手記「池田大作・創価学会名誉会長と私」

(元公明党委員長・矢野絢也『G2』/<YAHOO>H22.1.25〜3.1)

戦後の政界、宗教界を牛耳ってきたニッポンのドン・池田大作・創価学会名誉会長。その素顔を知るものはほとんどいない。かつて「側近」だった元公明党最高幹部が、マインドコントロールという頸木〈くびき〉から逃れ、いま初めて自分の体験を明かす。



【語られない池田氏の「生〈なま〉」の姿を】

【池田大作に勝る大物はいない】

【「黒い手帖」事件】

【神懸かりな言動】

【究極の演出―本部幹部会】

【演説はざっくばらん】

【公明党をけなすのも計算尽く】

【競争させて忠誠を尽くさせる】

【学会員一人一人と直結するシステム】

【贈り物好き】

【何かにつけて報告書】

【「内弁慶」の発露「言論出版妨害事件」】

【出廷拒否の「月刊ペン事件」】

【見事な戦略、創共協定】

【宗教界の王者に】

【国税との交渉】

【譲れない6項目】

【使われない池田専用施設】

【残された“宿題”】

【「政権を取らないとダメなんだ」】


【語られない池田氏の「生〈なま〉」の姿を】
 公称827万世帯(学会発表)の信者を擁す創価学会。いくら政教分離などときれいごとを言っても、その創価学会と公明党が不可分な一体関係にあることは世間一般もよくご存知であろう。公明党はあらゆる一挙手一投足において、学会の指示を仰ぐ。具体的な証拠は後で挙げるが、公明党は学会の隷属的な下部組織といっても過言ではない。公明党の書記長、委員長として30年近く要職を務めさせていただいた私が明言するのだから間違いない。
 政局がどんな状況になろうと、圧倒的な集票力を持つ公明党、ひいては創価学会の動向が、日本の政治を左右するという構造は、今後も変わることがない。
 そして創価学会とは実質、名誉会長である池田氏を「末法の本仏」と仰ぐ池田大作一神教だ。すべては池田氏の意向に添う形で決められる。つまり池田氏を知ることは、創価学会の次の動きを探る上で重大な意味を持つのだ。政治の潮流を予測するためにもまず、押さえておくべきは何より、池田氏についての正確な知識なのではないか。
 すでにご承知の方も多いと思うが、私は2008年5月に長年所属してきた創価学会を退会し、現在は学会とその幹部7名を相手に訴訟を行っている身である。その契機の1つに、元公明党議員3人によって私が40年近くにわたって記してきた「黒い手帖」を持ち去られるという出来事もあった。
 創価学会を相手に裁判を起こすことを決意するまでには、私としても葛藤がなかったわけではない。一介のサラリーマンだった私に目をかけ、政治の道に進むように引き上げてくれたのは池田氏である。同時に1967年から93年に引退するまで、27年にわたって私の国会議員としての政治活動を支えてくれたのは他ならぬ創価学会の会員の方たちだった。いまもそのことに対する感謝は忘れていない。
 だが、その一方で2005年の「黒い手帖」事件と連動して、学会からのバッシングに晒された私に、一面識もない人物を含め、多数の元学会員たちから様々な声が寄せられるようになった。いわく「矢野さんと同じような目に遭った」「いまの学会はカネ集めばかりだ」……。
 私と同じような境遇にある人々がいる以上、元政治家として沈黙していることは許されまい。私憤ではなく、公憤から学会を訴える決意を固めたのだ。
 また、創価学会内では池田氏を無謬の存在とする池田史観に沿って、過去の不祥事などを封印しようという歴史の改竄が進んでいる。党と学会双方の裏事情に通じていた私のような存在は、だからこそ邪魔になったのだろう。
 いまは学会と対立関係にある私だが、これから池田大作氏の実像を記すにあたって、1つ断っておきたいことがある。私は批判のための悪口雑言を書き立てるつもりは一切ない。もちろん、盲目的に崇拝するつもりもない。ともすれば、これまで池田氏については、批判的か盲目的かという両極端な視点からしか書かれて来なかったように思う。正確な歴史の記述のためにも、1955年に初めて会って以来、約50年にわたって私が見てきた池田氏の「生」の人物像を記そう。


【池田大作に勝る大物はいない】
 佐藤栄作氏は「人事の佐藤」と言われただけあって、配下の大臣を次々入れ替えて政権を維持する手腕は見事だった。田中角栄氏はまさに、人心収攬の名人だった。三木武夫氏は反骨の人で、一度手に入れた権力は放さない執念があった。福田赳夫氏は洒脱でいつも飄々と構えていた。大平正芳氏は極めて教養人で、シャイな人柄が印象的だった。中曽根康弘氏は冷静冷徹な人で、一貫した国家観に基づくビジョンを持っていた。竹下登氏は気配りの人で面倒見がよく、組織のどこを押したらどう動くかを知り尽くしていた……。
 公明党の書記長、委員長を長年務めさせてもらったおかげで、歴代の総理大臣とも身近に接する機会に数多く恵まれた。いずれもやはり国権の長に上り詰めただけあって、それなりの重みと凄みとを兼ね備えた方ばかりだった。
 また総理大臣に限らず、政官財界の大物と言われる重鎮の方々とおおぜい、長年にわたっておつき合いさせていただいた。
 その上で、これだけは言うことができる。
 それらの誰と比較しても、池田大作氏に匹敵する人物は1人もいなかった、と。
 佐藤氏の人事力は、池田氏に相通じるものがある。田中氏の人心掌握術も然り、だ。三木氏の示した逆境への強さも、池田氏は有していた。歴代総理の有す数々の長所を、一人の人間が内包しているのである。もっとも福田氏の飄々乎ぶりや、大平氏のシャイさは池田氏にはないものであるが。
 「経営の神様」松下幸之助氏にも数回お目にかかったことがあるが、確かに、「これは偉い人やなぁ」と純粋に思った。すでにご高齢だったため、穏やかなお爺さんといった感じで、昔話を聞いていても面白い。話に説得力があるし、包容力もある。だが、「凄い人や」とまでは感じなかった。「偉い」と「凄い」とではやはり、意味が違う。そして私が生涯でただ一人、「この人は凄い」と心底感じたのは池田氏だけである。お世辞でも誉め殺しでもない。学会入信中はある意味、マインドコントロールにかけられていたようなものだったと自分でも思うが、退会してそれが解けた今もそう思う。恐らくこの評価は、終生変わることはないだろう。
 池田大作という人物は、類い稀なるカリスマ性の持ち主である。オーラがある、という表現があれほどピッタリの人を、私は知らない。
 加えて、天才的なオルガナイザーでもある。演説の名人で、堂々たる語り口には誰しも魅了されてしまう。人心掌握術の達人である。また天才的戦略家で、何十年も先の目標を見据え、人を巧みに操って組織を望む方向へ持っていく。その手腕は、誰にも真似のできぬものだ。
 だが反面、究極の内弁慶でもある。内部の人間を前にした時は滔々と演説ができるのに、外に向かっては一転、オドオドと縮こまってしまう。猜疑心が強く、自分を攻撃した人間のことは何十年経っても忘れない。コンプレックスの塊みたいで、その執念深さは想像を絶する。自分に敵対する者への排他性、攻撃性は凄まじいの一言だ。その一方、ざっくばらんでどこか抜けたところがあり、大切なところで信じられないようなミスを犯す。おっちょこちょいの一面もある。
 こうした両極端とも言える特徴が何の不思議もなく、一人の中に同居しているのが池田大作という人間なのだ。
 仏のような面。鬼のような形相。冷徹な事務屋さん。お笑い芸人。哲学者。神秘家……。それらの要素が瞬間瞬間、パッパッと入れ替わる。眼前にいる人間にすれば、まるで万華鏡を見ているようだ。そしてその多面性が、何とも言えない彼の魅力となっている。人を惹きつけてやまない、人間的吸引力を成している。
 元都議会公明党幹事長の藤原行正氏も、「あの人の前に出ると唇がしびれて、喋れなくなってしまう」と言っていた。「あの目でガーッと睨まれると、震え上がって何もできなくなってしまう」と。
 後に学会を離れ、池田氏批判の急先鋒に立つ藤原氏にしてからが、そうなのだ。彼とて九州男児。怒るともの凄い迫力だった。その彼でさえ、池田氏の圧倒的な存在感に対し、率直に恐れをなしていたのである。私はもともと鈍いのか、それともそういう性格なのか、池田氏に対しても、割とズケズケ言いたいことを口にするほうだったので、「あの人を前にして平気でモノを言えるのはお前だけだ」と呆れられたものである。
 ただそんな私でも、確かに池田氏の目には力がある、としみじみ思う。あれだけ力のある目をした人間などまずいない、と。私は池田氏の目をできるだけ見ないようにしていた。見ると、蛇に睨まれた蛙みたいになるからだ。
 1度だけ池田氏から本気で怒られたことがあるが、あの恐怖は今となっても忘れられるものではない。後に詳述する「月刊ペン事件」の渦中にあった1976年12月のことだ。寿司屋に呼び出された私は、1時間弱にわたって事件への対応を巡って延々、面と向かって痛罵された。「お前は信用できない」「インチキだ」最初はなぜ怒られているのかもよく分からないまま、心の底から震え上がったものである。まさにあの目に、射すくめられた形だった。
 会議の席などで池田氏に怒られる学会員の姿をよく見たが、まさに彼らはすくみ上がっていた。ハハーッと床にひれ伏し、ひたすら平身低頭して許しを請うていた。気を失う寸前の者までいた。
 人を呑み込む目。自在に操る目。あの恐ろしさだけは、実際に見た者でなければ分かるものではあるまい。


