池田の実家は「真言墓」!

(『慧妙』H22.5.16)

 まず初めに、池田大作の実家の「真言墓」について。
 池田大作の父・子之吉氏は、昭和31年12月10日に亡くなった。
 当時、池田は、創価学会の参謀室長という要職にあったが、父親の葬儀は邪宗で営(いとな)まれたのである。
 その後も、池田は親族を折伏できずじまいで、池田の実家の墓は、東京都大田区の密厳院という真言宗寺院の境内地にあり、今も、邪宗の回向のもとにある。
 つまり、池田の実家の墓は紛(まぎ)れもなく、"邪宗の墓地の中にある邪宗の墓"なのである。
 創価学会では、日顕上人の御親戚の墓が禅宗寺院の敷地内の墓地にあることを奇貨として、さんざんに騒ぎ立てたが、その墓石にはしっかりと題目が刻まれており、また当然のことながら、回向も日蓮正宗によって行なわれているのだから、全く問題はない。それは第9世日有上人の『化儀抄』に照らしても明らかだ。
 それに比べて、池田の実家の墓は何もかも、ドップリと謗法に浸(つ)かった"謗法墓"。
 学会員諸氏よ、この現実を、どう受け止める?


http://www.fsinet.or.jp/~shibuken/SHIRYO2/ikedake.jpg

http://the49-2.hp.infoseek.co.jp/kouei/33_34.htm
▲池田大作の実家の墓


池田創価学会の最大の謎(仮題)

(佐野眞一『週間ポスト』H24.1.6)

 この界隈を歩いて、もう1つ驚いたことがある。池田の生家があったイトーヨーカドーの裏手を歩いて5分ほどのところに、密厳院という寺がある。
 平安時代の初めに建立されたといわれる古刹である。境内の一画には、一途な恋慕のあまり放火し、その咎により鈴ヶ森で火あぶりの刑に処された八百屋お七を祀った立派な"お七地蔵"も安置されている。
 池田家の墓はこの寺にある。生家が近いのだから当然だと思う人もいるかもしれない。
 だが、この寺が真言宗の寺だと知れば、宗教に詳しい者なら誰もが奇異に思うはずである。
 日蓮宗には、他の仏教宗派を厳しく指弾した四箇格言という有名な教えがある。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊。このおどろおどろしい形容だけでも、日蓮宗が他宗派を徹底的に排除する一神教的な宗教だということがわかる。
 池田家の人びとの遺骨は、日蓮が「亡国」と言った真言宗の寺に葬られているのである。
 この寺の墓地の片隅にある「池田家之墓」と刻まれた墓には、昭和31年に他界した父親の子之吉(戒名・浄徳清道信士)や、ビルマで戦死した兄の池田喜一陸軍曹長などの霊が祀られている。
 子之吉が死んだ昭和31年といえば、大作が入信して10年目である。池田は父の死の2年前には青年部の参謀室長に抜擢されている。
 池田は創価学会に入信したとき、家から勘当同然となった。しかし、入信ほやほやの時期ならいざ知らず、池田は父の死の時点ではすでに幹部となっていたのだから、何が何でも一家を折伏して創価学会に入信させなければならない立場だったはずである。
 自分の家族や一族さえ折伏できなかった男が創価学会の会長におさまる。そればかりか、以後半世紀以上その組織のトップに居座り続ける。それが、池田創価学会の最大の謎である。
 池田が身罷(みまか)ったとき、その遺骨が創価学会が邪宗と呼ぶ真言宗のこの寺に葬られることは絶対にありえない。それは創価学会員に対する最大の背信行為になるからである。
 池田家の墓はここ密厳院以外に日蓮正宗の総本山の大石寺の墓苑など4か所にあるという。だが、池田が死後、どこに葬られるかは決まっていない。池田は死して亡霊となり、永眠の眠りの地を求めてあてどなく彷徨い続けるのだろうか。

さの・しんいち=1947年東京生まれ。出版社動務を経て作家に。民俗学者・宮本常一と渋沢敬三の交流を描いた『旅する巨人』(97年、大宅賞)、帝国の「近現代史」を新証言で灸り出した『甘粕正彦 乱心の嚝野』(09年、講談社ノンフィクション賞)など著書多数