「河辺メモ」利用した誹謗に終止符

―学会は「写真判定」を「字画判定」と誤読!―
―本紙の破折に『フェイク』が苦し紛(まぎ)れの反論―
―戯論(けろん)は無用!誤読による曲解(きょっかい)は誰の目にも明白―

(『慧妙』H23.4.16)

 本紙3月16日号に掲載した、「河辺メモ」に関する破折記事に対し、発行から半月も経(た)って、やっと『フェイク』が反論を試みてきた。
 ところがその内容たるや、自己矛盾(むじゅん)満載の、お粗末(そまつ)なシロモノ。
 一笑に付すのは簡単だが、それでは『フェイク』編集子は自らの愚かさに気付かぬままとなってしまう。
 そこで、この疑難の完全決着を期して、『フェイク』の反論を完全粉砕する。


【苦心惨憺(さんたん)の文章も反論の体(てい)なさず】
―「写真判定」と判読すべきこれだけの理由―
 本紙3月16日号で、「河辺メモ」に関する学会怪文書『フェイク』の邪難(じゃなん)を粉砕したところ、同紙(第1187号)が、またぞろ本紙にインネンを付けてきた。いわく、
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無知な『慧妙』は、河辺(尊師)の「大御本尊偽物発言」のメモ中の2ヵ所の「写」と「字画判定」の「字」が似ているところから、「字画判定」ではなく「写真判定」だとバカな誤読をしている。黒を白と言い張る幼稚(ようち)な主張で、物笑いの種である。河辺メモには「写真」の文字が何回も出てくる。だが、『慧妙』が主張している「写真判定」の「写」は、やや似ているが「与」の部分の書き方が違う。また「真」の文字は全然違う。滑稽(こっけい)の極みだ(『フェイク』第1187号)
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だと。
 こう言っておきながら、自説に確信の持てない『フェイク』は次のように続ける。
 「河辺(尊師)の文字は癖(くせ)があって、たとえば『学』の字と『写』や『字』とも細かい違いはあっても、比較的よく似ている。所詮、私的なメモに厳密な規則性などなく、また、そうする必要もない。
 走り書きのメモゆえ、かりに河辺(尊師)が『字』を『写』と書き間違えても、放置したに違いない。個人の覚書きだから、誤字も自分がわかれば訂正せずに済む話だ。」
 何とか"反論した"という体裁を取ろうと、苦心惨憺(さんたん)したことが浮き彫りになっている「迷文」だ。
 論旨が解りづらい文章なので、本紙が3月16日号で行なった破折と『フェイク』の反論とを対比させて整理してみよう。
 本紙は、問題とされている「河辺メモ」の中において使われている、「写」と読まざるを得ない文字と「写」と読むべき文字を抽出し、それが同一であることを示した。
 これに対し『フェイク』は、別な時期に書かれた河辺尊師の膨大なメモの中から「写真」という文字を探し出し、
 「河辺メモには『写真』の文字が何回も出てくる。だが、『慧妙』が主張している『写真判定』の『写』は、やや似ているが『与』の部分の書き方が違う。また『真』の文字は全然違う。滑稽の極みだ」
と反論しているのである。
 だが、そもそもメモ書き中の文字を比較する際には、まったく別の時期に、別の状況で書かれた文字と比較するのでなく、同じ時に書かれた文章の中の、同一の文字を比較すべきである(実際、自分自身の過去のメモ書きを読み返してみれば誰でも頷〈うなず〉けるであろうが、その時期その時期のメモで文字の形が違っているのに対し、同じ時のメモの中では、同じような字の略し方、くずし方をしているものである)。
 しかして、『フェイク』がいかに否定したくとも、問題とされている「河辺メモ」の中で、「写」と読まざるを得ない文字と「写」と読むべき文字が同一なのは、動かしようのない事実である。
 そこで『フェイク』は苦し紛(まぎ)れに、河辺尊師が「字」を「写」と書き間違えたかもしれない、などという噴飯ものの弁解をして、取り繕っている(笑い)。
 そして、「また、『真』という字は全然違う」
というのである。
 だが、これも違う時期の文字を比較するのでなく、同じ時に書かれた河辺メモの中から、「真」の文字の「目」の部分に相当する「法道院」の「道」、「題目」の「題」の「目」の部分に着目すると、同じ崩し方になっているのが一目瞭然(いちもくりょうぜん)ではないか。(写真参照)
 一方、「題目」の「目」と「頃」の文字については崩されてはいないが、これは文字自体が比較的大きく書かれているから、崩す必要がなかったものと思われる。
 しかして、文字の中央に「目」が配される漢字といえば、一般的には「直」か「真」しかない。
 そして、すでに「写」と判明している文字と対にして意味を成すのは「真」しかなく、「河辺メモ」に書かれていた文字は「写真」と判読する以外にないのである。


