「僧侶による先祖供養は不要」!?

―日蓮正宗の儀式法要は上古からの伝統―
―御在世当時の信徒も大聖人に追善を願う―

(『慧妙』H24.9.16)

 8月1日の『創価新報』に、盂蘭盆(うらぼん)について、"お盆に僧侶に読経してもらい、先祖の供養をしてもらう必要はない""お盆は大聖人の仏法とは関係ない"として、本宗の常盆(じょうぼん)・常彼岸(じょうひがん)の精神を逆手(さかて)にとり、本宗僧侶による化儀・儀式を軽んじ、日々の勤行の際に、追善回向を行なうのだから、特別に盂蘭盆会などを行なう必要はない、という論旨を述べている。
 だが、そもそも日蓮正宗における盂蘭盆会法要は、宗祖大聖人以来伝わる化儀・儀式である。
 日蓮正宗の化儀即化法に基づく総本山の儀式法要は、全て宗開両祖を嚆矢(こうし)としており、嫡々付法の御歴代上人がその根本化儀を伝承されているのである。
 そして宗内の僧俗は、それら総本山の化儀を中心として修行し、成仏の境界を開いてきた。
 たとえば宗祖大聖人は、富木常忍に与えられた『始聞仏乗義』に、
●青鳬(せいふ)七結(ゆ)ひ下州より甲州に送らる。其の御志悲母(ひも)の第三年に相(あい)当たる御孝養なり(御書P1207)
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と仰(おお)せだが、このことから、富木氏が、大聖人のもとへ御供養を奉(たてまつ)り、母の3回忌の追善を願い出られたことがわかる。
 ほかにも、『曽谷殿御返事』『忘持経事』『千日尼御返事』『四条金吾殿御返事』『中興入道消息』などを拝せば、弟子檀那達が年忌・盆・彼岸の折に、宗祖大聖人へ故人の追善回向を願い出ていることがわかるのである。
 また、日興上人の書状を拝しても、「御霊供料」「盆料」「彼岸御仏料」等の表現が見られ、日興上人やその弟子達が、故人の追善供養のために、御本尊の前で、盂蘭盆や彼岸の読経を行なうことを述べられている。
 このように、宗開両祖の時代においても、僧侶による読経回向と、檀那の供養を伴(ともな)う追善仏事がなされたのである。
 つまり、"お盆に僧侶による読経は必要ない"とか、"お盆が大聖人の仏法とは関係ない"などと言うことは、宗開両祖の化儀を冒涜(ぼうとく)するものである。
 また、回向については、御本尊を根本とする四力成就(信力・行力により仏力・法力が顕現する)の追善回向の本義に対し、学会は衆生の修行のみを取り上げ、それを追善供養の根本であるとする。
 すなわち、御本尊よりも、むしろ衆生が中心となった功徳論に堕(だ)しているのであり、ここに、学会の誤りがあるのである。
 そもそも、衆生が御本尊を受持信行し、その功徳が他に回向されることはあっても、衆生の力のみでは功徳は生じない。
 仏法の追善回向は、あくまでも御本尊に具(そな)わる法仏の力用が根本であり、衆生の側には、この御本尊を根本とする信力・行力が必要である。そこに、四力が成就され、はじめて真実の追善の功徳が顕われるのである。
 しかも、衆生の信心を受け止め、正しくその功徳を顕わすことのできるのは、血脈相伝に基づく日蓮正宗の御本尊以外にないのである。
 仏法の追善供養の本義は、御本尊を根本として衆生の成仏を願うものであることを、けっしてなおざりにしてはならない。
 それ故に、26世日寛上人は
●凡(およ)そ当家の観心はこれ自力の観心に非ず。方(まさ)に本尊の徳用に由って即ち観心の義を成ず(御書文段P223)
●若し仏力、法力に依らずんば何ぞ能く我等が観心を成ぜんや(御書文段P228)
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と仰せである。
 それらの衆生の功徳善根の源は、御本尊即三宝尊の徳用にあるのだという、第一義の信仰が創価学会にはわからないのである。
 日蓮正宗の化儀は、全て御本尊への信心を根本とした、衆生成仏のためのものである。父母先祖の供養をしたい、という衆生の願いは、御本尊を根本とした葬儀・法事・盆・彼岸などの儀式において、四力成就の功徳のもとに追善回向されるのである。それは、また亡者のみならず、自身の善根を積むことにもなる。
 また、本宗の葬儀・法事・盆・彼岸の儀式のときに、僧侶が白袈裟(けさ)と薄墨の衣を纏(まと)い、御法主上人の名代として導師を務めるのは、下種三宝の御本尊の功力を根本にした、真実の追善回向を行なうためである。
 それはまた、同時に『当家三衣抄』に示されているように、他宗謗法の黒紫(こくし)金襴(きんらん)の法衣を簡異し、本宗の薄墨の名字本因下種の仏法を表明し、参列の衆生をして順逆二縁を結ばせる、折伏行でもある。
 日蓮正宗の化儀は、宗開両祖の化儀・化法をもととするのであり、この御本尊を根本として、衆生を成仏へ導(みちび)く本宗の化儀を通して、僧俗ともに正しい信心の筋目と功徳を自然に身に具えていくことができるのである。
 しかるに、本宗の相伝によらず、正しき化儀を否定し、ニセ本尊などを拝するかぎり、回向したくとも、回向すべき功徳がないどころか、罪障を積み、さらには先祖をも苦しめることになる。
 大聖人以来の本宗伝統の化儀を誹謗(ひぼう)し、中傷し、正しい先祖供養ができない創価学会員の先祖の苦しみは、察するに余りある。学会員諸兄には、一刻も早く反省懺悔(さんげ)され、日蓮正宗に帰伏することを祈るものである。


▲僧侶による追善を否定した『創価新報』の邪説