大草一党の痴論を破し、宗門の御遺命違背を糾弾す(副教学部長 藤村雄大『顕正新聞』R3.3.25を糾弾す

 

 「『宗門の御遺命違背』に対する5つの糾弾」(顕正新聞25日号)が、よほど痛かったのであろう。

 宗門の謀略紙「慧妙」31日号に、大草一党が苦し紛れの弁明を掲載した。他に書くべき記事がないためか、第1面から2面の終りにかけて実に長々と書いてある。

 その内容は、大別すると、昭和42年の宗門高僧らの発言についての弁明と、正本堂訓諭についての弁明の2つである。

 しかし、お約束ともいうべきか、今回も極めてレベルの低い駄文であった。

 本稿では、大草一党が構える痴論を重ねて破し、もって宗門の御遺命違背の大罪を改めて糾弾する。

 

 

 

[第一 昭和42年の高僧発言について]

 まず宗門高僧らの御遺命違背の発言を確認しておく。

 宗門高僧らは、昭和42年の正本堂発願式において、偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」であると断定・讃嘆した。

 一例を挙げれば、当時宗会議長であった佐藤慈英は、「この正本堂建立こそは、三大秘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼荼羅をもって本堂の正本尊となすべきなり』と御遺命遊ばされた大御本尊を御安置申し上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座居ます」と述べている。

 このように、三大秘法抄にお定めの条件を無視した偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と断定する発言が、大聖人の御遺命に背き奉るものであることは明らかである。そして、宗門は、かかる高僧らの発言を機関誌「大日蓮」に掲載し、宗門として公表していた。

 よって、宗門は、昭和42年当時、すでに御遺命に違背していたのである。

 

 

【大草一党の弁明ー「正本堂完成までに広宣流布が達成すると期待していた」とのウソ】

 これに対し、大草一党は、"当時は正本堂が完成するまでに広宣流布が達成し、御遺命の戒壇になるとの期待があったから、正本堂を「御遺命の戒壇」と断定したことも御遺命違背ではない"旨を縷々述べている。

 要するに、当時は正本堂が「御遺命の戒壇」になると期待していたから、わざとじゃなかった"との言い訳である。

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 しかし、そもそも宗門高僧らは、「正本堂ができる時には広宣流布が達成されて、正本堂は御遺命の戒壇になる」と述べていたのではない。

 逆である。「正本堂の建立を以て広宣流布は達成、御遺命は成就」と偽っていたのだ。ゆえに御遺命違背なのである。

 このことは、「この正本堂建立こそは、三大秘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり」等の高僧発言を見れば瞭然である。見え透いた嘘はやめよ。(『顕正新聞』R3.3.25

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 当時の高僧方は、広宣流布の達成時に正本堂を建てるのだから、正本堂の建立はすなわち広宣流布の達成、と言われただけのことである。そのくらいの日本語の幅がわからないのか。誰も「正本堂の建立によって広宣流布が達成される」とか「正本堂の建立を広宣流布の達成と定義する」などと、言ってはいないのである。(『慧妙』R3.4.16a

 

 

ー御遺命破壊の確信犯ー

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 また、昭和42年当時、正本堂の完成時までに広宣流布が達成される具体的な予定ないし見込みもなかった。

 この事実は、今回、はからずも大草一党自身が認めてしまった。いわく、「当時の創価学会の発表によれば、会員増加はじつにめざましく、年々、三百万世帯、四百万世帯、五百万世帯と急増しており、このままの勢いで行けば、正本堂が完成する頃には当時の日本の総世帯委の三分の一にあたる一千万世帯に達するであろう、と見られていた」と。

 これは一体どうしたことか。大草一党自身、当時、正本堂の完成までに日本一同が信じ奉る広宣流布が達成される見込みがなかったことを認めているではないか。(『顕正新聞』R3.3.25

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 何回教えてやっても「日本中が一人残らず入信する時が広宣流布」と頑迷に拘っているから、こんな愚説を繰り返すことになる。

