【旧】(身延側の発言で)「日蓮正宗が正しいという証拠を出しなさい」(18頁)
【新】「あんた方が正しいという証拠を出しなさい」(27頁)
【旧】(身延側の発言で)「だから、正宗が正しいということを文証で証明してみろ、と言っているんじゃないか」(20頁)
【新】「だから、正しいということを、文証で証明してみろ、と言っているんじゃないか」(29頁)
【旧】彼女の輝いた顔には、微笑すら浮かんできた。日蓮正宗・創価学会の正統さについて、微塵(みじん)の疑いもなく、彼女は心の底から確信していたのである。(21頁)
【新】彼女の輝いた顔には、微笑すら浮かんでいた。微塵の疑いもなく、彼女は、心の底から勝利を確信していたのである。(30頁)
【旧】「日蓮正宗が正しいから、御本尊様も正しい。日蓮大聖人の血脈は日蓮正宗にしか伝わっていない……」(14頁)
【新】「私たちの信心が正統派なんだから。日蓮大聖人の正しい教えは、日興上人にしか伝わっていない。だから、私たちが正しいと言うのです」(23頁)
【旧】「日蓮大聖人の血脈は、ちやんと日興上人に受け継がれているのです。だから日蓮正宗が絶対に正しい!
その正統の実践をしながら外護をしているのが創価学会です」(18頁)
【新】「日蓮大聖人の仏法は、ちゃんと日興上人に受け継がれているんです。だから、私たちの方が絶対に正しい!その大聖人の仏法を、正しく実践しているのが創価学会です」(26頁)
【旧】「御書に照らしてみても、日興上人の身延離山の歴史から考えても、日蓮大聖人の血脈は日蓮正宗にしかないことは、一点の疑いもない」(32頁)
【新】「御書に照らしてみても、日興上人の身延離山の歴史から考えても、日蓮大聖人の正義は、身延にはないことは、一点の疑いもない」(42頁)
【旧】「身延山久遠寺の別当たるべきなり」
と『池上相承書』にあるように、日蓮大聖人から日興上人に付嘱された身延山である。
大聖人滅後7年にして、その身延を離山しなければならなかった日興上人の決断は、よくよくの状況のもとにあったといわなければならない。(114頁)
【新】大聖人滅後7年にして、その身延を離山しなければならなかった日興上人の決断は、よくよくの状況のもとにあったことを示している。(134頁)
【旧】「このように日興上人が唯ひとり正しく大聖人の正義を伝承されて今日にいたっている。これこそ日蓮正宗富士大石寺である!」(120頁)
【新】「このように日興上人が唯ひとり正しく大聖人の正義を伝承されて今日にいたっている。」(144頁)
【旧】御霊骨は大石寺にあること、そして身延には本尊がないことを力説した。(121頁)
【新】全文削除
【旧】「大石寺には、ちゃんと三大秘法の本門戒壇の大御本尊があるのを知っているでしょう。あんたたちにはこの大御本尊が無いから、勝手なでたらめばかり言っているのじゃないの」
「ああ、あの板曼荼羅(まんだら)のことか。大聖人は一機一縁でたくさんの御本尊をお遺(のこ)しになった。本門戒壇の本尊などといったって、それだけが正しいというわけにはいかないではないか……」
村木啓山は噂話でもするような軽い調子で本尊論をしゃべりはじめた。そして、大石寺の大御本尊は後世の偽作とさえいわれていると、さまざまな臆説をまことしやかに述べはじめたのである。(16頁)
【新】全文削除
【旧】本門戒壇の御本尊をはじめとし、生御影(しょうみえい)、御灰骨など一切の重宝を捧持し厳護して、一門の多くの弟子たちとともに富士に向かった。一行は途中、日興上人の養家のある河合に暫時滞在し、やがて2月には純信な若き地頭南条時光の待ちうけている上野郷にはいった……。(118頁)
【新】全文削除
