H27 改変勤行の内容と問題点


平成27年11月17日付の『聖教新聞』の第3面において、学会は、勤行方式と祈念文の改悪を発表した。

[画像]:『聖教新聞』(平成27年11月17日付)に載った、新・祈念文(『慧妙』H28.1.16)


観念文改変の欺瞞を破す/『慧妙』H27.12.16

本尊に関する祈念文改悪/『慧妙』H28.1.16

日目上人を捨てては成仏叶い難し/『大白法』H28.2.1

迷走する学会の「祈念文」/『慧妙』H28.3.1

意味を失った学会の「諸天供養」/『慧妙』H28.6.1

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観念文改変の欺瞞を破す

―五座の勤行の意義は御金言に厳然―
―御歴代上人が僧宝でなくば仏法は断絶―

(『慧妙』H27.12.16)

 創価学会は昭和52年路線の時と、平成4年・平成16年に観念文の改変を行ない、そして今年の11月にまた観念文の改変を行なった。
 このうち、平成16年9月の時には、"五座三座の勤行は御書や宗史に照らして何の根拠もない"として、「大聖人の時代には勤行に決まった形式は存在しなかった」「五座三座は、大聖人御入滅から4百年も経った江戸時代に、五座三座の形へと整備されていった経緯がある」等々と嘯(うそぶ)き、学会式勤行「方便品・自我偈の読誦と唱題」の一座のみとなった。
 そもそも五座三座の勤行は、御3祖と歴代上人への報恩感謝を含むものであるから、(その根本の意義は大聖人御在世から存するものの)現在のような形に整足されたのは、大聖人以後の「後世の形式」であることは当然である。だが、『御義口伝』に、
●六念(ろくねん)の事  念仏(ねんぷつ) 念法(ねんぽう) 念僧(ねんそう) 念戒(ねんかい) 念施(ねんせ) 念天(ねんてん)なり。
 御義口伝に云はく、念仏とは唯我一人の導師なり(※三座・大聖人)、念法とは滅後は題目の五字なり(※二座・本尊供養)、念僧とは末法にては凡夫僧なり(※三座・日興上人以下御歴代上人)、念戒とは是名持戒なり(※四座・自らの祈念)、念施とは一切衆生に題目を授与するなり(※五座・回向)、念天とは諸天昼夜常為法故而衛護之(じょういほうこにえいごし)の意なり(※初座・諸天供養)。末法当今の行者の上なり。之を思ふべきなり云云(御書P1798)
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と、五座の意義の原点と拝すべき御指南がある。
 また、日寛上人は、
●林氏勤行の次第を尋ねられ候。当山行事の次第、初座は十如寿量諸天供養、二座は十如世雄寿量本尊供養、第三座は十如寿量祖師代々、四座は十如寿量祈祷、五座は十如寿量法界回向なり。是れ則ち丑の終わり寅の始めの勤行(※丑寅すなわち朝の勤行)なり。若し黄昏(※夕の勤行)は初座十如寿量本尊供養、二座十如寿量祖師代々、三座自我偈三巻法界回向なり。若し堪(た)えたらん人は本山の如く相勤むべし。若し爾(しか)らずんば十如自我偈題目なりとも五座三座の格式相守るべし
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と仰せである。このように、宗門古来からの伝統化儀である五座三座の勤行を守っていかなければならないのである。
 海外の会員が大変だから、とか、近所迷惑になる、などと、理由を付けて一座のみでよい、などとすることは、懈怠(けたい)謗法である。

 また、今回の観念文改定だが、学会が削除した諸天供養については、日蓮大聖人が『国府尼御前御書』に
●日蓮こい(恋)しくをはせば、常に出づる日、ゆう(夕)べにい(出)づる月ををが(拝)ませ給へ。いつとなく日月にかげ(影)をう(浮)かぶる身なり(御書P740)
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と仰せられ、また、『産湯相承事』に
●日蓮の日は則ち日の神、昼なり。蓮は即ち月の神、夜なり(御書P1709)
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とも仰せのように、大聖人と日月が一体であるという、甚深の意義がある。その意義の上から第9世日有上人は
●当宗には日天を先ヅ拝し奉る事は日蓮事行の妙法を三世不退に日天の上に事に顕し・利益廃退無き事を敬ふとして・先ヅ日天・日蓮と意得て其ノ心を知るも知らぬるも日天を拝し奉るなり(宗学要集2巻P161)
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と、大日天に大聖人を拝する意義を仰せである。
 よって、初座において東天に向かい、日天を諸天善神の代表として、諸天供養を行なうのである。

