ついに顕正会教学部の謀(たばか)りが破綻(はたん)!

誹謗する正本堂で御開扉を願った浅井

(東京都小平市・広説寺法華講副講頭 中田紀一『慧妙』R1.8.1a

 

 かねて私共との間で論争を続けてきた顕正会"お笑い教学部"の3人(伊東信昭、浅野恭浩の両副教学部長、桑原崇史・教学部委員)による謀(たばか)りが、とうとう破綻(はたん)した。

 顕正会による「御遺命違背の難癖」は、既報のとおり、「言った、言わない」の低レベルの妄説だが、それにお付き合いして、私は去る6月22日、彼らに対して、

 「ならば、なぜ浅井は昭和48年、49年の2度にわたり、"ニセ戒壇"と誹謗(ひぼう)する正本堂での御開扉を日達上人に懇願したのか?その証拠があれば脱会しろ」

と迫り、顕正会の機関紙『冨士』(S50.5)に記載された「(48年5月11日)御登山願いを宗務院に提出」「(49年4月8日)御登山について宗務院の意向確認の書状送附」の文言、また早瀬総監宛に浅井が出した書状(49年4月8日付)を証拠として提示した。

 しかし、"拡声器"を使って怒声を上げる興奮状態の3人は、「理解できない」「48年の方は御開扉願いだが、49年の方はそれについての確認の書状であって、2度にわたって御開扉を願ったわけではない」などと言い逃れ。さらに「御登山を懇願した、願い出た、という文証が出せなかったら脱講しろ」などと虚勢を張った。

 そこで私は、7月1日、彼らに「破折文書」を送付。浅井昭衛自身が「49年4月、宗務院に御登山願いを出した」(『顕正新聞』309号・S59.8.15)と公言した文証、また、書状を受け取った早瀬総監・宗門側も「昭和49年4月9日、再び文書をもって、登山させるように申し入れ」(『大日蓮』346号・S49.12号「元妙信講等処分の経過について」)との見解であったことも添えた。つまり、双方が当時、「49年にも正本堂での御開扉の願い出があった」と認識していた明らかな証拠だ。

 

 

"お笑い教学部"の笑撃(しょうげき)の駄文】

「願を出すと懇願は違う」!?―

 この決定的な証拠をもって、私は「望みどおり、浅井自身の『御登山を願い出た』という文言も提示した。さっそく脱会してもらおう」と迫った。

 すると、浅野らは、私の携帯電話や広説寺にしつこく電話をかけて挑発を始めた。だが、どうせ電話で話せば、一方的に自説を述べて勝ち名乗りを上げるであろう、彼らのヤリ口はミエミエなので、私は「書面で回答せよ」と突き放した。

 すると、7月17日、面目を保つために浅野が仕方なく駄文を送ってきたが、その内容たるや、まさに"お笑い教学部"の面目躍如。いわく、

【「御登山願いを出した」けれど「懇願した」とは記されていない】

【「御登山願を出す」と「懇願」は全く意味合いが異なる】

(浅井先生は)むしろ御登山を辞退され、諌暁に立たれた】

【中田は「懇願」の文証を出せなかったのだから、約束どおり、脱講届を出せ】云々。

 もはや、頭破七分を絵に描いたような迷答ぶり。「宗務院に『御登山願い』を出しただけで、登山の『懇願』ではない」などと、子供騙しの言い逃がれもいい加減にしろ、と言いたい。

 しかも、「(浅井先生は)御登山を辞退」などと強がるが、実際は、日達上人に御開扉を許されなかったのである。

 ともあれ、浅野は、昭和48年のみならず49年も「正本堂での御開扉を願い出た」ことについては、ついに認めるに至った。

 駄文では、苦し紛れの難癖を書き連ねているが、その"ニセ戒壇"と謗ずる正本堂での御開扉を願った矛盾を、どう説明するのか。

 ただし、前もってことわっておくが、「『聖教新聞』(S47.10.3)の「正本堂は御遺命の戒壇ではない」との掲載文によって「国立戒壇が蘇ったから」、などという謀(たばか)りは通用しない。なぜなら、日達上人は「国立戒壇の名称の不使用」(S45.5.3)を1度も覆(くつがえ)されていないからだ。

 ここまで立証されたのだから、"お笑い教挙部トリオ"は潔く脱会して、日蓮正宗に帰伏し、これまでの謗法の数々を御戒壇様にお詫びしたまえ。

 

 

【偽造本尊は公然の秘密!?

顕正会は頬かむりをやめよ

 なお、最後に、顕正会の決定的大謗法について糾(ただ)しておく。

 本門戒壇の大御本尊は、歴代の御法主上人が大聖人より御付嘱あそばされている。そして、大御本尊の御内証を、血脈相伝の上から書写し奉る御本尊の大事について、『本因妙抄』や『御本尊七箇之相承』には「唯授一人の血脈」「唯授一人の秘伝」と仰せである。しかるに、この御本尊の大事を恣(ほしいまま)にしているのが、他ならぬ浅井昭衛なのである。

 まず第1に、妙縁寺から纂奪(さんだつ)したとされる本宗の御本尊を、門外漢の浅井が勝手に下附してよい、という御金言があるなら示してみよ。

 第2に、会館用に見栄えを求めて拡大偽造したであろう日布上人の御形木御本尊を、どう説明するのか。御本尊を浅井が勝手に作ってよい、という文証を出してみよ。

 すでに会内では、偽造本尊が公然の秘密のようだ。「ニセ本尊だろうが功徳があればいい」「御本尊を印刷して何が悪い」と嘯(うそぶ)く者もいる。

 無知な会員でも、「偽造」と認めざるを得ないのも無理はない。大正時代に下附された御本尊が、新品と見紛(みまが)うばかりに真っ白で不自然だからだ。

 顕正会教学部よ、この問題について頬(ほお)かむりを続けるならば、偽造本尊の作成を認めたことになるぞ。

 顕正会員たちよ、「御遺命ゴッコ」に一生を費やして謗法に謗法を重ね、無量劫の地獄に堕ちることはない。「浅井先生には深いお考えがある」とか「軽々に口にしてはいけない」などと盲従せずに、浅井の邪義と出まかせに正面から向ぎ合いたまえ。

 諸兄らが一日も早く正法に帰伏することを願うものである。

 

[画像]:昭和494月に顕正会が御登山を申請していた事実は、本部幹部会において、浅井昭衛が自ら明言。それは『顕正新聞』(昭和59815日付)にしっかり掲載されていた!