【「黒い手帖」事件】
 2009年は、自自公政権の発足(1999年)以来、10年にわたって政権与党の座にあった公明党にとって大分水嶺の年となった。それは私個人にとっても然りである。3月27日、東京高裁で画期的な判決が言い渡されたのだ。もっとも私に言わせれば、当然の判決でもあるが。
 公明党の書記長、委員長を歴任した議員時代を含め、37年にわたってつけ続けていた、約100冊もの手帖がある。これを2005年、3名の元公明党議員が持ち去るという「事件」が発生。この件につき、手帖は私を脅迫して出させたものという司法判断が下されたのだ。私からの「自由意思による譲渡だった」という、彼らの主張を認めた1審判決を、完全に覆すものだった。公明党・創価学会による私への一連の不当な攻撃に対し、司法がキッパリ違法性があると認めた逆転勝利と言える(元議員側は最高裁に上告)。
 手帖には、政界の裏話や私が直接関係した学会のための裏工作などが赤裸々に綴られている。一連の「事件」の経緯や裁判の詳細については『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』や『「黒い手帖」裁判全記録』(いずれも講談社刊)に記したので、ここで詳しく触れることはしない。現状を簡単に述べれば、裁判所が手帖を私に返還するよう命じたにもかかわらず、いまも私の手許に手帖は戻ってきていない。だから、今回の手記に取り上げる池田氏の言動は、私の記憶に残っている「黒い手帖」の中身や、その他多くのメモなどに依っている。
 それにしても、この間の公明党・創価学会による私への攻撃は、まさに常軌を逸していた。
 まずは、政治評論家としての活動を一切停止させられた。10年以上も前に書いた雑誌の連載記事をやり玉に挙げ、やいのやいのと吊るし上げにあって、恐ろしくなって「評論家活動をやめます」との誓約書にサインせざるを得なかった。この誓約に基づき、丸々3年間、私は一切の評論家活動から身を引くことになる。
 だが学会や党からの攻撃はそれでは終わらなかった。
 『聖教新聞』や『公明新聞』など、いわゆる学会系の機関紙誌では、私への読むにたえない罵詈雑言、誹謗中傷が繰り返された。何億円単位の寄付をしろ、と折に触れ、再三にわたって強要された。
 自宅は24時間、監視の目にさらされた。我が家を見下ろせるマンションの一室を確保し、張り込みの拠点にしていたようだ。
 外出時には必ず尾行がついた。表の通りに出てタクシーを拾うと、すかさず尾行車が背後につく。どこか近所に車を用意していなければ不可能な芸当で、極めて用意周到な態勢が組まれていることが窺われた。身の危険を感じないほうが無理である。電車に乗る際は、絶対にホームの端に立たないように気をつけた。常に背後を警戒しなければならなかった。
私の友人、親戚にも嫌がらせや中傷の言葉が浴びせられた。組織全体が連動した個人攻撃で、まさしく組織犯罪である。
 こうした監視・尾行は、あえて「身元不詳の者たち」の仕業と言っておくが、彼らのビデオや写真は山ほどある。尾行者(車)についてはそれが誰なのか、現在、協力者を得て“犯人”を特定する作業を行っているところだ。
 ともあれ、こうした私への攻撃は、2008年5月に私が創価学会を退会し、私への人権蹂躙で提訴すると、表向きはぴたりとやんだ。泣き寝入りしているといくらでも攻撃をしかけるが、反撃されると立ち往生する。いかにも学会らしい反応である。いや、学会らしいと言うよりは、池田氏らしいと言ったほうがより的確か。池田氏の本質は神経質、はっきり言うと臆病なのだ。これは悪口の類ではない。あの猜疑心の強さと臆病さがあって、今日の創価学会と池田氏があるのである。
 前述の通り創価学会においては、池田氏の意向を無視しては、何事も決まらない。私に対する執拗な攻撃にしても、公明党・創価学会のあらゆる組織を動員している。これは池田氏の意向なくしてはありえない。
 しかし、自分をこのような目に遭わせたのが間違いなく池田氏の意思、命令だと確信していても、彼を心底から恨む気になれない。恨みよりも「あの人らしいな」という気持ちが先に立ってしまうのが本当のところだ。
 彼と身近に接し、一度でも虜にされてしまった人間は、たいていそうなのではないか。彼の有す人間的魅力は、それくらいの呪縛力なのである。
 ただ誤解を避けるためにあえて言う。池田氏の恐るべき呪縛力は、このところ学会の反社会的な行動に強く発揮されていると言わざるをえない。「あの人らしいな」と笑い事では済まされない。


【神懸かりな言動】
 思えば、初めて池田氏と対面してからすでに50年以上が経過した。最初に対面したのは1955年、創価学会関西本部の2階にある応接間だった。当時、池田氏は東京の学会本部では渉外部長、青年部では参謀室長という要職にあり、関西担当として、よく関西を訪れていた。京都大学在学中の1953年に入信した私は、それまでにも大きな会合などで池田氏の姿を見たことはあったが、間近に接するのは初めてだ。後に衆参両院で国政の場に立った矢追秀彦氏に紹介された。池田氏はただ一言、「ああ、そうか。うん、覚えておく」と言っただけだった。ところが、その直後、矢追氏が言うのである。
 「矢野君、すごいやないか。池田さんが初対面で『覚えておく』って言ったの初めて聞いた」
 どういうことだったのかは今も分からない。ただ、その後は頻繁に声を掛けてもらったし、何かと気に掛けていただいたのも事実だ。
 たとえば、こんなことがあった。大学卒業後の1956年に、私はゼネコンの大林組に入社した。この年、学会にとって初めての参院選があり、私は仕事も放り出して、選挙運動にかかり切りだった。さらに翌年も参院の補選があり、またも会社を休んで選挙運動をしていたら、会社から大目玉を食らってしまった。当然である。しかし、学会活動にのめり込んでいた私は「これも法難」などと思いながら、「こちらから辞めてやる」と啖呵を切った。報告のために学会の関西本部に行ったら、偶然、池田氏がいた。
 「先生、会社をクビになりました」
 当時の自分としては、信心のあまりクビになったようなもので、誉められるのではないかとむしろ誇らしげだったように思う。
 ところが、池田氏からは、「バカ野郎。会社をクビになるような奴は学会の恥さらしだ。そんな奴は学会もクビだ。すぐ、会社に戻れ」と叱責されてしまった。会社に引き返した私は、上司に平謝りしてなんとかクビがつながることになった。改めてそれを報告に行くと、池田氏が今度はご満悦の表情でこう言うのだ。
 「そうかそうか。戻れたか。よかった、よかった。これからは仕事を一生懸命やるのが君の使命だぞ」
 学会草創期の池田氏には、社会生活を大切にするという心情があったと言える。組織が巨大化した今はどうか? 当時のような謙虚さは微塵もない。
 また、その頃の池田氏は、1人で移動することも多かった。まだ新幹線も通っていない頃、来阪した池田氏が東京に戻るというので、夜行列車で私が大阪から東京までお供した。東京駅に着くと池田氏の奥さんがホームで待っていたのが印象に残っている。今からは想像も付かない、池田氏と会員たちとの距離が極めて近かった時代のささやかな思い出である。
 その後、大阪府議会議員を経て、国政に進むことになる私は、次第に学会内での地位が上がり、池田氏と会う機会が増えていく。そうなると、池田氏のこれまで知らなかった側面も知ることになる。たとえば池田氏は時折、神懸かり的な言動を取ることがあった。
 1967年の4月、日蓮正宗総本山大石寺にある墓苑を見分に行くのでついて来い、ということで学会や党の幹部ら数人でお供したことがあった。牧口常三郎・初代会長や戸田城聖・2代会長の墓もあり、学会の中でも古参会員の墓が多い。夕暮れ時、日が沈んで暗くなりかかった時刻だったと記憶している。
 墓苑に到着し、敷地を歩いていた時のことだった。池田氏がふと足を止めて、
 「おい、何か聞こえないか」
と言い出した。しかしどれだけ耳を澄ましても何も聞こえない。我々は思わず顔を見合わせる。
 「申し訳ありません。何も聞こえませんが」
 だが池田氏は遠くを見るようにして、
 「いや、確かに聞こえる。俺を呼んでいる。あっちのほうだ」
 指差して、「誰の墓だ?」と聞くのでお付きの人間が走って見て来た。
 「○○さんのお墓でした」
と報告すると、
 「そうか。そうだろう」
 池田氏は優しい表情になって、いかにも納得いったという顔で懐かしそうにつぶやく。
 「やはり彼か。古い同志だ。俺を呼んでいるんだ」
 そうした場面に接するたび、我々は、「ああ、やはり池田先生は凄い」と感じ入ってしまうわけだ。
 墓苑の控え室に帰って来ると、我々はさっそく声を潜めて反省会。その光景はマンガチックですらある。
 「おい聞こえたか」
 「いや何も聞こえなかった」
 「まだまだ俺たちは信心が足りない」
 こうして氏のカリスマ性が、さらに高まる。彼への心酔度が一段と増すことになるのである。墓苑という舞台設定、夕刻というシチュエーションが、そうした感懐を煽るのに一役買っている面もあるのかも知れない。
 実は私は、冷めた人間なので、内心どうしても他の幹部たちほどには没入できない。「ああ、またやっとるわい」といった思いについ駆られてしまう。
 だがそんな私でも、あれがすべてただの演技とは思えない。池田氏の振る舞いがいかにも自然だからだ。こういうことをやれば周りはこう受け取るだろう、こんな効果があるだろうなどと頭で計算してやっていたのでは、どうしてもウソっぽく映るはずである。少なくとも、私のような人間には。
 しかしそうではない。もしかして本当に聞こえているのでは、と私ですら思えてしまうほどなのである。
 こうしたことをサラリとやってのけるところがまた、氏が生まれついての人たらし、人心掌握術の名人たる所以なのであろう。