 学会は、この甚深の意義が理解できない故に、平気で今回のような祈念文改訂を行なうのである。
 また、学会は今まで「僧宝は唯一、日興上人のみ。日目上人以下は含まれない」と言ってきたが、その短絡思考によるものか、今回の改変で御報恩は日興上人までとした。
 そもそも日蓮大聖人は、御入滅後の令法久住を鑑(かんが)みられ、唯授一人の血脈相承をもって、第2祖日興上人に法体と仏法のすべてを委(ゆだ)ねられ、僧宝の任を与えられた。しかして、その任は、日興上人より3祖日目上人へ、日目上人より4世日道上人へと受け継がれ、さらに代々の上人を経て、現68世日如上人に受け継がれているのである。
 僧宝とは、仏の代理者あるいは後継者として、仏の説かれた法を伝承・護持し、世に弘通していく方のことであり、その重大な役割について、『四恩抄』には
 「僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬(たと)へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝(つた)はるべからず」(御書P268)
と示されている。また、日寛上人の『当流行事抄』には
 「仏恩(ぶっとん)甚深(じんじん)にして法恩も無量なり、然りと雖(いえど)も若し之れを伝えずんば則(すなわ)ち末代今時の我等衆生、曷(なん)ぞ此の大法を信受することを得んや」(六巻抄P197)
と仰せである。
 すなわち、仏宝・法宝は三世常住である、といっても、僧宝があってはじめて世に久住し、万年の衆生を済度せられるのである。
 学会が主張するごとく、「僧宝は日興上人のみ」とするならば、前(さき)の『当流行事抄』に
 「之れを伝えずんば則ち末代今時の我等衆生、曷(なん)ぞ此の大法を信受することを得んや」(六巻抄P197)
と仰せのとおり、日興上人が御遷化(せんげ)された時点で、仏法は断絶して、後世に伝わらなくなってしまうことになる。
 しかるを、大聖人御入滅後、また日興上人御遷化の後、現在に至るまで大聖人の仏法が清浄に持(たも)たれてきたのは、御歴代上人によって受け継がれてきた故であり、これこそが僧宝の義なのである。
 それ故に創価学会も大聖人の仏法を知ることができた、ということを忘れてはなるまい。
 その恩を忘れ、唯授一人の血脈相承を否定する学会は、不知恩の輩(やから)である。



本尊に関する祈念文改悪

―法偏重・大御本尊否定・直結―
―三宝破壊の大謗法は明らか―

(『慧妙』H28.1.16)

