「登山」「大御本尊」で迷走する池田指導の本音(仮題)

(『大白法』H23.9.1)

 宗門から破門された創価学会にとって、会員の登山参詣の願望と、戒壇の大御本尊への渇仰恋慕の心は、どうしても払拭(ふっしょく)しておかなければならない重要課題でした。
 かつて池田大作は自らの著書などに、総本山参詣を督励する正論を述べていましたが、法華講総講頭資格喪失以降、自らの発言を翻して、総本山参詣を否定せんと奸計(かんけい)を巡らせます。

 まず手始めに、御本尊受持が不要である旨を主張し、その理由付けとして、
◆戸田先生は御本尊のない、"地獄"のごとき牢獄で2年間を過ごされた。そして、あの偉大なる境涯を開かれた(『聖教新聞』H3.12.2)
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等との発言を頻発し、会員らに御本尊受持は不要であると洗脳し始めます。

 しかしこれは会員らに余り浸透せず、業を煮やした池田らは次の策として、「登山は無意味」と喧伝(けんでん)し始めます。
◆インドである方が言われていた。"総本山に参詣しなければ功徳がない"という宗門の主張は、道理からいっても、まったく意味をなさない(同H4.2.29)
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と、場所はインドであるが、どこの国の誰かも全く判らない門外漢の言葉を引用して権威付けし、登山が「無意味」であると強弁し、さらに、池田の本音、真の目的、すなわち御本尊自体を否定するために、
◆曼荼羅それ自体は、物体という側面からいえば永遠不滅ではありえない。(中略)大聖人の仏法の真髄である「久遠元初の法」を根本としてこそ、永遠の妙法流布の道が開ける(同H5.5.5)
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御本尊を劣れる「物体」と定義し、優れたる「久遠元初の法」が「大聖人の仏法の真髄」であると会員を誑惑(おうわく)しました。

 しかし、その一方で次のように、
◆一閻浮提総与の大御本尊が、信仰の根本であることは、少しも変わりはない。しかし、大御本尊に御目通りするために日顕(上人)に供養することは、日顕(上人)の謗法を容認することになる(同H5.11.9)
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と発言しています。
 この言葉の意味するところは、「登山はしたいのだが、日顕上人に御供養したくないから登山しない」ということですから、自ら唱えた「曼荼羅物体論」「登山不要論」を否定しているに等しく、池田の発言が、いかに場当たり的で一貫性に欠けるものであるかを示しています。

 池田の言葉に誑惑され、総本山に参詣しない者は、自分が創価学会に洗脳され、定見のない池田の言葉に翻弄(ほんろう)されていることを自覚すべきであり、今一度、原点に立ち返って考え直すべきなのです。
 『三大秘法抄』に、
●三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下(らいげ)して踏み給ふべき戒壇なり(『三大秘法禀承事』御書1595頁、全集1022頁)
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と仰せられているように、全世界のすべての人々、さらには一切の諸天も来下したもう、一切衆生皆成仏道の根本霊場、それが総本山大石寺なのです。ゆえに日蓮正宗を離れての成仏はありえません。




@信仰の対象は、本門戒壇の大御本尊。大御本尊から離れた家庭の御本尊には功徳なし。
本門戒壇の大御本尊は日蓮正宗の根本であり、各家庭に下付される御本尊は、その根源たる大御本尊の御内証を御法主上人猊下が書写なされたものです。したがって、根源の大御本尊への信心を失って、ただ家庭の御本尊に唱題したところで功徳はないのです。まして、いまや総本山から下付された真正の御本尊ではなく、学会作成の「ニセ本尊」であれば功徳どころか罪障を積むばかりです。(『大白法』H23.7.1)

◆いまのところは、まずまず貧乏と病気です。これを、仏さまがおられてお救いにならないわけがない。われわれの貧乏と苦悩を救わんがために、日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し、遺(のこ)されてある。
 これは、弘安2年の10月12日の大御本尊様のただ1幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです。
 だから、身延や仏立宗や霊友会なんか、いくらがんばっても、御利益がでようがないのです。ありませんから、やってごらんなさい。7年もしたら、どんな顔になるか。いや、いままでやった人の顔をみてごらんなさい。
 ですから、私の願いとするところは、この弘安2年の10月12日の大御本尊様を信ずるということです。しかし、理論がわかっても、わからなくてもいい。だんだん、そのうちにわかる。絶対だということがわかる。この日蓮正宗の哲学ぐらい、きちんとなっているものはないのです。(S30.8.24『戸田城聖全集』第4巻343頁〜)
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「身延や仏立宗や霊友会なんか、いくらがんばっても、御利益がでようがない」とあることから、身延が所持している大聖人の真筆本尊であっても「弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したもの」とはいえず「法脈が切れてますから、絶対だめ」ということが分かる。大聖人の真筆本尊であっても功徳がないのであるから、歴代上人の常住御本尊を勝手にコピーしたものに功徳があるはずがない。

