「本尊を邪宗の御守扱い」に反響絶大!

―「トンデモ」商品は創価学会堕落の象徴―
―「ニセ本尊」かち崩れだした学会の信仰心―
―易(やす)きに流れ、ついに本尊をアクセサリーに―

(『慧妙』H23.8.16)

 「まさか、そこまで!?」本紙が前号「捃拾雑記(くんじゅうざっき)」欄で取り上げた、創価学会のニセ守り本尊に関連するグッズに対し、読者から驚きの声が寄せられている。
 中でも、創価学会の信心が地に堕(お)ちた確たる証拠たる、ニセ守り本尊を、邪宗のお守りと同列に扱う"ファンシーケース"なるものに対しては、「信じられない。本当にそんなものを売っているのか」との疑問の声が。  それはそうであろう。日蓮正宗僧俗にとって御守御本尊とは、
●先日のまぼ(守)り暫時も身をはなさずたもち給へ(『経王殿御返事』全集1124頁、御書685頁)
●この御まぼ(守)りは、法華経のうちのかんじん(肝心)、一切経のげんもく(眼目)にて候。たとへば、天には日月、地には大王、人には心、たからの中には如意宝珠(にょいほうじゅ)のたま、いえ(家)にははしら(柱)のやう(様)なる事にて候。
 このまんだら(曼荼羅)を身にたもちぬれば、王を武士のまぼるがごとく、子ををや(親)のあい(愛)するがごとく、いを(魚)の水をたの(侍)むがごとく、草木のあめ(雨)をねが(楽)うがごとく、とり(鳥)の木をたのむがごとく、一切の仏神等のあつまりまぼり、昼夜にかげのごとくまぼらせ給ふ法にて候。よくよく御信用あるべし(『妙心尼御前御返事』全集1477頁、御書903頁)
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との御金言に示されるように、我が身に帯(たい)してしっかりとお護(まも)りすることにより、自らも守られる、という御本尊である。
 よって、それを模した学会製ニセ守り本尊を、いかにニセとはいえ、邪宗のお守りと同様に鞄(かばん)にぶら下げるためのグッズを販売している、ということ自体、俄(にわか)には信じられないのは当然であろう。
 しかし現実には、写真に示すように、件(くだん)の"ファンシーケース"の他にも、自動車のフロントガラスに取り付れば、ニセ守本尊を"交通安全の御守り"にできる"ニセ守本尊収納用マスコット人形"まで売られており、さらには、ニセ守り本尊を収めるケース式の"電気ろうそく付き携帯仏壇"等々、本来、我が身に帯して護るべき守り本尊を用いて、"人目を忍(しの)んでコソコソと"信仰するためのグッズの他、"唱題のお供に"と「唱題クマさん」「お祈りクマさん」「お願いクマさん」などの名称で、合掌(がっしょう)・端座(たんざ)するクマのぬいぐるみが売られているのである。
 もはや、こうなってしまえば、これは敬虔(けいけん)な信仰などではなく、単なる趣味か気休めでしかない。創価学会には信仰の心そのものが失われつつあるのだ。
 もちろん、これらの商品は、創価学会が直接、製造・販売しているものではなかろう。
 しかし、こうした商品が"大好評"の商品として学会員に向けて公然と販売されている背景には、創価学会の信仰の喪失があることは間違いない。
 平成5年、日寛上人御書写の御本尊を変造してニセ本尊を作った創価学会は、平成9年2月8日には、当時会長だった秋谷栄之助が
◆「謗法(ほうぼう)払い」については、あくまで原則通り、本人処分であることには変わりはありませんが、御本尊を安置するための絶対的前提条件ではありません。謗法払いしてからでないと御本尊を安置してはいけないという考え方を変え、もっと幅広く、まず御本尊を安置し、拝(おが)み始める。そのうえで信心が深まって、古い対象物は置きたくなくなる。そうなってから、自発的に本人がそれを取り除くようにしてもかまいません
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と本部幹部会で明言。日蓮大聖人が厳しく訓誡された謗法厳誡(げんかい)の精神すらアッサリと捨て去っている。
 となれば、易(やす)きに流されるのが人間の常。それから十数年後の現在では、ついに、本尊を邪宗のお守り並に扱う商品まで堂々と販売する状況に至ったのである。
 昨日今日入会した「ニューメンバー」ならいざ知らず、戸田時代を知る学会員、謗法厳誡を肝(きも)に銘(めい)じてきた学会員にとって、この現状はどう目に映(うつ)っているのか。
 もはや、日蓮大聖人の御精神を完全に失ってしまった創価学会にしがみつく謂(い)われはない、と知るべきである。

↓どれも、信心失った学会を象徴するかのような商品だ


▲鞄などにニセ守り本尊をぶら下げるための"ファンシーケース"


▲車のフロントガラスにも取り付けられる、吸盤付きの"マスコットホルダー"


▲"唱題クマさん"


▲"守り本尊ケース兼用電気ローソク付き携帯仏壇"