【究極の演出―本部幹部会】
 月に1度、創価学会では本部幹部会というものが開かれる。今思えばあれこそ、氏のカリスマ性を演出する最高の舞台であった。私も昔は党の要職にあるものとして、毎回出席していた。従ってここで述べるのは、あくまで自分が出席していた当時の模様である。
 幹部会は学会本部の創価文化会館5階にある、「広宣会館」という講堂で開かれることが多かった。1200〜1300人は入ろうかという大広間だ。おおぜいが一斉に出入りできるよう、両側の壁は巨大な引き戸となっている。
 中は畳がびっしりと敷き詰められており、出席者はひしめき合うようにして、ここに座る。たいていは胡座だが、正座の人も多い。
 出席者は青年部、婦人部、壮年部、また青年部の下部組織である男子部、女子部、文化本部の下部に位置する芸術部、といった各部局の幹部たち。東京の全域および地方の幹部も出席する。地方には北海道、東北というような各方面の方面長がおり、各県のトップには県長がいる。こうした面々を中心に、各県首脳10人以上が上京している。さすがに遠くの地方の場合は、同じ人間が毎回というのも難しいので、持ち回りの当番制を採っているところも多い。彼らはこれが終わると地元に戻って、県の幹部に報告しなければならない。名誉であると同時に、任務は重大なのである。
 講堂の正面には1段高くなった、白を基調とした大理石製の立派な祭壇・基壇がある。腰板の上はかなりの奥行きがあって、厨子の前にはお供え物が置かれている。お供えは日本酒の1升瓶やミカン、リンゴといった一般的なものだが、ミカンなどはピラミッドのように、うずたかく積み上げられている。
 仏壇に祀られているのは黒塗りの木彫りのご本尊、板曼荼羅だ。我々出席者は、それを見上げるような格好で畳に座ることになる。
 祭壇の下には机があり、鉦が置いてある。お焼香用の黒塗りの香炉もある。この祭壇の前に、最高首脳ら10人弱が出席者のほうを向いて、並んで着席する。畳の上にパイプ椅子が並べて置いてあるのだが、座りきれない副会長らは畳に直接座る。ここはあくまで学会幹部の席だ。私のような党の人間はここに座ることはなく、出席者の側である。政教分離の原則があるためで、私らはたいてい一番前、それもカメラに映らないように、と隅のほうに座るのが常だった。
 さて前面の、会長ら最高首脳部の席だが、実はどこにでもある簡単なパイプ椅子に過ぎない。ただその列の真ん中に、どっかりと大きな革張りの椅子が置いてある。椅子は360度ぐるりと回転できる立派なもので、祭壇のほうも、我々のほうも向くことができる。ここが、池田氏の席である。
 ただし開会時、この席は空席だ。最初から池田氏がここにいることは、まずない。
 会の大まかな流れは次のとおりだ。まず開会前、芸術部に所属するアーティストがピアノを弾いたり、婦人部が合唱したりという演目がある。会の雰囲気を盛り上げる演出に他ならないが、確かにこうした演奏に触れると陶酔したような心地になる。これが30分ほどあって、いよいよ司会者により、
 「ただ今より○月度の本部幹部会を開会します」
との宣言がある。幹部席の前には簡単な演壇が置いてあり、マイクが据えてあって、発言者はそこに立って話をするのだ。
 会のテーマは当然、その時その時によって違うが、たいてい最初は青年部代表による、「○○党の○○というクズ議員は国会でこういうバカな質問をしている」「『週刊○○』が学会に対してこういう悪口を書いている」といった類の話になるのが通例だ。かなり激しい口調で、罵詈雑言になることが多い。悪口オンパレードのアジ演説である。私が退会した直後の本部幹部会では、原田稔・6代会長が私のことを「恩知らず」「臆病」「ウソつき」と非難したり、男子部長が「骨の髄まで腐りはてた大ウソつき」と罵っていたそうだ。もっともたいていの場合、ハッキリ「矢野」と名指しせず、「関西出身の悪党」とか「党の一番悪い奴」といった遠回しの表現が用いられる。いずれにせよこれが宗教家か、と思うほどの悪態の数々である。
 その他には、池田氏がどこそこの国、あるいは大学から勲章や名誉学位をもらった、という克明な報告もある。こうした報告はなぜか、長谷川重夫氏(創価学会現副理事長)が務めるのが常だった。会場からは、万雷の拍手が上がる。外国の偉い人から届いた池田氏宛のメッセージも読み上げられる。「池田先生はなんて偉大なんだ」という想いが会場に充満する。
 こうした次第を経て、会長による今月の活動方針の話がある。私の頃は秋谷栄之助氏(五代会長)だったので、「秋谷会長指導」と称していた。
 池田氏が入室するのは必ず、この会長指導の最中だった。話の途中に決まって、
 「ただ今より池田先生がご入場になります」
と司会の宣言があるのだ。
 とたんに会場はしーんと静まり返る。秋谷氏も話の途中でぴたっと沈黙する。そうして会場やや後方の板戸が開き、池田氏の姿が見えると満場、万雷の拍手である。
 瞬間、この場のすべては池田氏のものに一変する。1000人を超える出席者が全員、氏の一挙手一投足に注目する。もはやそれまでの活動方針など、はるか彼方の無縁のものになってしまうのだ。“池田劇場”“池田独演会”のスタートである。


【演説はざっくばらん】
 入室してくる池田氏の姿は颯爽としたものだ。さりげなく「やあ」などと手を振りながら悠然と歩く。時おり、「よお元気」などと出席者に声をかけながら会場を見回している。部屋の奥まで進むとまずは正面の祭壇に手を合わせる。お題目を三唱し、この時は会場全員これに合わせる。池田氏の登場によって話を中断させられた秋谷氏も同様だ。終わると池田氏はおもむろに、例の専用椅子にどっかりと腰を下ろす。
 「続けろ」
 言われて初めて秋谷氏は話を再開するが、もはや指導にも何にもならない。誰もそんなもの聞いてなどいない。おまけに時々、
 「ほんとになあ。面白くない話だなあ」
などと池田氏から茶々が入るから、なおさらだ。
 「事務的だなあ。官僚だよこれじゃ」
 そのたびドッと会場から笑いが上がる。これでは話になどなるわけがない。出席者の間でも内心、「本当だよ」「とっとと終われ」という雰囲気になってしまう。
 ましてや時おり、池田氏は隣の幹部に向いて何か言う。
 とたんにしーん、と会場は静まり返る。何を言っているか、全員が聞き取ろうとするのだ。もちろん聞こえるわけがない。1000人以上も入る広い部屋なのだ。実際、一番前に座っている私でも聞き取れたことはない。おまけにただ、隣の人間に向かって小さな声でボソボソ何か言っているだけで、たいした話ではないに違いない。
 それでもみな、聞き取ろうとする。針が落ちても聞こえるほど、しーんと静まり返って耳を澄ます。いま思い返しても不思議な光景だった。それも、毎回毎回こうなのである。
 要はあれがマインドコントロールのテクニックだったのだろう。コケ脅しもハッタリもない。静かに池田氏が入場してわずか数秒で、その場にいる全員の心をワシ掴みにする。自分の一挙一動に注目させ、意のままに操ってしまう。開会前の演奏という雰囲気作りから始まって、会長の話の途中で入場してくるタイミングといい、すべては一貫した見事な演出のように見える。
 ただそれを、いとも自然にこなしてしまう。おそらく本人も、自分の行動が与える効果はこういうもので、などと一々意識してやってはいまい。やはり、天才なのだ。墓場で声が聞こえるといった、あのエピソードと通底しているものがあろう。かくして会場の全員が、池田氏の操り人形と化してしまうのである。
 結局、秋谷氏は話の途中で早々に、
 「ではそういうわけでございますから、これで終わります」
と切り上げることになってしまう。池田氏が、
 「何だ、もう終わりか。もっと続けろ」
などと言うこともあるが、これは単なるからかいだ。満場から、「もうやめろ」とばかりに秋谷氏が演壇から降りるのを促す意味の拍手が起こる。秋谷氏がサッサと引き上げると、会場は大笑い。要は会長ですら、池田氏を引き立てるための道化にすぎない。
 こうしてすでに満場が氏の虜になったところで、「池田先生のお話」である。池田氏の椅子の前に、テーブルとマイクが運ばれてくる。彼だけは話をするのも座ったままだ。
 演説原稿は事前に、専門スタッフによって用意されている。だがそんなもの、ろくに読みもしない。
 私もあれだけ毎回出席していたが、宗教的な説話を聞いた、というような記憶はあまりない。せいぜいが、
 「やっぱり大御本尊に祈るんだ」
とか、
 「一念の力が大事だ」
といったような短い言葉、キャッチフレーズを口にするくらいである。日蓮大聖人の仏法の意味がどうの、というような教学的に立ち入った話は、まず聞いた覚えがない。
 難しい説話どころか話ですらなく、マイクを持つといきなり、
 「やあみんな、あれだね。ああそうだ。伸びをしよう、伸び」
などと言うこともしばしばあった。
 「はい、起立起立。みんな立って」
と自分も立ち上がって、
 「はい、うーん。深呼吸してー」
 「ねえ、こういう風にやるんだよ。さっきから秋谷なんかが難しい話してたが、あんなのダメだ。楽しくやらなきゃダメなんだよ、楽しく」
 「ねえそうだろ、みんな」
と振られれば全員「はーい」である。完全に呑まれている。ペースに嵌められてしまっている。単純な身体の動きで、まずは聴衆を引きつけてしまうのだ。
 出席者を指差して、
 「お、君、病気だったんじゃなかったか。もうすっかり元気そうじゃないか」
と話しかけることもある。本当に覚えて言っているのか、それとも演出だったのか。今となっては分からない。でも私は本当に覚えていて声を掛けていたと思う。池田氏にはそういう記憶魔的なところがある。「はい」と答えたのが仕込みのサクラだったのでは、という人もいる。彼ならそれくらいやり兼ねないからだ。
 ただ考えてみれば、わざわざ仕込むまでもない。サクラなど別に設けず、氏が適当に会場を指差して、勘違いなことを言っていただけとしても、要するに結果は同じなのだ。たとえ指差された者が、全く身に覚えがなかろうと、
 「いえ先生、人違いではないでしょうか。私は病気になどなっていませんが」
などとあの場で反論できるだろうか。そんなことが言えるような雰囲気ではない。
 些細な一言で会場を1つにまとめる生来の求心力に加え、こうした間を差し挟むタイミングも見事なのは間違いない。
 その後も語り口はざっくばらんなままである。小難しい話など一切ない。翌日の聖教新聞を見ると、「キリスト教の教義は」とか、「キルケゴールが言ったことによれば」といった高尚な話をしたとの記事が載るが、それは事前に用意されていた演説原稿だ。実際、少しはそういうことも読み上げていたが、実感としてほとんど記憶には残っていない。それより原稿にとらわれない、池田氏自身の肉声によるアドリブがとにかく面白い。
 「この前、政治家の○○が来てね」
と、演説というよりほとんど雑談、世間話である。とても親しみやすい。
 「先日、○○国の大臣に会ったんだよ。いや、さすがたいしたものだよ。人物だね、あれは」
 「それに比べて日本の政治家はダメだね。特に最近のは、ろくなのがいない」
 「ほれ、そこにも矢野なんかがいるが、どうも最近、偉そうにしているぞ。人相も悪くなった。自民党なんぞとコソコソつき合ってなんかいるから、そうなるんだ。怪しからん」
などと突然、名指しされてしまうこともある。これをやられればこちらは、ひれ伏してただただ恐縮するしかない。


