顕正会のいう「御遺命破壊」の疑難を破す

浅井による法義上の疑難はすでに悉く崩壊

苦肉の策は「言った、言わない」の低俗議論

正本堂を「御遺命破壊」とするロジックの誤り

(『慧妙』R1.7.16a

 

【浅井が妙観講との法論を逃げる理由】

 顕正会がこれまで主張してきた「国立戒壇論」「天母山築壇説」「事の戒壇論」といった法義上の疑難については、ここ30余年間の法義論争のごく初期において、悉(ことごと)く破折され崩壊してしまっている。

 そのことは、顕正会員が気付いていなくとも、首魁(しゅかい)の浅井昭衛自身は誰よりも分かっていよう。それ故、いくら「臆病」と叩かれ、「逃げるな」と責められても、浅井自身は絶対に妙観講との法論に立つことができないのである(浅井の法義上の疑難が悉〔ことごと〕く崩壊していることについては、近く暁鐘編集室から発行される『顕正会破折講習会テキスト』と同『資料集』を見ても一目瞭然である)

 さて、法義的に破綻(はたん)してしまっている浅井が、無智の会員に教え込んでいるのが、「正本堂建立は大聖人の御遺命を破壊するもので、この御遺命破壊に宗門も加担した」との主張を柱とした、低レベルな「言った、言わない」の議論である。

 低レベルとはいえ、この妄説に誑(たぶら)かされて顕正会を正義であると思い込んでいる会員が多いので、労を厭(いと)わず、ここに破折を加えておくことにする。

 

 

【正本堂建立が計画された当時の情勢】

 まず、問題となる「正本堂建立」当時の、内外の状況から見ていこう。

 正本堂建立の計画が持ち上がった当時は、創価学会2代会長・戸田城聖氏の号令で始まった"折伏大行進"路線により、学会の布教が爆発的に進んでいた。そのおよその数を見ると、昭和35年に公称170万世帯であったものが、翌36年には230万、37年には300万、38年には400万、39年には500万と、年々に拡大し、すでに日本最大の宗教法人に成り上がっていた。

 そして、このまま計画どおりに教線が拡大すれば、遠からずして1千万世帯(当時の日本の世帯数の3分の1)を超え、広宣流布も達成されるであろう、との期待が宗内で高まっている状況だったのである。

 こうした背景の上に、昭和39年、池田大作から「7年後までに正本堂を建立寄進したい」との発表がなされ、翌40年2月には、正本堂建設委員会が発足。

 宗内には、正本堂が完成する頃には確実に広宣流布が達成されているだろう、との期待が、いっそう具体性をもって拡がっていった。

 

 

【浅井も「すでに広宣流布の時」と発表!

 それ故、当時の様々な発表・発言の中には、日達上人の

 「今や広宣流布」

 「正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合(みょうごう)して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」

との期待の御言葉や、学会主導で作成した御供養趣意書の中の

 「正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成である」

との文言、さらには、これらと同趣旨の浅井昭衛の

 「すでに広宣流布の時は来ております(『冨士』S40.9)

 「いよいよ意義重大なる正本堂が建立される事になります。戒旦の大御本尊様が奉安殿よりお出まし遊ばされ()いよいよ大衆の中に人類の中にその御姿を徐々におあらわしになる(『冨士』S40.7)

などの発言も見られたのである。

 

 

【正本堂以前の言葉は全て未来への期待】

 現今の顕正会員は、当時の日達上人・宗門高僧・池田大作等の発言を取り上げて、

 「広宣流布が達成されていないのに、正本堂を御遺命の戒壇である、と言っているではないか。これが御遺命破壊だと認めろ!