 大聖人が「日本一同」とか「上一人より下万民まで」と仰(おお)せられるのは、日本国の大多数を形容する表現であって、けっして「一人残らず」などと限定する意味ではない。それを端的に証明する御金言を一つだけ挙げておく。

 ●今日本国に弥陀称名を四衆の口々に唱ふるがごとく、広宣流布せさせ給ふべきなり。(御書八三七頁)

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 藤村よ、大聖人当時の日本国が一人残らず念仏を唱えていたか、どうか、今さら言うまでもあるまい。大聖人の仰せられる「日本一同」の意味は、かくのごとし。副教学部長などと名乗るなら、もう少し真面目に御書を読んだらどうだ。(『慧妙』R3.4.16a

 

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 また、仮に「日本の総世帯数の三分の一」が入信したとしても、未だ戒壇建立のための国家意志の表明に至らないことも自明である。

 まさに知るべし、宗門は昭和42年当時、5年後の正本堂完成までに広宣流布が達成される予定ないし見込みがないことも、まもなく建設が始まる正本堂が国家意志の表明を欠く偽戒壇であることも、すべて知っていたのだ。知っていながら池田大作にへつらい、正本堂を「御遺命の戒壇」と偽称した。まさしく御遺命破壊の確信犯ではないか。今になって「期待していた」(わざとじゃなかった〉なとととぼけてはいけない。(『顕正新聞』R3.3.25

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 何が「自明」なのか。

 総世帯の三分の一が入信し、それ以外にも、賛同する人がいることを考えれば、日本の大多数が戒壇建立に賛同する状態、と言うことは充分に可能であろう。例えば憲法改正の承認にも「国民投票で有効投票の過半数」の賛成があればよい、と定まっていることを考えても、これは無理な目安ではない。

 だから当時の宗内には広宣流布達成・戒壇建立という期待が高まっていたのだ(結局、それが実現することはなかったが)。(『慧妙』R3.4.16a

 

 

【大草一党の弁明ー「心こそ大切」との欺瞞】

 また大草一党は、昭和42年当時、やはり正本堂を「御遺命の戒壇」と断定・讃嘆していた大村寿顕(当時教学部長)の発言について、「大村御尊能化は、全く法義に違背などしていない」と言い張っている。

 そもそも、大村自身が、「私も池田名誉会長と同様の事柄を述べたことがありました」、「私の過去の発言の過ち」と、自らの発言の誤りを認めているにもかかわらず、「全く法義に違背などしていない」と真逆のことを言い放つ大草一党の異常性には呆れるほかないが、そのこじつけ方がまた実に稚拙でおもしろい。

 いわく、「御尊能化が純粋に広宣流布達成を期待する心から述べられた言葉と、池田大作の邪悪な念慮から出た発言は全く異質な別物である。こうした『心』『念慮』の持ちようは仏道修行において極めて大切なものであり、そのことを大聖人は、『心こそ大切に候へ』(御書一二九〇頁) 『ただ心こそ大切なれ』(御書一四〇七頁)等と仰せである」と。

 これ不便の引証である。言うまでもなく「心こそ大切に候へ」等の御金言は、"内心の如何によっては御遺命に背く発言をしても許される"という意味では全くない。そのため、これらの御金言は、宗門高僧らの御遺命違背の発言を何ら正当化する根拠にはなり得ない。(『顕正新聞』R3.3.25

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 藤村は言葉が読めないのか。それとも、分かっていて、こんなゴマカシを言うのか。

 当方が述べているのは、「期待して言ったことが、後から見れば言い過ぎだった」ということと、「池田が邪心を持って、最初から謀(たばか)って言ったこと」とは全く違う、ということである。

 こちらが言ってもいないことを言ったことにして、さも反論して粉砕したかに見せかけるのは、異流義特有の悪質な手口である。(『慧妙』R3.4.16a

 

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 また、大村ら高僧が当時、「正本堂の完成までに広宣流布が達成すると期待していた」との弁解が虚偽であり、広布達成の予定・見込みがないことを知りながら御遺命に背いた確信犯であることは前述した。