【公明党をけなすのも計算尽く】
 こうした言葉の端々から、池田氏がいま何に関心を持っているかを探るのが、出席者にとって大切な幹部会の意義でもある。今は政治に特に関心を持っているのか、公明党のあり方をあまりよく思ってはおられないのか、といった風である。例えば、
 「選挙は大事だよな」
という発言があれば、次の選挙ではみんながんばれ、という意味である。当然、県長たちは地元に帰って、選挙運動にさらに力を入れるよう各会員にハッパをかけることになる。
 「公明党はバカだ。ダラシがない」
といったん党をこき下ろした後で、
 「でもまあしょうがない。同志なんだからな。応援してやろうよ、みんな」
という言い方をされたこともあった。この時は幹部会が終わった後、池田氏から呼ばれて、
 「ああ言っときゃね、毒消しになるんだよ」
と、こっそり解説してくれた。
 「あれでみんな、気持ちよく応援してやろうという気になるんだ」
 つまり池田氏があの席でああいう言い方をすれば、本音では党に不満を持っていた会員も、進んで応援する気持ちになる、ということだろう。このように相手をけなすのも計算尽く。聞き手に与える心理的効果を狙ってのことなのである。
 「会館の建設費用が足りず、現場が苦労している」
という風に言われれば、「もっと寄付を増やせ」という意味になる。かくして地元では浄財集めに励む、という光景が展開されるわけだ。
 特に、今は誰が気に入られていて、誰が嫌われているのかを言葉から読み取るのは、極めて重要である。誰と親しくしておくべきか、誰とは距離を置いていたほうが無難かを判断しなければならない。要は保身である。
 だから出席者は、池田氏の片言雙句から目を離すことができない。冗談に笑いながらもどこか、常にピリピリ張り詰めている。秋谷氏の指導中、隣の幹部に耳打ちしている会話を聞き取ろうと、聞こえもしないのについ耳を澄ましてしまうのも心理の本質はここにあるのだろう。なかなかに神経を使う世界なのである。また池田氏は、
 「俺は今、誰それのこういうところに対して怒っているんだ」
という風にハッキリ発言することがあまりないため、よりそうした傾向が強まってしまう。例えば最近では、やり玉に挙がる筆頭は私だったろう。ただ池田氏が私を批判するとき、「矢野が」とハッキリ名指しすることは少なかったのではないか。少ない、と言ったのは実際に池田氏が私を名指ししたテープが手許にあるからだが、それでも池田氏は慎重だ。たいていの場合は「関西のあいつが」程度にボカして言っていたはずである。
 池田氏がいかにボカした言い方をしても、出席者は「矢野のことだな」と即座に察する。そして、「では矢野に攻撃をしかければ、池田先生は喜んでくださる」と判断する。
 かくして私への攻撃がエスカレートするわけだ。実際に臨席したわけではないから断言はできないが、多分そういうことがあったのでは、と密かに思っている。いかにもありそうな話なのである。


【競争させて忠誠を尽くさせる】
 会場にいる人間をしばしば名指ししては、持ち上げたり貶めたりするのも池田氏の演説の特徴だ。こちらはそれに対し、一喜一憂である。
 「矢野は最近、よくやっている」
と言われれば天にも上る心地になる。だが私が書記長当時、横には竹入義勝氏(元公明党委員長)が座っているのに、そういう時は池田氏の口からは「竹入」の「た」の字も出てこない。部下の私だけ誉められたということは、竹入氏は暗に批判されたも同然で、どっと落ち込んでしまう。
 ある意味、叱られても名前が出ただけまだいい、という感覚が我々にはあった。自分の名前を覚えていてくれた、先生が意識していてくれた、ということになるからだ。一番こたえるのが無視されることなのである。
 だがそうして竹入氏を貶めたとしても、ずっとそのままということはまずない。次の機会ではたいてい、
 「竹入はがんばっている」
という話になる。今度は私が、
 「それに比べて矢野は要らんことばかりしやがって」
とやられてしまうわけだ。立場が逆転である。
 このように誉めるのと叱るのとを、池田氏は一定期間ごとに、交互に繰り返す。誰が見ても池田氏に次ぐ2番手、つまりセカンドマンはこの人だという者は絶対に作らない。公衆の面前で罵倒して潰す。かくして池田氏とその他大勢との差は無限の距離に開き、独裁的な権力は強化され続ける。叱られ役専門のような立場の者もいたことはいたが、そういう人はたいてい信心が篤く、我々からもやはりあいつは偉いな、と評価されていた。
 これは私が幹部会に出席しなくなってからの話だが、2005年7月、1人の幹部が池田氏から1時間にわたって罵倒された事件があったという。
 『週刊新潮』(H17.8.4)が報じたところによれば、“被害者”は異例の若さで男子部長に抜擢された、輝かしい経歴を有す弓谷照彦氏。創価高校から東大に合格しながら、これを蹴って創価大学に進んだというエピソードの持ち主だ。学会内では当然、美談である。池田氏の覚えもめでたく、前述の通り異例の出世街道を驀進(ばくしん)する最中だった。ところが、彼が4人もの女性に次々手をつけており、それも池田氏側近の、お気に入りの女性だったという。私には真偽の程はわからないが、池田氏にすれば、「飼い犬に手を咬(か)まれた心境」だったのかも知れない。
 「ケダモノ」「犬畜生」
 悪口の限りを尽くして満座の中で痛罵されたというから、弓谷氏の恐怖たるやいかばかりだったか。失禁の1つくらい、したとしてもおかしくはない。報道が事実ならば、彼のやったことは言い訳のしようもなく、叱られて降格の処分も当然とは思うが、あの恐ろしさを身に沁みて知っている私からすれば、ちょっと同情の念も湧かないではない。それに罵っているのが誰より、女性問題では1度ならず週刊誌などに取り上げられてきた張本人ではないか。
 だがまあこれは異例のケース。たいていは持ち上げられたら落とされる。2〜3ヵ月周期の波に我々は翻弄される。こちらは誉められたら喜び、叱られたらしょげる。子供のようなものだ。誉められたら発奮してがんばるし、叱られたら挽回しようと意気込む。これこそマインドコントロールであろう。一部だけを突出させることなく、みなを競争させながら忠誠を尽くさせる。見事と言うしかない手腕である。
 こうした「池田先生のお話」が毎回、ほぼ1時間である。我々は一喜一憂して、引き込まれるように聞き惚れる。
 この模様は、全国にも生中継されていた。文化会館などの、創価学会の所有する会館が全国に約1000ヵ所あるが、ほとんどの会館に衛星放送を受信できる設備が備えてある。
 中心的な会館には500人から1000人くらい入る大会場がある。ここに巨大なスクリーンがあって、衛星経由で送られた本部幹部会の映像が映し出される。あたかも自分も幹部会に出席しているような臨場感を味わえるという仕組みだ。幹部会に出席しない公明党議員も、この衛星放送は必ず見るように義務付けられていた。後で感想文を提出させられたこともあった。
 そうして多くの学会員一人一人が、池田氏と対面しているような錯覚に陥る。電波を通じて集団洗脳しているようなものである。考えてみれば恐ろしい光景ではないか。
 もっとも最近では、この生中継は行われなくなったらしい。話の脱線、不適切発言があまりに多過ぎるせいだという。
 例えば1993年8月8日の第69回本部幹部会における、「デエジン発言」というものがあった。同年7月18日に実施された第40回衆議院議員選挙において、自民党が惨敗。議席の過半数を取れず、8月9日に細川護熙氏を首相にいただく非自民連立政権が発足した。その前日の幹部会で、
 「すごい時代に入りました。ねー、そのうちデエジンも何人か出るでしょう。ねーもうじきです、明日あたり出るから。みんな、みなさんの部下ですから、そのつもりで」
と発言。さらに「労働大臣、総務(庁)長官、郵政大臣」と石田幸四郎委員長ら公明党議員が就任する大臣ポストを発表してしまったのである。政権発足の前日に公明党が大臣ポストを獲得する約束ができていると暴露してしまったばかりか、大臣を「デエジン」よばわり。しかもそれは「学会員の部下だ」と軽視してみせたわけで、発言を録音したテープが流出し、亀井静香衆院議員が国会で追及するなど、世間でもかなり問題視された。
 こうしたことが続いたため、今では幹部会の模様は録画され、編集されてから全国の会館に送られるようになった。また最近は、事前に用意された演説原稿をそのまま朗読することも多くなったと聞いた。それも最初のところだけ数分間読んで、後は長谷川副理事長に代読させることも多い、とか。
 やはり年齢的にも、1時間も好き放題に喋り続けるのは体力的に苦しくなってきたということなのだろうか。脱線が多いというが、あの脱線こそ池田演説の真骨頂だったのだが。生の池田演説の面白さを知っている身からすれば、あれが聞けなくなった最近の幹部会は気の毒なように思えなくもない。
 ともあれこうして、幹部会の映像を全国に送ることで、池田氏のカリスマ性が現場と密着する。学会ではそういう仕組みを長年にわたって、築き上げてきたのだ。


【学会員一人一人と直結するシステム】
 例えば地方の学会員が亡くなったとする。すると、さしたる役職でなかったとしても、色紙だの伝言メモだのといった、記念になるような品々が贈られることが多い。それも創価学会からではない。池田先生からの、という口上が必ずついてくる。
 もちろんそんな地方の会員を一々、池田氏が直接知っているわけがない。すべてオートメーション化されているのである。担当しているのは第一庶務という部署。池田氏の側近中の側近である個人秘書たちもここに属しており、学会のトップクラスの、超優秀なメンバーが集められる。池田氏付の「本隊」は20〜30人程度だが、「第一庶務付」といわれるスタッフの他、方面組織、県組織に担当者が配置されている。担当方面で誰かが亡くなれば、弔電を打ったり、何かを贈ったり、というシステムが構築されているわけである。
 また地方本部も、冠婚葬祭における対応については自動化されている。全国にこれだけの会員がいれば、毎日どこかで誰かが亡くなったり、慶事があったりしているわけで、そのたび自動的に池田氏の名前で物が届けられる仕組みになっているのだ。
 だが内実はオートメーションであっても、もらった側はやはり感激する。それに、ただの機械仕事とは思えない、ちょっとした仕掛けが施されている。
 会員が亡くなった場合、その経歴についての情報が地元の支部から、第一庶務に上げられる。すると「故人の壮年部における○○の功績に感謝して」というような具体的な文言が、記念品について来るのだ。遺族にしてみれば、
 「ああ、池田先生は父(母)のことを知っていてくれたんだ。覚えていてくれたんだ」
となる。そして、
 「やっぱり優しい先生だ。何て慈悲深い先生なんだ」
と、池田氏に対する思慕がさらに深まる結果となるわけだ。
 会員も、ただ一方的にもらうだけではない。何かの記念日があれば、地方の会員は大挙して東京に馳せ参じる。
 例えば5月3日は池田氏の会長就任記念日で、「創価学会の日」として何より大切な日である。こうした時、地方本部は会員に対して、
 「東京へ行って池田先生にお礼を差し上げよう」
という呼びかけを行う。何人東京へ送り込んだかで、県の幹部の“勤務評定”も決まるため、彼らとしても必死だ。それぞれの地区で1人1万円ずつ、といったように寄付を集め、何人かを引き連れて上京するように指導する。
 新宿区信濃町の本部会館では、野外にテントが張ってあり、「接遇班」の人間がズラリと並んでスタンバイしている。上京して来た会員たちは集めて来た寄付に、手紙やお菓子などを添えて彼らに届ける。班員は彼らの名前を聞いて、一人一人記録する。「ご苦労様でした」と記念品が手渡される。
 「接遇」と称しているところからも分かる通り、上京して来た会員たちはあくまで「客」という扱いである。信徒が学会に詣でたのなら「客」とは呼ぶまい。つまり彼らは池田氏個人を訪ねて来た客人なわけだ。だから会計上はともかく、気持ちとしては寄付も学会に対してではなく、池田氏に対して差し出しているようなものだ。
 寄付を終えた地方会員は本部会館内を案内され、お題目を唱えて、
 「ああ今日はよかった。いい日だった」「池田先生と気持ちが通じた」
と満足して帰って行く。実際に会ってはいなくとも、気分としては池田氏と身近に接したも同然だ。池田氏にお礼をして、記念品をもらったことで、心と心が触れ合った心地なのだろう。
 このようにあの手この手で、現場の一人一人と池田氏とが直接つながる仕組みが構築されている。彼のカリスマ性を現場に浸透させ、根づかせるための、幾重ものシステムが築き上げられているのである。
 こんな大がかりなシステムは一朝一夕で出来るものではない。そのためのスタッフがおおぜい働いているわけだから、人件費だけでも膨大なものになろう。大規模な体制作りが欠かせない。
 それでもこういう仕組みを作ろうと、構想を練る。アイディアを出すのはもちろん池田氏だ。そしてそれを、周りが10年、20年もかけて具現化する。その執念の凄まじさには、もはや脱帽するほかない。


