▲肩で風を切って歩いていた当時の池田大作/右は大蔵商事時代の名刺(『週刊新潮』H15.12.18)


取立てに必要な人材(仮題)

―学会における会長絶対化の悲喜劇 Part3―
―学会の「怪」進撃を支えた5条件―

(理境坊信徒・原島昭=元・束洋哲学研究所研究員『慧妙』H22.4.1)

(前略)
 戸田氏は、終戦を挟んで2度、自分の事業に大きな失敗をしました。(もっとも、雲雀〈ひばり〉という戸田氏の渾名〈あだな〉が物語るように、戦前の彼は何度か失敗を繰り返したそうですが)。
 1度目は、治安維持法違反による逮捕・入獄、2度目はドッジ・ラインのために銀行の超貸し渋りにあい、運転資金が底をついてしまったことによります。つまり、時代があまりにも悪かったせい、といえるでしょう。
 ところが、昭和25年6月に朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)して、まず大企業が特需景気に沸(わ)き、ドッジ・ラインもなしくずしに解消していき、その年の秋には好景気の余波が中小企業をもうるおすようになります。戸田氏は、破産した東京建設信用組合の後始末に追われながらも、密(ひそ)かに新しい金融会社・大蔵商事を設立しました。
 初代代表役員は矢島周平氏(当時は『大白蓮華』の編集長)、専務理事(兼金庫番)は森重紀美子さん、営業部長は池田大作氏(当初は1人の部下もいなかったそうです)という顔ぶれで、実質上社長である戸田氏は「顧問」に就(つ)きました。
 この新金融会社は「時を得て」今度は成功していきます。
(中略)
 大蔵商事は(前の東京建設信用組合も同様でしたが)、現代の消費者金融の走りのような会社で、銀行よりも高い金利で出資者から借り受け、当然のことながら、それをさらに高い金利で貸し出すものです。
 当時をよく知る学会員の話などから、大蔵商事の利子は月3歩(年利36%)で借りて、月5歩(年利60%)〜7歩(年利84%)で融資していたと思われます。
 これがいかに途方もない高利であったか、4、5年前まで良心的な(?)消費者金融の利息の上限が29.9%(現在は20%まで)に抑(おさ)えられていたのと、比較してみてください。
 ある時私は、1年複利で百万円を借りたとして、年利3%の銀行と、年利28%の高利貸しとを比較して、十年後の利息がどうなるかを計算して仰天したことがあります。銀行の場合は、元利を合せて134万円にしかなりませんが、高利貸しの場合は1,180万円、なんと、借りた額の十倍以上のお金を返済しなければならないのです。
 まして、消費者金融で普通に行なわれていた半年複利だと、借りた分の十数倍ものお金が高利貸しの懐に入ることになります。
 それゆえ、年利60%以上を取るような商売は、失敗しても成功しても、たくさんの人を泣かせる結果になるのです。特に、貸し金取り立てには、寝ている病人の蒲団(ふとん)をもはぐことができるような、冷酷無慚(れいこくむざん)になれる人材が必要になります。そして池田大作営業部長は、高利貸しにはぴったりの人材なのでした。
 当時を回顧して、池田氏は次のように述べています。
 「大蔵商事では一番嫌な仕事をした。どうしてこんな嫌な仕事をするのかと思った」と。また、
 「事業のことで、戸田先生の苦境でずい分苦しんだ。(中略)金融会社(※束京建設信用組合のこと)の時ずい分恨(うら)まれた
とも述べています。(中略)
戸田氏が、鬼の所業のような貸し金取り立てを行なうためには、その豊かな教養と愛情が邪魔をしていたと思います。一度は莫大(ばくだい)な借金を背負いながら、わずか数年の間に盛り返すことができたのには、池田氏のような「人材」が必要不可欠でした。(以下省略)


▲池田大作もマンガと同じ所行を!?(『天魔の野望』より)