 前回(12月16日号)触れたが、昨年11月17日付の『聖教新聞』の第3面において、学会は、勤行方式と祈念文の改悪を発表した。
 そのうち、朝五座夕三座を必須とする深義、初座諸天供養廃止の邪義、報恩感謝の対象を日興上人までに限定した邪義については、前回破折したので、今回は「御本尊への報恩感謝」の項で「法華経の肝心・南無妙法蓮華経の御本尊に南無し、報恩感謝申し上げます」とした、重大な欺瞞(ぎまん)について、少しく指摘しておきたい。
 それは、南無妙法蓮華経の悟(さと)りは、法が単純に存在するのではなく、その法を悟る人格者により悟られた法に他ならない、ということである。
 要は、人法一箇の悟りが御本尊の中尊の「南無妙法蓮華経」「日蓮」ということ。つまり、「南無妙法蓮華経」即「日蓮」、「日蓮」即「南無妙法蓮華経」の人法一箇の悟りこそが、御本尊の根本中心であるにもかかわらず、そのことを吹っ飛ばして、法偏重の池田・創価の思想よろしく、あたかも宇宙に存在する法を単に曼荼羅に仕立てた、程度に貶(おとし)めているのだ。とんでもない御本仏否定の大謗法である。
 『御本尊七箇之相承』に、
●日蓮と御判を置き給う事如何。[三世印判日蓮体具]師の曰わく、首題も釈迦・多宝も上行・無辺行等も普賢・文殊等も舎利弗・迦葉等も梵・釈・四天・日月等も鬼子母神・十羅刹女等も天照・八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり…師の曰わく、法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり。法界即日蓮、日蓮即法界なり(聖典P379)
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と御教示されているように、首題を始め十界のすべてが「悉く日蓮」に帰結し、法界即日蓮、日蓮即法界の悟りが御本尊であることが拝される。
 ゆえに、正宗においては、御本尊供養の二座の御観念文において、「本地難思境智冥合・久遠元初・自受用報身如来の御当体・十界本有常住・事の一念三千・人法一箇」と正しくお徳を讃歎し、御祈念申し上げているのである。
 さらにいえば、彼らは暗に御本仏一期御化導の本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を否定している、ということ。
 これまでも本紙において幾度となく破折してきたが、あえて「本門戒壇の大御本尊」の文言を入れず、「南無妙法蓮華経の御本尊」と抽象的な表現をもって祈念させることで、末端の会員の心から大御本尊をいよいよ乖離(かいり)・亡失させようとしているのである。
 さて、その「南無妙法蓮華経の御本尊」の「南無妙法蓮華経」にご丁寧にも「なんみょうほうれんげきょう」とルビが振られている。
 学会員に出会ったら、「身延では『なむみょうほうれんげきょう』というのに、学会ではなぜ『なんみょうほうれんげきょう』というのか?御書の何処にあるのか?正宗以外は『なんみょうほうれんげきょう』と言わないが、学会は何処からそれを学んだのか」と、問いただしてみよう。
 また、その祈念文改悪の内容説明の中、「大聖人直結の信心を誓います」と、またもや大聖人直結なる虚偽を説いている。
 大聖人に直結されているのは、強いて言えば、宗祖からの血脈を受け継がれる御法主上人猊下ただお一人であられ、血脈の流れ通わない創価学会ごときは微塵(みじん)も繋(つな)がっていない。
 さて、その内容説明では、さらに「日興上人が御本尊根本の大聖人の教えを正しく継承されたことを報恩感謝申し上げます」としているが、ならば、日興上人が『佐渡国法華講衆御返事』に教示された、
●このほうもん(法門)は、しでし(師弟子)をたゞ(糺)してほとけ(仏)になり候。しでし(師弟子)だにもちが(違)い候へば、おな(同)じほくゑ(法華)をたも(持)ちまいらせて候へども、むげんぢごく(無間地獄)にお(堕)ち候也(歴全1巻P183)
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との御指南を奉戴(ほうたい)し、直ちに師敵対謗法の創価学会を解散し、全員を大御本尊と御法主上人猊下の御前に連れ出し、反省懺悔(さんげ)すべきである。
 でなければ、師弟子の筋目に背(そむ)いた大謗法罪はもとより、血脈誹謗(ひぼう)、ニセ本尊作成、大御本尊否定等々、限りない下種三宝破壊の大罪により、すべての創価学会員が、現当にわたって無間地獄の苦しみを受けることは明らかだ。
 我らは、師弟子の筋目を正して信仰に励むところにのみ、即身成仏の直道が存することを大確信し、永く生死の海に沈み、無間大城の罪障に苦しむ創価学会員を1人でも多く救ってまいろうではないか。

[画像]:『聖教新聞』(平成27年11月17日付)に載った、新・祈念文




日目上人を捨てては成仏叶い難し

(『大白法』H28.2.1)

【変節漢・池田大作】
 昨年11月、創価学会は、新たな勤行方式と祈念文を発表した。信仰の根幹である本門戒壇の大御本尊を、いとも簡単に捨て去った学会である。今さら何をしようと驚かないが、あまりにひどい内容なので、敢えて小欄で取り上げてみたい。
 新たな祈念文には、
 「池田大作先生を広宣流布の永遠の師匠と仰ぎ、(中略)報恩感謝申し上げます」(『聖教新聞』H27.11.17)
とある。
 この制定に当たり会長の原田は、大作の了承を得たと発言している(同紙)。
 存命中の自分に対して報恩感謝するよう強要する大作に、仏法者としての謙虚さは微塵もない。釈尊を殺して新仏になろうとした、提婆達多を凌ぐ増上慢である。その大作は、かつて、
 「私どもの勤行は、日蓮正宗の化法化儀に従って行っているのであり、この五座三座の勤行が、根本中の根本の修行である」(『広布と人生を語る』10-P315)
と述べていた。
 学会員よ、あなたたちの"永遠の師匠"は、わずかの間に本尊、教義、勤行などをクルクルと変える、変節漢だと見破るべきだ。

