創価学会破折
「小樽問答」でジレンマに陥った改訂版



「小樽問答」でジレンマに陥った改訂版@/『慧妙』H25.11.1

「小樽問答」でジレンマに陥った改訂版A/『慧妙』H26.1.1

「小樽問答」でジレンマに陥った改訂版B/『慧妙』H26.2.1



「小樽問答」でジレンマに陥った改訂版@

(『慧妙』H25.11.1)

【「戒壇の大御本尊」が争点の「小樽間答」だが】
 前回は、旧版の『人間革命』に百数十箇所あった「大御本尊」という表記が、改訂版では「御本尊」と書き換えられている点について指摘した。池田のこの書き換えは、本門戒壇の大御本尊を学会員の耳目から遠ざけ、正法への正しい信仰を邪魔する大謗法の所業であるといえよう。
 「大御本尊への車引き」を自任し、それを全うした戸田会長とは、真逆のことをしている弟子・池田大作の師敵対ぶりに、全学会員は気づかなければならない。
 さて、改訂版における池田の徹底した「本門戒壇の大御本尊」隠しは、第9巻の「小樽問答」の章で大きなジレンマにぶち当たることになる。
 小樽問答は、昭和30年に日蓮宗と日蓮正宗創価学会の間で行なわれた、公開法論である。身延側は日蓮正宗の戒壇の大御本尊を攻め、学会側は身延の本尊雑乱を攻める、という構図で論戦が行なわれ、いわば彼我の本尊の正邪を決する重要な法論対決であった。
 池田は『小樽問答誌』の再版の序文で「一般世間では、いまだに日蓮宗といえば身延が本山であるかのような誤解をしている人があるが、事実は、教義、歴史等を通じて厳然と日蓮正宗のみが唯一の正法であり、身延は『かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし』の金言に呵責(かしゃく)される邪教であることを、本誌によって明らかに知っていただきたいと念願するものである」と述べているが、改訂版『人間革命』の「小樽問答」の章は、上記の池田序文とは異なる様相を呈している。
 同法論はテープレコーダーでの録音が残っており、上記『小樽問答誌』および旧版『人間革命』では、概ね正確に論戦内容が再現されていたが、改訂版では、"本門戒壇の大御本尊隠し"や"宗門を顕揚しない"という改訂大原則のもと、大御本尊や宗門の血脈相承を肯定する重要箇所が、大幅に削除されたり言い換えられたりしている。
 それらについて批判考察する前に、新旧記述の相違箇所を、証拠資料として細大漏らさずデータ提示しておこう。改訂意図別に分類すると、以下のようになる。
 掲載巻はすべて第9巻である。


【"日蓮正宗の正統性・血脈相承"を隠す改訂例】

【旧】(身延側の発言で)「日蓮正宗が正しいという証拠を出しなさい」(18頁)

改↓悪

【新】「あんた方が正しいという証拠を出しなさい」(27頁)


【旧】(身延側の発言で)「だから、正宗が正しいということを文証で証明してみろ、と言っているんじゃないか」(20頁)

改↓悪

【新】「だから、正しいということを、文証で証明してみろ、と言っているんじゃないか」(29頁)


【旧】彼女の輝いた顔には、微笑すら浮かんできた。日蓮正宗・創価学会の正統さについて、微塵(みじん)の疑いもなく、彼女は心の底から確信していたのである。(21頁)

改↓悪

【新】彼女の輝いた顔には、微笑すら浮かんでいた。微塵の疑いもなく、彼女は、心の底から勝利を確信していたのである。(30頁)


【旧】「日蓮正宗が正しいから、御本尊様も正しい。日蓮大聖人の血脈は日蓮正宗にしか伝わっていない……」(14頁)

改↓悪

【新】「私たちの信心が正統派なんだから。日蓮大聖人の正しい教えは、日興上人にしか伝わっていない。だから、私たちが正しいと言うのです」(23頁)


【旧】「日蓮大聖人の血脈は、ちやんと日興上人に受け継がれているのです。だから日蓮正宗が絶対に正しい!
 その正統の実践をしながら外護をしているのが創価学会です」(18頁)

改↓悪

【新】「日蓮大聖人の仏法は、ちゃんと日興上人に受け継がれているんです。だから、私たちの方が絶対に正しい!その大聖人の仏法を、正しく実践しているのが創価学会です」(26頁)