【旧】彼は昔から何度となく繰り返されてきた大御本尊に対する中傷を、ここでまた持ちだした。この本尊の添え書きに疑点があるとか、「御本尊七箇相承」には仏滅後2千3百3十余年と書けとあるのに、大御本尊は2千2百2十余年とあるのはおかしいとか、7百年前にあんな大きな楠の板があるとは考えられないとか、これまで言い古された後年の偽作説の蒸しかえしである(120頁)
【新】全文削除
【旧】関はひとこと前置きをして「聖人御難事」のなかの、大聖人が出世の本懐を言明した「余は二十七年なり」の文証をあげてから、これまでの身延側の発言に対し、一つひとつ鋭利な質問の矢を放った。(121頁)
【新】全文削除
【旧】「さきほど長内先生から弘安2年の御本尊は疑わしい、とただそれだけのことで、いったい何がどうしたというのか、もう少し具体的にしてほしい。指摘してほしい。
とくに私が具体的にお聞きしたいことは、もし弘安2年の御本尊は駄目だ、日蓮正宗は駄目だというなら、どの信仰が正しいのか。狐や稲荷や鬼子母神を祀(まつ)っているようなことが、大聖人の教えであるのか。こういうことを何も説明できないで、ただ大石寺の本尊は怪しいというだけでは、それではお話にならないと思う」(113頁)
【新】山平は、独特の冷静さで、大石寺の御本尊への疑いを晴らしたあと、身延の本尊雑乱を厳しく追及していった。
【旧】大石寺の大御本尊に関する文証が御遺文のどこにあるかという質問に、山平忠平は受けて立った。
「お答えします。御本尊は各種あります。これら御本尊のなかで、いったい大聖人がお手紙なり何なりに書き遺された御本尊がありますか!
もし『本門戒壇の御本尊』と御書にないからといって、それで佐渡始顕(しけん)がよいというなら、佐渡始顕というお手紙、あるいは御文証がどこにありますか……。
しかしながら、御本尊には必ず添え書きがございます。何々某に授与す、あるいはどこの何々某に授与す、このように御本尊の意義が、それぞれお認(したた)めになられているのです。
その御本尊の意義として『本門戒壇』……こう大聖人がきちっと御本尊にお認めになっているのですよ。……これ以上の文証がどこにありますか……。」(126頁)
【新】全文削除
【旧】山平は、身延離山の歴史を語ることによって、日蓮大聖人の仏法の正統な流れは日蓮正宗のみにあることを具(つぶ)さに実証して終わったのである(124頁)
【新】山平は、身延離山の歴史を語ることによって、日蓮大聖人の仏法の正統な流れは、日興上人のみに受け継がれたことを、つぶさに論証して終わったのである。(148頁)
【旧】山平は領(うなず)き、大聖人の三大秘法の仏法をまず説き、本門の本尊として弘安2年10月12日に建立されたのが大石寺の大御本尊である、と論をすすめた。(125頁)
【新】山平は頷き、まず、大聖人の三大秘法について述べ、本門の本尊について語ってから、反撃に移った。(149頁)
【旧】(※砂村問答のエピソード)日蓮正宗総本山第48世日量上人に親しく教化薫陶(くんとう)をうけた俊英(しゅんえい)、永瀬清十郎(55頁)
【新】削除
【旧】(※明治15年、日霑上人が活躍された「横浜問答」のエピソード=67頁)
【新】全文削除
【旧】(※明治11年、「霑志問答」のエピソード=68頁)
【新】全文削除
【旧】日霑上人は、まことに法論にかけては真の名手であられた。さらに生涯を通じて、席の温まることは少なく、日本全国を数回にわたって足繁(しげ)く、信徒の要請のあるところへは何処であろうとも東奔西走することを事とした。幕末から明治維新にかけての激動期から、明治新政府の草創の激変期にかけ、つまり嘉永6年の登座から明治23年の没年にいたるまで、宗門の一切の責任を両肩にかけて奮闘しぬかれた。(69頁)
