覚でした。
 うまく表現できませんが、同じ御本尊様なのに、破門後の創価学会に籍を置いている時はまったく功徳がなかった、それなのに今、御本尊様の御力が蘇(よみがえ)った―それを実感するような思いでした。血脈がつながっているか否かの違いが、これほど大きな変化をもたらすとは……。その時、日蓮正宗に戻って本当に良かった、と心の底から思ったのです。
 その日から、酒は勤行の後の楽しみにし、とにかく、勤行を優先するようになりました。
 その後は、仕事の事・家庭の事・お金の事と、いろいろな困難に直面しても、そのつど、御本尊様の御加護によって乗り越えられるようになってきました。これも、学会在籍中にはなかったことです。


【折伏後、急に増えだした仕事】
 さらに隣家の学会員を折伏しだした頃から、仕事の状況が大きく好転してきました。
 昨年の御講で年間を通し、御住職が『立正安国論』の講義をしてくださったのですが、その中で折伏の大切さを知って、私も折伏をしようと決意し、真っ先に頭に浮かんだのが、隣のYさん夫婦です。
 その後、日曜日に訪問してみたところ、Yさん宅は留守でした。そういえば、いつもでしたらYさん宅から聞こえてくる勤行・唱題の声も、最近は聞こえてきません。「変だな」と思いつつ、毎日真剣に御祈念し続け、やっと会えたのが4週間後でした。
 聞けば、なんと、御主人は肺ガンの手術で入院し、次いで奥さんも膝(ひざ)を骨折して入院していた、というのです。その日は、たまたま御主人も一時帰宅していて、会って折伏することができたのでした。
 Yさん夫婦は、創価学会にいたら良いことがない、と身にしみて感じていたのでしょう、脱会して日蓮正宗に戻ることを考え始めました。そして、少し元気になられた昨年の暮れにお寺にお連れし、御住職からお話していただいたところ、脱会を決意、無事に勧誡を受けることができたのです。
 また、今年に入ってからは、近くに住むYさんの娘さん夫婦を折伏したところ、娘さんはYさんからも話を聞いていたとのことで、スムーズに帰伏を決意され、ニセ本尊を学会本部に送り返して、夫婦そろって御授戒と御本尊下附を受けることができました。
 この折伏を進めてくる中で、私も、それまでになく真剣に御題目を唱えることができました。その中で、御本尊様の功徳は、仕事上にも生活上にも厳然と顕われてきたのです。
 世の中の不景気は相変わらずだというのに、私のところには仕事が入ってくるようになりました。
 私は、この現証を通じても、やはり創価学会には功徳がない、真の功徳は日蓮正宗にのみあるのだ、と実感いたしております。
 なお、法華講員になってから判ったことですが、今の学会員は罰だらけです。私の見聞きするだけでも、家族が病人だらけだったり、重機に挟まれて大ケガをするという事故を繰り返している人、あるいは、手術が成功したと言っていた直後に、なぜか急死してしまった人―そういう話があとを絶ちません。
 ところが、学会ではそういう話をひた隠しにし、隠しきれないとなると、「本当はもっとひどくなるところを、この程度のケガで済んだ」などと、あたかも功徳であるかのような話にすり替えているのです。
 かつての私のように、こうした創価学会に違和感を持ち、悩みながらも学会から抜け出せずにいる学会員は大勢いると思います。
 そういう人達はもとより、1人でも多くの人を正しい仏法に導いていけるよう、これからも折伏に頑張つてまいります。





「なぜ遺体の相が…」学会葬で懐いた疑問

―やはり創価学会では成仏できなかった!―
(北海道芦別市・志願寺支部 N.S〈記事は実名〉『慧妙』H24.6.1)

 私は、平成22年11月12日、再び日蓮正宗に帰伏させていただきました。
 私は、昭和42年、兄夫婦に折伏されて創価学会に入りました。自ら求めて信心を始めたわけではなかったので、何回か学会の座談会に出たものの、その後、学会活動はほとんどしていませんでしたが、朝晩、お題目だけは欠かさず唱え、また寄付金(財務)も毎年振り込んできました。
 しかし、平成12年に会社を退職した後は、それまで休んでいた『聖教新聞』を購読し、座談会にも、月に2〜3回、参加するようになりました。
 創価学会が宗門から破門されたことは聞きましたが、それも、『聖教新聞』には"宗門は、創価学会が大発展していくことを嫉(ねた)んで、カット作戦を企て学会を切った"とか、"大石寺は瓦礫(がれき)の山で、まもなく潰(つぶ)れて無くなってしまう"というようなことが書いてあり、私は、宗教の新聞にしては少し乱暴な言葉だとは思ったものの、「何百万人もの人が読んでいる新聞にウソを書くはずがない」と頭から思い込んでおりましたから、創価学会のその主張にジワジワと洗脳されていきました。今から思えば、本当に恐ろしいかぎりです。