【贈り物好き】
 贈り物のやり取りを介した、会員との結びつきについて触れたが、確かに池田氏は物を贈るのも、贈られるのも大好きである。実際私も、何かにつけて記念品をいただいた。バッジだ、ネクタイピンだといったもので、すべて特注品だ。
 短歌や詩を詠むのが好きな池田氏から玉詠をしたためた原稿用紙や色紙などもよくいただく。全部手書きの場合もあるし、歌の部分だけ印刷ということもある。そして、最後には独特のカギ形の自筆による「大作」のサインと落款が押されていたりする。下の写真の色紙は、私が池田氏からいただいたものだが、やはりこういうものを贈られると、嫌でも厳かな思いに打たれてしまう。しょっちゅう一緒にいた私でさえそうなのだから、初めてもらう地方会員の感激たるや、いかばかりか。まさに家宝扱いなのだ。
 こちらも何かにつけ、口実を見つけては贈り物を届ける。付け届けをしておけば機嫌がいい。しなければ嫌みを言われる、と分かっているからだ。
 池田氏の食の好みは概ね、脂っこいものである。マグロ、中でもトロが大好物。天ぷらやしゃぶしゃぶも大好きだ。そこで一時期は党のほうから毎年、特上のマグロや牛肉を贈っていた。マグロのときは、わざわざ築地で1週間くらい前から予約して用意して、冷凍車2台に積んで運んでもらったのを覚えている。軽井沢の地に学会の長野研修道場があるのだが、毎年夏に池田氏がここに行くので、それに合わせて届けるのである。
 冷凍車2台分だから何トンという量だ。とても1人で食べられる分量ではないが、ケチケチは厳禁である。何より豪快なのが池田氏の好みだ。先生が食べられる量はこれくらいだろう、などと勘案して届けていては、後で散々に罵られてしまう。実際、党からの贈り物には、
 「まったくしょうがねえなあ。こんなに贈ってきやがって」
などと口ではブツブツ言っていたそうだが、内心では喜んでいたはずだ。その証拠に、後から「このたびは立派なマグロを贈ってもらい、ありがとう」という池田氏のメッセージも第一庶務を通して、党のほうにちゃんと届けられる。要は気っ風の見せどころ、なのである。
 研修道場には地方の最高幹部がおおぜい集まっているから、
 「党がこんなもの贈ってきやがった。しょうがねえや。ほら、みんなで食べろ。普段、選挙で応援してやってるんだからな。こんな時、ご馳走になっとかなきゃな」
と分け与える。大量の贈り物を受け取り、それを他の会員に配るのが何より好きなのだ。親分肌の見せどころ、という奴である。だから付け届けをするなら、なるべく豪快に、でなければならない。
 以前は正月の2日には、竹入氏と私や他の党幹部も必ず学会本部に挨拶に行っていた。池田氏は大広間のソファにどっかり座っている。広間には座卓がズラーッと並んでおり、挨拶に来た者がそこに着くと、振り袖姿のお嬢さんがお屠蘇を注いでくれる。
 私たちの顔を見ると池田氏は、
 「おお、来たか。こっちへ来い。ここに座れ」
と横に来るよう招く。これは大変名誉なことである。池田氏の横に座っていると、こちらも旗本になった気分になる。
 次々訪れる客も当然、その姿を見る。
 「ああ、竹入さんと矢野さんが池田先生のおそばに座っている」
 情報はその日のうちに、あっという間に広まる。これが我々の権威付けになる。
 贈り物を持ってきた挨拶客が、それを接遇班の人間に渡すと、そのまま持ち運ばれてずらりと大広間に並べ置かれる。挨拶客が部屋を辞すときには池田氏が客に対して、
 「ああ君、ホレ、そこの羊羹、持って帰りなさい」
と勧める。時には女子部員に、
 「ああ君、彼にそこの一升瓶、あげなさい。ああそれじゃダメだ。そっちの、それだ」
と池田氏自ら、より高級な品を指定することもある。気前のよいことだ。こうなると、たとえ池田氏が買ったものでなくても、もらった側は何か特別なものをいただいたという気分になる。感激して帰途に就くのは言うまでもなかろう。
 余談だが毎年贈っていたマグロや牛肉の贈り物が、国税調査で「政党から個人への利益供与(贈与)ではないか」と問題になったことがあった。
 「いや、みなで分けて食べるので、個人への利益供与には当たりません」
と反論するのだが、確かに送り先はあくまで「池田先生宛」になっている。「学会のみなさま宛」などと言って届けると不機嫌になるから、そう書くしかないのだが、国税にはなかなか納得してもらえず困り果てた覚えがある。


【何かにつけて報告書】
 贈り物は年中、全国から届けられる。夏になれば北海道からトウモロコシ、冬には富山湾から寒ブリというように。その地その地の山海の珍味が季節に合わせ、地方から学会本部に贈られる。
 するとそれらは、右から左へ別の会員に振り分けられる。第一庶務が作業に当たり、このレベルの品で、分量がこれだけだったらどことどこへ、というように配分する仕組みが出来上がっているのだ。それにはこれまた、必ず「池田先生からのいただき物です」という口上がついて来る。
 このため党の役職をやっていた頃は、週に何度も学会本部に赴かなければならなかった。「先生からのいただき物がある」と第一庶務から電話で呼び出されるためだ。手許まで届けてくれるということはまずなく、自分で取りに行かなければならない。贈り物はしょっちゅう届くから、多いときは2日に1度は呼び出しがある、という頻度だった。一昨日は魚、今日は果物……という具合である。
 有り難いようで煩わしいのが、こうしていただき物をすると必ず、報告書を提出させられるという点だった。ついついサボっていると、第一庶務から督促される。
 「先生から先日いただき物があったではないか。なのにまだ報告書が上がっていない。先生からの贈り物を何だと思っているのか」
 つまるところお礼の強要である。誰と誰に何を贈ったか。そしてちゃんと報告書が提出されているか、否か。すべて一々チェックされているわけである。ご苦労なことだとは思うが、催促されてはグズグズしてはいられない。忠誠心に疑問符をつけられれば、後でエラい目にあうのは自分なのだから。
 提出した報告書はちゃんと池田氏まで上げられ、決裁を受ける。「見たぞ」という意味で赤鉛筆で印が入れられ、手許に戻されてくる。
 どんなものか知っていただくために、当時、私が池田氏宛に提出した報告書を一部紹介しよう。

〈御礼
ブドウを頂戴いたしまして、本当に有難うございました。
至らない私ですが、真剣に唱題し、闘ってまいります。
第11回党大会、来年の参議院選挙めざし真剣に闘ってまいります。本当に有難うございました。心より御礼申し上げます〉

 この報告書、書式が決まっていて、何かにつけて提出しなければならない。贈り物に対しての御礼くらいなら、読者の方も「アホなことしているな」くらいの感想だろうが、党でこんな会合があった、誰と会ってこういう話をした、という政治に関わる出来事も逐一報告する義務がある。しかも、報告書には、池田氏の直筆による赤鉛筆で、感想や指示が記されていることもあった。
 例えば、私の手許に1969年11月27日付の報告書がある。「宮本書記長と電話の件」と題されており、当時行われていた大阪市議選の補欠選挙で、共産党が公明党・学会を中傷する演説をしていることを私から池田氏に報告する内容である。続いて、私が宮本顕治共産党書記長に電話し、宮本氏の発言として、(1)早期に実情を調査すること、(2)秋谷氏と共産党幹部会委員の下司順吉氏が翌日に顔合わせをして、その席でこの問題を話し合ってはどうかと提案したこと、が記されている。この顔合わせについて記している部分には、池田氏の直筆で、
 「やったらどうか」
と書かれている。
 早速、この指示に基づいて行われた翌日の両者の会談には国会の常任委員長室が使われた。
 ほかにも、衆院選や参院選の立候補予定者の名前をあげて、「御決裁をお願いいたします」とお伺いを立てているものや、「明鳳会」という党の若手中心のグループを結成した際、命名とメンバーの選定(代表幹事には神崎武法前公明党代表が選ばれている)を行った池田氏に御礼を述べている報告書もある。
 これらは、公明党が池田氏にお伺いを立てなければ、何も決められないことを証明している。まさに政教一致と言われても仕方がない。
 いずれにせよ、膨大な量の報告書が、氏の許に届けられている。逐一これらすべてに目を通すわけではないが、池田氏も並の労力ではない。贈り物のお礼まで義務づけるからそうなるのだ、という気もするのだが、報告書を提出させることで、常に自分への忠誠心を確認しておかなければ不安なのだろう。もはや妄執の範疇と言える。


