天母山(あんもやま)戒壇説について

昔「大石ケ原こそ本門戒壇建立の適地」

今「天母山を中心とした天生原(あもうはら)に建立」

(『慧妙』R1.12.1

 

 顕正会では、御遺命の戒壇が建立される場所を「天生原(天母山)」である、と主張する。

 

<浅井の邪義>

 「すなわち大坊棟札に『国主此の法を立てらるる時は、当国天母(あもう)原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり』と。」(『日蓮大聖人の仏法』改訂版P132)

 「天母(あんも)山と天生(あもう)原とどう違うのか。天生原の中心にある小高い丘を天母山というのである。」同P230)

 「では細井管長はどのように『天生原』(この中心地が『天母山』)を否定したのかといえば」(『正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む』P167)

 

 だが浅井らは、宗門に反逆して解散処分となる以前、御遺命の戒壇を建立すべき場所について、

 「下条より約半里ほど離れた北方に大石ヶ原という茫々(ぼうぼう)たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇(いちう)の道場を建立されたのである。かくて、日興上人は弘安2年の戒壇の大御本尊をここに厳護されると共に、広宣流布の根本道場として地名に因(ちな)んで多宝富士大日蓮華山大石寺と号せられたのである。これが日蓮正宗富士大石寺の始りである」(『冨士』S39.9P23)

として、本宗古来の教義信条に則(のっと)り、総本山大石寺こそ御遺命の戒壇建立地であることを、明言していたのである。

 

<御歴代上人の御教示>

26世日寛上人

 「本門戒壇の本尊所住の処、豈(あに)戒壇建立の霊地に非ずや。」(『六巻抄』顕正会版P64)

 「本門の本尊所住の処に応(まさ)に本門の戒壇を起つべし。」(『六巻抄』顕正会版P69)

 ここで日寛上人が仰せの"本門戒壇の大御本尊のまします所"が大石寺であるのは言うまでもない。

第31世日因上人

 「広宣流布の日は、当山をもって多宝富士大日蓮華山本門寺と号すべし。」(研究教学書16P71)

第59世日亨上人(御筆記)

 「この小本尊を模刻(薄肉彫)して薄き松板に裏に御家流のほぼ豊かなる風にて薬研彫にせるも文句は全く棟札の例にあらず、又表面も略の本尊式なるのみにて又棟札の意味なし。ただ頭を《に切りて縁をつけたることのみ棟札らし。石田博士も予と同意見なり。徳川時代のもの」

 「天生原」の地名の初出とされる「大坊棟札」の裏書が、日興上人の御筆などではなく後世の偽作であることは、日亨上人の御指南により、すでに明らかになっているのである。

 

<天母山説の起こり>

 「天生原」「天母山」は、大聖人の御入滅から約2百年後、要法寺系の帰伏僧であった左京日教師の『類聚翰集私』に

 「天母原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」(『富士宗学要集』2P323)

と記されており、ここに初めて「天母原」の名称が確認される。

 だが、これについて、日亨上人は、

 「この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれて(中略)後人を誤らすこと大なり。ことに空談にもせよ、天母原の寸地に、いかに重畳(ちょうじょう)しても、摩天楼(まてんろう)にしても、六万の坊舎が建設せらるべきや」(『富士日興上人詳伝』P268)

と否定されているのである。

 

<浅井の心根>

 浅井が「天生原・天母山」に固執した心根は、とにかく反対のための反対、批判のための批判で、「総本山大石寺を戒壇建立地」とする宗門が宗開両祖以来の御遺命に背いており、それを糾(ただ)す自分こそが御遺命守護の勇士である、としたいがための主張であろう。

 しかしながら、最近の浅井発言には、「天母山」に関する記述が見られず、富士山下の広大な「すその」を意味する「天生原」説を多用しはじめている。

 これは、宗門側の粘り強い破折によって、さすがに天母山説はまずいと気付き、方針転換を図ったものと思われる。

 

[画像]:『冨士』S39.9=かつての顕正会は"総本山大石寺こそ御遺命の戒壇の建立地"と主張