【学会葬で弔(ともら)った息子の相に衝撃】
 そうした中の平成14年元旦、大学院を卒業して就職したばかりの次男が、突然、直腸ガンで亡くなりました。息子がガンと診断された時、私は、息子を救うために無我夢中で題目を唱えましたが、救うことはできませんでした。そして、熱心な学会員である兄夫婦に相談し、札幌の創価学会の儀典部に導師を頼んで、"学会葬"で息子の通夜と葬儀を出してしまったのです。
 元旦に亡くなったため、息子の通夜は1月3日になったのですが、その通夜の後、私は息子の遺体の相に重大な違和感を覚(おぼ)えました。息子は、顔の下半分がひどく崩れてしまっていたのです。
 とても人様に見せられる姿ではありませんでしたので、葬儀の時は棺(ひつぎ)の小窓を小さくして、最後のお別れではなるべく顔が見えないようにしよう、ということになりました。
 じつは、その20年ほど前、創価学会がまだ日蓮正宗の信徒団体だった頃の昭和59年、妻が40歳で病死したのですが、葬儀は富良野の正宗寺院、妙峰寺様にお願いしました。そうしたところ、妻は、御書に示されているような、きれいな成仏の相を現ずることができたのです。
 ところが、学会葬で葬儀を出した息子の姿は、あの時に妻が現じた姿とあまりに違いすぎます。
 私は、「昔から創価学会では、学会(日蓮正宗)で葬儀を出せば遺体の相がきれいになる、と言っていたのに、なせ息子はこんなことになったのだろう」と、違和感を持ちましたが、兄夫婦も学会の幹部も、息子の姿について何も言及しませんでしたので、誰にも言えぬまま、ずっと胸の中で疑問に思っておりました。
 今、正信に帰って振り返ると、まことに残念ながら、「息子は成仏の相ではなかった」と認めざるをえません。学会の謗法に与(くみ)してしまった自らを深く反省している毎日です。


【法華講員の熱心な誘いでお会式に】
 さて、平成22年6月、志願寺法華講のTさんと知り合い、お会いするようになりました。Tさんから「Nさん、何か宗教をしていますか?」と尋ねられ、「学会です」と答えました。Tさんが「最近、御本尊様を取り替えなかったですか?」と聞いてきたので、3年前に取り替えたことを告げました。するとTさんは、
 「取り替えた本尊はニセ本尊ですよ。御本仏・日蓮大聖人様からの血脈相承をお受けになった猊下様に対して悪口雑言を吐いている学会員は大謗法です。ニセ本尊を拝んでいると、地獄に堕(お)ちますよ」
と言いました。
 私は、ニセ本尊などとは思いもせず、ただ子供達や孫が元気で幸せになってほしいとの思いで題目を唱えてきたのです。
 Tさんから宗門と学会の関係を知らされたものの、私は創価学会で洗脳されている身でしたので、正直なところ、Tさんの言っていることが信じられませんでした。Tさんからは、「謗法になった学会にいるかぎり、いくら題目を唱えても功徳はいただけない。1日も早く創価学会をやめて、正宗寺院についたほうがよい」と言われました。
 ところが、学会の幹部に指導を受けると、「ニセ本尊ではない。宗門が間違っている」と言われ、私の頭は混乱しました。
 そのような中の同年10月、「1度だけ」という約束で志願寺の御会式に参加させていただきました。御会式の儀式はとても素晴らしく、感動しましたが、私は創価学会が正しいと思っていましたので、「2度とお寺に行くことはない」と思っていました。
 その後もTさんから何度か折伏されましたが、私はそのつど、学会の幹部に指導を受け、「私は創価学会が正しいと思っているし、Tさんも法華講が正しいと思っているでしょう。いくら話し合っても平行線だと思うよ」と言っていました。