【新】全文削除
【旧】小樽の日蓮系寺院の信徒であった彼らは、創価学会の九谷貞枝の紹介で日蓮正宗に改宗した(5頁)
【新】身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗妙龍寺の信徒であった彼らは、創価学会の九谷貞枝の紹介で入会したのだった(12頁)
※これは「発端」の章の一文であるが、創価の信心が日蓮正宗とは無関係であるかのようなレトリックが改訂版では多用されている。また、「入信」はすべて「入会」と書き換えられているが、現学会でも入会=信仰開始ではないはずだが。なお「御授戒」も削除されている。【旧】学会側は約7百名、身延側は約3百名、身延側の背後の空席は学会員たちで埋まり(97頁)
【新】演壇に向かって右側を創価学会員が占め、左側を身延系日蓮宗の僧侶や信徒が占めた(117頁)
※改訂文では法論会場での彼我(ひが)の聴衆の比率が半々であったかのように書いているが、実際は、創価学会は大動員をかけて、身延側の倍以上の聴衆を会場に送り込んだ。そして大勢の学会員による大音量の粗野(そや)な野次で、身延側講師を心理的に圧倒するという雑音干渉作戦を展開したのである。そのため、会場で録音されたレコードは法論資料としては聞くに堪(た)えないものになっている。【旧】男度胸は鋼鉄の味よ/伊達にゃささない腰の剣/抜けば最後だ命をかけて/指もささせぬこの守り
【新】全削除
【旧】「日蓮大聖人の血脈は、ちゃんと日興上人に受け継がれているのです。だから日蓮正宗が絶対に正しい!
その正統の実践をしながら外護(げご)をしているのが創価学会です」(18頁)
【新】「日蓮大聖人の仏法は、ちゃんと日興上人に受け継がれているんです。だから、私たちの方が絶対に正しい!その大聖人の仏法を、正しく実践しているのが創価学会です」(26頁)
班長婦人の本来の主張では、日蓮大聖人→日興上人→日蓮正宗→創価学会、というように大聖人から創価学会まで正統性の連環(れんかん)が明確に説明されていたが、改訂版では日蓮大聖人→日興上人の連環で止まっており、そこから突然、創価学会にワープしている。【旧】御書に照らしてみても、日興上人の身延離山の歴史から考えても、日蓮大聖人の血脈は日蓮正宗にしかないことは、一点の疑いもない(32頁)
【改】御書に照らしてみても、日興上人の身延離山の歴史から考えても、日蓮大聖人の正義は、身延にないことは、一点の疑いもない(42頁)
改訂版では、"大聖人の正義は身延にない"という破邪で止まっており、"では、正義はどこにあるのか"という顕正が故意に隠されてしまっている。【旧】このように日興上人が唯ひとり正しく大聖人の正義を伝承されて今日にいたっている。これこそ日蓮正宗富士大石寺である!(120頁)
【改】このように日興上人が唯ひとり正しく大聖人の正義を伝承されて今日にいたっている。(144頁)
フレーズの最後の部分、池田は「これこそ創価学会である」と改竄(かいざん)したかったのだろうが、録音証拠があるためにできず、"日蓮正宗富士大石寺"部分を単純削除しているが、その結果、改訂版では日興上人後の正義伝承の行方を具体的に示さぬ不完全な主張になってしまった。【旧】御霊骨は大石寺にあること、そして身延には本尊がないことを力説した。(121頁)
【改】全文削除
そして、【旧】本門戒壇の御本尊をはじめとし、生御影、御灰骨など一切の重宝を捧持(ほうじ)し厳護して、一門の多くの弟子たちとともに富士に向かった。
一行は途中、日興上人の養家のある河合に暫時(ざんじ)滞在し、やがて2月には純信な若き地頭南条時光の待ちうけている上野郷にはいった…。(118頁)
【改】全文削除