【迷走する学会執行部】
 学会は今回の制定を、
 「宗教的独自性をより明確に」(前出の聖教新聞)
した、などと自讃する。しかし実際は、日蓮正宗の化儀化法をご都合主義で猿まねし、さらに歴代会長への礼讃を徹底するという、支離滅裂な代物だ。
 そもそも勤行において、唱題を正行とし、方便・寿量の要品読誦を助行とするのは、富士門流独自の化儀である。その証拠に現在の創価学会公式ホームページにも、日寛上人の御指南を敷衍(ふえん)して二品読誦の意義を説明している。
 祈念文には、また、
 「末法の御本仏・日蓮大聖人に南無し…」
 「日興上人に南無し…」(同)
とある。
 言うまでもなく、古来、日蓮大聖人を御本仏と拝信するのは大石寺のみである。これは宗祖以来の唯授一人の血脈相伝に基づく御法門であり、その血脈を受けられたのは大石寺を開創された日興上人である。
 事は勤行方式だけに留まらない。新たに中心道場と定めた広宣流布大誓堂に安置する御本尊、さらには現在も会員に拝ませている本尊(通称『ニセ本尊』)など、本を正せば、すべて大石寺御歴代上人の御本尊ではないか。「宗教的独自性」など、聞いて呆れる。
 学会員よ、完全に迷走する執行部に騙されてはならない。

【日目上人をも捨てた創価学会】
 その他の顕著な改悪は、
 「従来、朝の勤行の際に行っていた『諸天供養』については、最初の題目の中にその意義を込める」(同)
として、諸天供養を削除したことである。この児戯(じぎ)に等しい理屈が通るならば、最初の題目三唱に、勤行のすべての意義を込めることも罷(まか)り通るではないか。
 さらに今回、従来の祈念文にあった「日目上人に対する報恩感謝」の文言を削除してしまった。その理由を聖教紙上に触れることは全くない。
 創価学会は、わずか数ヵ月前まで、「日目上人は御本尊根本の正しい信心と広宣流布のための不惜身命の信心を継承し、伝えましたので、あわせて報恩感謝申し上げます」(同紙H16.9.10)
と説明していたのである。
 糅(か)てて加えて、大作も、
 「戸田先生は(中略)次のように述べられている。
 『学会員は、ご老齢の身をひっさげて大折伏の途上、お倒れあそばした日目上人のご命を命として、宗開両祖にむくいたてまつらんとしなけれぱ、成仏はかないがたしと知らなければならない』と。
 ここに学会精神の骨髄がある」(『今日より明日へ』25-10P)
と発言していた。
 学会員よ、日目上人を捨てては成仏叶い難しとは、2代・3代の"永遠の師匠"が認めるところである。
 今こそ、堕地獄に突き進む創価学会と決別し、大御本尊のもとに懺悔(さんげ)せよ。




迷走する学会の「祈念文」

―「諸天供養の意義も込めて題目三唱」だって!?―
―それなら勤行の全ての意義も「題目三唱」に―

(『慧妙』H28.3.1)

 周知のとおり、創価学会は昨年11月17日付『聖教新聞』において〈創価学会「勤行要点」による勤行と御祈念文〉と題して、諸天供養の御祈念文並びに日目上人への御報恩を削除する、と発表した。
 この改変について宮尾牙城会委員長は、青年部座談会(『創価新報』H27.12.2)において、
 「2004年(平成16年)に、創価学会は独自の『勤行要点方便品・自我偈』と『新祈念文』を制定しました。世界宗教として新たな飛翔の時を迎え、今回の制定により、大聖人の仏法の本義に基づき、創価学会の宗教的独自性を、より明確にするものであります」
と述べている。だがしかし、創価学会創立以来60年以上、また初代牧口常三郎氏・2代戸田城聖氏も変わることなく行じてきた勤行を、「世界宗教としての新たな飛翔」などという理屈を付けて簡単に改変するのはいかがなものであろうか。
 そもそも今回の改変は、最初の1行目から不親切である。
 「諸天供養の意義も込めて題目三唱します」とあるが、11年前に改変した時には、五座三座という形態は破壊したものの、
 「諸天供養 諸天善神の守護に感謝し、威光勢力が増すよう、題目の法味を送ります」
との祈念文があって、何故、諸天供養をするのかが、苦し紛(まぎ)れながら伺うことができた(本紙平成26年5月1日号参照)。
 しかし、今回は、諸天供養を行なうべき必然性が微塵(みじん)も感じられない。
 また池田大作も、かつての指導では
 「諸天供養の大切さについて、初座の勤行のとき、大日天、大月天、大明星天等に法味を送ることによって、諸天の加護を受けることができるのである」(『広布と人生を語る』7巻P68)
と述べて、諸天供養があるからこそ法華経守護の諸天善神が守護の力を発揮する、としていたはずである。
 もはや創価学会は、伝統も信条も全てを捨て去った、といえよう。
 さらにいえば、題目三唱に諸天供養の意義を含めることができるというのなら、いずれ、本尊供養も、さらには方便品と自我偈を読誦して唱題をする意義も、全て題目三唱の中に込めることができる、と言い出しそうだ
 おそらく、将来的には勤行を題目三唱のみとし、勤行のさらなる簡略化を計るであろう。懶惰懈怠(らんだけたい)の学会首脳の考えそうなことだ。
 かつて戸田城聖氏は、
 「われわれが五座三座のお勤めをきちんとやって、折伏を行じて、純真に御本尊を信ずるならば、絶対に不幸になるはずが無いのであります」(『戸田城聖全集』5巻P364)
と指導していたが、今や創価学会はこの基本すら捨て去り、まったく別な宗教になってしまった、といえよう。
 本年は創価学会のいう『魂の独立』から25年目になる。この時にあたって、会員諸君には、執行部によって描かれた誑惑(おうわく)の歴史を捨て、創立当初の本門戒壇の大御本尊への信仰に立ち返り、諸天善神の加護を得られんことを念願する。