【五感を狂わせていたニセ本尊】
 ところが、御会式から2週間ほどが過ぎた11月11日、Tさんから私の事を聞いた志願寺の御住職が、奥さんと一緒に訪ねてこられたのです。
 突然の訪問でしたので一旦はお断わりしたのですが、「30分でもいいです、少しお話を聞いてください」と言われ、玄関先で話し始めました。しかし、奥さんから「おトイレを貸していただけませんか」と言われたことから、家の中に上がっていただくこととなり、そこからは、私自身が時間のたつのも忘れ、疑問に感じていることを次々と御住職に質問していました。そして、気がつくと、私は御住職に「どのようにしたらよいでしょうか」と尋ねていました。御住職に「御本尊を見せてほしい」と言われて仏間にお通ししますと、御住職が「これはニセ本尊です。こんな物を拝んでいると、大変なことになってしまいます。外してよいですか」と聞かれましたので、私は「お願いします」と答えました。御住職は、外したニセ本尊について、「しばらく倉庫にでも入れて考えますか。それともお寺で預かりましょうか」と尋ねられましたので、「お寺で預かってほしい」と答えました。
 後で御住職に伺ったところによれば、ニセ本尊を外す前と後では、私の反応がまるで違ったそうてす。事実、あれだけ時間をかけてお話を伺っていたにもかかわらず、今でも、ニセ本尊を外す前の自分がどのようなお話を聞いていたか、思い出すことができないのです。それだけニセ本尊に毒され五感が狂わされていた、ということだと思います。
 ニセ本尊を外した後は、御住職のお話がストレートに私の中に入ってくるようになり、私が日蓮正宗への帰伏を決意した時は、夜の11時30分になっていました。そして、翌日の平成22年11月12日、私は無事に勧誡(かんかい)を受け、正しい御本尊様も再下附していただいて、法華講員となることができたのです。
 私が驚いたのは、入仏式をしてくださった時の御住職のお姿でした。御住職は、仏壇の吊り灯籠や電気や仏具まで全て分解し、何度も何度も水拭きして、汚れを完全に取った後、空拭きをして最後の仕上げに毛ばたきをかけ、ニセ本尊の掛かっていた仏壇を隅々まで清めてくださったのです。
 その御住職のお姿を通して、『聖教新聞』に「僧侶は堕落している。唱題も折伏もしない」と、さんざん悪口を書いてあったのを思い出し、本当に創価学会は会員を騙(だま)している、と思いました。
 その後の2週間ほどは、毎日、正しい勤行の仕方を覚えるためにお寺の早朝勤行に通い、その際、それまで懐いていた宗教に関する疑問やお寺のこと、当たり前すぎて今さら聞けないようなことも、次から次へと質問しました。自分でも「なんで、こんなに話ができるのかな」と不思議に思ったほどです。それに対して、御住職はイヤな顔ひとつせず、丁寧に答えてくださいました。おかげで、創価学会に洗脳された考えから、清浄な日蓮正宗の考えへと変わっていくことができました。
 そして、札幌にいる長男一家4人を折伏し、その年の12月7日、息子一家が志願寺でめでたく勧誡と御授戒を受けることができました。


【学会の情報と正反対だった総本山】
 帰伏から4ヶ月後の平成23年3月、法華講春季登山に参加した私は、あらためて目の覚(さ)める思いでした。
 総本山は、創価学会が流していた情報とは全く違い、空気は美味しく、整然と整備されていて、その佇(たたず)まいに、私は驚きと感動で思わず歓声を上げてしまったほどです。御開扉では、今まで経験したことのない喜びと感動で、涙が溢れ出て押さえることができませんでした。そして、大御本尊様に、創価学会時代に犯してしまっ謗法を深くお詫(わ)び申し上げました。
 その後の法華講連合会の総会では、御法主日如上人猊下様が、3月11日に起こった東日本大震災の犠牲者を悼み、被災者への励ましの御言葉を述べられた後、「衣裏珠(えりじゅ)の譬(たと)え」を引かれて、一刻も早く多くの人を救い、国土を安んずるため、今こそ総力を結集して折伏を行ずる時であることを御指南あそばされました。本当に感激の連続でした。
 以来、私は、御住職の御指導のもと、毎日楽しく仏道修行に励んでおります。
 じつは、日蓮正宗に帰伏する直前の私は、まだ70歳になるかならないかだったにもかかわらず、「もう着ることもないだろう」と、捨てるつもりで背広や作業服まで全て1つにまとめ、遺言状まで書いて、死を迎える準備をしておりました。ところが、法華講員となってからは、捨てるつもりだった背広はお寺や総本山への参詣・折伏等の信心活動に、そして作業服はお寺の掃除の時などに、と大活躍しています。もちろん、遺言状の「葬儀は友人葬(学会葬)で」という箇所も、「葬儀は日蓮正宗で」と書き換えました。
 学会時代に犯した謗法の罪障によるものか、体調を崩したことがありましたが、病院で「原因がわからない」と言われたにもかかわらず、真剣に唱題したらピタッと治ってしまった、という体験もしました。学会時代には経験したことのない、不思議な体験でした。
 創価学会には、以前の私と同じように、疑問を感じながらも学会にしがみついている、という人がたくさんいるはずです。そういう人達をはじめ、多くの人達を折伏して、もって御法主上人猊下様の御指南にお応(こた)えしていく決意です。





