「戸田は世界広布の夢を伸一に託した」だって!?

―それは真っ赤な嘘!そのような機会はなかった―
(『慧妙』H24.6.1)

 『新・人間革命』第1巻「旭日の章」の冒頭は、創価学会会長に就任してから5ヵ月経(た)った昭和35年10月2日、初の海外訪問に出発する山本伸一こと池田大作の様子が描かれている。
 いわく
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 伸一は、静かに胸に手をあてた。彼の上着の内ポケットには恩師戸田城聖の写真が納められていた。彼は、戸田が逝去の直前、総本山で病床に伏しながら、メキシコに行った夢を見たと語っていたことが忘れられなかった。
―あの日、戸田は言った。
 「待っていた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな。行きたいな。世界へ。広宣流布の旅に……。伸一、世界が相手だ。君の本当の舞台は世界だよ。世界は広いぞ」
 伸一は、戸田が布団のなかから差し出した手を、無言で握り締めた。
 すると、戸田は、まじまじと伸一の顔を見つめ、力を振り絞るように言った。
 「…伸一、生きろ、うんと生きるんだぞ。そして、世界に行くんだ」
 戸田の目は鋭い光を放っていた。伸一は、その言葉を遺言として胸に刻んだ。
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 おそらく、学会員諸氏は疑問に思わないだろうが、ここには重大なウソがある。
 戸田氏が大病を患(わずら)い、昭和33年3月16日以降、徐々に衰弱し4月2日に逝去(せいきょ)するまで、ほとんど寝たきりで、幹部ですら面会禁止状態であった事実。つまり、池田大作も病床の戸田氏のもとへは行くことができず、戸田氏からかような直接指示を受けることはできなかった、という簡単な現実である。(中略)

 古参幹部の石田次男氏は、戸田氏の最晩年について、次のように記録している。
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 この病状悪化振(ぶ)りを見逃さないで頂きたいと思います。(※昭和33年3月)18日には御法主日淳(にちじゅん)上人が病床へ御見舞い下さいましたが、(学会としての)大儀式の16日(※創価学会員の言う「広布の模擬試験」)から僅(わず)か2日後なのに、もう身を起す事も叶(かな)わず、猊下へ応答の言上も出来ず、御見舞30分程の間に・唯「ハイ」「ハイ」を数回申し上げた丈(だけ)でした。これさえ細々(ほそぼそ)やっとのかすれた小声でしかありませんでした。この場に連なっていた石田達も心中涙して同席申し上げたものでした。猊下が人々の心中を察せられて殊更(ことさら)明るく御振舞(おふるま)い下された事を、今でも有難(ありがた)く想(おも)い起こすものであります。
 石田も年期が十二分に入った肺病のお蔭で、この5年後に同じ(瀕死〈ひんし〉の)経験をしてつくづく躰で判ったのですが、3月20日過ぎからは、人手を借りても、床へ身を起す事も叶わず、病状急傾斜してお声も出ず、御耳丈(だけ)は温度に鋭敏であられた様であります。何ともお痛ましい事でありました。会務や面接は一切禁止……というより不可能―こういう状態で面接や会話が出来ると思う者は、死に掛(か)けた経験が無いからだ―自動禁止で、病室へは理事長さえも近寄っては居(お)りません。医師以外は完壁(かんぺき)に入室阻止です。一切の会務は戸田先生御自身での報告受取不可能・指示不可能の為、小泉理事長が責任で全てを処理して居りました。
 それなのに、29日なのに、阻止もされないで、どうして池田氏丈(だけ)は前後2度も、病床へ参上しスリ寄れたのでしょうか?(中略)
 傍証ですが、在山終り頃の先生の病床には、M女さん(戸田氏の愛人・森重氏?)とオシャベリ美代さん(和泉美代秘書部長)2人体制での看護が続き、あと、補佐の婦人部幹部が交替で当った丈(だけ)でした。この2人は、昼夜付き切りですから、仮りに29日に池田氏が2度、病床へ参上出来たとしても、戸田先生と2人きりには成れません。ですから「先生と私の2人だけの場で残された遺言の1つとなった」(第14回本幹での池田発言)は作り事である事がハッキリ判ります。(石田次男著『内外一致の妙法この在るべからざるもの』)
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 これが、戸田2代会長から1度は創価学会第3代会長と名指しされて辞退した石田次男氏の談である。
 すなわち、瀕死の戸田会長のそばに居られたのは、看護に必要な女性のみだったのである。

 しかも、これに加えて、最後の最高幹部への決定として「(第3代会長はどうするんですか、との問いに)それは皆で決めるんだ」と答えた事実が挙げられる。
 これは、石田氏だけではなく、当時の青年部幹部であった龍年光氏も同様の証言をしている。
 龍年光氏の思い込みも少々紛(まぎ)れ込んでいることも推測されるが、細部はどうであれ、初期の池田大作を考える上で貴重な資料と考えられるので、龍氏の文章から引用する。
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 (大講堂落成大法要。後に『広宣流布の模擬試験』あるいは『3.16』と称される)この儀式の後、先生の体がいよいよ衰弱されたため、原島宏治、小泉隆、辻武寿、柏原ヤス、馬場勝種ら理事たちと、池田・北条・森田・龍の4参謀が揃って戸田先生の枕元に行き、遺言を聞こうということになった。音頭を取ったのは辻、原島、小泉らで、この際はっきり池田を3代会長に指名してもらおうというハラづもりだったようだ。
 辻は「大久保彦左衛門」と渾名(あだな)され、どんな場面でも物(もの)怖(お)じせずにズバッと物を言う男だった。この時も、病の先生の枕辺(まくらべ)で、当然のような顔をして、「先生、3代会長は誰にするんですか」と単刀直入に尋ねた。ところが先生は、はっきりした声で「それは、お前達が決めるんだ」と答えられた。
 当然、「池田」という返事が返ってくると期待していた辻は驚き、もう1度同じことを聞いたが、返事は同じであった。(竜年光『池田創価学会を解散させよ』)
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 石田氏の証言では、この場には池田はいなかったことになっており、龍氏の上記文中では、池田がその場にいたことになっている。これが龍氏と石田氏の描写の違いだが、ただ、この点を除けば、戸田氏による池田指名はなかったことで一致している。
 過去を振り返る際に、各人によって思い込みや記憶違いが生ずることはままあることで、その場に池田がいたかいなかったかは、ほとんど問題にはならない。大事なのは、戸田氏が池田を「3代会長」にという意思表示をしなかったという「事実」である。
 その「事実」は歴史的にも十分証明されている。
 龍年光氏は別書『有徳王』の中で次のように指摘している。
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 その後(※戸田会長逝去後)、2年間創価学会の会長がいなかったのは、この日の会合で戸田先生が、池田を指名しなかった結果である。(龍年光著『有徳王』)
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 この指摘は重大であり、核心を突いている。
 もし、仮に戸田氏が池田を指名していたならば、戸田会長逝去後、速やかに池田第3代会長が就任していなければ理屈が合わないことになる。それが、2年間空白のまま―すなわち、『新・人間革命』の冒頭から描かれる「3代会長池田大作(本文では「山本伸一」)ありき」の筋書きは池田大作による捏造なのである。
 『新・人間革命』を読むにあたっては、まずこのことを明らかにしなければ前に進めないので、『人間革命の正しい読み方』と重複するが、あえて紹介した次第である。