意義を違えた観念文(初座)

―「法華守護」でない諸天は鬼神だ―
―大御本尊離れた題目に法味はない―

(『慧妙』H26.6.1)

 前回は、学会が観念文を変更したことについて述べた。今回も引き続き、学会の観念文が日蓮正宗の各座の観念文に沿って変わっていることについて述べる。
 現在の学会の勤行においては、初座という感覚はないだろうが、当宗の勤行の形に沿って変えているので、その前提で述べていく。
 学会版の勤行要典には『諸天供養 諸天善神の守護に感謝し、威光勢力が増すよう、題目の法味を送ります』とある。
 まず、「諸天供養」といっても、いったい、いかなる「諸天」を供養するのだろうか。「諸天」とか「神」といっても、当宗においては、法華を守護する神以外は鬼神である。
 鬼神にまで法味を捧げるとは、さすが学会である。
 念のため言っておくが、「法華」とは言うまでもなく法華経のことであり、末法においては日蓮大聖人の法華経、つまり本門戒壇の大御本尊のことである。大御本尊を守護する諸天善神に法味を捧げるのが当宗の慣わしなのである。
 その大御本尊を「ただのモノ」呼ばわりして軽賎(きょうせん)している池田学会に、法華守護の諸天善神は厳罰を下すであろう(だから学会では鬼神に法味を捧げることにしたということか)。
 次に、「題目の法味」とは何なのだろうか。「題目」が三大秘法の1つである本門の題目のことを指しているのであれば、大きな考え違いをしている。
 すなわち、一大秘法たる本門戒壇の大御本尊から開かれるところの三大秘法なのだから、大御本尊から離れて根本を失った池田学会には、本門の題目の意義は具(そな)わらない。それは他門流の日蓮宗等と同様、題号を唱えるだけの題目でしかないのである。
 はっきり言って、学会の題目には何の「法味」もないことだけは明確である。
 うまく誤魔化したつもりかも知れないが、もう少しましな書き方があったのではないだろうか。
 また、当家の初座の観念文には、法華経安楽行品の「諸天昼夜 常為法故 而衛護之(諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し)」との文が引かれている。
 つまり、法華守護の諸天善神は法のために守護するのである。学会がこれを削除したのは、法を信ずることができないのであるから当然だろうが、そのような学会を諸天善神が衛護することはないのである。
 さらに、学会版勤行要典の括弧の中には『東の方に向かってもよい』などと書いてある。なんと中途半端なのだろうか。昔、正しい信仰をしていた記憶のある会員を欺(あざむ)くための言い方なのだろうが、あまりに見え透いている。
 当宗において、初座で東天に向かい「大日天王・大月天王等…」と善神に法味を捧げる意は、宇宙法界を万法一如の妙法の姿であると捉(とら)え、表面的・物質的な当体そのものではなく、各々の当体のもつ徳用(とくゆう)を尊崇し、その恩恵に感謝するのである。
 ともあれ、学会が勝手に造ったニセ本尊に、法味などない題目を唱えれば、悪鬼が喜び善神が捨去(しゃこ)することになる。まさに、国が乱れ民が苦しむ原因、といって過言ではなかろう。


▲鬼神に祈ることになる学会製経本の観念文