異流義団体 顕正会による日達上人誹謗の謀(はか)りを叱る

浅井等の悪あがきの誹謗を残滓(ざんし)まで破折!

日達上人の御臨終の妙相は記録に明らか―

(『慧妙』H31.1.16

 

 本紙平成30年12月16日号に引き続き、異流義団体「顕正会」(会長・浅井昭衛)による第66世日達上人に対する誹毀讒謗(ひきざんぼう)を摧(くだ)く。

 すでに顕正会の主張の大要は粉砕されているが、それを素直に受け入れられない彼等は、何とか自説を押し通そうとして、悪あがきのような誹謗を繰り返している。そこで、後世に禍根を残さぬためにも、彼等の主張を残滓(ざんし)まで破折し尽くすことにする。

 

【浅井昭衛の謀りが発覚!!

日達上人の妙相は当時の記録にも歴然

 まず、前に紹介したように、会長・浅井昭衛は、

 「宗門側の誰もが(日達上人の御臨終の相について)隠して何も言わないので、今日までわからなかった。それを、きょう始めて(内藤某から)聞いた」

などとして、あたかも誰も口をつぐんで語らなかった事実(浅井のいう「日達上人の悪臨終」)が、内藤某の発言によって発覚したかのごとく述べた。

 こう述べることで、内藤某の発言のみが日達上人の御臨終についての唯一の証言であるかに見せかけ、その信憑(しんぴょう)性を高めようとしたのだが、そもそも、この浅井昭衛の発言からして大嘘(おおうそ)なのである。

 というのは、「誰もが隠して何も言わなかった」どころか、当時の宗門機関誌『大日蓮』(S54.9)に、遺弟による御遺体への最後の剃髪・剃顔の様子が報じられており、そこには

 「半眼半口の御温顔に一同新たなる感慨を禁じ得なかった」

と、日達上人の御臨終の妙相が記されているのである。

 『大日蓮』は歴とした宗門機関誌であり、そこに掲載されているのは宗門の公的な記録ではないか。浅井よ、「誰もが隠して何も言わなかった」などと、たばかりもいい加減にせよ。

 よもや読んでいなかった、とは言わせない。『顕正新聞』(H31.1.5)を見れば、顕正会が何とか都合のよい記録を見つけようとして、当時の『大日蓮』誌を読み調べていたことが判然としているからである(80隊長・津山某の発言)

 これだから浅井昭衛は大嘘つきだどいうのだ。「たばかり昭衛」と揶揄(やゆ)されるのも宜(むべ)なるかな、である。

 そもそも、当時の宗門機関誌に報じられた公(おおやけ)の記録と、40年も経ってから急に出てきた死人(内藤某の母親はすでに死亡しているという)からの又聞きの又聞きそのいずれが信憑性が高いかなど、もはや言うまでもなかろう。

 また、この宗門の公式記録について知らぬ顔を決め込んでいた、という一点をもってしても、顕正会による日達上人誹謗が恣意(しい)的な作り話であることは明らかである。

 

 

【「日達上人の縁戚」は事実無根】

―見舞いに行った等の事実もなかった―

 次に、デマの発生源である"日達上人の縁戚"と称する内藤某の母親「内藤みどり」であるが、結論からいうと、この人物、やはり日達上人の縁戚などではない

 何故そう言えるか、というと、第1に、日達上人の御身内の方々が皆、「そのような親戚はいない」と断言されている。

 身内が誰も知らない自称「縁戚」、普通はこれを虚言もしくは妄想というのである。

 第2に、『顕正新聞』(H31.1.5)によると、今回の騒動を機に内藤某は母親の戸籍を辿(たど)ってみた、という。もし、内藤の母親が本当に日達上人や細井家の縁戚であったならば、この戸籍調べにより、日達上人とどのような縁戚に当たるのか、が判明したはずである。

 しかるに、その説明は一切できず、その代わりに、内藤の母親の前夫は柳沢喜惣次氏(元総講頭)の兄だった、とか、内藤の母親の姉の親戚が高野日海御尊能化の高野家に養子に行った、などの、全く関係の遠い話を挙げて、内藤某の母親に何とか箔(はく)を付けようと躍起になっている。