【旧】「御書に照らしてみても、日興上人の身延離山の歴史から考えても、日蓮大聖人の血脈は日蓮正宗にしかないことは、一点の疑いもない」(32頁)

改↓悪

【新】「御書に照らしてみても、日興上人の身延離山の歴史から考えても、日蓮大聖人の正義は、身延にはないことは、一点の疑いもない」(42頁)


【旧】「身延山久遠寺の別当たるべきなり」
と『池上相承書』にあるように、日蓮大聖人から日興上人に付嘱された身延山である。
 大聖人滅後7年にして、その身延を離山しなければならなかった日興上人の決断は、よくよくの状況のもとにあったといわなければならない。(114頁)

改↓悪

【新】大聖人滅後7年にして、その身延を離山しなければならなかった日興上人の決断は、よくよくの状況のもとにあったことを示している。(134頁)


【旧】「このように日興上人が唯ひとり正しく大聖人の正義を伝承されて今日にいたっている。これこそ日蓮正宗富士大石寺である!」(120頁)

改↓悪

【新】「このように日興上人が唯ひとり正しく大聖人の正義を伝承されて今日にいたっている。」(144頁)


【旧】御霊骨は大石寺にあること、そして身延には本尊がないことを力説した。(121頁)

改↓悪

【新】全文削除




【"本門戒壇の大御本尊"を隠す改訂例】

【旧】「大石寺には、ちゃんと三大秘法の本門戒壇の大御本尊があるのを知っているでしょう。あんたたちにはこの大御本尊が無いから、勝手なでたらめばかり言っているのじゃないの」
 「ああ、あの板曼荼羅(まんだら)のことか。大聖人は一機一縁でたくさんの御本尊をお遺(のこ)しになった。本門戒壇の本尊などといったって、それだけが正しいというわけにはいかないではないか……」
 村木啓山は噂話でもするような軽い調子で本尊論をしゃべりはじめた。そして、大石寺の大御本尊は後世の偽作とさえいわれていると、さまざまな臆説をまことしやかに述べはじめたのである。(16頁)

改↓悪

【新】全文削除


【旧】本門戒壇の御本尊をはじめとし、生御影(しょうみえい)、御灰骨など一切の重宝を捧持し厳護して、一門の多くの弟子たちとともに富士に向かった。一行は途中、日興上人の養家のある河合に暫時滞在し、やがて2月には純信な若き地頭南条時光の待ちうけている上野郷にはいった……。(118頁)

改↓悪

【新】全文削除


【旧】彼は昔から何度となく繰り返されてきた大御本尊に対する中傷を、ここでまた持ちだした。この本尊の添え書きに疑点があるとか、「御本尊七箇相承」には仏滅後2千3百3十余年と書けとあるのに、大御本尊は2千2百2十余年とあるのはおかしいとか、7百年前にあんな大きな楠の板があるとは考えられないとか、これまで言い古された後年の偽作説の蒸しかえしである(120頁)

改↓悪

【新】全文削除


【旧】関はひとこと前置きをして「聖人御難事」のなかの、大聖人が出世の本懐を言明した「余は二十七年なり」の文証をあげてから、これまでの身延側の発言に対し、一つひとつ鋭利な質問の矢を放った。(121頁)

改↓悪

【新】全文削除


【旧】「さきほど長内先生から弘安2年の御本尊は疑わしい、とただそれだけのことで、いったい何がどうしたというのか、もう少し具体的にしてほしい。指摘してほしい。
 とくに私が具体的にお聞きしたいことは、もし弘安2年の御本尊は駄目だ、日蓮正宗は駄目だというなら、どの信仰が正しいのか。狐や稲荷や鬼子母神を祀(まつ)っているようなことが、大聖人の教えであるのか。こういうことを何も説明できないで、ただ大石寺の本尊は怪しいというだけでは、それではお話にならないと思う」(113頁)

改↓悪

【新】山平は、独特の冷静さで、大石寺の御本尊への疑いを晴らしたあと、身延の本尊雑乱を厳しく追及していった。


【旧】大石寺の大御本尊に関する文証が御遺文のどこにあるかという質問に、山平忠平は受けて立った。
 「お答えします。御本尊は各種あります。これら御本尊のなかで、いったい大聖人がお手紙なり何なりに書き遺された御本尊がありますか!
 もし『本門戒壇の御本尊』と御書にないからといって、それで佐渡始顕(しけん)がよいというなら、佐渡始顕というお手紙、あるいは御文証がどこにありますか……。
 しかしながら、御本尊には必ず添え書きがございます。何々某に授与す、あるいはどこの何々某に授与す、このように御本尊の意義が、それぞれお認(したた)めになられているのです。
 その御本尊の意義として『本門戒壇』……こう大聖人がきちっと御本尊にお認めになっているのですよ。……これ以上の文証がどこにありますか……。」(126頁)

