学会は「反戦・平和」の団体にはあらず!

―初代から3代へと伝わった全体主義崇拝―
―「大善生活によって戦争に勝つ」と牧口氏―
―「全体主義は理想の形態だ」と池田大作―

(『慧妙』H17.11.1)

 11月18日は、創価学会の創立記念日である。創立75周年となる本年、創価学会は創立記念日に向けて、またぞろ歴史の改ざんを試みている。
 すなわち、『大白蓮華』(11月号)において「3代会長の獄中闘争(上)」なる特別企画を組み、創価学会が、あたかも一貫して反戦・平和を訴えてきた団体であるかに、歴史を粉飾(ふんしょく)しようとしているのである。
 ところがその矢先、創価学会にとってまことに不都合な資料が世に出回ってしまった。というのは、写真週刊誌の『フライデー』が、戦時中、創価学会(当時は「創価教育学会」)が作った『通諜』の実物写真を大きく掲載、"創価学会の「反戦平和団体」との看板に偽(いつわ)りあり"と報じたのである。
 これにより、創立75周年慶祝キャンペーンの出鼻を挫(くじ)かれる格好となった創価学会は猛反発、怪文書『フェイク』(632・633・634号)を用い、3日連続で反論を試みた。
 が、この『通諜』問題に関しては、すでに平成5年の時点で、それがまごうことなき本物であることを、本紙が完壁に論証済み(平成5年6月1日号から9月16日号を参照)。今回の一連の『フェイク』は、口先だけは勇ましかったものの、目新しい反論材料は何1つ示せずじまいで、ただひたすら"学会は反戦・平和を唱え続けた"と連呼するのみのお粗末さであった。
 しかるに、そもそも創価学会が戦争翼賛団体であった、という証拠は数多くあり、『通諜』はそのうちの1つにすぎない。
 学会が、かつては戦争翼賛団体であった、、否、今現在でも、けっして"反戦・平和の団体"などと公言できる団体ではないことを、この際あらためて証明しよう。