街宣での呼び掛けに20名以上が脱会!!

―学会には迷える会員が溢れている―
(理境坊所属 妙観講T.M〈記事は実名〉『慧妙』H24.5.16)

【学会と訣別!今や売り上げも倍増】
 私は、小学2年生の時に創価学会員として日蓮正宗に入信し、中学3年生の頃から、受験期にも聖教新聞の配達をするほど、学会活動にのめり込むようになりました。青年期は、地域の幹部として、また輸送班として、任務優先の生活をし、池田大作が書いたとされる書籍も全て読破しておりました。
 ところが、昭和62年のある時、『聖教新聞』の記事を読んでいるうちに、書物や学会内部で伝えられる池田大作像と、本物の池田大作は全く違う、ということに気づき、昭和63年初頭、創価学会の活動を全て停止しました。
 当時は、創価学会が決定的に謗法化してしまう以前でしたので、私は、自分の判断に間違いないかを、自分なりに調べていきました。ところが、その過程で、とんでもない慢心を起こしてしまったのです。それは、「池田大作と直接会ったこともない私ですら、彼の本性がわかるのに、なぜ、猊下様は気づかないのだろう。なぜ、池田と仲良くしているのだろう」というものでした。
 後にして思えば、猊下様は深い御慈悲の上から創価学会を善導あそばされていたのですが、私は、そんなことにも気づかず、慢心の上から批判の心を懐いてしまったのです。
 その後、創価学会が宗門への反逆を露わにしたことにより、、平成3年1月、正式に脱会して正宗寺院に付いたものの、私の生命の底辺にこの大慢心が巣くっていたために、3回も勝手に所属寺院を移り変わる、という過(あやま)ちを犯してしまいました。
 しかしながら、現在の講中において皆さんと接していくうちに、その純粋で求道心旺盛な姿に照らし、私は、自分の慢心した信仰姿勢を深く恥じ入るようになりました。そして、ある勉強会で御書の御文を通し、御僧侶の尊さと重大な存在意義について学んだ時、私は、かつて自分の慢心から猊下様や御僧侶に対して批判の心を懐いてしまった、それが謗法であることと、その罪の深さを思い知りました。
 以来、毎日、朝夕の勤行の中で、その犯してしまった謗法を懺悔申し上げ、罪障消滅を願って折伏にも励みました。
 折伏は、自らの悪業(あくごう)の深さゆえか、最初のうちこそなかなか成就しませんでしたが、発心から1年を経た頃から、毎月のように入信・帰伏する人が出るようになりました。
 それに伴って生活上にも功徳が現われ、数年前に趣味を生かして立ち上げた事業が、一気に売上げ倍増したばかりか、思いがけず、ある貿易代行会社から要請が舞い込んできて、海外への輸出も始まったのです。おかげで、この大不況の中にもかかわらず、経営も安定し、経済的にも時間的にもゆとりをもって信心活動に励める境遇となりました。