 したがって、大草一党の「心こそ大切」云々との弁明は失当である。(『顕正新聞』R3.3.25

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 何を根拠に言っているのか。全て藤村の妄想に過ぎないではないか。

 そうでないと言うなら、当時の日達上人や高僧方が「広宣流布の達成を期待していなかった」「達成の見込みがないことを知っていた」という、その根拠となる明確な記述なりを出してみよ

 それを示せないかぎり、これらは藤村の勝手な思い込み、妄想である、と断定する他はない。(『慧妙』R3.4.16a

 

 

【大草一党の弁明ー「浅井先生も正本堂を『御遺命の戒壇』と述べていた」とのウソ】

 大草一党は、宗門の御遺命違背の禍根を匿さんと、"浅井先生も正本堂を「御遺命の戒壇」と述べていた"などと見え透いた嘘をつく。

 これについては前回、「浅井先生が正本堂を『御遺命の戒壇』と認めていた事実は存在しない」と指摘したが、結局、大草一党は、先生が正本堂を「御遺命の戒壇」と述べたご発言を見つけることができなかったらしい。当然である。

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 そこで、前回と同じペテンを性懲りもなく繰り返す。すなわち、浅井先生が昭和405月の総幹部会で仰せられた、「その御本尊様がいよいよ時を得て徐々に大衆の中に御出ましになる。御宝蔵より奉安殿へ、更に猊下の深い思召しにより、大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになるのであります」等のご発言を歪曲し、"これは浅井先生が正本堂を「御遺命の戒壇」と述べたもの"と言い張っている。

 やはり大草一党には日本語がまともに読めないらしい。ゆえに「大客殿の奥深き正本堂」、「徐々に」との文言を読み飛ばし、書かれてもいない事柄が読めてしまう。もし「わざと」ではないとしたら、何とも不憫な御仁である。

 すでに指摘したとおり、浅井先生は当時、正本堂を御遺命の戒壇ではなく、あくまで奉安殿の延長として、国立戒壇建立のその日まで戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉る堂宇、すなわち「大御宝蔵」「大奉安殿」として認識されていた。(『顕正新聞』R3.3.25

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 これは藤村が、正本堂問題に関する歴史史料について、全くの無知であることを露呈した戯言(ぎげん)である。

 まず第一点目として、浅井が「大客殿の奥深き正本堂」との言葉を使った理由について、藤村に教えておこう。

 これは、昭和四十年二月十六日に行なわれた第一回正本堂建設委員会の席上、日達上人が、

正本堂の建立地につきましては大御本尊は客殿の奥深く安置するという御相伝があります

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と仰せられた、そのお言葉を使ったに過ぎない。それ以外の意味などないのである。

 当時生まれていなかった藤村は、すっかり浅井に騙されて、〝当時の浅井センセーには、正本堂を広布の暁の戒壇などという考えは微塵もなく、あくまでも、奉安殿の延長として「大客殿の奥深く」に大御本尊を秘蔵する、と発言したのである〟と思い込んでいるようだ。だが、その思い込みは、とんだ見当違いだ。

 藤村よ、正本堂問題に難癖(なんくせ)を付けようというのなら、正本堂建立委員会での日達上人お言葉の全文くらい、読んでからにしたらどうだ。

 また「徐々に」という言葉であるが、浅井は「御宝蔵から奉安殿へ」「奉安殿から大客殿の奥深き正本堂へ」という状態を「『徐々に』大衆の中にお出ましになる」と言っているのである。誰も故意に読み飛ばしなどしていないし、する必要もない。

 藤村としては、「徐々に」であるから、まだ(浅井は)広宣流布の達成だと思っていなかったと言いたいのだろうが、苦し紛れの言い訳であり、無茶なコジツケである。

 重ねて言うが、「その御本尊様がいよいよ時を経て、徐々に大衆の中に御出ましになる。御宝蔵より奉安殿へ、更に猊下の深い思し召しにより、大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになるのであります」との浅井発言は、途中の段階を踏んで、ついに大御本尊が大衆の前にお出ましになる、と言っているのである。