【著述に明らかな牧口氏の軍国思想】
―入信前も入信後も覇権主義唱える―
 まず、『フェイク』(633号)は、「牧口会長が日露戦争の前年に発刊した『人生地理学』で、人類は『軍事的、政浴的、経済的な競争』という『戦争の文化』の段階から、『人道的な競争』という『平和の文化』の段階へ、断じて進んでいかねばならないと強く主張したことは、有名である」という。
 が、牧口氏は、大正5年に著(あら)わした『地理教授の方法及内容の研究』で、
 「若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ」(『牧口常三郎全集』第4巻273頁)
 「我国の主権は、即ち万世一系の天皇にましまして、吾々国民から言へば上に万世一系の皇室を戴(いただ)き奉(たてまつ)るのである」(『牧口常三郎全集』第4巻277頁)
と主張している。つまり、"外敵"に対する防御のみならず、日本の権勢拡大のためにも弱い国家に対して「力」を使え、と力説し、我が国の主権者は天皇・皇室であることをしっかりと教え込め、と訴えているのだ。
 創価学会としては、牧口氏は日蓮正宗に入信する以前から、もともと平和主義者であった、ということにしたかったのであろうが、それはあまりにも無茶というものである。
 では、創価学会を創設した牧口氏が、それまでの考えと一転して、反戦・平和を主張し、天皇制批判でも展開したのか、といえば、さにあらず。
 まず、創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁)
 創価教育学会が、、当初から反戦・平和を唱え、天皇制を批判していたのなら、軍人や植民地支配の最高責任者に顧問就任を要請するはずなどなく、また軍人らも、要請されたとしても、それを承(う)けようはずがない。
 この事実をもってしても、創価教育学会が反戦・平和の団体であった、というのが、大ウソであることがわかる。
 また、昭和15年4月30日に行なわれた、創価教育学会第2回総会の会場となったのは、九段の軍人会館(現在の九段会館)。
 反戦・平和の団体が、こともあろうに「軍人会館」で大切な総会を開催するとは、どう考えてみても不自然であろう。加えて、軍人会館の側も、反戦団体に会館を貸す、などというのも、全く考え難(がた)い話ではないか。
 しかして、当時の牧口氏は、
 「我々は天皇陛下の御為に、1人でも多く折伏し、実行を以て示さねばならぬ」(「目的観の確立」『牧口常三郎全集』第10巻8頁)
 「東亜共栄圏乃至世界列国にこれからの新秩序の中核として吾等が実証によってこゝに提供せんとする最高価値の大善生活法は、人生の理想として何人も渇望する所のものであり、仏教の極意たる成仏法こそ之に応じた妙法であり、又『惟神(かんながら)の道』の真髄も之でなければなるまい。所謂(いわゆる)皇道精神もこれ以外にあるべきはない」(「大善生活法の提唱」『牧口常三郎全集』第10巻9頁)
 「大善生活は個人主義生活や独善主義の生活ではなく、まして臆病なる寄生主義の生活でもなくて、勇敢なる全体主義の生活なることが解るであらう。全体主義とはいへ己を忘れるが為に、云ふべくして行はれないやうな空虚なる偽善生活ではなく、自他共に共栄することによって初めて、完全円満なる幸福に達し得る、真実なる全体主義の生活のことである。全体のためと共に、各個人にもその所を得しめる皇道精神の理想と一致することが知れるであらう」(「大善生活法即ち人間の平凡生活に」『牧口常三郎全集』第10巻14頁)
 「戦場に於ては悉(ことごと)く大善生活法の実践であり、それによってのみ勝利が得られ、これがなくしては必ず惨敗をするのである」(「大善生活法即ち人間の平凡生活に」『牧口常三郎全集』第10巻18頁)
 「大臣も知事も他の百官も権力に於いては悉く、天皇陛下の大御稜威(みいつ)に摂(せっ)せられる。故に一切の政治機関のあらゆる権力は悉く、天皇陛下の統治権の発動に過ぎない」(「大善生活法の実践」『牧口常三郎全集』第10巻18頁)
 「『皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る』といふ剣道の真髄を、実戦に現はして国民を安堵(あんど)せしめられるのが、今回の日支事変及び大東亜戦争に於て百戦百勝の所以(ゆえん)である。それは銃後に於けるすべての生活の理想の要諦でもある」(「大善生活実験証明の指導要領」『牧口常三郎全集』第10巻129頁)
等々の指導を繰り返しているのである。
 そして、会合を開くにあたっては宮城を遥拝(ようはい)し、軍歌を高唱していたのである。
 これらのことから、創価教育学会は、とくに反戦・平和の団体などと呼べるものではなく、実際は、天皇を国主と仰ぎ、その下に「大善生活法」に基づく全体主義社会を築こうとした、むしろ戦争翼賛の団体であったことがわかろう。
 その創価教育学会が、なぜ取り締まられたか、といえば、ただひとえに、大麻―天照皇大臣の神札に対する不敬罪と、大善生活によらなくては大東亜戦争は負ける、との主張が治安維持法に触れたからであった(さらにその背景には、第59世・堀日亨上人が「法難の起る時、必ず外に反対宗門の針小棒大なる告発ありて其端を発し、内に世相を無視して宗熱に突喊〈とっかん〉する似非〈えせ〉信行の門徒ありて、両面より官憲の横暴を挑発するの傾き多し」〈『富士宗学要集』第9巻247頁〉と指摘されているように、社会状況を全く考慮しない、強引で非常識な布教活動があり、これについて官憲への告発がなされていた)。
 べつに、反戦・平和を唱えたために弾圧を受けた、というわけではないのである。


【「反戦・平和」と強弁するのは無理!】
―資質が疑われるナポレオオン礼讃―
 さて、戦後の創価学会はどうか―。
 創価学会は昔から、士気を鼓舞(こぶ)するため「学会歌」を高唱することを常としてきた。以下に戦後の「学会歌」のいくつかを紹介しよう。