改↓悪

【新】全文削除


【旧】山平は、身延離山の歴史を語ることによって、日蓮大聖人の仏法の正統な流れは日蓮正宗のみにあることを具(つぶ)さに実証して終わったのである(124頁)

改↓悪

【新】山平は、身延離山の歴史を語ることによって、日蓮大聖人の仏法の正統な流れは、日興上人のみに受け継がれたことを、つぶさに論証して終わったのである。(148頁)


(※身延側の聴衆の質問で、大石寺の大御本尊と佐渡始顕の本尊と、いずれが正しいのかを、学問的証拠をあげて説明せよという問いに対して)

【旧】山平は領(うなず)き、大聖人の三大秘法の仏法をまず説き、本門の本尊として弘安2年10月12日に建立されたのが大石寺の大御本尊である、と論をすすめた。(125頁)

改↓悪

【新】山平は頷き、まず、大聖人の三大秘法について述べ、本門の本尊について語ってから、反撃に移った。(149頁)




【"御歴代上人の活躍"を隠す改訂例】

【旧】(※砂村問答のエピソード)日蓮正宗総本山第48世日量上人に親しく教化薫陶(くんとう)をうけた俊英(しゅんえい)、永瀬清十郎(55頁)

改↓悪

【新】削除


【旧】(※明治15年、日霑上人が活躍された「横浜問答」のエピソード=67頁)

改↓悪

【新】全文削除


【旧】(※明治11年、「霑志問答」のエピソード=68頁)

改↓悪

【新】全文削除


【旧】日霑上人は、まことに法論にかけては真の名手であられた。さらに生涯を通じて、席の温まることは少なく、日本全国を数回にわたって足繁(しげ)く、信徒の要請のあるところへは何処であろうとも東奔西走することを事とした。幕末から明治維新にかけての激動期から、明治新政府の草創の激変期にかけ、つまり嘉永6年の登座から明治23年の没年にいたるまで、宗門の一切の責任を両肩にかけて奮闘しぬかれた。(69頁)

改↓悪

【新】全文削除


これらのデータに基づく考察は次回行なうが、上記分類に属さぬその他の9巻における改訂について、その姑息ぶりを最後にいくつか紹介しておく。



【その他の姑息な改訂】

【旧】小樽の日蓮系寺院の信徒であった彼らは、創価学会の九谷貞枝の紹介で日蓮正宗に改宗した(5頁)

改↓悪

【新】身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗妙龍寺の信徒であった彼らは、創価学会の九谷貞枝の紹介で入会したのだった(12頁)

※これは「発端」の章の一文であるが、創価の信心が日蓮正宗とは無関係であるかのようなレトリックが改訂版では多用されている。また、「入信」はすべて「入会」と書き換えられているが、現学会でも入会=信仰開始ではないはずだが。なお「御授戒」も削除されている。

【旧】学会側は約7百名、身延側は約3百名、身延側の背後の空席は学会員たちで埋まり(97頁)

改↓悪

【新】演壇に向かって右側を創価学会員が占め、左側を身延系日蓮宗の僧侶や信徒が占めた(117頁)

※改訂文では法論会場での彼我(ひが)の聴衆の比率が半々であったかのように書いているが、実際は、創価学会は大動員をかけて、身延側の倍以上の聴衆を会場に送り込んだ。そして大勢の学会員による大音量の粗野(そや)な野次で、身延側講師を心理的に圧倒するという雑音干渉作戦を展開したのである。そのため、会場で録音されたレコードは法論資料としては聞くに堪(た)えないものになっている。

(法論終了後の宴会の席での学会歌)