【「内弁慶」の発露「言論出版妨害事件」】
 池田氏の性格を特徴づけるのが、学会内部での雄弁ぶりと好対照な「内弁慶」ぶりだ。それが如実に表れたのが、「言論出版妨害事件」と「月刊ペン事件」だった。
 「言論出版妨害事件」の発端は1969年の8月。政治評論家の藤原弘達氏が、『創価学会を斬る』という本を上梓しようとしていると判明したのがキッカケだった。竹入氏と私は、田中角栄氏(当時、自民党幹事長)を介して、
 「初版だけは出していいがすべて学会が買い取る。その後いい仕事を回すから、増刷はするな」
と藤原氏に交渉を仕掛けた。
 このときは本当に苦労した。藤原氏は頑として譲らず、交渉は決裂。逆に角栄氏から懐柔されたことを暴露され、一気に政治問題化した。本来は創価学会の問題にもかかわらず、私たち党の人間まで動いていたことから、国会で取り上げられる騒ぎになったのである。
ちなみに同書は発行されるや話題となり、最終的には100万部以上売れたという。学会では同書を買い占めて焼却しようという計画もあっただけに、かなり売上に貢献したはずだ。
 国会ではこれまで創価学会が行ったとされる言論妨害の様々な“前歴”について、具体的な質問が次々に飛ぶ。私ですら初耳のこともあったほどで、追及する側からすれば質問の攻撃材料には事欠かない様子だった。
 「そもそも創価学会のために、公明党が動くとはどういうことか」
と政教一致問題にまで議論は発展してしまう。
 こうなると最後は証人喚問である。「池田を国会に呼べ」の声が囂然と沸き上がった。
 こちらとしては何より痛い攻撃である。弟子として、師を国会の場に引きずり出させるわけにはいかない。証人喚問絶対阻止のため、公明党は連日の右往左往を強いられた。
 だが、私は本音としては、池田氏に国会に出てもらいたかった。
 騒いでいるのはしょせん、各選挙区選出の国会議員なのだ。こちらは数百万世帯を抱える団体のトップ。器が違うという思いもあった。だから国会の場であろうと、幹部会の時のように颯爽と登場して、
 「一部行き過ぎた行為があったようだ。言論妨害をしようという意図などなかったが、誤解を与えたとすれば私の指導不足である。申し訳ない。ただ、信教の自由は大切である。この件については、私は譲るつもりは一切ない」
というように堂々と語ってくれればいい。
 そうなれば、議員のほうが圧倒され、
 「池田氏まで出てくれたのだ。この件はもう、結構です」
となって問題はあっという間に、終止符が打たれてしまうはずなのだ。いつも我々を魅了するような、あの堂々たる名演説をやってくれさえすれば。当時の私は本気でそう信じていた。
 ところが池田氏、内に向かっては類い稀なる演説の天才であっても、外に対しては一転、尻ごみしてしまうのだった。このころは学会本部にも姿を見せず、たまに顔を合わせても、池田氏からは、
 「どうなんだ、(喚問は)大丈夫か」
ばかり。
 「まったく、俺だけが辛い目に遭うんだよ」
 「お前たちはしょせん、他人事だ」
とトゲのある言葉を浴びせられたこともあった。外の世界に怯える内弁慶、臆病者以外の何ものでもない。これでは金輪際、証人に出ることはあり得ないな、と諦めるしかなかった。
 当時、誰かを国会に証人喚問するには、各委員会の委員全員による全会一致が暗黙のルールだった。多数の横暴を許さない、少数政党を保護するという意味の不文律である。だから、少数政党であれ一党でも反対したら、喚問はできない了解事項になっていた。
 ただこれは、あくまで「暗黙のルール」である。国会は明確な規定がない限り、前例に基づいて動くが、このままでは弱い。そこで私は工作に動き回り、これを「慣例」に昇格させた。かくして公明党が反対する限り、池田証人喚問はあり得ないこととなった。この事件で唯一、我々の挙げた成果である。
 とりあえず証人喚問は阻止することができたが、池田氏が何も発言しないまま幕引きというわけにはいかない。結局、1970年5月3日に行われた創価学会第33回本部幹部会で池田氏が声明を出すことになった。この幹部会は池田会長就任10周年記念式典の意義があっただけに忸怩たる思いだっただろう。
 「言論問題はその意図はなかったが、結果としてそれが言論妨害と受け取られ、世間に迷惑をかけたことはまことに申し訳ない」
 また政教一致問題についても言及せざるを得ず、以降学会と公明党は表向きには、政教分離の建て前を装うことを余儀なくされた。


【出廷拒否の「月刊ペン事件」】
 「月刊ペン事件」の発生は1976年。雑誌『月刊ペン』に池田氏の女性スキャンダルが書き立てられたのが発端だった。同誌は「崩壊する創価学会」と銘打ち、学会スキャンダルを連載で追及したのである。
 『月刊ペン』の編集長は隈部大蔵という人物。西日本新聞で論説委員をしていたのだが、1968年『日蓮正宗・創価学会・公明党の破滅』『創価学会・公明党の解明』という本を出そうとして学会の猛攻に遭い、出版を断念させられた過去を持つ。つまり彼にとって、学会は恨み骨髄の敵だった。一説によると彼が『月刊ペン』の編集長を引き受けたのも、思う存分学会批判ができる場を求めてのことだった、という。
 このようなことを放置しておいては、第2第3の隈部氏が出てきてしまう。さっそく『月刊ペン』と隈部氏を名誉毀損で訴えようという話になった。学会副会長の北条浩氏が、いい弁護士を紹介してくれと私のところへやって来た。
 当初、私はこの依頼を断った。学会にはすでに顧問弁護団がある。率いるのは山崎正友氏といって、共産党の宮本顕治氏宅盗聴事件を始め、様々な裏工作を陰で仕切ってきた男である。山崎氏という存在がありながら、外部から弁護士を引っ張って来たとなれば、当然恨みを買ってしまう。
 しかも裁判の条件が、常識はずれのものだった。何と池田氏の証人出廷は断固として阻止する、というのである。
 名誉毀損で訴えるのだから、原告側(つまり池田氏)の証言なしに裁判は成り立たない。ましてや男女関係のスキャンダルではないか。2人の間で何があったかは、当事者にしか分からない。だから池田氏とその相手と名指しされた女性(一応イニシャルになってはいるが、知っている者が見れば一目瞭然)が出廷し、
 「そんなことは一切ない」
と明言すれば相手に反証の余地はほとんどない。女性も学会関係者だ。実際の関係がどうあれ、証言をお願いするのは容易だった。直ちに勝訴である。
 ところが当の池田氏が出廷を嫌がる。またも「内弁慶」ぶりが露呈したというわけだった。名誉毀損で訴えます、ただし証人には出たくない、ではお話にもならない。
 北条氏の再三の依頼にやむをえず私は、2人の弁護士を紹介した。彼らも「池田氏の出廷なし」の条件には渋い顔を隠せなかった。結局、「男女関係があったか」の本論に入ることはせず、「そもそもこのような記事に公共性はあるのか」という入り口論で戦おうという法廷戦術になった。
 弁護士を紹介したあと、私は実質的にはこの問題にタッチしていない。うまくいっていると弁護士からは聞いていたし、実際、1審、2審とも学会側の勝訴に終わった。最高裁は書類審理だけで、証人出廷はない。これで池田氏を出廷させないという方針は貫かれたまま、学会勝利がほぼ確実だと思っていた。
 ところがここで急転直下の事態が起こる。山崎氏が造反し、事件の背景を詳しくしたためた上申書を最高裁に提出したのだ。
 実はこの件でも山崎氏は、裏で暗躍していた。『月刊ペン』側が池田氏の証人出廷を要求しないよう、人を介して被告側と交渉していたのだ。池田氏の意向を受け、何重もの保険をかけておこうとしたのだろう。彼の上申書によれば、現金2,000万円を被告側に渡すことで、隈部氏の弁護士も同意していたという。確かにこれがなければいくら何でもこんな裁判、ここまでうまくいくはずがない、というのも本当のところだったらしい。ちなみに山崎氏の造反の理由は金銭問題で、こちらは学会が山崎氏を恐喝で告訴するなど泥沼の展開となった。
 いずれにしても、驚いたのは私や私が紹介した弁護士たちである。勝訴している側が相手に現金を渡していたというのだから、最高裁が不審に思うのも当たり前である。
 かくして審理は1審差し戻しとなり、池田氏は出廷を余儀なくされるハメとなった(裁判そのものは途中で被告の隈部氏が死亡したため終了)。私が北条氏に「なぜ、被害者が加害者に金まで払って裏交渉する必要があるんですか」と問い詰めたところ、
 「すまない。どうしてもコレの意向でな」
と親指を立てたことを覚えている。
 臆病なあまり墓穴を掘ってしまったわけである。


【見事な戦略、創共協定】
 前に紹介した2事件と対照的に、池田氏の卓越した戦略家ぶりが見事に発揮されたのが、創共協定である。
 1974年、公明党の頭越しに学会は共産党と話を進め、相互協定を締結した。互いに敵視し合ってきた両者が、向こう10年間にわたって一種の“停戦”を結ぼうというもので、仲介役に立ったのは、作家の松本清張氏だった。締結されたのは12月28日と年末ギリギリだったが、大晦日になるまで委員長の竹入氏も私も、このような話が進められていることなどまったく知らされていなかった。
 知らされた我々は猛反対だった。当然である。共産党は「言論出版妨害事件」の時、学会批判の急先鋒だった不倶戴天の存在だ。新聞『赤旗』でもさんざん叩かれた。
 そもそも野党とはいえ、公明党は自民党とはうまい関係を保っている。だからこそ、田中角栄氏も「言論出版妨害事件」の時、我々のために骨を折ってくれた。だが共産党と手を組んだとなれば、これまで通りのつき合い方は難しくなる。他の野党からも目の敵にされる恐れがある。公安当局からも目をつけられる可能性がある。竹入氏は、
 「もう俺は知らん」
とそっぽを向いてしまった。だがもう結んでしまった協定である。書記長の私に調整役が回ってきた。池田氏から呼び出され、1対1で会った。
 「先生、ホンマにこれから、共産党と仲良くやっていかれるおつもりなんですか」
 単刀直入に聞くと、
 「バカを言うな」
と言下に否定された。
 「表面だけだよ。自民党と共産党、両方敵に回せるか。お前よく考えてみろ。言論(出版妨害)問題の時の共産党の恐ろしさを忘れたのか。この協定で10年間、共産党を黙らせるんだ。協定に反対する公明党議員は絶対に許さないからな。お前と秋谷でうまくやれ」
 私は唖然としつつも、秋谷氏と相談し、協定締結の交渉担当者、野崎勲氏(当時、男子部長)と会った。確認したいことはただ1つである。この協定が共産党との政治共闘も含む「政治協定」なのかどうか。
 「政治協定」であれば話はややこしい。共産党とイデオロギーを共有することになってしまう。例えば原子力空母が日本に寄港した時など、
 「原子力空母ハンターイ」
と共産党とデモをやるか、という話だ。
 すると何度確認しても野崎氏は、
 「政治協定という言葉は使っていない」
と言う。もちろん交渉の経過からすれば「政治協定」であることは明白だったが、その言葉を使っていないならば今回の協定は「文化協定」ということにすり替えようとなった。学会と共産党が文化的に交流を深めようというのであれば、公明党は関係ない。
 そこでその方針に則って、「秋谷見解」というものを作成した。当時副会長だった秋谷氏に、創共協定についての見解を発表してもらい、実質骨抜きにしてしまおうというわけだ。1975年7月に読売新聞がこの協定についてスクープ、他紙も追随したのを契機として、聖教新聞に「秋谷見解」を掲載。学会と共産党は、「共闘なき共存」の関係を保つということにした。
 当然、共産党は激怒した。一方的に協定を骨抜きにするとは何事か、というわけだ。だが共産党というところは、どこか律儀な面があるのだろう。あれだけこちらの対応を怒っていたくせに、以降学会への攻撃はぴたりとやんだ。裏側の事情を知る私から言わせれば、これは池田氏の詐略そのものだったが、戦略は見事に成功した。
 協定期間中の1980年、山崎氏が宮本顕治氏宅盗聴事件は創価学会によるものだったと犯行告白し、両者は完全決裂。協定が更新されることはなかった。しかし、この10年間、共産党対策に気を取られずに済んだことの意味は大きかった。
 なぜなら、その時期、池田氏は次の戦略を着々と進めていたからだ。総本山大石寺との「宗門戦争」である。