〈日本男児の歌(戦陣訓の歌)〉
一、日本男子と生まれ来て 戦(いくさ)の庭に立つからは 名をこそ惜しめ つわものよ 散るべき時に潔く散り 御国に香れ桜花

〈出撃(加藤隼戦闘隊)〉
一、エンジンの音 轟々(ごうごう)と 隼は征く雲の果て 翼に輝く日の丸と 胸に描きし若鷲の 印は吾等が戦闘隊

〈同志の桜(同期の桜)〉
一、貴様と俺とは同志の桜 同じ学会の庭に咲く 咲いた花なら 散るは覚悟 見事散ろうよ国のため

 あえて説明する必要もなかろうが、全て軍歌に若干の手を入れただけの代ろ物である(カッコ内は原曲である軍歌の題名)。すなわち、戦後の創価学会もまた、「軍歌」を利用して士気を鼓舞してきたのであって、戦後の創価学会が、軍国主義の形骸(けいがい)を引きずっていたことは、隠しようのない事実なのである。
 そもそも、会長となった戸田城聖氏が、かの戦争についてどのような考えを持っていたかというと、
 「日本の癌(ガン)になる対支問題の解決には、われわれが支那大陸の地下工作にまで乗り出そうではないか!勿論(もちろん)、巌(がん=戸田城聖氏自身のこと)の全財産は、この運動に提供する」(精文館発行・妙悟空著『人間革命』386〜387頁)
 「牧田城三郎先生(牧口常三郎氏のこと)は国家諌暁(かんぎょう)を思い立たれ、自分は学会幹部を集めて、救国の一大折伏戦や、支那大陸への潜行運動などを展開しようとしたが、それは飽(あ)くまでも、日本を負けさせたくないからであって(以下略)」(同書455頁)
との記述に明らかなように、牧口氏と同じく、あくまでも日本の戦勝を目的とし、そのためにできることは積極的に行なっていこう、というものであった。
 さらに戸田氏は、心理学者のインタビューに応えて
 「戦争では勝ちたかった。負けるとは思っていなかった。私の今もっている信念は、当時はなかった。私には教学もなかったし、勉強もしてなかったからなんだ。初代会長は勝つといっていた。(学会の)教線が伸びたのは日本の戦勝と一致していたし、学会の弾圧と敗戦への方向が一致し、初代会長の獄死と共に本土空襲がはじまったので、その結びつきは考えた」(小口偉一編『宗教と信仰の心理学』)
と語っている。
 このように、戸田城聖氏率いる戦後の創価学会も、牧口時代からの考えを捨ててはいなかったのである。
 それを象徴するのが、昭和29年10月に行なわれた、創価学会青年部による1万名総登山の際の大出陣式であろう。
 昭和29年10月31日、創価学会は総本山大石寺近くにあった高校の校庭を借り、男女青年部員1万人による大出陣式を挙行した。
 この時、白馬に跨(またが)った戸田城聖氏は、部隊旗を先頭に分列行進する青年部員を"閲兵"。その上空を"戦闘機"ならぬセスナ機が旋回する。そして地上では、軍歌モドキの"部隊歌"の大合唱。さらに後日には、「軍楽隊」までが結成された―。
 こうした、戸田氏の発言や創価学会の行動形態に顕著なように、戦後、戸田城聖氏が再建した学会組織もまた、「反戦・平和」のかけ声とは裏腹の体質を持ち合わせていた。
 そして、その体質の中で様々なものを学んだ池田大作が、「本当は全体主義は1番理想の形態だ」(昭和47年4月18日「第60回社長会」)との考えに固まったのも、理の当然といえよう。
 ちなみに、去る10月25日付の『聖教新聞』の1面を大々的に飾ったのは、11月3日より東京富士美術館で開催される「栄光の大ナポレオン展」の紹介記事。そしてそこには「英雄の生涯を彩る文化の光」の文字が―。
 たしかに、ナポレオンは立志伝中の人物であり、また「英雄」には違いない。
 だが、その「英雄」というも、所詮は軍人としての非凡さを称える呼称であって、侵攻された側、例えば、ゴヤの絵で有名なマドリードの虐殺の犠牲となったスペイン民衆、あるいは、ロシア遠征によって尊い命を落とした数十万名のロシア・フランス両軍兵士や巻き添えになった市民にとって、ナポレオンは残虐な「侵略者」であり、冷酷な「独裁者」以外の何者でもなかったのである。
 しかれば、少なくとも、「反戦・平和」を唱える者にとって、ナポレオンは、たとえどのような理由を付けようとも、賞賛の対象にはなり得ない。
 ところが、創価学会なかんずく池田大作は、再三再四、ナポレオンを賞賛。東京富士美術館等で何度も「大ナポレオン展」を開くばかりでなく、これを全国各地で(例えば8月には長崎で、10月には神奈川で)開催してきているのである。
 このことからも、池田創価学会が唱える「反戦・平和」が、単に名目だけのものであることが窺(うかが)われよう。
 そして何より、御法主日顕上人猊下をはじめ「学会の敵」と見なした者を、徹底的に罵倒(ばとう)し、執拗(しつよう)に攻撃する姿勢に、牧口氏の時代から、創価学会内に連綿と受け継がれてきた体質が、よく現われているではないか。
 創価学会は、その成立の昔から今に至るまで、「反戦・平和」などとは、およそほど遠い団体だったのである。