【旧】男度胸は鋼鉄の味よ/伊達にゃささない腰の剣/抜けば最後だ命をかけて/指もささせぬこの守り

改↓悪

【新】全削除

※上記学会歌は、中国に侵攻した日本陸軍の軍歌『流砂の護り』である。2番には「水を鏡に髭面剃れば/満州娘も一目惚れ」などという能天気な歌詞もある。また小樽法論のレコードには、法論終了直後に学会青年部が歌った学会歌も録音されている。「胸にピストル向けらりょと〜」これも日本軍の軍歌『熱血の男』である。
 昭和30年にこれらが歌われたということは、戸田時代の創価学会員には侵略戦争に対する反省意識が希薄であった、ということを物語っている。また、旧版第9巻は1976年出版であるが、"日中国交正常化提言"後8年を経過した時点でも、なお、池田は日本陸軍の軍歌を抵抗なく自著で歌い上げたというわけだ。
 このデリカシーのなさと、今日中国から贈られている百以上の名誉称号群とのギャップを埋めるのは容易ではない。

[画像]:『小樽問答誌』=池田大作は『小樽問答誌』(再版)の序文に「日蓮正宗のみが唯一の正法」と書いていたのだが―





「小樽問答」でジレンマに陥った改訂版A

−不都合な箇所を全て削除!―
(『慧妙』H26.1.1)

 小樽問答は、池田大作の中立性を欠いた司会進行や、大動員した学会員聴衆による下品な野次攻勢といった問題点はあったものの、日蓮正宗創価学会の大勝利に終わった。学会側は日蓮正宗の教義に則(のっと)り、身延の謗法(本尊惑乱)を批判するとともに、日蓮正宗の宗祖以来の正統性と本門戒壇大御本尊の正当性を証明して、身延側を圧倒し、撃沈したのである。
 ところが、この小樽問答における学会の破邪顕正ぶりは、初版『人間革命』(第9巻)では正確に再現されていたが、今般の改訂では、身延を攻めた"破邪"の部分はそのまま残しているものの、法論中の一番の佳境とも言える"顕正"の部分はほとんど削除されている。
 つまり、改訂版では、小樽問答は"学会が身延に難癖(なんくせ)をつけたイベント"としてしか描かれていないのだ。これは、小樽問答を勝利に導いた師匠戸田城聖の偉業を矮小(わいしょう)化し、創価学会の歴史をも歪(ゆが)める師敵対の愚挙というほかない。
 池田のこの改訂の動機は単純だ。
 小樽問答における学会側の顕正部分、すなわち、日蓮正宗の宗祖以来の正統性と本門戒壇大御本尊の正当性を証明した箇所は、すべて現学会の教学指導と矛盾(むじゅん)しており、現学会員が読むと動執生疑を起こしかねない内容だからだ。
 池田創価得意のレトリックで、問答のやりとりを都合よく改竄(かいざん)したくとも、問答の音源が厳然と残っているため、それもできない。かくして、都合の悪い箇所は全削除と相なり、その結果、"破邪"のみあって"顕正"なき無価値な"改悪・小樽問答誌"ができあがってしまった。それが改訂版『人間革命』第9巻「小樽法論」の章である。
 具体的に見てみよう。


【小樽問答の起きた経緯について】
 その前に、『人間革命』を読んでいない読者のために、小樽問答の発端となった経緯を少し説明しておく。
 昭和30年2月、御本尊を返却したいと言う小樽の学会員の家を創価学会小樽班の婦人部班長が訪(おとず)れ、退転しないよう説得していた。ちょうどその時、地元の日蓮宗寺院(身延派)の僧侶がやって来て、班長と鉢合わせになり、両者の間でミニ法論が始まる。その時の応酬(おうしゅう)が後の小樽問答の論争テーマとして基本的に引き継がれることになる。
 すなわち、
<班長婦人の主張>
 「身延は竜女(りゅうにょ)や稲荷(いなり)を拝んでいるが、大聖人の教えに背(そむ)いている」「日蓮正宗には三大秘法の本門戒壇の大御本尊があり、身延には正しい本尊がない」「日蓮大聖人の血脈は日興上人に受け継がれており、ゆえに日蓮正宗が正しく、その正統を実践している創価学会は正しい」
<身延僧侶の主張>
「学会の布教は暴力的だ」「日蓮正宗が正しいことを文証をあげて証明せよ」「戒壇の本尊のみが正しいわけではない」