◆電灯にたとえて考えてみると、ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光を発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光が出ないのである(中略)したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である(創価学会発行『折伏教典』339頁/『創価学会「ニセ本尊」破折-100問100答』)
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まして、今日の創価学会では、電球(本尊)までニセ物を作ってしまったのですから、そのニセ物には、光(功徳)の出ることなど絶対にありえません。(『大白法』H23.8.1)



A一切衆生が懺悔・滅罪のために参詣する戒壇
1●戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(『御義口伝』全集760頁)

2●三大秘法其の体如何、答て云く予が己心の大事之に如かず汝が志無二なれば少し之を云わん寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり(中略)戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふみ)給うべき戒壇なり(『三大秘法禀承事』全集1022頁)

3●我が身法華経の行者ならば霊山の教主・釈迦・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化の大士・迹化の大菩薩・梵・釈・竜神・十羅刹女も定めて此の砌におはしますらん、水あれば魚すむ林あれば鳥来る蓬莱山には玉多く摩黎山には栴檀生ず麗水の山には金あり、今此の所も此くの如し仏菩薩の住み給う功徳聚の砌なり、多くの月日を送り読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし、然るを毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか、弥はげむべし・はげむべし。(弘安3年10月8日『四条金吾殿御返事』全集1194頁)

4●其の上此の処は人倫を離れたる山中なり、東西南北を去りて里もなし、かかる・いと心細き幽窟なれども教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所・喉は誕生の処・口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり(中略)彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり、参詣遥かに中絶せり急急に来臨を企つべし、是にて待ち入つて候べし、哀哀申しつくしがたき御志かな・御志かな。(弘安4年9月11日『南条殿御返事』全集1578頁)
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 「毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか」(3●)と大聖人が登山を強く勧められているのは、「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(4●)の理による。法とは「寿量品の事の三大秘法」(1●)であり「其の体」(2●)は「寿量品に建立する所の本尊」(2●)即「法華経の行者の一身の当体」(1●)である。
 すなわち大聖人即本尊であるが故に、その場所に参詣することによって無始以来の罪障が消滅する大功徳があるのである。



B大御本尊は大聖人の御当体、登山参詣は正しい信心の発露
●心に恋慕を懐(いだ)き、仏を渇仰(かつごう)する(法華経『寿量品』434頁)
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私たちにとって仏を恋慕渇仰する信心が大切なのです。90歳の阿仏房が決死の覚悟で身延山に登山したのも、日妙尼が苦労をしながら佐渡の大聖人のもとへ参詣したのも、すべて御本仏大聖人を恋慕渇仰する信心によるものです。現時において、日蓮大聖人は人法一箇の大御本尊として、大石寺奉安堂におわしますのです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』52頁)

◆「かかる不思議なる法華経の行者の住所ならば、いかでか霊山浄土に劣るべき」
と。霊山浄土は大聖人様の御本懐である本門戒壇の大御本尊様のおわす富士大石寺こそ本当の霊山浄土でなくて、どこに霊山浄土がありましょうか(『小樽問答誌』79頁/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』52頁)
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学会が小樽問答で邪宗日蓮宗に対して述べた言葉

●既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則(ときん)ば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ(第26世日寛上人著『寿量品談義』/『富士宗学要集』第10巻131頁)

◆なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。(『戸田城聖全集』第3巻490頁)
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「登山不要」を唱える今の学会は「本物の信心」ではないということだ(笑)

◆富士大石寺の大御本尊を拝まない者はすべて謗法である(『折伏経典』314頁/『創価学会のいうことはこんなに間違っている』240頁)
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あれこれ屁理屈を並べて登山しない(できない)池田学会は、「大御本尊を拝まない者」であるから「すべて謗法」です。


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そちらの海外信徒だって、一生のうちにお目通りせずに亡くなってしまう人もいるじゃないか。
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 海外の方々は、お目通りしたくても簡単にはできない状況にあるだけで、行かなくてもいいとか、行きたくないと言っているわけではないのです。
 本当に心の中で大御本尊様を求めているのなら、なんとしてもお目通りしたいと願うし、その行動に出るはずです。それがお目通りしなくてもいいというのだから、本当は心でも思っていないということです。仏法は身口意の三業で行なうものです。実際に大御本尊様を拝さないということは、あなたの身はまったく功徳が積めない、ということになりますね。(『慧妙』H17.5.1)

学会員の屁理屈に、登山参詣を拒否することと信ずることとは別物だというものがあります。要するに、「大御本尊は信じているけれど行けない」というものです。しかし、信ずる人は登山参詣しようとしますし、経済的・地理的に登山参詣することが厳しい状況にあっても、その志を登山の代表者に依託(いたく)するという形に現われます。故に、学会員の言う「行けない」とは、そもそもその心根が違うのです。(『大白法』H23.7.1)


創価学会員諸氏よ、登山参詣しない理由はいくらでも作ることができます。しかし、総本山に参詣し大御本尊に御目通り申し上げ、自らの謗法罪障消滅と現当二世の大願成就を祈ることによってのみ成仏が叶うことを知るべきです。(『大白法』H23.7.1)