池田大作「会長就任劇」の真相

―池田の会長就任の顛末を美化する『新報』―
―実際は池田が策を弄して会長職を"略奪"―

(『慧妙』H24.7.16)

 6月20日の『創価新報』に、池田大作の総務就任について、
 「当時の最高幹部の"池田先生に1日も早く第3代会長に就任していただきたい"との強い願いがあった。その指導者としての抜きん出た力量を感じ、第3代は池田室長しかありえないというのが、多くの幹部の一致した認識であった。」「当時の理事長は、理事たちと協議の上、学会の運営を実質的に統括する『総務』という役職を設けたのである。」「やがて、会内には池田総務の会長就任を望む声が高まり、2年の時を経(へ)て、60年(同35年)5月3日に、池田第3代会長が誕生したのである」
とある。
 しかし、この「総務」乃至「会長」就任には、様々な疑惑がある。

 まず、「総務就任」について、創価学会の理事の1人であった石田次男氏は次のように言う。
 「この事件(※「追撃の手をゆるめるな」の遺言をデッチ上げた件)から3ヵ月後に、小泉理事長は池田氏を〈総務〉に任命します(じつは池田の工作で任命させられた)が、その理事長はやがて『(池田氏に)実権を奪(と)られてしまった』とボヤクようになり、聞き知った池田氏から、会長就任後にこの件で徹底的にカタキを取られ、いびられるようになってまいります。」(石田次男著『内外一致の妙法―この在るべからざるもの』)
 また、当時、男子青年部第7部隊長だった藤原行正氏も、
 「戸田構想にはなかった『総務』のポスト就任もその1つで、この役職は最初、池田の発案で、職務権限そのものが曖昧(あいまい)なまま設置された。ところが34年6月、池田は参謀室の北条、森田、竜らと共に理事室のメンバーに名を連(つら)ねた際、自分の総務職を次のように規定した。
 『理事長のもとに、理事室を代表して、事務局及び各部を統括する』
 すなわち、池田総務は会長代行たる小泉理事長と組織最高の意志決定機関たる理事室をつなぐパイプ役となり、理事会の決定事項は池田総務を通して小泉理事長へ伝わるという新システムであった。これによって池田は自動的に学会上層部全体の動きを掌中(しょうちゅう)にできる立場を得た。」(藤原行正著『池田大作の素顔』)
 つまり、「総務」職は、小泉理事長が池田のために用意したポストではなく、池田が全権を掌握(しょうあく)すべく、自ら工作して作らせたポストだ、というのである。
 実際、池田の「総務」就任は昭和33年6月30日だが、藤原証言を裏付けるように、これを発表した『聖教新聞』では、その職務について規定も説明もしておらず、翌34年6月まで曖昧なままになっている。

 また、「会長就任」についてであるが、戸田氏逝去(せいきょ)から1ヵ月が経(た)った昭和33年5月3日、第18回春季総会の席上、小泉氏は
 「会長先生亡きあとの学会につきましては、ただ今、原島理事から話がありましたように、非常に世間が騒いでおります。皆さんも御心配なさっているのではないかと思いますので、はっきり申し上げておきます。とにかく会長という職は当分おかないつもりであります」(『聖教新聞』昭和33年5月9日付)
と語り、また原島氏も、
 「われわれで、会長になりたいなどと考えているものは、それこそ1人もいない」(『聖教新聞』昭和33年5月9日付)
と語っており、少なくとも、当初から池田に「1日も早く会長に就任してほしい」などと願っていた、とは考えられない。
 前出の藤原氏は、当時の模様を次のように説明している。
 「池田がしきりに戸田会長の『遺志』を本部幹部会や青年部幹部の前で口にするようになったのもこの前後(※昭和34年頃)である。
 『戸田先生は3代会長は青年部から出すとおっしゃったはずだ』
 みんなはそのとおりだと思った。しかし、ただ1人、何度もこの言葉を繰り返した池田の狙(ねら)いは、長老たちの会長昇格の芽を摘(つ)むところにあった。やがて学会本部内には、
 『次の会長はやはり青年部だな。戸田先生もたしかにそうおっしやった』
という空気が強まった。」(藤原行正著『池田大作の素顔』)
 こうして、池田自らが謀(はか)り、作出した3代会長推戴(すいたい)の機運が醸成(じょうせい)されていくが、万事が順調だったわけではない。藤原氏は、会長代行であった小泉理事長が池田大作に対して
 「戸田先生でさえ、牧口初代会長が亡くなって7年後に会長に就任された。池田さんの会長就任には賛成ですが、まだ時期尚早でしょう。もう少し待たれてはいかがですか」(藤原行正著『池田大作の素顔』)
と牽制していた旨(むね)も証言している。
 これを記しているのは藤原氏だけではなく、石田次男氏も
 「昭和33年〜35年当時、冷静にこういう路線を検討する空気など、全く入り込む余地もなかった。せいぜい、小泉理事長の『(候補者は若すぎるから)7年早い』説くらいの考え方で精いっぱいであった。池田がPRした『早く3代会長を実現しないと戸田先生の御意志に反する』というドグマだけが凝り固まって、池田氏の人心操縦に乗せられていった」(石田次男著『内外一致の妙法―この在るべからざるもの』)
と証言ている。
 このように、小泉理事長は、戸田会長の7回忌までを目途(めど)として、池田の会長就任に待ったをかけていたが、池田は、己れの会長就任を妨げる四囲の状況を打破するために、戸田氏の言葉を利用するなどして、3代会長推戴への機運を作り上げたのである。
 自ら謀って3代会長の座を手にした池田大作―創価学会の謀略体質の元凶は、やはりこの男にあるといえよう。

▲池田の総務就任の真相を偽る『創価新報』