【街宣活動を開始、大きな反響を呼ぶ】
 さて、もっともっと自分にできる御奉公はないか、と考えた私は、創価学会の恐ろしい実態を広く社会に訴えるべく、一昨年の平成22年5月、「創価学会脱会者を支援する会」を立ち上げ、街宣活動を始めることにしました。
 創価学会の狂気の実態を思うと、非常に危険なことだとは思いましたが、かつて学会時代に誰よりも強く池田大作を宣揚(せんよう)してきた、その罪障を懺悔していくつもりで闘いを開始したのです。
 都内や千葉県・埼玉県などで、スピーカーを取り付けた自家用車を走らせ、創価学会の悪行を訴えていくのですが、その街宣活動の反響は非常に大きなものがありました。
 まず、創価学会に対して疑問を抱きつつも、誰にも相談できなかったという方達から、どんどん電話が入ってくるようになりました。
 それと同時に、学会員からの妨害も半端ではありませんでした。私の近所に怪文書が配布されたこともあります。怪文書の内容は、"Tは頭が狂って、ある特定の宗教団体(※学会とは書かないから笑止です)を批判するために街宣活動をしている"というものでした。街宣カーとして使用している私の自家用車には「創価学会脱会者を支援する会」という看板を付けているにもかかわらず、姑息にも、怪文書中の写真では「創価学会」という名称が削られていました。
 また、街宣活動中に10台ほどの学会員の車が尾行してきたこともありましたが、そのような時は駅前まで誘導し、「ここは北朝鮮じゃないぞ。お前達の師匠は誰だ!」とスピーカーで一喝すると、スゴスゴと散っていきました。
 他にも、チンピラのような学会壮年部が私の車に体当たりしてきて街宣活動をやめさせようとしたり、私の車に空き缶を投げつけたり、学会女子部が狂ったように走行中の車の前に立ちはだかってきたり等々、学会員の妨害行為を挙げたらキリがないほどです。
 しかし、こうした妨害や嫌がらせは、最初から予測していたことです。私は全く怯むことなく、信念として街宣活動を継続していきました。
 すると、創価学会を脱会したい方、創価学会に対して危険な団体だと同調してくれる方がどんどん現われてくるようになり、その方達と個別に話していったところ、私の直接の折伏だけでも、一昨年は9名、昨年は7名の方が、勧誡・御授戒を受けることができました。また、それ以外でも、この街宣活動がきっかけとなって帰伏する方が次々と現われ、その数は、これまでに20名を超えております。


【思いがけぬ出会いから】
 その中でも、特筆すべきケースを、いくつか紹介します。
 昨年11月30日、秋葉原駅で街宣活動をしていた際、学会員で元プロレスラーの方が声を掛けてきました。その場で約束し、その日のうちに自宅に伺ったところ、その方は私の街宣活動が命がけであるということに深く感動され、折伏に同行してくださった講中の先輩がプロレスに詳しかったのも効を奏して、初対面とは思えぬ和気あいあいとした雰囲気の中で話が進み、その日の深夜に帰伏することを決意されました。未入信の奥さんも信心していくことになり、翌日、2人揃って、勧誡と御授戒を受けることができました。
 さらに、12月下旬になると、思いがけぬプレセントがありました。私が車を走らせていたところ、近くを走っていた軽トラックが、ブレーキとアクセルを間違えて、私の車の左側に凄い勢いで追突してきたのです。相手の車はフロント部分が大破し、私の車も左側のドアが2枚大きく破損してしまいました。しかし、まさに街宣活動に向かっていた矢先の出来事でしたので、私は、その人の顔を見るなり、これは私に折伏をしてもらいたくて追突してきたのだ、と確信しました。
 そしてその日、相手を呼んで、車の賠償の話は早々と済ませ、すぐに折伏になりました。その人は、「今まで神も仏も信じなかったが、今、どん底に落ちて、神にも仏にもすがりたい気分だ」と言い、素直に入信を決意したのです。翌日、無事に御授戒を受けることができました。以来、毎日勤行に励んでおります。
 なお、本年4月の支部総登山および総会には、この街宣活動を通じて帰伏・入信したうちのほとんどの方達と共に登山することができました。下山の道中では皆が大感激しており、「総会の体験発表に感動し、涙が出た」とか「参加できて本当に良かった。学会幹部にも話をしたい」「母親が持っているニセ本尊を一刻も早く処分したい」等々、それぞれに今後の折伏の決意を語っており、皆で折伏を実践できる状況となってきています。


