意義を違えた観念文(5座)

―「広布の行動で得た功徳を回らし向ける」!?―
―正しき御本尊を離れて回向は叶わず―

(『慧妙』H26.10.1)

 学会の回向とは何であるか、ということにつき、学会の公式フェイスブックには「回向とは、『題目を唱え、広布のために行動する中で得た功徳を故人へ回(めぐ)らし向ける』ことを意味します」と載(の)っている。そして、学会版の経本には「先祖代々ならびに会員・友人の先祖代々諸精霊追善供養のために」と記されている。だが、ここに間違いが存するのである。「題目を唱え広布のために行動する中で得た功徳」などと言ってみても、何に対して題目を唱えるかが、まずもって不明瞭であり、広布のために行動といっても、学会には弘(ひろ)め流布するための根本がない。つまり、功徳は何も生まれないのであるから、功徳を回らし向けることなどできないのである。
 かつての学会の指導を見てみると、昭和57年3月20日付『聖教新聞』の社説に
◆生きている我々自身がまず成仏への善根を積み、これを先祖に回向すべき。(中略)御本尊に御供養申し上げ、塔婆を立てて回向し、広布への強き決意を新たにすることが望まれる。それが真実の報恩であり先祖も自らも福徳を得る道なのである
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と訴えている。日蓮正宗の正しい御本尊を通して自らが善根を積み、御本尊に御供養をし、これを先祖に向かわしめることが本義である、と指導していたのである。
 それが、平成3年3月20日付『聖教新聞』の社説になると
 「回向とは、彼岸や盆などの特別の時だけに行なうものではなく、日常的に毎日の勤行の際にしていくことが、その基本となる。大聖人の仏法において『常盆、常彼岸』といわれるのも、その意義である。(中略)我が国では、しばしば故人追善の祈願を僧侶のみに依頼する姿があるが、そのような在(あ)り方は、自身の仏道修行を棚上げして安直に『追善』だけを行なおうとするもので、回向の本義を歪(ゆが)めるものといわざるをえない」
と論調を変え、当宗の常盆・常彼岸の精神を逆手(さかて)に取って、本宗僧侶による化儀・儀式を軽んじている。すなわち、朝夕の勤行の際に追善供養を行なうのだから、お寺へ行かなくてよい、という方向へ会員を誘導しているのである。
 日蓮正宗から離れることで、単なる新興宗教となった学会は、回向とか法事などの葬祭について、何とか会員の目を欺(あざむ)こうと苦心しているようだが、これも自業自得であって、しょうがないとしか言いようがない。
 本宗における真の追善回向について、御隠尊日顕上人は
 「御先祖を追善するということも、日蓮大聖人様の正法正義を離れては、全くその意味をなさないのでこざいます。故に、あくまでも大聖人様の三大秘法を受持信行し、自行化他にわたって邁進(まいしん)していくということを根本としてこそ、はじめて御先祖の追善の意義があるのであります」
と御指南されている。
 自らが正しき三大秘法を信受してこそ、本当の追善が叶(かな)うのであり、そうでなければ亡者へは功徳が回り向かわないのである。
 正法正義から離れるどころか、かえって敵対視している学会には、当然、功徳は具(そな)わらない。それどころか、罪障を積むこととなるので、亡者に回らし向けられるのは罪障でしかないのである。
 このことを、いま一度考え直すべきである。


▲ニセ本尊に何を祈念しようと、所詮叶うことはない