学会顧問(台湾総督)が少数民族弾圧(仮題)

―日・台で脚光浴びる台湾の霧社事件(抗日蜂起事件)―
―当時、弾圧指揮した総督が学会顧問―

(『慧妙』H16.3.16抜粋編集)

 昭和6年、創価教育学会は発足に当たり、11人の顧問を設置している。その中に、貴族院議員や官僚、あるいは海軍大将・野間口兼雄や台湾総督・太田政弘がいた。
 この太田政弘は、台湾総督府の最高責任者として、霧社事件に深く関わった人物である。台湾総督府とは、日本の植民地となった台湾を統治するため、台北に設置された当時の日本の官庁名であるが、1895年から1945年まで、台湾を支配し、行政・司法・立法・軍事を一手に掌握していた。


<霧社事件>
 霧社事件とは、1930年10月に現在の南投県霧社で起こった、台湾原住民による最大にして最後の抗日蜂起事件である。
 この事件は、日本人警察官が台湾の先住民タイヤル族に対し、民族文化を無視した生活を強制したり、重労働を課したことなどが原因となり、1930年10月、タイヤル族約300人が、日本人が多数居住していた霧社の駐在所や小学校などを襲撃し、134人ほどの日本人を殺害したものである。
 これに衝撃を受けた台湾総督府は、総督府警察隊と台湾軍約2600人を投入し、タイヤル族の戦闘員・非戦闘員に対し砲撃や爆撃による鎮圧を行ない、ついには毒ガスまで使用した、と言われている。
 その結果、タイヤル族の343人が戦死、約300人が自殺、約600人が投降した。
 さらに翌年、投降し収容されたタイヤル族の生存者を、親日派タイヤル族が襲撃して多数を殺害、結局、生存者は300人ほどとなった。しかも、この襲撃を手引きしたのは日本人警察官といわれている。
 この、大人数を残酷に殺害した事件は、現代における無差別テロと同様であるが、いままで公に触れられることはなかった。しかし、このたび、台湾において霧社事件が初のドラマ化(※「風中緋櫻」)され、両国において話題となっているのである。
[資料]:霧社事件

[資料]:台湾総督府


<「平和と反戦の団体」ではなかった学会>
 このような残虐な戦争の中心的人物であった太田政弘や野間口兼雄ら高官を、顧問に請うて発足した創価教育学会が、平和と反戦の団体などとは、とても言えるはずがない。
 彼らを招聘(しょうへい)した創始者・牧口常三郎にも、反戦的な考えはなく、むしろ戦争容認の思想であったといえよう。これは当時、学会の総会において宮城遥拝(ようはい) 戦争賛美の演説が行なわれたり、戦勝の念願ヒトラー賛美、あるいは他国への侵略を肯定する演説がなされ、さらには牧口会長の靖国神社への参拝等からみても、誰の目にも明らかである。
 戦時中に反戦を掲げなかった、などと批判するつもりはないが、現に、創価学会に戦争容認の思想が存在していた過去は消せない事実であり、これを隠し、いくら『創価新報』や『聖教新聞』にて「学会は当初より反戦・平和の団体」「初代会長は戦争反対を叫んで投獄された」などと宣伝しても、それは偽善でしかない。