顕正会の日達上人誹謗に根拠なし!

浅井を信じ墓穴を掘った教学委員

(『慧妙』R2.7.16a

 

 顕正会が、突然、総本山第六十六世日達上人の御臨終(りんじゅう)に関する誹謗(ひぼう)を繰り出したのは、今から二年前の平成三十年秋からであった。顕正会の思惑は、それを最大の攻撃材料にして全国の正宗寺院に"法論"を挑み、正宗寺院を屈服させることにあった。

 この時、利用されたのが、顕正会男子部組長の「内藤某」という人物。まず、内藤某が同年九月の総幹部会に登壇し、「当時大石寺の従業員だった母親・内藤みどり(故人)から聞いた」として、日達上人の御遷化(せんげ)を「悪臨終」「ドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるような相」などと口汚なく誹謗した。そして、この発表を受ける形で会長・浅井昭衛が、

 「宗門側の誰もが隠して何も言わないので、今日までわからなかった。それをきょう始めて聞いた」

などと言って、あたかも日達上人の御臨終に関する唯一の証言を得たかのように装い、内藤某の話に信憑性を持たせようとしたのである。

 だが、これらの発表が『顕正新聞』に掲載されるや、本紙は、「母親から聞いた」という内藤某の"証言"とやらのウソを暴(あば)き、徹底的に糾弾した(『慧妙』平成三十年十二月十六日号、平成三十一年一月十六日号)

 その時の糾弾内容を、以下に簡単におさらいしておくと、

①日達上人が御臨終に際して「半眼半口の御温顔」の妙相を現ぜられたことは、当時の宗門機関紙『大日蓮』(昭和五十四年九月号)に報じられている。その『大日蓮』を確認していながら、「誰もが隠して何も言わなかった」などというのは、浅井昭衛の"たばかり"である。

②さらに本紙は、日達上人の御臨終に際し、間近にお仕えしていた方々の証言を多数、掲載。一様に、日達上人の妙相に感激したことを述べ、「ドス黒く」云々が大ウソであることを断言した。

③極めつけは、顕正会が「日達上人の御臨終が悪相だった」と誹謗する、その唯一のネタ元とされる「内藤みどり」は、顕正会側が言うような"日達上人の縁戚"でもなければ、日達上人の病室にお見舞いに行ったこともなかった、つまり、日達上人の御臨終の相を拝見することなどできなかった、ということが、関係者の証言で明らかになったことである。

 こうして、日達上人に対する誹謗が根底から打ち砕かれているにもかかわらず、恥知らずな浅井昭衛は、前言を撤回・訂正することなく、浅井の言うことしか信じない会員らは「ネタ元は日達上人の縁戚の内藤みどひ」と信じたまま、「証拠がある」の一点張りで押し通してきた。

 しかし、そういうゴマカシが続くはずもなく、今般、

その強気の一点張りが、ついに顕正会の教学委員君の首を絞めることとなったのである。

 

 

【宗門には「内藤みどりの親戚」も】

―もはや顕正会に反論は不能!

 本年五月三十日、鹿児島県霧島市の恵楽寺において、顕正会員四名と恵楽寺側三名による法論が行なわれた。顕正会側の中心は今村某という教学委員で、恵楽寺側は御住職の武安良正御尊師が中心である。

 その法論の際、武安御尊師が、話の成り行きから、

 「母・内藤みどりから聞いたという内藤某の話はまったくの虚偽です。内藤みどりは日達上人の縁威でもないし、日達上人のおそば近くに行けるような立場でもなかった」

と断言した。「なぜ、そう言えるのか」と聞く今村に、武安御尊師は、

 「私は内藤みどりの親戚だからです。内藤みどりは、母方の祖父の姉です」

と、衝撃の事実を告げた。

 今村は驚きうろたえ、シドロモドロになりながら、「顕正会では、渡辺清美さん(みどりさんの姪〔めい〕)からも証言を得ている」などと反撃を試みるが、武安御尊師は、

 「渡辺清美さんとは私も親戚づきあいをしているが、その渡辺さんも『みどりさんは日達上人の縁戚ではない』とハッキリ否定していますよ。なんだったら、今、ここから、渡辺さんに電話してみましょうか」

と追い打ちを掛けると、今村の声は消え入りそうに。

 だが、武安御尊師が、

 「内藤みどりが日達上人と親戚であることを証明してくださいよ」

と詰め寄った時、今村は、「あ、証明書、ありますよ」と、我が意を得たりというような軽やかさで即答し、持参の資料からそれを探し出そうとした。しかし、証明するような資料はいっこうに出てこない。

 今村、「ちょっと待ってください、証明書、ありますよ」「あれ……ちょっと待ってください……。証明書出たら(どうする?)