などと声を荒げる。

 だが、ここで「どれどれなどといって、一々の発言や発表の文言の確認に入ってしまうと、顕正会の謀(たばか)りに嵌()まることになるから、気をつけなくてはいけない。

 つまり、当時の諸々の発表は、どこまで行っても、正本堂が完成した暁(あかつき)には広宣流布が達成されているであろう、との前提の上で述べられた、将来への期待の文言に他ならぬのであって、「現時点ですでに広宣流布が達成されてしまった」というような、事実を曲げての決定ではないのである。

 実際に、正本堂建立の時点で広宣流布が達成されているか否か、すなわち正本堂が大聖人御遺命の戒壇となるか否かは、正本堂が完成した時点の情勢によって決まる(むろん、それを御覧になって判断するのは時の御法主上人である)―それが当然の道理である。

 

 

【「御遺命破壊」と言われる筋合いはない】

 しかして、いよいよ正本堂が完成するという半年前の昭和47年4月28日、日達上人は宗門の公式決定を発布する「訓諭(くんゆ)」において、最終的に

 「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」

すなわち、いまだ謗法者が多い故に広宣流布は達成されていない、正本堂は広宣流布が成されれば御遺命の戒壇となるだろうが、今はまだその時ではないから大御本尊も秘蔵のままで公開しない、と決せられた。

 これが、正本堂の意義についての、日蓮正宗としての公式決定である。

 以来、日蓮正宗においては、未来広布と本門寺戒壇の実現を目指し、折伏弘教を進めていくべきことが督励されてきたのであった。ここに「御遺命破壊」などと言われる筋合いは全くない。

 それでも、昭和47年以前の、未来を期待しての発言や発表を取り挙げて、「広宣流布と偽った」だとか「正本堂を御遺命の戒壇だと謀(たばか)った」などと言いたいなら、前掲の浅井昭衛の発表をどう言い訳するのか!?浅井自身、"すでに広宣流布の時"と言い、"正本堂にて戒壇の大御本尊が人類の前に公開される(すなわち広宣流布の暁の戒壇、の意)"と述べているではないか。顕正会よ、これも「御遺命破壊」と言うか。

 自家撞着(じかどうちゃく)とはこのことである。

 

 

【近ごろ持ち出す「言った、言わない」論も】

 なおまた、「言った、言わない」の議論で顕正会が出してくる内容としては、これ以外に、「大聖人の御金書や昭和39年以前の御歴代上人の言葉と、現在の宗門の指導に違っている点があったら、日蓮正宗を辞めると誓約できるか!?」というものがある。

 これとて、日達上人が

 「浅井らは何ら教義上の反駁(はんばく)もなく、ただ先師がどうの、私が昔云()ったのというだけであります。私は、昔云ったことはあるが今は云わない、と言っているのであります」(S50.7.5)

 「元来、国立戒壇ということは、宗祖大聖人も2祖日興上人も、また日目上人も、そういうことはおっしゃっておらないのだから、元へ帰れば国立戒壇という言葉は、これは無くすべきである」(S47.6.1)

と仰せのように、血脈付法の御歴代上人は、まさに随縁真如の智によって時に応じた御指南をなさるのであり、その表現の違いを云々(うんぬん)しているかぎり仏法は解らない。 そもそも顕正会が固執する「国立戒壇」についても、昭和2年以降の4上人が一時的にお使いになった語で、それ以前の上人方の御教示中には片鱗(へんりん)も見られないのだから。

 よつて、このような誓約は、顕正会側にとっても無茶な注文という以外ない。それがわからない、というなら、「過去の浅井昭衛の指導や顕正会機関紙誌の発表と、現在の指導・発表とに食い違いがあったら、顕正会を脱会すると誓約できるか!?」と詰めれば、いくら鈍い顕正会教学部でも気がつくであろう(浅井顕正会の昔と今の指導が自語相違していることは、暁鐘編集室発行の『大石寺の名を詐称する顕正会の悪義を破す』や、近日発行の『破折講習会テキスト』および『資料集』に詳しい)

 およそ以上のような、低レベルの「言った、言わない」論を振り回す顕正会員であるが、一切衆生救済と破邪顕正を掲げる我等は、粘り強い信心と唱題を根本に、いよいよ顕正会折伏に精進してまいりたいものである。