【九州へ飛んで実った折伏】
 さて、木年は、私の班として年間折伏目標を15名に設定しておりましたが、4月の支部総登山ならびに総会を経て、私自身もさらなる折伏の実践を強く決意しました。
 その決意に呼応するように、登山の翌日、長崎と富士宮の創価学会員から「創価学会を離れたい」との電話が入りました。ちなみに、私の街宣活動は、私が知らないうちにインターネットの動画投稿サイトでも流されており、それを見た遠くの方からも電話が入ったりするのです。
 長崎の方も動画サイトを見て電話したのだそうですが、私が「今からでも行きましょうか」と言うと、相手は「ホントですか!」と、たいへん驚いた様子でした。私は以前の経験からも、問い合わせがあったら即、対応しないと、魔が入って翻(ひるがえ)ってしまうこともある、と思っておりましたので、相手と会う約束をし、すぐに航空券の手配をして、妻と共に長崎に飛びました。
 そして、創価学会に入会して1ヵ月しか経っていないというtさんを折伏しました。
 tさんは、仕事関係の学会員から「とにかく学会に入ってくれ。その後は何もしなくてもいいから」と言われて学会に入ってしまったそうですが、その説明に大きな疑問を感じたようです。さらに、創価学会に入会してからわずか1ヵ月のうちに、仕事上で大きな行き詰まりが生じ、ますます疑問が膨(ふく)らんできた、とのことでした。
 私と電話で話した時点で、創価学会から離れる決意をしたそうですが、その翌日には行き詰まっていた仕事の問題が解消され、何件も契約が取れた、ということで、そのあまりの不思議さに、私達と会った時にはすでに日蓮正宗に帰伏する意思がほぼ固まっていました。1時間ほど話す中で、ニセ守り本尊を学会本部に送り返し、翌朝、佐世保市の法光寺様で御授戒をお願いすることになりました。
 法光寺様では朝6時の勤行の時に御授戒をしていただいたのですが、驚いたことに、tさんは妊娠中の奥さんも連れてきておりました。
 その後、奥さんを折伏するべく、私達が持参していった折伏用のDVDと大石寺のDVDを見せて話していくと、奥さんも「一緒に信仰したい」と言い、今から行く予定であった仕事を後回しにしてまで、御授戒を受けたい、というのです。
 法光寺様に再度ご都合を伺うと、「朝の10時から唱題行なので、その時に御授戒をしましょうか」と快く承諾してくださり、まったくの予定外であった奥さんまでもが、無事に御授戒を受けることができました。
 tさん夫妻は、現在喜んで信仰に励んでおり、「早く大石寺にも行きたい」と言っております。
 本年に入ってから3月までは育成に主眼を置いてきた関係で、「創価学会脱会者を支援する会」の街宣活動を一時中断しておりましたが、それも4月半ばからも再開いたしました。今後も多くの迷える創価学会員を1人でも多く救い出し、育成にも力を入れて、来年
の支部総登山ならびに総会には、さらに多くの人達の手を引いて集えるよう、全力で頑張っていく決意です。

[画像][画像]:「創価学会脱会者を支援する会」と大書したT氏の街宣カーと、その街宣風景





怪奇現象に悩まされた学会時代

―今、正信正行の喜びを胸に、折伏に邁進―
―北海道芦別市・志願寺支部 ―

(O.T〈記事は実名〉『慧妙』H24.5.1)

 私は、平成23年11月15日、志願寺御住職ご夫妻の熟心な折伏により、約54年にわたる創価学会人生に決別し、日蓮正宗に帰伏いたしました。
 私は、小学1年生の頃から母に連れられて折伏活動をし、水や塩をかけられながら、それでもあきらめずに折伏を続ける、というように、まさに学会活動に邁進する学会幹部の一族の中で育ちました。
 青年部時代は副本部長でしたので、創価班として登山の輸送を、また、牙城会として会館の警備を何十年も務め、さらに、市議会議員(無所属)に立候補するまでは副支部長として、常に第一線で私なりに精いっばい頑張ってきたつもりです。
 破門後の創価学会の現実は、座談会や会合では毎回、同じ人が同じ体験を繰り返して発表し、雰囲気も暗く、何の感動もありませんでしたが、それでも私自身は、学会員としての誇りは失っていませんでした。
 そのような私の家に、御住職夫妻は、その4年前から定期的に通ってきて折伏してくださったのですが、私は、「お寺に付けるために都合のよいことを言っているのだ」と思い込み、まったく聞く耳を持ちませんでした。
 何度訪問されても迷惑にしか思えず、とくに私の妻は、居留守を使ってドアを開けなかったり、面と向かって、「何度来られても気持ちは変わりません。迷惑ですので、2度と来ないでください」と言って追い返したりと、ずいぶん失礼なことをしてきました。
 しかし、御住職夫妻は、何度追い返されてもあきらめることなく、ニコニコしながら熱心に通い続けてくださったのです。御住職が1人で来られることもあれば、奥さんが1人のこともあり、時には、体験談を話してもらうために講員さんを連れてくることもありました。
 私が応対する時は、妻のように上手に断わることができず、ついつい、御住職の奥さんの笑顔に乗せられて、玄関先や庭先で話を聞いてしまうこともありました。そういう時はいつも、帰られる際に「話を聞いてくださって、ありがとうございます。また、来ますね」と元気に帰っていかれるのです。
 この御住職夫妻の生命力と行動力を間近に見て、いつしか私の心にも変化が現われてきました。


