「不敬の御開扉」なる前代未聞の邪説

御開扉受けられぬ会員を欺くための大暴論

そもそも浅井はかつて何度も御開扉を切望

(『慧妙』R2.3.1c

 

 平成十二年、正本堂解体が進んでいる最中、浅井昭衛は、「不敬冒涜(ぼうとく)の御開扉を中止し、近き広布の日まで秘蔵厳護」すべき(『顕正新聞』平成十二年三月五日号)などと述べ、突如として「御開扉」を否定するという暴挙に出た。以降、「御開扉料稼(かせ)ぎ」「金儲(もう)け」などと、御開扉否定路線を継続している。

 

<浅井昭衛の『諌告書』>

()本門戒壇の大御本尊は、広布の日まで秘蔵すべき秘仏にてまします

 謹んで惟(おも)うに、本門戒壇の大御本尊は、御本仏日蓮大聖人の出世の御本懐にして、この大御本尊こそ唯授一人・法体付嘱の正体と拝承するところである。

 ゆえに大聖人は、この大御本尊を二祖日興上人に密かに付嘱し給い、広布の暁(あかつき)の国立戒壇に安置すべき旨を遺命あそばされた。

 この御遺命を奉じて、日興上人は大御本尊を堅く秘蔵され、もっぱら広宣流布・国立戒壇建立をめざして、大規模なる死身弘法を全国に展開し給うたのである。

 したがって日興上人・日目上人の上代には、今日のいわゆる御開扉などは、あり得べくもなかった。このことは、近年の大学匠・第五十九世日亨上人の次の仰(おお)せにも明らかである。

 「未来勅建国立戒壇のために、とくに硬質の楠樹をえらんで、大きく四尺七寸に大聖が書き残されたのが、いまの本門戒壇大御本尊であり、(中略)開山上人は、これを弘安二年に密付せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代からか、遠き広布を待ちかねて、特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついには今日のごとき常例になったのは、もったいない事であるから、四十余年前には、有名な某居士が懇願して月一回という事にもなった事があったが、永続しなかった。開山上人より三祖日目上人への冨士総跡の御譲り状にも『日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊』として、戒壇本尊とは書かれなかったのは、大いにこの味わいがある」(冨士日興上人詳伝)と。

 この仰せを拝見すれば、日興上人・日目上人の上代には、御開扉など全くなかったことは明らかである。

 そしていつの時代からか、「遠き広布を待ちかねて」の「内拝」が行われるようになったという。しかしこの内拝は強信者にのみ特別許されたものであるから、まだ許される辺もあろう。しかし大正時代になって、内拝が安易に流れていることに恐れ多さを感じた「有名な某居士」荒木清勇居士と思われるが、せめて「月一回」に、と懇願したという。

 これを見ても、戒壇の大御本尊が本来秘蔵し奉るべき秘仏であられることは分明である。

 まして今日宗門が強行している「御開扉」なるものは、中古に始まった「遠き広布を待ちかねて」の内拝もなければ、荒木清勇居士が憂(うれ)えた大正時代のそれでもない。まさしく今日の「御開扉」こそ、大御本尊に対し奉る許されざる冒涜であり、危害を招くものであれば、速かに上代に立ち還って秘蔵し奉らなくてはいけない〉(当該文書)

 

 

【過去の浅井親子発言】

 「私共の思いには、御開扉を許す許さぬは、昔より血脈の御一人の為されるところにして、一般僧侶すら口にする所ではない(『試練と忍従の歴史』〇頁)

 

 「およそ総本山大石寺に秘蔵し奉る『本門戒壇の大御本尊』は、御本仏日蓮大聖人の御法魂にてまします。一分の信心あらん大石寺の信徒が、どうして御内拝を願わぬことがあろうか(『試練と忍従の歴史』八頁)

 