【宗教界の王者に】
 創価学会は元々、日蓮正宗の信徒団体の1つとしてスタートした。
 戦前、日蓮正宗の信徒で教育関係者の集まりが「創価教育学会」を結成したのが始まりである。呼び掛けたのは初代会長の牧口先生で、その死後、跡を継いだ戸田先生が創価学会として組織を再編。東京都に宗教法人としての申請を行った。
 日蓮正宗はこれを問題視した。日蓮正宗が1つの宗教法人なのに、その一信徒団体が独立した宗教法人になるのは確かにおかしい。だが戸田先生に率いられた創価学会は当時、破竹の勢いで信者を増やしていた。日蓮正宗としても無視できない勢力だった。そこで「三宝(仏、法、僧)を守る」などの条件を付して、学会の法人化をしぶしぶ認めることになった。
 このため創価学会は、あくまで日蓮正宗の本尊と教義を忠実に守り、その教えを広く世に伝える「広宣流布」こそを目的としていたのである。崇める御本尊は大石寺にあり、各家庭の仏壇などに祀る紙幅の曼荼羅本尊も、日蓮正宗の法主上人(教義上の最高権位者)が書写祈念したものでなければならない。池田氏は日蓮正宗の中においては総講頭という立場であり、法主上人から見れば単なる信徒の代表に過ぎない。宗教上、どちらが上に位置するかは一目瞭然である。
 だが、創価学会の会員数が年々増え、公明党が国政にも影響力を持ち出すと、池田氏は信徒の代表という立場では飽き足らなくなったのだろう。しきりに公然と宗門批判を口にし、対決姿勢を鮮明にするようになっていった。それは創価学会が日蓮正宗を呑み込み、下部に位置づけてやろうと画策しているかのようだった。
 私は池田氏が宗門との対決に方針転換したのは、「言論出版妨害事件」がキッカケだったのでは、と推察している。それまで池田氏は、本気で「政界の王者」を目指していた。実際、「天下を取ろう」の檄が我々公明党幹部に対し、一時はしょっちゅう飛ばされていたのである。このままいけば公明党が議席の過半数をとるのも夢ではない、と本気で考えていたフシがある。そうなれば与党を支配する学会の長として、自分は政治の頂点に立つことができる、と思っていたのではないか。
 ところが現実はそんなに甘いものではなかった。「言論出版妨害事件」で、学会は激しい攻撃を浴びせられた。池田氏は謝罪し、政教分離を明言せざるを得なかった。権力の恐ろしさというものをまざまざと思い知ったはずである。
 そこで方針が転換された。「政界の王者」がダメなら「宗教界の王者」になろう。かくして宗門乗っ取りを目指すことになった。庇を借りて母屋を乗っ取る作戦だ。そして宗門との戦争に専念するには、背後を固めておく必要がある。最もうるさい共産党を黙らせておかねばならない。そのための創共協定だった、というわけだ。1つの方針を打ち立て、そのために次々と布石を打っていく。詐略もためらわない、ある意味で見事な戦略と言える。
 ただ結論から言うと、1970年代半ばから始まったいわゆる「第1次宗門戦争」は仕掛けるのが時期尚早だった。本山からの強烈な反攻に遭い、池田氏は謝罪を余儀なくされる。池田氏のしょんぼりした姿を見て、私は「ああ、この人も人間なんだな」と同情すら覚えた。さらに池田氏は創価学会の会長職を北条氏に譲り、自分は名誉会長に退くことになった。1979年4月25日の聖教新聞に記事が載り、全国の会員に会長交代が発表された。
 だが転んでもただでは起きないのが池田氏である。それ以来、任意団体である「創価学会インタナショナル(SGI)」会長の肩書を前面に打ち出すことで、日本の創価学会会長から世界の創価学会会長にグレードアップしたかのようなイメージを植え付けることに成功した。
 しかも「名誉会長」という立場なら、何かあっても宗教法人のトップとして責任をとる必要があるのは会長になる。「言論出版妨害事件」のような事件が起こっても、国会に呼ばれるのは現会長であって自分ではない。
 池田氏が、
 「俺は実権を握って放さない。法的な責任、国会の証人喚問とか、ああいうのはもう、バカバカしくてやってられんよ」
と私に本音を言ったことがあった。名を捨てて実を取ったわけである。
 かくして満を持して、「第2次宗門戦争」が仕掛けられた。前回の失敗から、こうした抗争で何より大切なのは資金力だと悟ったのだろう。“財務”と称して会員から多額の寄付を掻き集めた。創価学会の宗教ビジネスは暴走しはじめた。現在のようななりふり構わぬ金集めが常態化したのは、この時からのことである。
 兵糧を固め、覚悟を決めて打って出た再度の抗争だけあって、今度は池田氏は一歩も引かなかった。ついに1991年、組織としての創価学会が、翌92年には池田氏個人も宗門から破門処分となった。そもそもの教義の大本を失ったわけで、学会内にもかなりの衝撃が走り、脱会して日蓮正宗信仰を貫く者も数多く出た。宗門という権威に取って代わったのが池田崇拝路線だった。池田氏は創価学会が破門されるや、学会の会則に、
 「牧口初代会長、戸田第2代会長、池田第3代会長の『3代会長』は永遠の指導者である」
という項目を書き加えさせてしまった。一応3人について言及されているが、前のお2人はとうに亡くなっている。結局自分だけが「永遠の指導者」として、別格の地位に立つことになったわけだ。
 公明党を政権与党に送り込むという目的も果たした。宗門乗っ取りこそなし得なかったが、頭の上の煩わしい権威を否定し、池田氏は唯我独尊の道を歩んで今日に至る。まるで“生き仏”のごとく君臨している。


【国税との交渉】
 この第2次宗門戦争が決着する頃、私はすでに政治の第一線を退いていた。1989年に公明党委員長を辞任し、93年には政界を引退した。
 政治家として学会のために最後に働いたのが、国税庁との交渉である。1990年から翌91年にかけて、学会に国税庁の調査が入ったのだ。東京国税局資料調査課、俗に「マルサ」と呼ばれる査察部ではなく、「マルサより恐い」と言われる「料調」であった。マルサが悪質な脱税事件について強制調査を行うのに対して、料調はまだ事件化していない案件について綿密に資料を集め、じっくりと調査を進める。税務調査の腕は料調が一番と言われており、何年もかけてじわじわと対象を追い詰める恐ろしさは、まさにマルサの比ではない。
 「国税が調査したいと言ってきている」
 「どうも、ただごとではない」
 私に何とかしてくれと依頼してきたのは、当時の秋谷5代会長だった。既に私は党の常任顧問という立場にあり、こうした対応をするのは現職の書記長のほうが動きやすいだろうと思ったので、
 「そういうのは市川(雄一)君に任せればどうか」
と断った。当時は石田委員長、市川書記長というラインである。
 実を言うともうたくさんだ、というのが本音だった。委員長を辞める前年の1988年、国会は消費税導入問題に揺れていた。当然、公明党としては導入反対の立場で、国会でも自民党と激しくやり合っていた。ところが、ある日、竹下登首相(当時)から、「矢野さん、あんたのところの本家は賛成らしいぞ」と声を掛けられた。こちらは完全に寝耳に水だ。聞けば、学会の山崎尚見副会長が、池田氏からの伝言として、電話でそう伝えてきたというのである。
 私は山崎副会長に怒り心頭で詰め寄った。彼は、
 「その通り、P(プレジデントの略。池田氏のこと)の意向だ」
と答えた。この時は、つくづく嫌気がさした。
 政権に貸しを作っておこうという考えなのだろうが、党の頭越しにそんなことをされては、公明党はピエロだ。
 ところが秋谷氏は国税問題で再三、私のところに頼みに来る。とうとう地元の関西に帰っている時にまで、押しかけてきた。
 「この件は矢野にやらせろ、というのが池田先生のご意向なんだ」
 頭に来たが、私は最後のご奉仕のつもりで渋々引き受けた。学会顧問弁護士の山崎氏はこの頃既に造反していたため、後任の八尋頼雄氏とともにこの件に当たった。
 池田氏や秋谷氏が国税対策を私に頼ったのも、故ないことではない。公明党の書記長を20年も務めた私は、現場の官僚と接する機会も多かった。たとえば、当時の大蔵省から予算委員会の日程の件で相談が持ちかけられる。公明党がキャスティングボートを握る場面も多かったから、我々がどう動くかで予算成立の日程も変わってくる。そこで日程調整において、便宜を図ったこともある。
 キャリア官僚の出世は早い。20年も経てば、現場調整で駆けずり回っていた者が局長級にまでなっている。
 「あんたも偉くなったモンやなあ。俺だけ万年書記長や」
などと笑い合っていたものである。
 そんなわけで、大蔵省の幹部級、国税庁のトップクラスにも旧知の人物がたくさんいた。「何とか手心を」とお願いしにいくのに、確かに私以上の適任者はいなかった。


【譲れない6項目】
 八尋氏からは、どうしても学会側が譲れない方針として、次のような主旨の6項目をペーパーにしたものが渡された。
1.宗教法人の公益会計部門には絶対立ち入らせないこと
2.会員の“財務”における大口献金者のリストを要求してくるだろうが、絶対に撥ねつけること
3.財産目録を提出しないこと
4.池田氏の秘書集団がいる第一庶務には調査を入れさせないこと
5.池田氏の「公私混同問題」についても絶対立ち入らせないこと
6.学会所有の美術品には触れさせないこと
 たとえば2では、献金者の名前や献金額が分かれば、反面調査といって実際に献金者に献金額を問うことができる。万が一、実際の献金額とリストの金額が違えば、ではその差額はどこに消えたのかという話になる。また4では、第一庶務は池田氏の日常生活に至るまでお世話をするため、そこを触られれば即座に池田氏個人の金銭問題に発展する恐れがある。どれも学会にとって、突かれればいくらでもボロが出そうな問題ばかりだった。
 宗教法人は信仰に直結する事業については、基本的に非課税となっている。こちらが「公益会計」である。その他の収益のある事業が「収益会計」で、学会においては聖教新聞などがこれに当たる。
 「収益会計」も布教に関わるなどの名目で、一般よりも低い税率に抑えられているものが多いが、これすらも学会においては区別が曖昧になっていた。本来「収益」に勘定すべきものも「公益」のほうに繰り入れてみたり、とにかくいい加減なのだった。
 中でも甚だしいのが、池田氏関連である。個人の資産は当然、法人会計とは切り離して勘定すべきだが、ごちゃ混ぜのまま放置されているものが多かった。例えば学会では、世界中から池田氏のお眼鏡にかなった美術品を、学会の会計で購入してきた。池田氏の個人的趣味ならば、購入は池田氏個人の財布で賄うべきだし、美術品は個人の資産として計上されるべきものだろう。当然、国税の調査官たちは財産目録と美術品の現物をチェックしたいと求めてきた。こちらは先の6項目に従い、「美術品は、会員から贈られた素人絵画と一緒くたになっていて仕分けに時間がかかる」「財産目録は目下、鋭意整備中です」などと必死に言い逃れた。
 さすがに国税の料調は精鋭揃いだった。的確に問題を指摘し、こちらが死守しようとしていた6項目に踏み込んできた。