 こうしてみると、班長婦人は入信わずか半年であるにもかかわらずボイントを押さえた論戦を展開している。
 しかし身延側から「御妙判(文証)を出せ」と要求されるに及んで、班長は言葉に窮したあげく、「来月の10日になれば、総本山の水谷日昇猊下が小樽においでになります。大勢の御僧侶も随行されるから、そんな文証なんてすぐわかる。そのときにきいて教えるから、それまで待ちなさいよ」と啖呵(たんか)を切ってしまった。
 身延派僧侶はそれに対して「あんたらと法論するよりも、その総本山から来る日蓮正宗の僧侶と法論するほうが、事がはっきりするではないか」とけしかけてきた。
 これが事の発端である。
 当初、宗門同士の一山を賭(と)した法論対決が実現するものと思われたが、身延側が保身に走り、紆余曲折(うよきょくせつ)の末、法論は日蓮宗講師VS創価学会教学部で行なうものとし、対論者はどちらも一宗を代表するものではない、という形に落ち着いた。
 以上の経緯は「小樽問答」の章の前の「発端」の章に書かれているが、池田の"顕正"隠しは、この章からすでに始まっている。すなわち、班長婦人が半年の教学知識を駆使して必死に訴えた、以下の件(くだり)が改訂版では全削除されている。
 「大石寺には、ちゃんと三大秘法の本門戒壇の大御本尊があるのを知っているでしょう。あんたたちにはこの大御本尊が無いから、勝手なでたらめばかり言っているのじゃないの」


【改訂により学会は自らの正統性も放棄】
 また改訂版では、婦人の文言の中の「日蓮正宗」「正宗」はすべて「私たち」と言い換えられ、身延側の文言中のそれも「あんた方」と改竄されている。「血脈」の語も当然削除だ。音声記録のないやりとりなので、改竄・捏造(ねつぞう)し放題である。
 以下は、その一例であるが、下記改訂例などはひどいもので、班長婦人の主張の論理構造まで破壊してしまっている。

【旧】「日蓮大聖人の血脈は、ちゃんと日興上人に受け継がれているのです。だから日蓮正宗が絶対に正しい!
 その正統の実践をしながら外護(げご)をしているのが創価学会です」(18頁)

改↓悪

【新】「日蓮大聖人の仏法は、ちゃんと日興上人に受け継がれているんです。だから、私たちの方が絶対に正しい!その大聖人の仏法を、正しく実践しているのが創価学会です」(26頁)

 班長婦人の本来の主張では、日蓮大聖人→日興上人→日蓮正宗→創価学会、というように大聖人から創価学会まで正統性の連環(れんかん)が明確に説明されていたが、改訂版では日蓮大聖人→日興上人の連環で止まっており、そこから突然、創価学会にワープしている。
 ミッシングリンク(連環喪失)したこの論理では、創価学会の正統性は説明できまい。現在池田創価学会がうわごとのように呟(つぶや)いている「大聖人直結」と同様、"言うたもん勝ち"の低俗な論理である。
 今さら言うまでもないが、7百年間法灯連綿と大聖人の仏法を厳護してきた日蓮正宗なくして創価学会は存在しえないし、その正統性、正当性も全く担保されない、と知るべきである。
 次回は「小樽問答」の章について、その欺瞞(ぎまん)性を追及する。

[画像]:改訂版『人間革命』第9巻。旧版の文章と比較すると、論理を飛躍させてまで、意図的に「日蓮正宗」という語を削除していることが明白!





「小樽問答」でジレンマに陥った改訂版B

(『慧妙』H26.2.1)

【破邪顕正の論陣張った「小樽問答」】
 今回は、改訂版『人間革命』(第9巻)の「小樽問答」の章において、池田創価学会の変節や矛盾(むじゅん)を糊塗(こと)するために、いかに史実を歪(ゆが)め、学会員読者を欺(あざむ)いているか、について例証する。
 『小樽問答誌』(昭和30年刊)によると、小樽問答の直前、戸田会長が、創価側弁士である小平教学部長および辻青年部長らに指示した立論方針は、主に以下の3点であった。
(1)身延の本尊雑乱を糾弾すること。
(2)日蓮正宗の正統性を論証すること。
(3)本門戒壇の御本尊、すなわち弘安2年10月御建立の大御本尊の唯一絶対性を論証、顕揚すること。
-------------------
 (1)は破邪であり、(2)(3)は顕正である。
 そして、小平、辻の両氏は戸田会長の指示どおり、堂々たる破邪顕正の論陣を張り、身延側を完膚(かんぷ)なきまでに打ちのめしたのである。
 両弁士のその活躍ぶりは、録音テープをもとに『小樽問答誌』として刊行され、それを踏襲(とうしゅう)した『人問革命』第9巻「小樽問答」(原版)でも、彼らの破邪顕正の明快な弁舌が再現されていた。
 ところが、今般の改訂では、上記(2)(3)の顕正部分がほとんど削除されたり、歪曲(わいきょく)加工され、その結果、改訂版では小平、辻の両弁士は破邪のみに終始し、顕正を全くしなかったことになってしまっているのだ。