 人類・大衆の前に姿をお現わしになるとは、秘蔵されてきた大御本尊の公開、すなわち広宣流布の達成を意味していることは、いうまでもない。

 

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 ゆえに当時の妙信講員たちも正本堂につき、「戒旦の大御本尊のお住まいである正本堂」、「戒旦の大御本尊様を御安置申し上げる正本堂」とのみ述べ、「御遺命の戒壇」とは一言も述べていなかったのである。もし浅井先生が講員に対し、正本堂こそ「御遺命の戒壇」であると指導していたなら、かかる反応はあり得ない。

 先の浅井先生のご指導を"正本堂を「御遺命の戒壇」と述べたもの"などと誤読する者は、御遺命違背の罰で正常な判断能力を失った頭破七分の輩だけである。(『顕正新聞』R3.3.25

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 「御遺命の戒壇」というフレーズ自体、正本堂問題の中で次第に使われるようになったもので、あの当時に「御遺命の戒壇」などという言葉は、ほとんど誰も使用していなかった。

 ゆえに、「当時の妙信講員たちが、御遺命の戒壇と一言も述べていなかった」などと言っても、何の意味もない。

 また、当時の末端の妙信講員が何と言っていたかは関係ない。浅井本人が何と言っていたかが問題だ、と言っているのである。話をスリカエてはいけない。

 こちらは「誤読」もしていなければ「正常な判断能力を失った」わけでもない。藤村こそが、洗脳と狂信によって正常な判断能力を失い、頭破七分しているのである。

 

 

 

[第二 正本堂訓諭について]

 次に、細井日達が昭和47428日に発布した正本堂訓諭の御遺命違背を示す。

 細井日達は訓諭において、正本堂の意義につき、「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と述べた。これは、正本堂を「御遺命の戒壇となる建物」と断定したものである。

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 しかし、未だ広宣流布も達成していない段階で、「御遺命の戒壇となる建物」を建ててしまうことは、三大秘法抄に定められた時・手続を無視し、「時を待つべきのみ」の御制誡に背くことになる。

 よって、正本堂を「御遺命の戒壇となる建物」と断定した細井日達の訓諭は、大聖人の御遺命に背き奉るものである。(『顕正新聞』R3.3.25

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 まずは、繰り返しになるが、難癖ばかりの藤村の駄文を見ていると話がわからなくなってしまうので、再度、本紙の主張の要点をまとめておこう。

 

富士山下に建立する戒壇を本門寺と名く(第26世日寛上人『文底秘沈抄』/富要集三巻九八頁)

三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり(『百六箇抄』御書一六九九頁)

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と仰せられていることから、広宣流布の暁の戒壇とは、すなわち富士山本門寺(別しては本門寺本堂)を指している。

 

広宣流布の日は当山をもって多宝富士大日蓮華山本門寺と号すべし第31世日因上人『研究教学書十六巻七一頁)

今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す(第44世日宣上人『世界之日蓮』)

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と仰せのように、広宣流布の暁には大石寺が即本門寺となるのである。

 すなわち、日興上人は、広宣流布の時に備えて、予(あらかじ)め本門寺の前身たる大石寺を建立あそばされた、ということが明らかである。

 しかして、この日興上人の御深慮も、藤村らの論法でいけば、未だ広宣流布が達成されていないのに、戒壇となるべき本門寺を予め作ってしまったのだから御遺命違背だ、ということになってしまうではないか。そのような誹謗の当たろうはずがない。

 

 これと全く同じ道理で、来たるべき広宣流布の時に備え、本門寺の中心となる本堂(正本堂)を建立しよう、と御考えになられた日達上人はじめ当時の宗門が、建物を先に作ったから御遺命違背だ、などという非難に当たらぬことも明らかである。(『慧妙』R3.4.16a

 

 

