学会は「写真判定」を「字画判定」と誤読!

(『慧妙』H23.4.16ほか)

一、戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である
種々方法の筆跡鑑定の結果解った@(写真判定)
多分はC法道院から奉納した日禅授与の本尊の
D題目と花押をA模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ
日禅授与の本尊にB模写の形跡が残っている

▲「河邊メモ」(上)と、その反訳文(下)。


▲「河邊メモ」の中から「写」の文字を抽出してそれぞれに番号を振り、それを拡大表示したもの。一見して分かるように「写」の字の筆致は同一であり、()内には「写真判定」と書かれていることは歴然!(『慧妙』H23.3.16、画像は『慧妙』H23.4.16)


▲「真」の文字の「目」の部分と、「法道院」の「道」、「題目」の「題」の、「目」の部分とを比較するため、それぞれ拡大表示した。問題とされている「河邊メモ」において特徴的なのは、「真」・「道」・「題」共に、「目」の部分の3画目と4画目をつなげて、縦の1本棒にしているところ。
 この共通する特徴と、文字の中央に「目」の文字がくるのは「直」か「真」しかないところから、()の中の文字は「写真判定」と読む以外に読みようがないことは明白である。


【「写」「真」の筆跡】
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河邊メモには「写真」の文字が何回も出てくる。だが、『慧妙』が主張している「写真判定」の「写」は、やや似ているが「与」の部分の書き方が違う。(『フェイク』第1187号)
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 だが、そもそもメモ書き中の文字を比較する際には、まったく別の時期に、別の状況で書かれた文字と比較するのでなく、同じ時に書かれた文章の中の、同一の文字を比較すべきである(実際、自分自身の過去のメモ書きを読み返してみれば誰でも頷〈うなず〉けるであろうが、その時期その時期のメモで文字の形が違っているのに対し、同じ時のメモの中では、同じような字の略し方、くずし方をしているものである)。
 しかして、『フェイク』がいかに否定したくとも、問題とされている「河邊メモ」の中で、「写」と読まざるを得ない文字と「写」と読むべき文字が同一なのは、動かしようのない事実である。

************************************************************ 「メモ書き中の文字を比較する際には、同じ時に書かれた文章の中の、同一文字を比較すべきである」だと。何を言うか!ならば、どうやって一般的な筆跡鑑定が成り立つのか?(『フェイク』) ------------------------------------------------------------
本紙の判読方法が論理的でないとするなら、『フェイク』がかの文字を「字画判定」と判読した、その論理的根拠を示せ。ただそれだけで十分である。(『慧妙』H23.5.16)

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 河邊(尊師)の文字は癖(くせ)があって、たとえば「学」の字と「写」や「字」とも細かい違いはあっても、比較的よく似ている。所詮、私的なメモに厳密な規則性などなく、また、そうする必要もない。
 走り書きのメモゆえ、かりに河邊(尊師)が「字」を「写」と書き間違えても、放置したに違いない。個人の覚書きだから、誤字も自分がわかれば訂正せずに済む話だ。(『フェイク』第1187号)
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そこで『フェイク』は苦し紛(まぎ)れに、河邊尊師が「字」を「写」と書き間違えたかもしれない、などという噴飯ものの弁解をして、取り繕っている(笑い)。

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また「真」の文字は全然違う。滑稽の極みだ(『フェイク』第1187号)
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 だが、これも違う時期の文字を比較するのでなく、同じ時に書かれた河邊メモの中から、「真」の文字の「目」の部分に相当する「法道院」の「道」、「題目」の「題」の「目」の部分に着目すると、同じ崩し方になっているのが一目瞭然(いちもくりょうぜん)ではないか。(写真参照)
 一方、「題目」の「目」と「頃」の文字については崩されてはいないが、これは文字自体が比較的大きく書かれているから、崩す必要がなかったものと思われる。
 しかして、文字の中央に「目」が配される漢字といえば、一般的には「直」か「真」しかない。
 そして、すでに「写」と判明している文字と対にして意味を成すのは「真」しかなく、「河邊メモ」に書かれていた文字は「写真」と判読する以外にないのである。


【文意(もんい)の上からも「写真判定」が至当(しとう)】
―「字画判定」と読めば意味不明となる!―
 さらにもう1点、「河邊メモ」の文脈からして、もしこれを「写真判定」でなく「字画判定」と読んだならば、支離滅裂となって意味が通じなくなってしまう、と知るべきである。
 すなわち、「河邊メモ」の当該部分を示すと
 「戒壇の御本尊のは偽物である。種々方法の筆跡鑑定の結果解った」
とあり、その後に問題の()で囲んだ注釈がある。
 前には「種々方法の筆跡鑑定」を行なって解った、といいながら、直後の()で「字画判定」という1つの鑑定方法で解った、とするのは明らかに矛盾である。
 だが、()の中が「写真判定」ならば、筆跡鑑定は「写真」を使って「判定」した、ということになり、矛盾は全く生じないのである。
 このように、そもそも()の中は「写真判定」としなければ意味が通じず、かつ、先に論じたように「メモ」中の文字を比較して判読すれば、やはり「写真判定」と読むしかないのだから、『フェイク』の主張は、根底から崩壊しているのである。