 結局、この日、教学委員・今村は、内藤みどりと日達上人の縁戚関係を示す「証明書」を出すことができなかった。

 そして、日は変わり、六月二十七日。今度は、同県阿久根市の浄願寺に顕正会教学委員らが来て法論が行なれれた。その中に今村もいた。

 その法論の際、「細井管長(日達上人の事)は真っ黒だったって!」と大声を張り上げる今村に対して、浄願寺御住職・郷道輝御尊師が

 「証拠を出してください。どこにあるんですかげ」

と詰め寄ると、今村は「そう言っている人がいるんだよ!」と。

 その流れの中、恵楽寺での経緯を録音で聞いていた郷御尊師が、今村に対し、

 「内藤みどりが日達上人の縁戚だという証拠があると言っていたよな?見せてよ」と促した。 すると、今村は慌てて、「俺、証拠あるって言っていないぞ。わからないって言ったよ。調べておくって言ったよ。(その時の会話は)録音してるぞ。ね、録音してるぞ」と言って逃げを打ったのである。

 わずか一ヵ月前に「ある」と断言していたことを、しれっとして無かったことにしてしまうなんとも呆れた恥知らずぶりであるが、そもそも今村ら鹿児島方面の男子部は、顕正新聞発行人で副総男子部長の小沼貴寛の直轄だという。だとすれば、彼らの変節言動も小沼の入れ知恵によるものか。

 かつて小沼は、関東方面の御僧侶方と対論した際、「日達上人の臨終の件で、慧妙を破折する」と豪語し、「内藤みどりが(日達上人の)親戚であるという事実が分かったらどうしますか?」と啖呵(たんか)を切ったようだ。しかし、いまだ慧妙を破折したという事実はない。

 加えて、今回の今村の大失態によって、小沼の啖呵もハッタリだったことが露見した。小沼こそが窮地に追い込まれる事態になったのである。

 顕正新聞発行人として浅井昭衛の最も側近くにいる小沼は、日達上人御遷化にまつわる顕正会の誹毀讒謗(ひきざんぼう)には根拠がなかった、ということを、身にしみて自覚していることであろう。歴代の発行人同様、早く浅井の無節操に見切りをつけ、大謗法の道から脱出すべきである。

 

 

 

【顕正会法務部次長 菅原克仁のの愚迷を叱る―】

―これでも浅井に危険思想なしと言うか!

 『顕正新聞』(六月二十五日号)において、またまた顕正会法務部次長・菅原克仁が、本紙(六月十六日号)報道の「浅井昭衛が抱く危険思想」を否定せんとして、反論を企てている。

 この菅原の主張については、すでに本紙前号でその大筋を砕(くだ)いてあるので、ここでは補足として、もう一点を挙げておこう。

 菅原は、浅井昭衛が自著『立正安国論謹講』の中で、

涅槃経の

 「護法の優婆塞(うばそく)等は、応(まさ)に刀杖を執持(しゅうじ)して擁護(おうご)すること是くの如くなるべし。……刀杖を持(たも)つと雖(いえど)も、命を断ずべからず」

の文の通釈として、

 「正法を護(まも)ろうとする在家の信徒は、まさに刀杖を身に帯し、有徳王のごとく正法を擁護しなくてはいけない。……ただし、刀杖を持つといっても、あくまで護法のための防衛のためであって、決して軽々しく相手の命を奪(うば)ってはならない」

と書いていることをもって、浅井が防衛以外の武器の所持を明確に禁じている、としているが、これは全くのゴマカシである。

 というのは、右の浅井の文は、単に涅槃経の一節を現代語に通解したものであって、浅井自身が「明確に指導下されている」箇処などではない。浅井自身の"指導"が示される箇処は、「本文」「通釈」「語訳」の後に述べられる「講義」であって、ここに浅井の持つ主義・主張が展開されるのである。

 その「講義」を見てみると、浅井は、この大事な専守防衛ともいうべき仏法の精神について、ただの一言も触れていない。それは何故か、それを明らめるには、かつての浅井昭衛自身の異常な言動を知る必要がある。

 昭和四十七年春、当時、池田創価学会が、同年十月に完成する正本堂を広宣流布の暁の事相の戒壇にしてしまいたい、との願望を捨てきれず、顕正会(当時は妙縁寺に所属する妙信講)では、それを、大聖人の御遺命を破壊するものであり、日蓮正宗宗門も学会に操られているとして(実際はそのようなことはなかったのだが)、激しく批判していた。

 

 

【浅井の言う「護法」とは積極的な武力行使】

―それを明言した脅迫状を後から改竄!