【大草一党の弁明ー「戒壇の建物を前もって建てても問題ない」との痴論】

 これに対し、大草一党は、独りよがりな己義を縷々並べた上で、結論として次のように弁明する。

 「来たるべき広宣流布の時に備え正本堂を建立しよう、と御考えになられた日達上人はじめ当時の宗門が、建物を先に作ったから御遺命違背だ、などという非難に当たらぬ」と。

 要するに、"御遺命の戒壇となる建物を前もって建てて何が悪い"と開き直っているのである。

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 では反詰する。大草一党が信伏随従する阿部日顕は、かつて2冊の悪書において「戒壇の建物は広布完成前に建ててよい」と書いたことにつき、後年、「言い過ぎやはみ出しがある」と誤りを認めているが、この阿部の言葉も間違っているといえるのか。

 馬脚はここに現れている。大草一党の弁明は、御金言に背き奉る己義であるのみならず、阿部日顕の所説にも矛盾するものである。(『顕正新聞』R3.3.25

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 それでは、日顯上人は「正本堂を建てたことが間違いであった」などと言われているだろうか。そんなことは一言も言われていない。これは全く文意のスリカエである。

 日顯上人がかつての御著について「言い過ぎやはみ出しがあった」と言われているのは、当時、正本堂を広布の暁の戒壇と想定したけれども、いまや創価学会が大謗法団体となって広布達成は大きく遠のき、正本堂も取り壊すに至った以上、かつての正本堂についての意義付けは言い過ぎやはみ出しに当たる、との御意である。

 しかるに藤村は、自分達が都合よく利用できそうな言語だけを拾って、「馬脚はここに現われている」などと宣(のたま)うのだから、呆れさせられるではないか。(『慧妙』R3.4.16a

 

 御金言を見てみよ。大聖人様は三大秘法抄に、戒壇建立の時・手続を明確に定められ、かかる条件が整うまでは「時を待つべきのみ」と固く建立を制誡し給うておられる。ゆえに前もって建てたら違背なのである。

 

 

【大草一党の弁明ー「建立」の意味のたばかり】

 このように御金言に背いていることを自覚する大草一党は、先の己義を正当化するために、本門戒壇の「建立」という言葉の意味を次のように歪曲する。

 「『建立』といっても、ここでは、建築的に建てるという狭い意味ではなく、広宣流布の暁には大石寺が改称されて、事の戒法の大功徳を発現する本門寺戒壇の意義が現われる、ということを指しているのである」と。

 これ全くの己義である。いったい、何をどう読んだら「建立」の二字が「広宣流布の暁には大石寺が改称されて」の意となるのか。やはり常人には理解し難い精神構造のようである。

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 「こくご」が苦手な彼らのために少々解説すれば、そもそも「建立」とは「寺院・堂塔などを建設すること」(広辞苑第7)である。戒壇という建物を「建立する」との文脈であれば、"建設する"の意であることは自明である。

 何より、御本仏の御金言を拝すべきである。三大秘法抄には、「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ」と。ここでの「建立」が、戒壇(建物)"建設する"の意であること、誰の目にも明らかではないか。「大石寺が改称されて」云々の意がどこにある。

 さらに歴代上人の御指南との矛盾はどうする。すなわち、第37世・日上人は、「仏の金言空しからずんば、時至り天子・将軍も御帰依これ有り。此の時においては富士山の麓・天生原に戒壇堂造立あって」(御宝蔵説法本)と仰せられ、第59世・日亨上人は、「三堂建立は興師の御理想なるも、実現は大国主すなわち大日本国皇帝陛下の御命により一時に大荘厳を極めた建造が、富士の裾野の最勝の地に建立せらるべきで、それがすなわち本門寺とも大本門寺とも、また本門戒壇もその中心に立つべきである」(富士日興上人詳伝)

と仰せられ、後に御遺命に背いた第66世・細井日達も、「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華351月号)と述べている。「造立」、「建造を建立」、「建設」とは、いずれも"戒壇(建物)を建設する"の意ではないか。

 まさしく大草一党の「建立」についての己義は、大聖人様の御金言及び歴代上人の御指南に背き奉る邪説である。

 