【ついに夫婦揃って帰伏を決意!】
 そして、昨年11月、私は妻に、「志願寺の御住職夫妻の話や折伏の振舞いは、なぜか、学会草創期に自分がしてきた折伏とダブって、懐かしい感じがする。まさに信心の原点のような気がする。唯一無二の正しい御本尊様は総本山にしかない、そこに連なっている末寺こそ正しいと思う」と話しました。すると、妻も「お父さんが志願寺に付くなら、私も一緒に付く」と言ってくれたのです。
 御住職夫妻が我が家を訪問してくださるようになってから、4年の月日が流れていました。
 その数日後、訪ねてきてくださった御住職夫妻に、創価学会をやめ、志願寺の信徒になる意志をお伝えしたところ、ご夫妻は大粒の涙をこぼして喜んでくださいました。「太田さん、広宣流布のために一緒に頑張っていきましょう」―気がつくと、お互いに固い握手を交わし、顔は涙でぐしょぐしょでした。
 そして、御住職に創価学会のニセ本尊を外してもらい、翌11月15日、晴れて勧誡を受け、御本尊様を御下付していただきました。13年ぶりに我が家に血脈正しい御本尊様をお迎えできたのです。
 翌日から御住職夫妻が勤行の指導に通ってくださり、本来の五座・三座の勤行・唱題の在り方を取り戻す中、御住職より「創価学会時代に積んでしまった長年の謗法をお詫び申し上げ、罪障消滅を御祈念すると同時に、折伏をするように」と指導されました。


【今まで誰にも相談できなかった怪奇現象】
 じつは、それまでの私達夫婦は、ある怪奇(かいき)な現象に悩まされ続けておりました。一昨年、学会員だった義兄が自殺したのですが、亡くなったその日から毎晩のように、その義兄の幽霊を感ずるようになっていたのです(親戚中が学会員ですから、義兄の葬儀はもちろん学会葬でした)。
 いるはずもない義兄が、玄関のドアをガチャツと開け、バタンと閉めて我が家に入ってきて、家の中を好き勝手に動きまわる気配と生臭い匂(にお)いが、はっきりと感じられました。
 ソファーで寝ていると、後ろから強い力で押されて落とされそうになったり、シーツが真っ赤に染まっていたり、布団に入った妻が羽交(はが)い締めにされたり―そうした感触をリアルに感じるのに、現実には誰もいない。あまりの不気味さに、本来、安穏であるはずの家庭は、住み心地の悪い状態になっていました。とくに妻は、1人でトイレに行くこともできず、恐怖と睡眠不足から半ばノイローゼ気味になり、仕事にも支障をきたすようになっていました。
 しかも、そうした怪奇現象は、私の家だけでなく、私の姉や義兄の娘(共に学会員)の家でも起こっていたのです。
 そのことを御住職に相談すると、御住職は塔婆供養をしてくださり、義兄の戒名を付けて過去帳も作ってくださって、御祈念してくださいました。
 すると、その後、我が家では怪奇現象がピッタリと起きなくなったのです。まさしく「正法」の威力であります。
 この一例をとっても、創価学会の"友人葬"では絶対に成仏できない、ということが明白です。なお、自殺ということについて言えば、私が住む赤平市においても、創価学会員の自殺が後を絶ちません
 私達夫婦は、御住職の御指導のもと、まずは身近な学会員から折伏していくことを決意し、帰伏してから1週間後には、長女と孫を折伏し、勧誡・御授戒を受けさせることができました。さらに、本年1月2日には、札幌に住む次女も、孫と共に帰伏できました。
 また、御住職夫妻と共に学会員のお宅へ何度も折伏に行きましたが、私達が志願寺に付いたことから、創価学会の中では「太田が住職を連れて来ても、取り合わないように」との通達が流れ、今まで懇意にしていた多くの学会員が聞く耳を持たなくなり、以前に面倒を見た学会員でさえ、挨拶もしなくなりました。
 しかし、御住職夫妻が私達夫婦の折伏をあきらめなかったように、私もあきらめることなく創価学会への折伏を続けていこう、と決意しました。