 ということは、これを逆説的に言うならば、内藤某の母親「内藤みどり」が日達上人の縁戚だった、との事実は全く見出せなかった、ということに他ならない。

 もう、これで十分であろう。内藤某の母親が日達上人の縁戚だった、などというのは、何の根拠もない虚言だったのである(※なお本紙でも、念のため内藤家の家系を詳細に調べたが、そこでも日達上人との関わりなど全く見られなかったことを付言しておこう)

 また、内藤某の母親が日達上人の入院先の病院へ3回も見舞いに行った、という話も嘘である。

 日達上人が御遷化(ごせんげ)の2日前に入院された富士宮のフジヤマ病院では、御身内と側近等の特別な方しか面会が許されておらず、それ以外の者を病室に入れぬよう警護していた奥番の御僧侶も「そんな人物は絶対に来ていない」とキッパリ否定している。

 さらに、それ以前に日達上人が入院されたことがあるのは東京の聖路加病院であるが、これは治療を行なうにあたっての単なる検査入院であって、宗内僧俗には全く知らされていなかった。それなのに、一介の宿坊の従業員にすぎなかったという内藤某の母親が、これを知って東京まで3回も見舞いに行った、などということがあろうはずはない。それは、宗内事情を知る者なら誰にでもわかることである。

 まったく、よくぞ、こんな話を作出したものと、呆(あき)れざるをえない。妄想癖、(もうそうへき)、あるいは老齢による酷(ひど)い記憶障害、と考える他はあるまい。

 

 

【「御尊顔を拝した」という大嘘】

―御別れと密葬と本葬を混同させた欺瞞(ぎまん)―

 最後に、内藤某の母親「内藤みどり」とその姉と弟が3人で日達上人の葬儀に参列した、との話について。

 日達上人の御葬儀は、昭和54年7月24日の御密葬と、8月8日の御本葬とに分かれており、御本葬は正本堂東広場において約1万4千人という空前の参列者を得て執行された。

 この御本葬には、希望する宗内僧俗は参列できたから、「内藤みどり」等3人もここに参列したのかもしれない。だが、この時はすでに御火葬も済んでおり、当然のことながら、故上人の御尊顔を拝することなどできなかったのである。

 一方、7月24日の御密葬は当時の大客殿において執行され、大客殿内には約2千名の僧俗が参列したが、出棺前に御尊顔を拝する御別れの儀については、時間の関係上、、信徒は学会首脳や法華講連合会執行部をはじめ50名ほどの代表者しか参列できなかった。そして、この中には、「内藤みどり」の前夫も、その弟とされる柳沢喜惣次氏(当時は連合会の役員ではなかった)すらも入っていなかったのだから、ましてや、宿坊の一従業員にすぎぬ「内藤みどり」やその姉弟までが参列できる道理がない。

 要するにこの話は、御別れの儀と、御密葬・御本葬のことを混ぜ合わせて、当時の様子を知らぬ人々を欺(あざむ)いているのである。

 以上、この妄想話を持ち出した功績で班長になった内藤某の母親「内藤みどり」が、日達上人の御臨終の相を拝した、という大嘘について破した。

 なお、本宗において、血脈付法の上人が御遷化されて霊山へ赴(おもむ)かれるのは当然であるから、あえて御臨終の相について述べることは少ないが、このたびの許し難い顕正会の謗言に対し、当時をよく知る方々が証言を寄せられた。2面に掲載しているので、謹んで拝読すべきである。

 さて、このように真実が白日の下に現われ、またも浅井昭衛のたばかりが明らかになった以上、事情を知らずに付和雷同していた顕正会員は、自らの罪障消滅のために日蓮正宗富士大石寺に帰伏し、日達上人の御墓前に伏して詫()びるべきであろう。

 さもなくば堕獄の罪業を消す途(みち)はない、と知るべきである。

 

[画像]:724日の御密葬後の御別れの儀=これには「内藤みどり」は参列していない(本文参照)

 

[画像]:昭和5488日に行なわれた日達上人の御本葬=これには1万4干人という多数の僧俗が参列したが、この時には御遺体は荼毘に付されており、対面は叶わなかった