「河辺メモ」で晒(さら)した『フェイク』の醜態(しゅうたい)

―反論不能!御託を並べて"勝ち"装う―
―「字画判定」と判読する根拠示せず沈没―
―「河辺メモ」の流出経路も明かせぬまま―

(『慧妙』H23.5.16)

 本紙は学会怪文書『フェイク』の「河辺メモ」に関する誹謗(ひぼう)を、その根底から粉砕したが、負けだけは認めたくない『フェイク』がまたぞろ、何やら御託(ごたく)を並べ立ててきた。
 だが、その内容たるや、"ほとんど衣だけのエビ天"というべき代物で、すでに破折された話の蒸し返しや、単なる邪推(じゃすい)と悪口のみを羅列(られつ)し、あたかも華々(はなばな)しく本紙を打ち破ったかのごとく見せかける駄文(だぶん)であった。
 そこで、駄文の衣を剥(は)がした上で、中味となる「河辺メモ」に関する反論部分(そもそも反論と呼ぶには値しないが)を見極め、改めて、『フェイク』の論理がすでに完全に行き詰まっていることを示そう。
 まず本紙は、4月16日号において、
(ア)同じ時に書かれた「河辺メモ」の中で、「写」と読むことが明白な字と、「写真判定」と読むべき「写」の字が同一なのは、比較してみれば動かしようのない事実である。
 一方、「真」の文字の「目」の部分と、「法道院」の「道」や「題目」の「題」の、「目」の部分とに着目する、と、同じ崩(くず)し方になっているのが一目瞭然(いちもくりょうぜん)。
 そして、文字の中央に「目」が配される漢字といえば、一般的には「直」か「真」しかなく、よって、「河辺メモ」の当該文字は「写真」となる。
 また、メモが「種々方法の筆跡鑑定」を行なって解(わか)った、といいながら、その直後に「字画判定」という1つの鑑定方法で解った、とするのは明らかに矛盾(むじゅん)であり、「写真」を使って筆跡鑑定を行ない「判定」した、との意味で「写真判定」と判読して初めて、文意も通ずる
(イ)「河辺メモ」は誰かが盗み出したものではなく、河辺尊師が日顕上人を脅迫(きょうはく)するために意図的に流出させた、というが、そもそも、人を脅迫しようというなら、「メモを公開するぞ」と脅迫することはあっても、実際に流出させてしまっては脅迫にならない。
 『フェイク』よ、それでも「河辺メモ」は河辺尊師が意図的に流出させたものだ、といいたいのなら、次号で「河辺メモ」の流出経路を明らかにして自説を証明してみよ
と『フェイク』を糺(ただ)したのである。
 これに対し、『フェイク』がなすべき再反論は、かの文字が「字画判定」だということを客観的かつ論理的に論証することと、「河辺メモ」の流出経路を公開することであるのは当然だ。
 しかし、自ら"ごまかし(フェイクの意味)"と名乗る怪文書『フェイク』にそんな反論ができるわけがない。できることといえば、せいぜい強がってみせ、ああだこうだと御託を並べて、口数の上だけでもなんとか勝(まさ)っておこう、とすることだけである。
 そうした長々とした駄文を省(はぶ)くと、『フェイク』が企てた反論は次の2点に絞られる。
(A)『慧妙』は本紙に対して「次号で『河辺メモ』の流失経路を明らかにせよ」と迫(せま)っているが、先に「河辺の手元から盗み取られ」云々と難癖(なんくせ)をつけてきたのは『慧妙』であり、『慧妙』が具体的な「盗難」の経緯(けいい)を説明してみよ
(B)『慧妙』は性懲(しょうこ)りもなく「河辺メモ」に書いてある「字画判定」を「写真判定」だと誤読した上で、次のように書いている。
 「メモ書き中の文字を比較する際には、同じ時に書かれた文章の中の、同一文字を比較すべきである」だと。何を言うか!ならば、どうやって一般的な筆跡鑑定が成り立つのか?
 反論らしい反論はたったこれだけである。そこで、この2点について簡潔に破す。
(A)要するに本紙は、"「河辺メモ」は河辺尊師が自ら流した"というのなら、"河辺尊師の手元から、これこれこういう経路をたどって「メモ」が『フェイク』編集子の手元にまで届いた"ということを、具体的かつ客観的に明かしてくれ、と言っているだけである。「盗品」としてではなく、正当な手段によって入手したのなら、いとも簡単なことではないか。『フェイク』よ、いったいなぜ、それができないのか。
(B)本紙の判読方法が論理的でないとするなら、『フェイク』がかの文字を「字画判定」と判読した、その論理的根拠を示せ。ただそれだけで十分である。
 この2点を明らかにできなければ(これまで、それをいくら求めてもできないのだから、ムダであろうが)『フェイク』は「河辺メモ」に関する誤りを自認したということに等しい。