【不都合となり「顕正」を削除】
例えば以下のような具合いである。(出自はいずれも第9巻)

【旧】御書に照らしてみても、日興上人の身延離山の歴史から考えても、日蓮大聖人の血脈は日蓮正宗にしかないことは、一点の疑いもない(32頁)

改↓悪

【改】御書に照らしてみても、日興上人の身延離山の歴史から考えても、日蓮大聖人の正義は、身延にないことは、一点の疑いもない(42頁)

改訂版では、"大聖人の正義は身延にない"という破邪で止まっており、"では、正義はどこにあるのか"という顕正が故意に隠されてしまっている。

【旧】このように日興上人が唯ひとり正しく大聖人の正義を伝承されて今日にいたっている。これこそ日蓮正宗富士大石寺である!(120頁)

改↓悪

【改】このように日興上人が唯ひとり正しく大聖人の正義を伝承されて今日にいたっている。(144頁)

フレーズの最後の部分、池田は「これこそ創価学会である」と改竄(かいざん)したかったのだろうが、録音証拠があるためにできず、"日蓮正宗富士大石寺"部分を単純削除しているが、その結果、改訂版では日興上人後の正義伝承の行方を具体的に示さぬ不完全な主張になってしまった。

【旧】御霊骨は大石寺にあること、そして身延には本尊がないことを力説した。(121頁)

改↓悪

【改】全文削除

そして、

【旧】本門戒壇の御本尊をはじめとし、生御影、御灰骨など一切の重宝を捧持(ほうじ)し厳護して、一門の多くの弟子たちとともに富士に向かった。
 一行は途中、日興上人の養家のある河合に暫時(ざんじ)滞在し、やがて2月には純信な若き地頭南条時光の待ちうけている上野郷にはいった…。(118頁)

改↓悪

【改】全文削除

これらは地(※会話でない叙述)の文であるが、大石寺の正統性の根拠となる情報は改訂版ではことごとく抹殺されている。

【旧】「……ただいま山平先生によって言われましたところの弘安2年のこの閻浮提総与の本尊のことでございまする。そのことは日蓮上人の御妙判のどこにも書いてないということを私は断言する。……」
 彼は昔から何度となく繰りかえされてきた大御本尊に対する中傷を、ここでまた持ちだした。この本尊の添え書きに疑点があるとか、「御本尊七箇相承」には仏滅後2千3百3十余年と書けとあるのに、大御本尊は2千2百2十余年とあるのはおかしいとか、7百年前にあんな大きな楠(くすのき)の板があるとは考えられないとか、これまで言い古された後年の偽作説の蒸しかえしである。(120頁)

改↓悪

【改】全文削除

これは身延側の論難の1つを要約した箇所であるが、これに対する学会側の弁駁(下記)が本門戒壇の大御本尊の正しさを論証、顕揚するものであるため、攻守もろとも削除、あるいは姑息な改変がなされている。

【旧】関はひとこと前置きをして「聖人御難事」のなかの、大聖人が出世の本懐を言明した「余は二十七年なり」の文証をあげてから、これまでの身延側の発言に対し、一つひとつ鋭利な質問の矢を放った。(121頁)

改↓悪

【改】全文削除


【旧】「さきほど長内先生から弘安2年の御本尊は疑わしい、とただそれだけのことで、いったい何がどうしたというのか、もう少し具体的にしてほしい。指摘してほしい。
 とくに私が具体的にお聞きしたいことは、もし弘安2年の御本尊は駄目だ、日蓮正宗は駄目だというなら、どの信仰が正しいのか。狐や稲荷や鬼子母神を祀(まつ)っているようなことが、大聖人の教えであるのか。こういうことを何も説明できないで、ただ大石寺の本尊は怪しいというだけでは、それではお話にならないと思う」(123頁)

