意義を違えた観念文(4座)

―大聖人の法華経(本門戒壇の大御本尊)を弘めることが広宣流布―
―ニセ本尊に"怨敵殲滅"祈れば堕獄は必定―

(『慧妙』H26.9.1)

 学会版経本の「広宣流布祈念」のところには
 「広宣流布大願成就と、創価学会万代の興隆を御祈念申し上げます」
とある。だが、「広宣流布」とはいうものの、いったい何を流布していくのであろうか。
 66世日達上人は
 「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提(いちえんぶだい)に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」(『日達上人全集』2輯6巻P295)
と御指南あそばされている。日達上人の仰(おお)せられる「日蓮正宗の教義」とは、あくまでも本門戒壇の大御本尊を根本としていくことであるが、学会にはその根本がない。学会が唱える題目にしても、それは日蓮宗各派と何ら変わりのない、体のない題目なのである。
 さらに、学会のいう「広宣流布」は、どこに広がっていくのかも書いていないし、「大願成就」という言葉の意味もあまり理解していないようである。
 これに対し、当宗の観念文には、明確に「一天四海本因妙広宣流布大願成就」と示されている。
 「一天四海」とは、簡単にいえば全世界ということであるが、仏教の世界観では東弗婆提(ほつばだい)・西瞿耶尼(くやに)・南閻浮提提(えんぶだい)・北鬱単越(うつたんのつ)の4州を四天下、または一天といい、東西南北の四方の大鹹海(だいかんかい)を四海という。この一天四海で、日月の照らすところの世界全体を表わすのである。私達の生活する世の中は、この中の南閻浮提であるから、「一天四海本因妙広宣流布」とは、この地球の一切衆生を超え、太陽系全体のありとあらゆる生命体に対する妙法による救済を表わしているのである。
 次に「大願成就」とは何かといえば、大聖人は、はっきりと
 「大願とは法華弘通なり」(御書P1749)
とお示しである。すなわち、大聖人の法華経(その実体は本門戒壇の大御本尊)を全世界に弘めることである、と知るべきであろう。
 学会の祈念文には、さらに続けて「創価学会初代、2代、3代の会長を広布の指導者と仰ぎ、その死身弘法の御徳に報恩感謝申し上げます」などとしている。広宣流布祈念とつなげて学会の会長を祈念するとは、とても考えられない。しかも、これを第3代会長の存命中に定めたのであるから、池田大作という人は、なんと傲慢(ごうまん)な人であろうか。
 要は、広宣流布するには学会の3代会長がいなくてはいけない、と印象づけたいのだろう。
 ともあれ、学会で対境とする本尊は、正当な大石寺の本門戒壇の大御本尊から離れた、独自の本尊であり、魔の塊(かたまり)である。そこに祈念をして、本当に叶(かな)うと思っているのだろうか。
 さらには、「種々の祈念」とあるところで、特定の人の不幸を願うようなことを祈らせる(殲滅日顕〈上人〉というような呪〈のろ〉いの祈祷〈きとう〉をする)のであるから、他の邪宗教の方がまだ健全といえる。邪宗でもそんな呪いの祈祷はしないだろうから。
 魔札ともいうべきニセ本尊に向かって、中身のない「広宣流布祈念」や、傲慢の塊のような「3代会長祈念」、あげくは敵対者に対する呪術的祈念を行なうのが学会の祈念であり、会員を地獄へ誘(いざな)う行為となるのは必定(ひつじょう)である。


▲広宣流布祈念として3代会長に報恩謝徳!?何たる傲慢!