これらは地(※会話でない叙述)の文であるが、大石寺の正統性の根拠となる情報は改訂版ではことごとく抹殺されている。【旧】「……ただいま山平先生によって言われましたところの弘安2年のこの閻浮提総与の本尊のことでございまする。そのことは日蓮上人の御妙判のどこにも書いてないということを私は断言する。……」
彼は昔から何度となく繰りかえされてきた大御本尊に対する中傷を、ここでまた持ちだした。この本尊の添え書きに疑点があるとか、「御本尊七箇相承」には仏滅後2千3百3十余年と書けとあるのに、大御本尊は2千2百2十余年とあるのはおかしいとか、7百年前にあんな大きな楠(くすのき)の板があるとは考えられないとか、これまで言い古された後年の偽作説の蒸しかえしである。(120頁)
【改】全文削除
これは身延側の論難の1つを要約した箇所であるが、これに対する学会側の弁駁(下記)が本門戒壇の大御本尊の正しさを論証、顕揚するものであるため、攻守もろとも削除、あるいは姑息な改変がなされている。【旧】関はひとこと前置きをして「聖人御難事」のなかの、大聖人が出世の本懐を言明した「余は二十七年なり」の文証をあげてから、これまでの身延側の発言に対し、一つひとつ鋭利な質問の矢を放った。(121頁)
【改】全文削除
【旧】「さきほど長内先生から弘安2年の御本尊は疑わしい、とただそれだけのことで、いったい何がどうしたというのか、もう少し具体的にしてほしい。指摘してほしい。
とくに私が具体的にお聞きしたいことは、もし弘安2年の御本尊は駄目だ、日蓮正宗は駄目だというなら、どの信仰が正しいのか。狐や稲荷や鬼子母神を祀(まつ)っているようなことが、大聖人の教えであるのか。こういうことを何も説明できないで、ただ大石寺の本尊は怪しいというだけでは、それではお話にならないと思う」(123頁)
【改】山平は、独特の冷静さで、大石寺の御本尊への疑いを晴らしたあと、身延の本尊雑乱を厳しく追及していった。(148頁)
小樽問答のクライマックスとも言える本尊論の論戦であり、読者はその攻防の詳細が知りたいはずだが、旧版にあった数百字に及ぶ本門戒壇大御本尊の正しさを論証したくだりは悉(ことごと)く削除され、「独特の冷静さで、大石寺の御本尊への疑いを晴らした」の1行で片付けられてしまっている。【旧】大石寺の大御本尊に関する文証が御遺文のどこにあるかという質問に、山平忠平は受けて立った。
「お答えします。御本尊は各種あります。これら御本尊のなかで、いったい大聖人がお手紙なり何なりに書き遺(のこ)された御本尊がありますか!
もし『本門戒壇の御本尊』と御書にないからといって、それで佐渡始顕がよいというなら、佐渡始顕というお手紙、あるいは御文証がどこにありますか……。
しかしながら、御本尊には必ず添え書きがこざいます。何々某に授与す、あるいはどこの何々某に授与す、このように御本尊の意義が、それぞれお認(したた)めになられているのです。その御本尊の意義として『本門戒壇』……こう大聖人がきちっと御本尊にお認めになっているのですよ。……これ以上の文証がどこにありますか……。(126頁)
【改】全文削除
【旧】山平は頷(うなず)き、大聖人の三大秘法の仏法をまず説き、本門の本尊として弘安2年10月12日に建立されたのが大石寺の大御本尊である、と論をすすめた。(125頁)
【改】山平は頷き、まず、大聖人の三大秘法について述べ、本門の本尊について語ってから、反撃に移った。(149頁)
上記2例でも、本門戒壇の大御本尊の絶対性を論証した小平教学部長の熱弁は改訂版では完全に削除され、「本門の本尊について語ってから」などと、具体像なき一般論が語られたかのように軽く片付けられており、まったく顕正の体をなしていない。