登山否定は大聖人否定!

―破門後に指導を180度変えた池田大作―
―戸田氏は「登山して初めて本物の信心」と―

(『慧妙』H26.7.16)

 6月18日付の『創価新報』に、「登山について」と題して邪義を展開している。
 そこで、登山の正しい意義について申し述べる。
 まず、登山とは、日蓮大聖人の御当体たる本門戒壇の大御本尊と大聖人の後継者たる御法主上人猊下に対する、渇仰恋慕(かつごうれんぼ)の心で、総本山大石寺に登山する―これが今日における登山の本義である。
 日蓮大聖人の御在世当時における登山はどうであったか。御本仏であらせられる大聖人のもとへ参詣し、直々に大聖人に御給仕申し上げ、御指南を頂戴(ちょうだい)するところに、その本義があった。
 それは、大聖人の御当体がそのまま信仰の根源の対象であり、また、大聖人こそ一切衆生を成仏へと導いて下さる本師だからである。
 しかし、私達、大聖人の御在世に生まれあわせることのできなかった御入滅後の末弟・信徒はどうすればよいのか、それは弘安2年の本門戒壇の大御本尊と御法主上人猊下在(ましま)す、総本山大石寺に登山することが大聖人御在世当時と変わらぬ登山の本義にあたるのである。
 かつて、池田大作は登山について、次のように指導していた。
 「我々が登山して、大御本尊を拝することは、そのまま日蓮大聖人様にお目通りすることであり、偉大なる功徳を享受(きょうじゅ)できることは言うまでもないのである。(中略)かかる絶対の大御本尊にお目にかかる登山会であれば、学会の登山会こそ、行事の中の最大の行事として、他のいっさいの行事に優先して行なわれているのである。」(S38.10.1)
 この、「他のいっさいの行事に優先して行なわれ」ねばならないハズの登山は、平成3年以降、池田のまことに勝手な都合により、次のように変わっていった。
 「大聖人の仏法は、御本尊を信ずる『人間』を、一切の差別なく、最極の尊体と見る。全人類に平等の『世界宗教』たるゆえんがここにある。そして、この御本尊は、信仰者の"内"にあると示され、『全く余所(よそ)に求る事なかれ』と仰せである。当然、『どこか』に行かなければ成仏しないというのは大聖人のお教えではない。」(『創価のルネサンス』第1巻P22)
 ここで池田のいう「どこか」が、日蓮正宗総本山大石寺を指すことは論を俟たない。すなわち池田は、"大御本尊まします大石寺に参詣する必要などない"と宣言しているのである。
 しかし、大聖人は『四条金吾殿御返事』に、大聖人のおわします処は三世諸仏の住み給う功徳聚(くどくじゅ)の砌(みぎり)であるとして、
●今此の所も此くの如し。仏菩薩の住み給ふ功徳聚の砌なり。多くの月日を送り、読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし、然るを<毎年度々(たびたび)の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか、弥(いよいよ)はげむべし、はげむべし(御書P1502)
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と仰せであり、また、『南条殿御返事』には
●かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是なり。(中略)此の砌に望まん輩(やから)は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん(御書P1569)
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と、登山により、無始以来の謗法罪障を消滅することができ、福徳が積めることを御指南くださっている。
 そして、大聖人の御当体は弘安2年の本門戒壇の大御本尊であるが故に、大聖人御入滅後は大御本尊在す総本山大石寺へ「たびたび」参詣することが、大功徳を積める登山なのである。
 また『創価新報』では、「学会の登山会が、本山の困窮を救った」などといっているが、学会の登山会を始めた戸田氏の真意は、
◆何といっても、本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉御供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。今後も、できるだけ多くの会員を登山させるよう、計画を立てたいと思っている(『戸田城聖全集』第3巻P490)
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との言葉に明らかなように、不幸な会員を1日も早く福徳あふれる境涯にするために「登山会」を実施させていただいてきたのである。
 しかるを、「本山の困窮を救ってやった」などと、自らの功績であるかのごとく自慢するようでは、かつて積んだ功徳も、すっかり消え失せたであろう。
 我々は、大聖人の御金言のごとく、「毎年度々の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅す」るために登山にはげみ、戒壇の大御本尊を「ただの物」扱いし、大聖人と拝せなくなってしまったかわいそうな学会員を1人でも多く折伏し、戒壇の大御本尊のもとへ登山させなければならない。


▲『新報』(H26.6.18)は登山の意義否定に躍起だが、これは、学会員の大御本尊への思いが失せていないことを証明するもの