改↓悪

【改】山平は、独特の冷静さで、大石寺の御本尊への疑いを晴らしたあと、身延の本尊雑乱を厳しく追及していった。(148頁)

 小樽問答のクライマックスとも言える本尊論の論戦であり、読者はその攻防の詳細が知りたいはずだが、旧版にあった数百字に及ぶ本門戒壇大御本尊の正しさを論証したくだりは悉(ことごと)く削除され、「独特の冷静さで、大石寺の御本尊への疑いを晴らした」の1行で片付けられてしまっている。
 また、身延側の聴衆からの「大石寺の大御本尊と佐渡始顕の本尊と、いずれが正しいのかを、学問的証拠をあげて説明せよ」という問いに対する回答(下記)においても、"本門戒壇の大御本尊隠し"の方針は徹底される。

【旧】大石寺の大御本尊に関する文証が御遺文のどこにあるかという質問に、山平忠平は受けて立った。
 「お答えします。御本尊は各種あります。これら御本尊のなかで、いったい大聖人がお手紙なり何なりに書き遺(のこ)された御本尊がありますか!
 もし『本門戒壇の御本尊』と御書にないからといって、それで佐渡始顕がよいというなら、佐渡始顕というお手紙、あるいは御文証がどこにありますか……。
 しかしながら、御本尊には必ず添え書きがこざいます。何々某に授与す、あるいはどこの何々某に授与す、このように御本尊の意義が、それぞれお認(したた)めになられているのです。その御本尊の意義として『本門戒壇』……こう大聖人がきちっと御本尊にお認めになっているのですよ。……これ以上の文証がどこにありますか……。(126頁)

改↓悪

【改】全文削除


【旧】山平は頷(うなず)き、大聖人の三大秘法の仏法をまず説き、本門の本尊として弘安2年10月12日に建立されたのが大石寺の大御本尊である、と論をすすめた。(125頁)

改↓悪

【改】山平は頷き、まず、大聖人の三大秘法について述べ、本門の本尊について語ってから、反撃に移った。(149頁)

上記2例でも、本門戒壇の大御本尊の絶対性を論証した小平教学部長の熱弁は改訂版では完全に削除され、「本門の本尊について語ってから」などと、具体像なき一般論が語られたかのように軽く片付けられており、まったく顕正の体をなしていない。

 以上の多くの例から、今回の改訂では小樽問答で展開された"顕正"の主張は完全に無視されていることが分かる。これは池田の大先輩、小平、辻両氏の奮闘を矮小(わいしょう)化するもので、それを指揮した戸田会長の志を踏みにじるものであると言うほかない。
 池田は、そのように師敵対してまでも、自己保身のために、学会員の目から本門戒壇の大御本尊を隠蔽(いんぺい)したかったようだが、都合の悪いものは隠しておけば何とかなるだろう、という姑息な小児的発想は、見ていて何とも哀れである。


【学会も本尊にまどえり!】
 さて、史実としての小樽問答では、身延の本尊雑乱を攻めた上で、では具体的にどこのどの本尊が正しく、それがどの宗派に正しく伝わっているか、何ゆえ御授戒された各戸の御本尊に功徳があるのかまで、すべて具(つぶさ)に分かるように論理展開されている。旧版『人間革命』でもそれがほぼ正確に再現されている。
 ところが旧版を知らぬ新世代の読者がこの改訂版「小樽問答」から学び取れるものは、身延の本尊雑乱ぶりだけである。何ゆえ自宅にある本尊(複写変造品だが)に日蓮正宗26世日寛上人の御名があるのか、学会本部にある常住本尊が、何ゆえ日蓮正宗64世日昇上人の御書写によるものなのか、こうした理由を知るヒントすら、改訂版『人間革命』は教えてはくれていないのだ。拝む対象の正統性、正当性の絶対基準も示さずに勝手に乱造したビニール本尊に「とにかく題目あげろ」と指導する昨今の池田創価は、小樽問答で「本尊が何であれ、それに向かってお題目を上げる姿が尊(とうと)い」などと嘯(うそぶ)いた身延と同類である。小樽問答で学会が身延を攻める際に用(もち)いた「諸宗は本尊にまどえり」(御書P554)という大聖人の金言を、学会員は今一度噛み締める必要がある。

[画像]:『小樽問答誌』に明確に記録されている「顕正」を、改訂で全て消し去った『人間革命』