 以上より、御遺命の戒壇が広宣流布の暁に国家意志の表明をもってはじめて建立(建設)されるものであることは明白である。そして、大聖人様は、かかる条件が整うまでは「時を待つべきのみ」と固く御制誡あそばされている。

 したがって、三大秘法抄にお定めの時・手続を無視し、「時を待つべきのみ」の御制誡に背いて建てた偽戒壇を「御遺命の戒壇となる建物」と断定した細井日達の訓諭を、御遺命違背というのである。(『顕正新聞』R3.3.25

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 こうなってくると、教学というより日本語の議論になってくるが、盲信者の目を覚ますためには仕方がない。少々付き合っておく。

 そもそも、「建立」という語の元意は、「はじめて現われる」「確立する」等の意であり、その用い方によって、さまざまな意味を表わすのである。

 例えば「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」との御文における「建立」とは、建築することではなく、御本尊を安置するという意であるし、その他にも、御本尊の御図顕や、一国に仏法が広宣流布することを「建立」と表現された御文等、例を挙げれば枚挙にいとまがない。「宗旨建立」という言葉も同様である。

 先に挙げた御歴代上人の御指南には

富士山下に建立する戒壇を本門寺と名づく(第26世日寛上人)

広宣流布の日は当山をもって多宝富士大日蓮華山本門寺と号すべし(第31世日因上人)

今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す(第44世日宣上人)

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と明示されているのだから、広宣流布の暁に大石寺が即本門寺となる、それが「本門寺戒壇を建立する」という意に当たること、それこそ自明の理ではないか。

 こんな日本語もわからないで、「いったい、何をどう読んだら」などと言うのだから、付き合いきれない。

 ちなみに、藤村は「さらに歴代上人の御指南との矛盾はどうする」などと言って、得意げに、37世日琫上人の御指南の「戒壇堂造立あって」という文や、あるいは日亨上人の仰せ等を挙げ、これらの「造立」「建立」はいずれも「建設」の意ではないか、というのだが、それは一を知って二を知らぬ短見である。日琫上人や日亨上人の御文は、前掲の日寛上人・日因上人・日宣上人等の御先師方の御指南を踏まえてのお言葉なのだから、「広布の暁には大石寺が本門寺戒壇になる(別して本門寺本堂が戒壇となる)」との意に会通すべきは当然であろう。

 逆に、藤村に聞こう、あくまでも「建立」「造立」は「建築する」との意味しかない、というなら、当方が前に掲げた御先師上人方の御指南と矛盾するが、それはどう言い訳するつもりだ。答えてみよ。(『慧妙』R3.4.16a

 

 

大草一党の弁明ー「日興上人も御遺命違背になる」との痴論

 なお、大草一党は何を血迷ったのか、次のような痴論も述べている。

 「日興上人は、広宣流布の時に備えて、予(あらかじ)め本門寺の前身たる大石寺を建立あそばされた、と拝せられる」、「こうした日興上人の尊(とうと)い御配慮も、藤村らの論法で行けば、『未だ広宣流布が達成されていないのに、戒壇となるべき本門寺を予め作ってしまったのだから御遺命違背だ』ということになってしまうではないか」と。

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 これ全くの虚偽である。日興上人がいつ、大石寺を指して「御遺命の戒壇となる建物」と仰せられたのか。

 日興上人は、御遺命の本門寺(本門戒壇)について、"広宣流布の時至り、国主が三大秘法に帰依したときに建てよ"と明確に御指南下されている。すなわち、富士一跡門徒存知事の「本門寺を建つ可き在所の事」における「広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時、必ず富士山に立てらるべきなり」との仰せがそれである。

 大草一党よ、妄想と現実を混同して日興上人を貶めるのはやめよ。(『顕正新聞』R3.3.25

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 『富士一跡門徒存知事』の全文をよく拝してみよ。大本門寺の建つべき所について、

