ショック!「護符」もデッチ上げだった!?

―大石寺の御秘符を真似て池田が贋造―
(『慧妙』H25.7.1)

【「創価学会は紙を飲む宗教」!?】
 創価学会員の多くが、"護符"の存在を知っていると思います。約4ミリ四方の紙片で、昔の病院で出ていた粉薬のように包装されていて、病気の時に飲めば効(き)く、とされてきた"アレ"です。
 多くの方々が、座談会で"護符"の話を聞いたり、会館において会員達に配るのを見たり、あるいは自分自身も飲んだことがある等の経験をしているのではないでしょうか。
 かつて池田大作会長(当時)も、大幹部に対する指導の中で
 「肺病を直すのは護符をいただき、夫婦生活をやめて、11時以内に寝る、これをやれば直る」(S44.2.19 第21回社長会)
と述べていたように、学会では、病気になった時には"護符"を戴(いただ)く、ということが広く浸透していました。
 では、この"護符"とは何なのか、ということですが、学会内で口コミで伝えられていたところ(昭和40年代以降)によると、「総本山大石寺の御虫払大法会で、御法主猊下が本門戒壇の大御本尊を和紙で塵(ちり)払いされる。その大御本尊に直(じか)に触れた和紙を、会長・池田先生が猊下から頂戴(ちょうだい)してきて、御本尊の前で祈念して小さく切ったもので、病気の時に飲めば効き目がある」とされていました。
 これを信じて、数多(あまた)の会員が"護符"を飲み、それを見た世間の人達からは「創価学会は紙を飲む宗教だ」といって気味悪がられたものです(笑)。
 しかし、この"護符"なるモノ、ちょっと考えてみれば、おかしな点ばかりでした。
 まず、御虫払の際に使われた和紙を頂戴してきて切った、というのですが、実際に大御本尊の塵払いを御開扉で目(ま)の当たりにした人はお分かりのように、そこで用いられる和紙は数枚です。これをいかに小さく切ったとしても、全国千ヶ所以上の学会の会館で度々(たびたび)配布するには、あまりにも原紙が少なすぎて間に合いません。
 これに対応するためだったのか、途中から"護符"には白色の紙の他に桃色の紙も使われるようになり、今度は「総本山の御大会式で飾られた桜の造花を頂戴し……」という説明が付け加わりました。しかし、そうだとすると、最初の「大御本尊に触れた和紙」という意義とは全く違ってしまい、疑いが深まるばかりです。
 いったい、"護符"なるモノの正体は何なのでしょうか。
 じつは、これは、日蓮大聖人以来、代々の御法主上人にのみ伝わってきた日蓮正宗秘伝の"御秘符"を、その名称だけ盗み取り、さもそれらしく池田大作が作り上げた、全くデタラメな代物だったのです。
 と言われれば、驚き、「そんなバカな」と思う学会員も多いかもしれません。


【「御秘符」と「護符」は全く別物】
 そこで、本来の"御秘符"について、学会の昔の指導を見てみましょう。
 「護秘符(※御秘符)は大聖人様の時代からあったもので、歴代の御相承の中に入っているものと承(うけたまわ)っています。御書にも大聖人様は四条金吾殿の女房の懐胎(かいたい)について護秘符を賜(たまわ)り『それについては符の事仰せ候、日蓮相承の中より撰(えら)み出だして候・能(よ)く能く信心あるべく候、たと(例)へば秘薬なりとも毒を入りぬれば薬の
用すくなし』と、又『とくとく(疾疾)こそ・うまれ候はむずれ、此の薬をのませ給はば疑いなかるべきなり』と仰せられています。
 すなわち護秘符は私達信者が大病したり、又出産等の場合に頂ける日蓮正宗の秘中のものです。」(『聖教』S31.8.5)
 「皆さんに1つの不思議を申しておく。それは本山に護秘符というものがある。大聖人がお母様が病気ときいて伊豆から帰られた時、すでに亡くなったお母様にさし上げて、それから息をふき返し、4年間命を保ったもの。これは大聖人様以外御法主猊下でなければつくることは出来ない秘法になっておる。」(戸田会長指導『聖教』S31.11.4)
 「この護秘符は猊下が忙しいから我々が代理に作って上げようと言うわけにはいかぬ。もったいなくも大聖人様以来の秘伝で法主猊下以外には作れぬ。」(戸田会長指導『聖教』S30.7.24)
 「ちょっと病気をしたからと何でも彼でも護秘符護秘符というのでなく、これは生命にかかわる時いただくもの。」(『聖教』S31.9.23)
 「護秘符の頂き方は(中略)水を半分位入れた湯飲み茶わんに入れ、御本尊様にお供えし、方便品、寿量品を上げ御題目を数多く唱えて勤行し、(中略)護秘符の表面の紅様のものをこすって水にとき、落としてその水を頂くのである。使った護秘符の台紙は焼却する。」(『聖教』S29.7.11)
 「護秘符は御本尊と同じ扱いにするようにとは、会長池田先生のお言葉である。(中略)護秘符はただの薬ではないこと、大御本尊に猊下が平癒(へいゆ)を御祈念あそばすこと、願主の強い信心が大切であること。」(『前進』S38.9)
 これらを見れば明白なように、戸田会長時代、そして池田会長の代になってからも途中までは、会長が作った"護符"ではなく、総本山大石寺から下附された"御秘符"を戴いていたのです。
 しかも、その御秘符とは、
@御書にも出てくるとおり、日蓮大聖人以来の相伝によって作られる秘法である
A御秘符は、大聖人から相伝を受けられた代々の御法主上人以外、何びとも作ることができない
B御秘符は、信徒の懐妊、もしくは命に関わる重病などの際に戴くことができ、下附に伴(ともな)い、御法主上人が願主への加護を御祈念くださる
C御秘符の形状は、紙片などではなく、台紙に塗られた食紅であり、これを清水に溶いて服用する
D御秘符は御本尊に準ずるもので、強い信心をもって服することが大切である
等というもので、いわゆる"護符"とは全く異なることが誰にでもわかるでしょう。


【池田が嫉妬から「護符」を贋造】
 これが、いつの頃から、どうして"護符"などという代ろ物にスリカエられたのか、といえば、前に引用してきた資料の日付から見ると、昭和38年以降、昭和44年までの間にスリカエられたことが明らかで、それは、学会の巨大化に伴って増長した池田会長(当時)が、"唯授一人の御法主上人だけに伝わる秘法"ということに嫉妬(もっと)して、自ら作って下附するようになった、としか言いようがありません。
 それも当初は、大御本尊に触れた和紙から始まったのでしょうが、ついには、大御本尊とも日蓮正宗とも何の関係もなく、天魔と化した池田大作が恣(ほしいまま)に乱造して会員に下附するようになった、といえましょう。その証拠に、日蓮正宗から破門され、大御本尊に近寄ることすらできなくなった以降においても、池田から
 「関西の皆様の健康のため、集まった全員に」(H17.1)
 「風邪を引かないように」(H19.10)
等のメッセージと共に、広く"護符"がバラ撤(ま)かれているのです。
 これで何の疑いも抱かないとしたら、あまりに迂闊(うかつ)であり、騙(だま)す方も悪いでしょうが、騙される方も愚(おろ)かすぎます。
 ともあれ、ニセ本尊を造った池田は、当然のごとくニセの御秘符=護符も作っていた、という次第で、食の安全性や健康問題が叫ばれる今日、こんな得体の知れない代ろ物(しかも池田の邪念の込められた魔符)を飲まされている会員こそ哀(あわ)れであります。


▲左が本物の「御秘符」右がマガイモノの「護符」