極秘資料が語る戦時学会と特高との関係

(『慧妙』H28.1.1)

 ジャーナリスト高橋篤史氏は未公開の学会機関紙『新教』(のちに『教育改造』昭和10年12月別冊号から昭和11年7月号までの計7冊)を精査し、平田勲検事と学会関係者の近すぎる関係をつきとめた。
 以下、「極秘資料が物語る『戦時』創価学会の真実」(『週刊東洋経済』H27.9.26)によって述べる。
 昭和11年5月4日、牧口は学会幹事の矢島周平、同研究所員・石澤泰治と高地虎雄を連れて、警視庁労働課と内務省警保局を訪問。思想犯の考えを変えさせる転向指導について懇談した、とある。
 警保局は特高の元締めであり、労働課は労働運動を苛烈に取り締まる部署である。牧口を除く3人は、その足で平田勲検事のもとを訪ねた。
 平田は、昭和8年、共産党最高指導者佐野学、鍋山貞親の「転向声明」の仕掛け人とされる、思想検事の大物である。この「転向声明」のため、共産党はほぼ壊滅する。
 高地はこの翌々日、単身出発して長野市の思想検事や特高課長らとも懇談した。
 「君たちのように、一度左翼の洗礼を受けたもので、真に転向を完成して新しい信念を得た人たちに、外部から積極的に働きかけてもらはぬとだめだ」(『新教』S11.6)
と高地は激励された、という。
 長野支部を無事立ち上げた高地は、5月14日に再び警視庁と内務省を訪れ、長野行の首尾を報告している。
 「翌月5日には長野県特高課の刑事が学会を訪れ、牧口らと転向談義に花を咲かせた。くだんの刑事は、長野県教員赤化事件の検挙に当つて、頗(すこぶ)る辛辣(しんらつ)なる評のあつた人であるが今や態度を一変し……数時間の打解けた歓談を遂げて満足して帰った。」(『教育改造』S11.7)
 後の牧口の論文によれば、元赤化教員の学会参加は「拾余名に達した」という。