大坊棟札は後世の贋作

 

浅井会長の主張

◆「霊山浄土に似たらん最勝の地」とは、場所についての御指示である。ここには地名の特定が略されているが、日興上人への御付嘱状を拝見すれば「富士山」たることは言を俟だない。

 そして日興上人は広漠たる富士山麓の中には、南麓の「天生原」を戒壇建立の地と定めておられる。天生原は大石寺の東方四キロに位置する眈々たる勝地である。

 ゆえに日興上人の「大石寺大坊棟札」には

 「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」

と記され、この相伝にもとずいて第二十六世・日寛上人は

 「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。御相承を引いて云く『日蓮一期の弘法乃至国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』と云々」(報恩抄文段)とお示し下されている。(『最後に申すべき事』浅井昭衛)

 

 

 顕正会が「大聖人の御遺命は天生原に戒壇を建立」と日興上人による御指南があると主張するのが、大坊棟札の裏書である。しかし、この大坊棟札の裏書は、江戸時代に造られたものと日達上人は判定している。

 

 

 

 

 

 日達上人御指南

それから、その次に、大石寺棟札の裏書きというのが出てきます。これは正応四年となってます。表は御本尊様で、これは論ずることはやめます。

 「本門戒壇之霊場日興日目等代々加修理丑寅之勤行無怠慢可待広宣流布、国主被立此法時者当国於天母原三堂并六万坊可為造営者也。」

と、こうありますね。「自正応二年至三年成功 正応四年三月十二日」と、こうなっている。そのこっちにまた、

 「駿河国富士上野郷内大石原一宇草創以地名号大石寺 領主南条修理太夫平時光渋号大行之寄附也」こうなってますね。これが一番古い書物に出てるということに言われるんですが、これもちょっと考えなければいけない。

 これは第一、丑寅勤行について、「日興跡条々事」に、「大石の寺は御堂と云い墓所と云い日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり」( 法主全書1一九六) とありますね。それと同じようだけれど非常にイメージが違ってます。「日興跡条々事」は元徳二年でしょう。これよりも約四十年も前にこれがったということになる。おかしいです。とにかくまた書く字もおかしいですね。この日興という字もおかしいでしょ。

 日興上人は「日」とこうお書きになっているんですね。ところがこれにはもう一つ多い、一つ二つ三つ四つ五つ「日」とこうなっている。そういうところがおかしいし、また、「日興日目等」というこの文句が少しおかしいですね。もしお書きになるなら、自分が書くんだから、「日目」でいいんですよ。今の譲状と同しことです。

 「御堂と云い墓所と云い日目之れを管領し」だから、「日目等代々加修理」というのなら分かるけれども、自分の名前を「日興日目」と書く必要はない。

  それから丑寅ですね。昔は丑寅とはっきり書いたものです。これには「丑とら」と書してある。こ牡が徳川時代の特長。字もよく見かけ、お家流といいますか、非常に字がなだらかに書かねている。日興上人の字とは見られない。だから、それからいくと、この「当国」これもどうも信用できない。もし、大石寺が正応三年十月十三日に完成したのならその時に棟札を入れるわけでしょ。それから半年も後の正応四年三月十二日、これもちょっとおかしくなってきますわ。

  それよりもっとおかしいのはこれです。「駿河国富士上野郷内大石原一宇草創以地名号大石寺」これはいいです。「領主南条修理大夫」南条さんが修理大夫という名称をいつもらったのか、おかしいですね。それから「法号大行」これは法号となっている。もし、この時にそういう法号があったならば、南条さんはこの時三十三歳、三十三歳で法号大行なんていただくのはちょっと早すぎますね。

  「寄附也」これもおかしい。鎌倉時代なら「寄進」と使うわけですね。「寄進状と」か「寄進」、これは「寄附」となっている。この点も変です。

  今、この修理太夫ということは、よく調べれば、それは大昔からあるんですね。修理太夫という名称は、群書類従に出てきます。群書類従に寛平年間( 寛平四年、八九二) ですから、この時代から四百年、五百年も前に、在原友子が修理太夫をもらっている。

  この時代では、南条さんの主人筋の北条さん、北条執権第十五代の北条貞顕ですら修理権太夫であったのですね。それを家来すじの南条さん、が修理太夫というのはおかしい話です。

  修理というのはお城を修繕する役、太夫はその長官。だから、まあ、この時分にはただ名称だけになったかも知れないけれど、それにしてもその長官という名前をもらうことはおかしいし、また、現にその時代の北条時政の子時房ですら修理権太夫となっている。

  「権」の字がついておる。そういう点からいっても、これは後から出来たものと思うのである。御伝上代ですら南条次郎左衛門時光、左衛門です。修理太夫という名前じゃない。父は南条七郎兵衛ということになってますね。

  その南条左衛門時光という名前は延慶年間でも南条左衛門時光となっていて大行などとは言っておりません。

  南条修理太夫という名前はとこから出たかというと、私がちょっと調べたところが、大石寺明細誌に出てきてますね。大石寺明細誌はずっと新しいですね。文政六年、日量上人がお書きになった「内石寺明細誌」に「同二年己丑春南条七郎修理太夫平時光の請に応じて駿州富士郡上野鄙に移る、今の下之坊なり」( 富要五-三二一)と、

これは大石寺明細誌です。さきほどの明細誌はいつかという問題はこれがいちばん古いんでしょ。日量上人の文政六年i一八二三)だからずっと後のこと、徳川時代でもずっと後、今から百五十年前くらいにできております。だからそれからみると、あるいはもう少し古いというかも知れないけれど、とにかく徳川中期以後にこれが出来たと思います。