【20数年ぶりの登山に大歓喜】
 さて、去る3月31日・4月1日は、御住職夫妻や講中の皆さんと共に、待ちこがれた登山をさせていただきました。じつに20数年ぶりの総本山大石寺への参詣です。
 創価学会では、「大石寺は、荒れに荒れて、とても怖くて危険な所になっている。もうすぐ潰(つぶ)れて無くなってしまう」と聞かされていたのですが、実際にこの目で見た総本山は、学会の言っていることと大違いでした!
 桜の木はそのままだし、各宿坊も新築や改修が施され、境内地およびその周辺まで立派(りっぱ)に整備されて、以前にも増して総本山特有の荘厳さがみなぎっていたのです。
 私は、創価学会を破門した後、御僧侶と法華講員の力でこのような立派な事業ができたことに、驚きと感慨を覚えずにはいられませんでした。それと同時に、この現実を前にして、創価学会で流される情報がいかに嘘で塗り固められていたかを、まざまざと見せつけられた思いでした。
 さて、この登山の最中、私は、広布坊で行なわれた妙観講(総本山塔中理境坊所属)の総会にも参加させていただきました。そこで6名の方の体験が発表されたのですが、それはいずれも、創価学会とは違って、溢(あふ)れ出る功徳を証明しており、私はますます、「日蓮正宗こそが、世界で一番正しい宗教である」と確信いたしました。
 そして、この登山を契機に、私はあらためて、「残りの人生は全て、広宣流布のために、御本尊様に御奉公させていただこう」と決意し、議会や仕事の合間の時間を使い、計画的に折伏を進めました。
 その結果、妻の姉家族が帰伏できたのをはじめ、この4月だけで6名、昨年11月の私自身の帰伏した時から数えると、16名の方を帰伏・入信に導くことができました。


【厳然たる正信正行の功徳】
 現在、私は、建設会社を経営しながら、市議会議員(無所属として2期目)を務めておりますが、創価学会時代の私の身体はガタガタ状態で、血圧(200以上)・血糖値(450)・ヘモグロビン(10%超)が異常に高く、心臓にも異常をきたしていたため、常にニトログリセリンを使用していました。さらに、痛風による痛みで歩けなくなることもしばしば、ストレスによる手の痺(しび)れで字も書けない状態でした。
 ところが、先日の検査で、なんと、全ての数値が正常になっていたのです。主治医から「短期間でここまで良くなるとは、考えられないことだ」と言われ、看護師をしている妻も「信じられない」、と驚いています。
 また、長年経営している会社も、不況の波に呑まれ、潤っていた時期の10分の1以下に業績が落ちており、昨年などは、業績ゼロという最悪の状態でした。
 ところが、日蓮正宗に帰伏し、御住職の指導どおり、信心優先・折伏優先の生活をしてきたところ、不思議なほど順調に業績が伸び始めたのです。これもまた、正しい信心を正しく行じていくところに現われた功徳だ、と実感しております。
 思えば、学会時代の私は、幹部として創価学会の指示に従い、宗門や御僧侶を誹謗していました。その罪は非常に深いものであり、私は大変な過ちを犯してまいりました。
 今の学会員の悲惨な状態を見たとき、謬(あやま)てる宗教の恐ろしさを痛感せずにはいられません。また、創価学会の謗法、なかんずくニセ本尊の害毒が国難に大きく影響している、と強く確信します。
 この現状を、宗祖日蓮大聖人様は、きっと嘆き悲しんでおられるに違いありません。大聖人様の御心を肌で感じ、折伏を実践しているのは、日蓮正宗の僧俗だけです。
 日蓮大聖人様は、『法華初心成仏抄』で、
 「人の地に依りて倒れたる者の、返って地をおさへて起(た)つが如し」(御書P1316)
と仰せられ、正法に背いたものは、正法を受持することによって、初めて罪を消滅させることができることを御教示くださっていますが、私は、今生のみならず、過去遠々劫から積んできた正法誹謗の罪を消滅させていただくためにも、日蓮大聖人様の御当体たる本門戒壇の大御本尊様を堅く信じ、正統なる血脈に随順して、心から懺悔して唱題・折伏を行じ、広宣流布を目指してさらに頑張ってまいることを決意しております。