駿河国富士山は広博(こうばく)の地なり。一には扶桑国(ふそうこく)なり、二には四神相応(しじんそうおう)の勝地なり(『富士一跡門徒存知事』御書一八七三頁)

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と、四神相応の勝地であることを挙げられている。

 そして、第59世日亨上人は、この四神相応の地形を富士山下の実際の地勢に当てて検討され、

大石が原の景勝(けいしょう)にしかず。ただちに富嶽(ふがく)を負い駿湾をのぞみ、一望千里曠宏(こうこう)たる高原にして、なお原始の処女林あり。加うるに大道あり河沢あり、四神相応の霊地なり(第59世日亨上人『富士日興上人詳伝二四一頁)

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と、大石が原こそ四神相応の霊地であることを証明された後、

まさに四神相応に近からずや、富士四山(重須、下条、小泉、西山)の地勢は、大いにこれに遠きにあらずや。おのおの、その開基時代相地の用意・不用意、深く味わうべきことで、ことに我れら開山日興上人・開基檀那南条時光の、遠き未来を鑑みての十二分の御用意に感謝すべきである(第59世日亨上人『富士日興上人詳伝二四一頁)

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と仰せられている。

 すなわち、日興上人は、広布の暁に本門寺戒壇を建立するに相応しい四神相応の勝地として、大石が原を選ばれ、この地に本寺を建立されたのだ

 だからこそ、妙信講(顕正会の前身)もかつては、

下条より約半里ほど離れた北方に大石ヵ原という茫々(ぼうぼう)たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。かくて、日興上人は弘安二年の戒壇の大御本尊をここに厳護されると共に、広宣流布の根本道場として地名に因んで多宝富士大日蓮華山大石寺と号されたのである。これが日蓮正宗富士大石寺の始まりである(『冨士』昭和三十九年九月号

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と述べていたではないか。

 「御遺命の戒壇となる建物」=「御遺命の本門寺(本門戒壇)」であることは、藤村自身も先の発言で認めているわけだから、この〝日興上人が本門戒壇建立の最適地に(本門寺の前身として)大石寺を建立された〟という事実は、藤村の言葉をもって言えば「未だ広宣流布が達成されていないのに予め御遺命の建物を建ててしまった」という事になってしまうではないか!

 だいたい、大石寺から四キロ離れた天母山に本門寺戒壇を建立しなくてはならない、などという説にしがみつくから、かつての妙信講機関誌とも矛盾をきたし、日興上人の深き御配慮にも違背することになるのだ(『慧妙』R3.4.16a

 

 

 

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[第三 浅井先生の正しさを認めてしまった大草一党]

 付言すると、大草一党は今回、宗門の御遺命違背についての弁明に躍起になるあまり、つい筆が滑って浅井先生の正しさを認めてしまった。

 いわく、「そもそも『国家意志の表明』は広宣流布達成の暁(あかつき)に示されるものであり、広宣流布とセットで考えるべきものである」と。

 これは、戒壇建立の手続として"国家意志の表明"が必要であるとする顕正会の主張を認めたものにほかならない。一期弘法付嘱書・三大秘法抄の御文を正直に拝せば、かかる結論にならざるを得ないであろう。

 しかるに宗門は、広布以前に国家と無関係に建てた正本堂を「御遺命の戒壇」と偽称しただけでなく、正本堂が崩壊した後も、未だに国立戒壇を怨嫉し、「勅宣・御教書」たる

国家意志の表明による戒壇建立を否定し続けている。いかにも無慚無愧ではないか。ゆえに御遺命違背というのである。(『顕正新聞』R3.3.25

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 いやはや、このタイトルにはまいった(笑)。誰が「浅井センセーの正しさを認めてしまった」というのか。勘違いもたいがいにせよ。

 本紙記事の「そもそも『国家意志の表明』は広宣流布達成の暁に示されるものであり、広宣流布とセットで考えるべきものである」との文を見て大喜びしているようだが、これは、べつに浅井の正しさを認めたわけでも何でもないし、前々から本紙で論述してきた当然の道理である。