 そのような中、浅井昭衛(当時は妙信講本部長)は日蓮正宗宗務院と時の御法主・六十六世日達上人に対し、次のような書面を送り付けた。

 「あえて違法を強行するとならば(中略)妙信講は非常手段をもってしても、断じて御遺命を護り奉る。(中略)只々在家の本分に殉(じゅん)ずるのみであります。さればその時、妙信講も斃(たお)るべし、同時に猊下の御本意を覆(おお)う学会の暗雲もなし、阿諛(あゆ)の御当局も除かる。」(六月二十二日付)

 「男子精鋭二干の憤(いきどお)りは抑(おさ)えがたく、仏法守護の刀杖(とうじょう)を帯()びるに至りました。もし妙信講一死を賭()して立つの時、流血の惨を見ること必至であります。この時、一国は震撼(しんかん)として始めて御本仏の御遺命を知り、宗務当局また始めて御遺命に背(そむ)くの恐ろしさ、正直の講中を欺(あざむ)くの深刻さをはだえに感じ、ここに誑惑(おうわく)は一挙に破れ、仏法の正義は輝くものと確信いたします。この時、妙信講も斃(たお)れ、同時に学会の暗雲もなく、宗務当局の奸策(かんさく)もなし。」(六月三十日付・傍点編集部)

 「この上は、大事出来(しゅったい)して一国の耳目(じもく)驚動(きょうどう)の時、公廷において厳たる証拠と道理を示し、一国に正義を明かすの他なく、その時はじめて彼等の誑計(おうけい)一時に破れ(中略)その時、小輩等早く霊山(りょうぜん)に詣(もう)で、宗開両祖の御尊前にて、『聖人展』の違法・『正本堂の誑惑』さし切りて言上。」(七月四日付)

 つまり、"自分達の主張を受け入れず、このまま正本堂落慶法要を強行することは御遺命の破壊であるから、武器を持った妙信講の男子精鋭二千名が仏法を守護すべく、流血の惨事となるのを覚悟でこれを阻止する。その時は自分達も死ぬが、学会・宗務院も道連れだ"というのであり、これはまさに脅迫状である(この時は日達上人の御苦心によって最悪の事態は回避できたが)

 この内容を見れば、浅井の言う「護法」「仏法守護」がいかなることか、誰の目にも明らかであろう。それは、謗法者の暴力から正法正師を守るための専守防衛などではなく、自分の教義解釈が受け入れられぬ状況を覆(くつがえ)すための積極的な武力行使であり、それを浅井は「仏法守護」「護法」と呼んでいるのだ。

 これこそ、浅井昭衛が『立正安国論謹講』の中ではボカしていた本音であり、かかる脅迫状を送っていた事実こそ、浅井が武器使用を肯定する危険思想の持ち主である、という否定することのできぬ現証である(この二年後、武器こそ持っていなかったが、妙信講の男子部七十名が創価学会本部を襲撃し、大乱闘のあげく、逮捕者十二名を出す事件も起きている)

 菅原よ、汝(なんじ)が生まれる前の事とはいえ、顕正会のお抱え弁護士として、この脅迫状送付の事実を知らぬはずがあるまい。あるいは、傍点を付けた箇処  部分の文を消して改竄(かいざん)された文面しか見ていないのかも知れぬが(浅井の書いた『御遺命守護の戦い』では、みごとに傍点箇処  部分を消して、言い逃がれができるように改竄されている)、それならそれで、浅井に誑(たばか)られていた自らの愚迷(ぐめい)を恥じよ。

 いずれにせよ、この浅井の脅迫状をどう会通(えつう)しても、浅井が防衛以外の武器の使用を禁じていた、などと言えないことは子供にでもわかる事実だ。

 菅原よ、如何(いかん)とす!?