 「以来、妙信講は総本山の御会式に参詣も叶わず、正月登山も出来ずにおります。およそ御開扉を断絶される事は、正宗信徒として『死ね』と云うことであります(『試練と忍従の歴史』三六頁)

 

 正本堂建立の翌年である昭和四十八年に、「御遷座の翌年五月、妙信講は久々

の御登山を総本山に願い出た」(『日蓮大聖人の仏法』四〇八頁)とあるとおり、「(※彼らのいう)誑惑(おうわく)が顕著になった」後も、妙信講は御開扉を願い出ている。

 

 平成三年には、「顕正会も、御遺命守護の御奉公のゆえに登山を妨害されてすでに歳久しい。しかしこの重大な御奉公を命かけて成し遂げたとき、必ず大聖人様の御意に叶って登山が叶うことを、私は確信しております。その時こそ、全顕正会員ともに手を携(たずさ)え、晴れて、涙の中に、戒壇の大御本尊様にお目通りをさせて頂こうではありませんか(大拍手)(『「学会・宗門」抗争の根本原因』四五一頁)と、御開扉の意義を述べた上で、「御遺命守護」が完結すれば全会員で「大御本尊様にお目通り」、つまり御開扉に行こうと発言している。

 

 

顕正会が根拠とする文証

 「開山上人は、これを弘安二年に密附せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代(中古か)からか、遠き広布を待ちかねて特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついには今日のごとき常例となったのは、もったいない事である」(『富士日興上人詳伝』二七七頁)

 

 日亨上人は、今日のように、文明が進み、平和な時代を迎え、多くの信徒が登山し、御開扉が日常的に行われるようになり、戒壇の大御本尊を眼前に拝し奉ることに対してい「もったいない事」と仰せになっただけであり、「『御開扉』こそ大御本尊に対し奉る許されざる冒涜」などとは、悪意の曲解でしかない。

 

 浅井は、日亨上人の内容を教条主義的な解釈に誘引して指導し、「御開扉は本当は広布の暁に許されるものである。ただし篤信(とくしん)の信者にのみは特別に許される」という旨の内容を何度も指導しているようである。

 その上で「法華講の登山は数集め・金儲けであり、広宣流布の熱意もない上に御遺命に違背している。さらには昨今の時代ではどんな不審者が戒壇の大御本尊に危害を加えるかわからない。ましてや大地震の恐れもある。その状態で登山など不敬千万」という認識を会員に抱かせている。

 しかしながら、事実として浅井は、妙信講時代に何度も登山し、正本堂建立後にも二度、御開扉を願い出ており、このこと自体、彼らの主張からすれば「偽戒壇の正本堂に浅井会長は不敬の御開扉を願い出た」、という事になる。

 そして会員にも「御遺命守護が完結すれば顕正会は宗門に復帰できる。その暁には全会員で登山して御開扉を受けよう」と推奨(すいしょう)し、会員を欺(あざむ)いてきたのである。

 しかし、正本堂解体の発表を「不思議の還御(かんぎょ)」と言って大騒ぎした「御遺命守護完結」の後も、浅井の公約は果たされることなどなく、依然として顕正会員が御開扉を受ける立場になることはなかった。

 そこで浅井は、慌(あわ)てて邪智を巡らし、思いついたのが「不敬の御開扉は受けるべきではない」との前代未聞の邪義、「御開扉不要論」なのである。

 これは、御開扉が叶わない顕正会員を納得させるための「ごまかし」に過ぎない。と同時に、宗門上古より総本山にて行なわれてきた御開扉の意義と歴史を冒涜する大謗法である。

 

 第二十六世日寛上人の『寿量品談義』には 「未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖(いえど)も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。共の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則(とき)は本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ(富要集十巻一三一頁)

と。日寛上人は、ここに「登山参詣して戒壇の大御本尊を拝しなさい」と仰せである。

 この一文をもって明らかなように、いかに詭弁(きべん)を用いようと、御開扉不要論は古来からの宗旨信条に背(そむ)く暴論である。