【使われない池田専用施設】
 実は学会資産の非課税問題については、以前にも取り上げられたことがあった。
 1977年、民社党の春日一幸氏(当時委員長)や塚本三郎氏(当時国対委員長)らが、池田氏専用の贅沢施設について国会で問題視したのだ。竹入氏に送られてきた質問主意書は、
 「創価学会が全国に建設している会館や研修道場には池田氏専用の豪華施設があるが、とても宗教の用に供しているとは思われない。課税対象とすべきではないか」
となかなか手厳しいものだった。
 全国の多くの会館にはかつて、池田氏専用の「会長室」が設けられていた。極めて小規模な会館内の、たとえ8畳程度の狭いものであっても、きっちり床の間もあり押し入れもあり、と立派な仕立てで部屋が一室、用意される。そこだけ総檜造りなどで、他の部屋よりずっと念入りに設計される。そんな地方の会館に氏が実際に宿泊するはずもない。それどころか来ることもまずなかろう、ということは問題ではないのだ。池田氏を絶対化する象徴として、専用施設が必要だった。
 小さな会館ですらこうである。箱根や軽井沢、霧島といった日本各地の景勝地に設けられた研修道場には、池田氏専用の家屋が一棟、必ず用意されていた。研修道場にはおおぜいが一堂に会合できる、何百畳敷という広大な建物が建てられるが、それとは全くの別棟である。たいていが敷地の中で最も眺めのいい場所に作られる。
 部屋割りは十何畳敷の寝室、控えの間、豪華な風呂とトイレ、厨房に、周辺のお世話をする第一庶務の女性職員用の部屋、といった感じだ。前出の山崎氏の著書『「月刊ペン」事件 埋もれていた真実』(第三書館刊)によるとこうした施設を作る際、建設費用は「仏間に3分の1、一般施設に3分の1、池田氏専用施設に3分の1」の割合で配分され、調度品に関しては、「1対3の割合で専用施設に金が注ぎ込まれ」ていたという。
 年に1回使うかどうかという施設に惜し気もなく金を投入するこの感覚。常人には想像もつかないに違いない。ともあれ民社党はここを突いてきたわけだ。
 結局、この時は、こうした施設に慌てて牧口初代会長や戸田2代会長の遺品などの記念品を運び込み、
 「池田氏専用施設ではない。これは記念館だ。資料館だ」
という説明で切り抜けた。会館の部屋も「恩師記念室」「資料室」へと名前を変えた。要は国税対策である。せっかく造った庭園をつぶし、置き石は捨てられ、露天風呂や池は埋め立てられた。その場しのぎもいいところだ。
 かくして期せずして、各地に牧口先生や戸田先生、池田氏ゆかりの記念品を陳列する施設が並び立つことになった。そうした経緯のあるものを含めて、今や全国の創価学会所有の施設に、どれだけ「池田」の名を冠したものがあることだろう。「池田文化会館」「池田講堂」「池田記念墓地公園」……。
 自分が行こうが行くまいが関係ない。とにかくそうした建物や部屋を作らせ、「池田」の名をつけさせる。常人にはちょっとついていけない、執念にも近い自己顕示欲である。また全国の方面幹部が、この意を汲んで現実化する。かくして一般人には冗談としか思えない滑稽な光景が展開されるのだ。


【残された“宿題”】
 話を1990年、91年の国税調査に戻そう。この問題は特に、今振り返っても慚愧の念に堪えない。いくら池田氏や学会を守るためとはいえ、自分の人脈を頼りに、税金逃れのための裏工作に携わったと言われても仕方がないと思っている。それを覚悟で、ここに記すのは、この国税問題は創価学会にとって決して過去のものではないからだ。
 秋谷氏からの要求を呑む形で、私は早速、国税庁の局長クラスや東京国税局長のところなどに顔を出した。先方は、
 「おや、矢野先生のお出ましですか」
などとトボケている。
 「実は学会に国税調査が入ろうとしている。私も学会から泣きつかれて困っている」
と暗に手心を要求すると、
 「しかし既に現場が動き出してますからねえ。今さら私らから何か言っても、どうしようもありませんよ」
 「いや、だから……そこを何とか」
 向こうだって簡単に、ハイそうですかと呑んではくれない。当然だし、こちらも覚悟の上である。腹を据えて交渉にかかった。すでに実地調査に入られた学会の現場からは、
 「ここまで入り込まれた。何とかしてくれ」
と悲鳴が上がる。学会側の担当である八尋氏からも連日、交渉の首尾を尋ねる連絡があり、同時に先の6項目はどうしても譲れないなどと念押しもされる。結局何度、国税に通ったことだろうか。とにかくあれはダメ、ここもダメ、だけではすまない。こちらからも何かを差し出す必要があった。
 色々と話し合った結果、池田氏個人の問題とは一番関係のなさそうな項目として、学会の墓苑会計を差し出すことにした。学会が全国各地に有す墓苑の会計は、当時ほとんど非課税として処理していた。お墓は信仰上のものだから当然、という感覚である。
 ところが学会にとってこの墓苑経営くらい旨みのある事業もない。学会の墓苑の墓石デザインは同じである。洋型と言われる簡略で画一的な墓石が何万基も並んでいる様は、一種異様な光景と言うしかない。しかもまとめて購入して建てるので、墓石も割安だ。
 それを、場所によって異なるが、高いところでは百万円近い値段で会員に買わせる。といって、学会が無理強いする必要はない。池田氏が提唱した、お墓はいくつも持ったほうが信仰につながるという教えに基づき、学会員が進んでせっせとお金を払って、墓を買ってくれる。私もいくつ墓を買ったことか。なかには遠方すぎて1度もお参りに行ったことがないところさえある。
 これはいくら何でも収益事業だろうという話になった。こちらとしても課税はしかたない、という感覚だった。
 問題は、ではどこまで課税するかである。地面の上の墓石については売上に税金をかけられてもしかたがあるまい。だが、地中に埋まったカロート(納骨室)の売上まで課税の対象になるのか。このあたりで、国税と激しくやり合った。
 実はやり合ったのは、時間稼ぎの意味もあった。最終的にはカロートの売上まで課税されてもしかたがない。だがすんなり呑んでしまったのでは、課税対象がさらに広がる恐れがある。墓苑だけでなく、他にも税金をかけられる事業はないか、と検討する時間を国税当局に与えるわけにはいかない。だからこの程度のところでギリギリやり合って、他まで累の及ぶ事態を防ごうとしたのである。
 結局、墓苑事業のうちカロートの売上まで含めた墓石販売を収益事業と認めることで、双方が妥協した。1990年3月までの過去3年間が対象とされ、申告漏れは約24億円。学会は6億円を超える追徴課税を支払うことになった。
 八尋氏から示された「絶対触らせない6項目」の核心部分は、概ね守り抜いた。国税としては問題点を指摘したうえで「今回のところは見逃すが、次の調査までにきっちり資料を揃えておくように」と“宿題”を残していったようなものだろう。以来、現在まで学会に税務調査は入っていない。
 次に再び学会に国税が調査に入るのがいつなのかは分からないが、その時、“宿題”は片付いているのだろうか。


【「政権を取らないとダメなんだ」】
 前述のように1993年、私は政界を引退した。その頃には、池田氏の存在は徐々に私にとって、距離のあるものになっていった。
 組織が大きくなり、一対一の関係が築けなくなったことも大きな原因だろうが、会員たちにとっても、池田氏はただ仰ぎ見る存在になってしまっている。もちろん、池田氏も自らの権力を維持するために虚飾し、雲の上の存在と位置づけるために、様々なシステムを学会内部に築きあげてきた。
 考えてみればあの「国税問題」の時も池田氏と直接会話を交わしたことはない。秋谷氏を介して意向を伝えられただけだ。いまでは、公明党首脳ですら、池田氏に会うのは年に1〜2回あるかないかだと聞いている。
 だから、池田氏がいま何を考えているのかは、池田氏本人以外わからないというのが本当のところだろう。ただ言えることは、池田創価学会と公明党は政権の座に執着しつづけるだろうということだ。
 その理由は2つある。
 1つは国税対策である。あの2度にわたる税務調査で、それがどれだけ恐ろしいか、学会は身を以て味わった。ある時、池田氏は私に語ったことがある。
 「やっぱり政権を取らないとダメなんだ」
 そして、うまいこと閣僚ポストが転がり込んできた時はついつい浮かれて「デエジン発言」になった。
 もう1つが証人喚問問題だ。今、国会の証人喚問は実質的に多数決のルールが取られている。かつて私が慣例化した「全党一致」は骨抜きにされてしまっている。だから、池田氏の喚問を確実に阻止するには常に与党にいて、国会で多数派に属していなければならないのだ。
 政界が大分水嶺に向かう中、創価学会・公明党は今後どのような動きを示すだろう。
 創価学会と公明党にとって池田氏は、余人をもって替え難い指導者だ。内部的に全能でありすぎて、首脳幹部たちは自らの頭で考えて判断することを放棄してしまったかのようである。確かに判断を他に委ねることは楽なことかもしれない。盲目的に帰依することは幸福なのかもしれない。しかし、唯一の頭脳が反社会的色彩で染められているとしたら、被害を受けるのは学会員だけではない。
 その池田氏もすでに81歳である。もし、今後、私が彼と言葉を交わす機会があれば、「池田先生、もう十分やりたいことはやられたでしょう。そろそろ大風呂敷の手仕舞いをなさったらどうでしょうか」と申し上げたいと思っている。

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〈編集部付記〉
この手記の掲載にあたり、編集部より創価学会広報室に対して、手記の内容に関連して以下の3点について書面で質問状を送った。

1.現在および過去において、衆院選・参院選の公明党候補者の選定につき、党からの候補者案を池田氏が決裁した事実はあるか。

2.「月刊ペン事件」裁判の際、被告側に金銭提供を行ったのは、池田氏が自らの証人出廷を避けるために指示したものであるというのは事実か。

3.国税局の税務調査が入ったとき、池田氏が矢野氏に、国税局職員との事前折衝に当たるよう依頼したというのは事実か。

これらの質問に対して、創価学会広報室から
 「矢野氏とは係争中のため、取材には応じかねます」
という回答があった。