【文意(もんい)の上からも「写真判定」が至当(しとう)】
―「字画判定」と読めば意味不明となる!―
 さらにもう1点、「河辺メモ」の文脈からして、もしこれを「写真判定」でなく「字画判定」と読んだならば、支離滅裂となって意味が通じなくなってしまう、と知るべきである。
 すなわち、「河辺メモ」の当該部分を示すと
 「戒壇の御本尊のは偽物である。種々方法の筆跡鑑定の結果解った」
とあり、その後に問題の()で囲んだ注釈がある。
 前には「種々方法の筆跡鑑定」を行なって解った、といいながら、直後の()で「字画判定」という1つの鑑定方法で解った、とするのは明らかに矛盾である。
 だが、()の中が「写真判定」ならば、筆跡鑑定は「写真」を使って「判定」した、ということになり、矛盾は全く生じないのである。
 このように、そもそも()の中は「写真判定」としなければ意味が通じず、かつ、先に論じたように「メモ」中の文字を比較して判読すれば、やはり「写真判定」と読むしかないのだから、『フェイク』の主張は、根底から崩壊しているのである。


【「メモ」窃盗疑惑を懸命に言い訳】
―その論旨は嗤(わら)いたくなるほど稚拙(ちせつ)―
 なおまた『フェイク』は、本紙が「(河辺メモは)何者かによって河辺尊師の手元から盗み取られ、平成11年7月、創価学会側から悪宣伝に利用される形で公開された(これだけでも犯罪性は十分と思われる)」としたことに対し、
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 「河辺メモ」流出についてだが、これは誰かが盗み出したものではないのだ。日顕(上人)は「盗座」してからは思い上がって河辺の言うことを聞かなくなった。
 そこで河辺(尊師)は日顕(上人)を脅迫(きょうはく)するために意図的に流出させたメモなのである(『フェイク』第1187号)
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などと、都合のいいことを書いているが、さすが、低脳な『フェイク』編集子が必死になって考え出した、苦肉の言い訳ではある。
 そもそも、人を脅迫しようというなら、「メモを公開するぞ」と脅迫することはあっても、実際に流出させてしまっては脅迫にならないではないか。こんなことは子供にでもわかる道理だ。
 『フェイク』よ、それでも「河辺メモ」は河辺尊師が脅迫のために意図的に流出させたものだ、といいたいのなら、次号で「河辺メモ」の流出経路を明らかにして自説を証明してみよ。どうせできまいが。呵々(かか)。


 いずれにしても、今回までの破折で、"日顕上人が「本門戒壇の大御本尊は偽物」だと言った"との疑難は完全粉砕された。
 これにて、問題とされている「河辺メモ」に対する疑難を完全粉砕したことを宣言するものである。

一、戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である
種々方法の筆跡鑑定の結果解った@(写真判定)
多分はC法道院から奉納した日禅授与の本尊の
D題目と花押をA模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ
日禅授与の本尊にB模写の形跡が残っている

▲「河邊メモ」(上)と、その反訳文(下)。


▲「河邊メモ」の中から「写」の文字を抽出してそれぞれに番号を振り、それを拡大表示したもの。一見して分かるように「写」の字の筆致は同一であり、()内には「写真判定」と書かれていることは歴然!(『慧妙』H23.3.16、画像は『慧妙』H23.4.16)


▲「真」の文字の「目」の部分と、「法道院」の「道」、「題目」の「題」の、「目」の部分とを比較するため、それぞれ拡大表示した。問題とされている「河邊メモ」において特徴的なのは、「真」・「道」・「題」共に、「目」の部分の3画目と4画目をつなげて、縦の1本棒にしているところ。
 この共通する特徴と、文字の中央に「目」の文字がくるのは「直」か「真」しかないところから、()の中の文字は「写真判定」と読む以外に読みようがないことは明白である。