"池田伝説"の真相
―学会内で喧伝(けんでん)されてきた数々の"池田伝説"―
―その虚栄の実態は北朝鮮・金正日をも凌(しの)ぐ!?―

(『慧妙』H23.7.16)

 池田が表舞台に姿を見せなくなってから早(はや)、1年。
 日を追うごとに重病説、死亡説など各方面でささやかれるが、すでに本紙において報道したように、池田は脳の障害によってまともに話もできず、会員たちに姿を見せられない状態である、と考えられる。創価学会の頂点に君臨(くんりん)し、絶対的指導者として崇(あが)められてきた男の末路は、哀(あわ)れなものである。
 『聖教新聞』などを見ると、会合など事あるごとに池田からのメッセージが披露(ひろう)されていることから、いまなお健全を装(よそお)い、会員には真実を隠しているようだ。

 さて、先日あるテレビ番組で金正日の伝説を紹介していた。その内容は、
・はじめてのゴルフで1ラウンドまわって11回ホールインワンを出した
・地球儀の日本の部分を黒く塗りつぶしたら、本当に日本が真っ暗になった
・撃(う)った鉄砲の弾はすべて的(まと)に命中する
など、おそよ常識では考えられない逸話(いつわ)だった。その番組では、金正日がホールインワンを出したというゴルフ場まで行き調査をした結果、金正日はそのゴルフ場には1度も来たことがなく、全くのデタラメであることが判明した、という。
 独裁国家の北朝鮮では、さまざまな逸話を作り上げて、金正日の偉大さを国民に示そうとしているのである。


さて、日本において、これと同じ類(たぐい)の逸話をもつ人物が池田大作である。大小さまざまな事例が語られているが、代表的なものをあげると、

●池田が千葉・天津小湊の清澄寺を訪れた際、境内に生えている千年杉に向かい、木肌を撫(な)でながら「久しぶりだね。7百年ぶりだねえ」と呟(つぶや)いた(ちなみに、この千年杉の樹齢は250年であった)。
●また、小松原法難に縁の深い華房の地へ行った際には、傷洗いの井戸の縁を優しく撫でながら、「あの時(小松原法難の時)は、たしか14人だったかな」と呟(つぶや)いた(ちなみに、傷洗いの井戸は明治時代に新たに掘られた物である)。
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池田のこうした奇行を常識的には信じるはずはないが、長年、洗脳されている学会員には、これら嘘言(おそごと)も池田神格化のエピソードとなってしまうのである。

 さらに、『聖教新聞』において、池田がピアノを演奏している姿の写真や、池田が撮影したとする、すばらしい風景写真が掲載されているが、じつはこれらも会員を騙(だま)すデタラメである。
 すでに元創価学会本部職員が
 「池田大作もしばしば演出をします。彼があるときから突然あざやかにピアノを弾(ひ)きだして、みんなを驚かせたことがあります。音源を別に用意しておいて、実際は弾くふりをするだけというカラクリがわかるのに1年近くかかりました」(『FORUM21』古谷博〈元・創価学会本部組織センター〉、小川頼宣〈元・創価学会本部広報室〉、押木二郎〈元・東洋哲学研究所〉が徹底比較「創価学会と北朝鮮」)
と暴露(ばくろ)している。
 また、世界各地で開催されている「池田大作写真展」、これは池田大作がこれまで50を超える国と地域を訪問した折りに撮った、心に残る風景写真を展覧するものであるが、これについても以前、ジャーナリスト内藤國夫氏が『創価学会・公明党"スキャンダル・ウォッチング"』(日新報道刊)において、
 「原山正征。現・聖教新聞社写真局長。池田専属の付添いカメラマンというのが表向きの職業だが、じつは池田の写真のゴーストライター(フォトグラファー)といったところが本職である。ここ何年か、池田は『写真は心で撮るもの』を口グセとする。カメラを目から離す独特のポーズで写真を撮りまくるわけだが、実際問題、そんな格好じゃ、ろくな写真も撮れないに決まっている。で、実は、原山がピント合わせから何から、池田がカメラを持つ前にセットしているのだ。池田はいい気になってシャッターを押すだけである。しかし、それでも池田の撮る写真は絵にならない。仕方がないので、池田が撮っている真後ろで、池田と同じアングルで原山がシャッターを押すこともしばしば。『池田大作写真展』などと銘(めい)打って『先生の撮られたお写真だから』と、学会員や非学会員が見に来るものの、これが正体である。」
と語っている。
 ピアノの偽(ニセ)演奏といい、写真の代作といい、これだけをもっても池田神格化は作り上げられたものであることが分かる。

池田大作の人物像は、まさに創価学会によって偽装されたものであり、真実の姿は、我欲と嫉妬(しっと)心に狂い、品格のない指導者なのである。本尊、教義、池田の人物像など、すべてがウソで固められた邪教団の真実の姿に、洗脳された学会員たちは一刻も早く気づいて、正法へ帰依してほしい。