 昔から「敵を知り己を知らば、百戦危うからず」というが、藤村は敵の主張も知らずに闘いを挑む戯(たわ)け者のようだ。

 藤村よ、まず〝戒壇建立のプロセスとして国家意志の表明が必要である〟という当方の主張が、これまでに本当にあったか、頑張って探してみるがよい。その程度の確認をしてくれなくては、議論にならない。

 なお、当方は、戒壇建立に至るプロセスとして、国家意志の表明はあってしかるべきだが、それが勅宣並びに御教書でなければならないとは限らない、と言っているのだ。大切なのは、日本国の大多数が入信して同意しているという事実(広宣流布の達成)であり、それを表明する形が、勅宣・御教書なのか、別な形になるのか、その時代における主権者が誰であるかによっても変わるであろうから、そんなことを今からどうこう言っても始まらない。要は、まず一国の動向が正法によって決せられるだけの、確たる状態を確立していくことが重要で、それを目指して折伏弘教に励むことが肝要だ、と主張しているのである。

 それを「浅井の正しさを認めてしまった」などと、とんでもない勘違いをされては、藤村の能天気ぶりを笑うしかない。(『慧妙』R3.4.16a

 

 

 

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[大四 結語]

 以上、宗門の御遺命違背を総括すれば、次のとおりである。

 ①未だ広宣流布も達成せず、国家意志の表明による建立とならないことを知りながら、池田大作にへつらって偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と断定・讃嘆し、御遺命に違背

した。

 ②広布以前に国家と無関係に建てた正本堂を、「時の貫首」の最高指南である訓諭をもって「御遺命の戒壇となる建物」と断定し、御遺命に違背した。

 ③かかる重大な御遺命違背を犯しながら未だに真の懺悔なく、国立戒壇を怨嫉し、「勅宣・御教書」たる国家意志の表明による戒壇建立を否定し続けている。

 

 大聖人様は一期弘法付嘱書の末文に、

 「就中、我が門弟等、此の状を守るべきなり」と仰せられている。この重大の御遺命に背く者は、まさに師敵対の逆徒、魔の眷属である。 ゆえに御遺命違背の宗門僧俗は、

 「我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし」(顕立正意抄)

との御金言のごとく、改悔がなければ入阿鼻獄は疑いない。

 

 浅井先生は顕正新聞新年号において、「正本堂の崩壊こそ、まさに第六天の魔王の敗退であり、池田大作・細井日達・阿部日顕等のたばかりの終焉であった」と仰せられたが、

すでにたばかりが終焉したにもかかわらず、未だに改悔なく御遺命に背き続ける宗門の無道心は度し難い。

 早く御遺命違背の大罪を改悔し、日淳上人の頃の清らかな宗門に立ち還り、国立戒壇の正義を宣揚しなければならない。(『顕正新聞』R3.3.25

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ニセ本尊の議論に詰まった藤村

 以上、藤村の反論にもならぬ駄文を一蹴したが、『顕正新聞』では、『慧妙』の記事を全て妙観講大草講頭が書いていると思い込み、「大草一党の痴論」等と書き殴ってくるが、べつに本紙『慧妙』は妙観講の機関紙ではないし、執筆しているのも十数名の僧俗有志である。しかるに浅井一味は、よほど大草講頭が怖いのか、ススキを見て幽霊と思うがごとくに、全て大草講頭に結び付けてくるが、そんなに大草講頭との闘いを望むなら、さっさと浅井の名代でも立てて大草講頭との法論に応じればよい。見苦しいかぎりだ。

 なお、冒頭でも述べたが、藤村雄大は、ニセ本尊についての追及を黙殺して逃げ続けている。こんなことは、もし直接対決していたなら、議論に詰まって負け、と判定されるところだ。

 よって、今後も藤村がニセ本尊問題に頬(ほお)かむりして、御遺命が何たら、国家意思が何たら、等という弁明を出すなら、その時点で「藤村完敗」を宣告するから、藤村よ、そのつもりでいるがよい。(『慧妙』R3.4.16a