意味を失った学会の「諸天供養」

―「大御本尊を受持する故に諸天が加護」―
―戸田氏の指導違えた学会に加護はない!―

(『慧妙』H28.6.1)

 新興宗教創価学会が、池田の名を使い、幹部の手で独自に化義を改変している。
 日蓮正宗に破門されて以降、教義化儀を変えては時間をあけて様子を見る―これを繰り返しているが、ここ数年はそれでも回数が多いようである。
 近いところでは、勤行の仕方を改変したことであろう。
 勤行の仕方といっても、学会はすでに時間短縮のために方便品・自我偈だけにしていたが、祈念文は一応日蓮正宗の形(諸天供養、本尊供養、三師供養、広宣流布祈念、回向)をとっていた。
 勤行改変をするということで、もっと大胆にするのかと思えば、ここも小規模で、祈念文の変更のみである。
 最初にいうように、時間を空け、様子見を決め込んで、次は何をしてやろうかと悪だくみを巡らす幹部の様子が目に浮かぶ。
 いつになれば、もっと新興宗教化して離れていくのであろうか。そのような、かわいそうな宗教に関わっている人を、変貌する前の純真な信心に戻れるよう行動を起こすべきであろう。
 学会で勤行改変により、諸天の意義を軽くしたことは時間が経(た)ち忘れ去られしようとしている。現在、学会では、最初の題目三唱に諸天供養の意義を込める、といっている。かつて戸田氏は
●あらゆる、法華守護の諸天善神がズーッと並んでおります。その諸天善神に向かって、われわれは法味をさしあげるのであります。大御本尊を受持するがためのゆえに、われわれを日夜にお護りくださっているのは、まことにありがたいことです。こういってお礼を申しあげるのであります(『戸田城聖全集』5巻P434)
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と言っている。この戸田氏の言葉は、大御本尊を受持することが前提であることを忘れてはならない。
 また学会では、どのように諸天に法味を捧げるというのであろうか。題目三唱に諸天供養の意義を込めて法味を捧げるにしても、対象があまりにも不明確である。また、あくまでも大御本尊を受持することが前提であることは、戸田氏も述べている。この内容に関しては、どのように学会は説明をするのであろうか。
 そして、池田もかつては
 「初座は諸天善神への供養である。いっさいの三世の諸仏も諸天善神も、南無妙法蓮華経によって威光勢力をますものである。南無妙法蓮華経を日夜唱えているわれわれを、諸天善神は陰に陽に擁護(ようご)してくださっている。これは仏法の約束である。この日天・月天・大明星天等の諸天善神に、ますます威光勢力をまし、守護していただくために題目の法味をさしあげるのが、初座の荘厳な儀式なのである」(『広布と人生を語る』2巻P83)
と言っていた。初座には重要な意義があることを、本人が認識していた、ということであろう。
 さて、法華経の行者を諸天が加護するわけであるが、学会は新興宗教の行者であつて、法華経の名をかたる「宗教?」である。自我偈を唱える宗教は日本にはたくさんある。その集団と学会は同じであろう。
 ともあれ、学会が勤行の仕方の変更をしていることは、いうまでもない事実である。それも、少しずつ変えることにより、会員をだまし続けている。
 初座については、何を中心に諸天に法味を捧げるかが重要なのであり。似非(えせ)宗教には諸天の加護はない。
 加護をいただけるような純粋な信仰に戻り、変貌を続ける学会から速やかに離れるべきである。

[画像]:祈念文の改変を報じた『聖教新聞』。諸天供養の本義を亡失した学会が何を祈ろうとも、現われるのは罰の現証だ