参詣遥かに中絶せり急急に来臨を企つべし、是にて待ち入つて候べし、哀哀申しつくしがたき御志かな・御志かな。(弘安4年9月11日『南条殿御返事』全集1578頁)
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「毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか」(3●)と大聖人が登山を強く勧められているのは、「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(4●)の理による。法とは「寿量品の事の三大秘法」(1●)であり「其の体」(2●)は「寿量品に建立する所の本尊」(2●)即「法華経の行者の一身の当体」(1●)である。
すなわち大聖人即本尊であるが故に、その場所に参詣することによって無始以来の罪障が消滅する大功徳があるのである。
B大御本尊は大聖人の御当体、登山参詣は正しい信心の発露
●心に恋慕を懐(いだ)き、仏を渇仰(かつごう)する(法華経『寿量品』434頁)
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私たちにとって仏を恋慕渇仰する信心が大切なのです。90歳の阿仏房が決死の覚悟で身延山に登山したのも、日妙尼が苦労をしながら佐渡の大聖人のもとへ参詣したのも、すべて御本仏大聖人を恋慕渇仰する信心によるものです。現時において、日蓮大聖人は人法一箇の大御本尊として、大石寺奉安堂におわしますのです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』52頁)
◆「かかる不思議なる法華経の行者の住所ならば、いかでか霊山浄土に劣るべき」
と。霊山浄土は大聖人様の御本懐である本門戒壇の大御本尊様のおわす富士大石寺こそ本当の霊山浄土でなくて、どこに霊山浄土がありましょうか(『小樽問答誌』79頁/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』52頁)
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学会が小樽問答で邪宗日蓮宗に対して述べた言葉
●既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則(ときん)ば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ(第26世日寛上人著『寿量品談義』/『富士宗学要集』第10巻131頁)
◆なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。(『戸田城聖全集』第3巻490頁)
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「登山不要」を唱える今の学会は「本物の信心」ではないということだ(笑)
◆富士大石寺の大御本尊を拝まない者はすべて謗法である(『折伏経典』314頁/『創価学会のいうことはこんなに間違っている』240頁)
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あれこれ屁理屈を並べて登山しない(できない)池田学会は、「大御本尊を拝まない者」であるから「すべて謗法」です。
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そちらの海外信徒だって、一生のうちにお目通りせずに亡くなってしまう人もいるじゃないか。
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海外の方々は、お目通りしたくても簡単にはできない状況にあるだけで、行かなくてもいいとか、行きたくないと言っているわけではないのです。
本当に心の中で大御本尊様を求めているのなら、なんとしてもお目通りしたいと願うし、その行動に出るはずです。それがお目通りしなくてもいいというのだから、本当は心でも思っていないということです。仏法は身口意の三業で行なうものです。実際に大御本尊様を拝さないということは、あなたの身はまったく功徳が積めない、ということになりますね。(『慧妙』H17.5.1)
学会員の屁理屈に、登山参詣を拒否することと信ずることとは別物だというものがあります。要するに、「大御本尊は信じているけれど行けない」というものです。しかし、信ずる人は登山参詣しようとしますし、経済的・地理的に登山参詣することが厳しい状況にあっても、その志を登山の代表者に依託(いたく)するという形に現われます。故に、学会員の言う「行けない」とは、そもそもその心根が違うのです。(『大白法』H23.7.1)
創価学会員諸氏よ、登山参詣しない理由はいくらでも作ることができます。しかし、総本山に参詣し大御本尊に御目通り申し上げ、自らの謗法罪障消滅と現当二世の大願成就を祈ることによってのみ成仏が叶うことを知るべきです。(『大白法』H23.7.1)