だから、ここにあるところの「天母原三代并六万坊」という言葉は昔からあるもんじゃない。もっと後のものだということがわかります。

  それから、法号大行という名前ですわ。法号大行という名前はもっとずっとおそいですね。こんな正応四年の時分にはなかった。正和五年に初めて時光が大行といってます。正和五年の南条さんの譲状に「沙弥大行」という名前が初めて出てきてます。だからずっとおそいことです。だからこの六万坊という話は背のものではないということがわかるのであります。その時は南条さんは五十八歳ですかね、正和の時は。少なくとも五十四歳か五十八歳です。五十いくつかにならなければ自分の法号なんかもらうわけもないし、また、自分でつけるわけもない。

  それから、堀猊下もこれを論じておりました。私はこの文章から言いますけれど、堀猊下はこの字体から言っております。「この小本尊を模刻して薄き松板に裏に御家流のやや豊かなるふうにて薬研彫りにせるも文句は全く棟札の例にあらず。また、表面の本尊も略の本尊式なるのみにて、又棟札の意味なし、ただ頭を角に切りて縁をつけたることのみ棟札らし」、このお家流というのは、すなわち徳川時代という意味です。「石田博士も余と同意見なり」、石田博士というのは石田茂作さんのことです。石田茂作博士も同意見だ、徳川時代のものと、こうはっきり書いております。だからこれは信用することはないと。

(『日達上人全集』第二輯 第五巻 )

 

まず、顕正会で天母山戒壇を主張する根拠たる「大坊棟札」が後世の偽作であることは、 堀日亨上人がつぎのように御指南されています(<顕正会から日蓮正宗法華講へ移ったブログ!http://blog.livedoor.jp/no_sleep502/archives/17066392.html

 

此小本尊ヲ摸刻(薄肉彫)シテ薄キ松板ニ裏ニ御家流ノ稍豊ナル風ニテ薬研彫ニセルモ文句ハ全ク棟札ノ例ニアラス。

 又表面ノ本尊モ略之本尊式ナルノミニテ、又棟札ノ意味ナシ。唯頭ヲニ切リテ縁ヲツケタルコトノミ棟札ラシ。

 石田博士モ予ト同意見ナリ。徳川時代ノモノ(日亨上人御筆記)

---------------------------

このようにこの棟札について、日亨上人は日興上人の御筆ではなく徳川時代の偽作と断定されております

 さらに日達上人は偽作の根拠を10点も挙げておられます

〇丑寅勤行についての記述が『日興跡条々事』よりも四十年も前にあるのはおかしい

〇日興上人の御署名の「興」の字体がおかしい。その後の花押(御判)もない。

〇日興上人から日目上人に対する文句なのに、「日興日目等」とあるのはおかしい。「日目」だけでよい

〇「丑寅」を「丑とら」と書くのは徳川時代の特徴である

〇「当国」との記述も信用できない

〇棟札の日付は、棟札というからには大石寺大坊の上棟の時に入れるはずなのに、大石寺建立の半年後(正応四年三月十二日)になっている

〇南条時光の「領主南条修理太夫」という名称はおかしい。日量上人の文政六年(一八二三)の『大石寺明細誌』に出てくるから徳川中期以後のものであろう

〇三十三歳の時光に「法号大行」というのは時期が早すぎる

〇「寄付」とあるが、鎌倉時代は「寄進」を使う

〇文字の書体が、棟札の日付より7年後に生誕した尊円法親王の書風がさらに江戸時代に変化した、御家流である。

---------------------------

 以上10点もの根拠を挙げられているいじょうは、偽作で間違いないですね(同上)

 

 ただし、ここで、顕正会員を破折するにおいて大事なことは、わざわざ御二人が大坊棟札を否定したということは、「肯定されていた時代もあった」ということ。

 つまりは、「天母山に御遺命の戒壇が立つと、思われていた時代が確かにあった」ということ。

 もっと言えば、「天生原イコール天母山思われていた時代もあった」ということだと思います

 これは、堀日亨上人が富士日興上人詳伝268ページ(文庫本下巻P46)において、

 「ことに空談にもせよ、天生が原の寸地にいかに重畳しても、摩天楼にしても六万の坊舎が建設せらるべきや。

と仰せのように、「天生原(天生が原)」を「寸地」(狭い場所)と仰せられていることから想像できますね

 いちおうこれを考慮しておかなければ、法門に詳しい顕正会員には反論されていまうかもしれません

 しかしやはり、「百聞は一見にしかず」です。天母山にはほんのわずかな面積の平地しかありません。全世界の人々が参詣する大きな御遺命の戒壇も、六万の坊舎も、建てられる面積はありません。自分は実際に行ってみました

 過去の文証であれこれ争ってみても、 実際に広い平地がなければ、全世界の人々が参詣に来る、大きな建物が作れるわけがないですよね。

 ちなみに「六万の坊舎」を、「六万の寺ではなく、たくさんの寺という意味だ」と主張する人もいましたが、あの天母山の敷地で建てられるのはせいぜい3(駐車場、遊具施設がある広場、天母山法華道場)のお寺ですね。顕正会員さんもぜひ、天母山に行ってみてください。天母山は御遺命の戒壇が立つ場所ではないとわかるでしょう(同上)

 

/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_

日寛上人が「天生原に戒壇建立」という旨の御指南をされたとしても(要確認!)、天生原=天母原(天母山)という意味ではない可能性がある。だからこそ日達上人は「天生原とは大石が原」と御指南された。実際、日寛上人は「本門戒壇は大石寺」と御指南(要確認!)されている

 

大聖人や日興上人、日興上人の弟子(『門徒存知事』)は戒壇建立の地を「富士」と仰せである。もし、天母山が日興上人のお考えであったならば、「富士」ではなく「天母山」と公言されていたはずである。隠す必要がない。