30年前から対決を避け続けた浅井昭衛

その全経過!心ある顕正会員は目を醒ませ

(日蓮正宗法華講大講頭 理境坊所属妙観講 々頭 大草一男『慧妙』R1.6.1a

 

 去る5月19日、小生が講頭職を務める妙観講の有志が、全国の顕正会の会館を折伏に行った。その際、顕正会会長・浅井昭衛が小生との法論を避け続けている、との話題を出したところ、顕正会側から「そんな話は信じない!」「証拠を出せ!」という声が出た、とのこと。

 この件については、宗内末寺からも問い合わせをいただくことがあるので、この際、これまでの小生と浅井との絡(から)みを明らかにしておくことにしたい。

 

 

【最初はS63.9.25に文書で回答要求】

浅井は回答不能となって無視黙殺

 まず、昭和63年9月16日、浅井昭衛の長男で顕正会男子部長(当時)の克衛が、男子部10名で旧・妙観講本部(東京都小金井市)に押しかけてきた。これは当時、妙観講の折伏によって顕正会幹部が脱会しはじめたことから、ここで妙観講を叩いておこう、としての行動であった。

 克衛は、第9世日有上人・第17世日精上人・第66世日達上人への誹謗(ひぼう)や、小生らに対する中傷を口汚なくまくし立てたが、その中で特にひどかったのが、「日達上人はバケツ3杯の血を吐いて地獄に堕ちた」との謗言(ぼうげん)である。

 翌日、記録ビデオでこれを見た小生は、憤(いきどお)り抑え難く、顕正会の責任者である浅井昭衛に宛てて、克衛の謗言を糾弾し「いったい克衛君の言うごとき事を、誰が、いつ、どこで見たのか、はっきりとした根拠を挙げ、責任をもって証明してみよ」と、9月25日付で内容証明郵便を送った(写真)が、浅井はこれに回答することができず、無視黙殺を決め込んでしまった。

 

 

【浅井の戒壇論を破折論文2編で粉砕】

浅井は再反論できず会員に逃避を指示

 その後、小生は、浅井の戒壇論を破した『摧破異流義考』を書き上げ、10月30日付で浅井に送付して反論を求めた。

 だが、何らの回答もないため、11月21日付で浅井に内容証明郵便を送り、「9月25日付書面に対する回答と併せ、『摧破異流義考』に対する反論を要求」「期限は12月13日」「もし、期限までに右回答がなき場合は、君が全面的に誤りを認め、敗走したものと認定する」と通告した(写真)のである。

 これに対し浅井は、期限を過ぎた翌・平成元年1月20日付『顕正新聞』に、

 『摧破異流義考』に対する反論らしき駄文「誑惑(おうわく)正当化のこじつけ理論を破す」を発表し、これを「まさに御遺命守護の決定版、ミサイルともいうべきもの」などと自画自賛した。

 浅井は、これで小生を破折し終わって決着が付いたと思ったようだが、浅井の反論は教学的にも未熟で、かつゴマカシで塗り固めた代ろ物だったので、小生は「浅井昭衛の悪義の根を断つ」として『続・摧破異流義考』を執筆(同年4月7日発行)、浅井の反論の全てを粉砕した。

 そして、これをもって妙観講の講員達が顕正会員を折伏していったことにより、顕正会の男子部・女子部が一度に2百名以上脱会する、という事態が起こったのを始め、各地で脱会者が続出、顕正会は完全に防戦一方となった。

 本来なら、浅井は、ここで小生への再反論をすべぎであったが、もはや戒壇論では太刀打ちできないことを悟(さと)ったのであろう、会員達に「妙観講は恐るべき魔の集団、話すだけで与同罪になるから会ってはいけない」との命令を出し、機関誌には小生に対する愚劣な悪口中傷を並べて、小生及び妙観講と会員との接点を断ち、一方的に幕引きを図ってしまったのである。

 

 

【浅井の檄に男子部支隊長が奮起!

「講頭と先生で法論を」と申し入れ

 爾来(じらい)15年、小生と浅井が直接対峙(たいじ)することはなかったが、顕正会からの脱会者が止まらなくなってしまった状況に、平成16年秋頃より、浅井はついに積年の恨みを爆発させた。会合などの場で、理境坊住職小川只道御尊師や小生らの名を挙げて、再び口汚なく誹謗すると共に、「これらの悪人を追放しよう!」と会員に訴えた(写真)のである。

 これを聞いて勇み立った男子部・支隊長の宮下某は、同年11月17日、小生を追放せよとの浅井の檄(げき)が載った『顕正新聞』を携(たずさ)え、小生の長野県の実家を訪れて、

 「浅井先生をお連れするから、大草講頭と浅井先生で、ぜひ法論をしていただきたい」

と申し入れてきた。

 もちろん小生に異存のあろうはずがない。副講頭を通じ、直ちに宮下某に応諾の意志を伝え、法論の条件として「敗者が勝者の弟子になる」との一箇条を提示したのである。

 宮下某は「では法論をする運びで、浅井先生に報告する」と約束し、それを顕正会へと持ち帰った。

 だが、それから何の連絡もないため、しびれを切らして当方から宮下某に電話をしたが、まったくつながらない。

 これは、またしても浅井昭衛が小生との法論から逃げようとしているに違いない、と判断した妙観講の講員有志は、各地の顕正会の会館前で法論実現を促すチラシを配布。すると顕正会の隊長クラスからも、随所で「この一対一の法論に期待する」「先生に法論実現を上申する」との声が上がりはじめた。

 その上、元・顕正会員が浅井宅にも、法論から逃げぬよう、チラシを投函した(写真)ため、さしもの浅井も無視黙殺するのが難しくなっていった。

 

 

【浅井が考えついた法論回避の奇策】

これが「対決申し入れ書」を出した真相だ

 そこで浅井が考えついた窮余(きゅうよ)の一策が、なんと、日顕上人猊下に無理難題の条件の付いた法論を要求することだった。

 何が無理難題かというと、浅井は、もし日顕上人が法論に敗れたときは直ちに大御本尊の御開扉を中止せよ、との条件を付けたのである。およそ、宗旨の根本にして仏法の極地たる大御本尊を法論の条件に利用するなど、御宗門として呑めようはずがない。当然である。

 その上、浅井は狡猜(こうかつ)にも、もし日顕上人が不都合の場合には、日顕上人と同等の責務を負うことを条件として、僧侶・信徒を問わず代人を立てることを認める、などという付随事項まで付け加えてきた(写真)

 わざわざ「信徒を問わず」と入れたのは、小生を念頭に置いてのことだろうが、もとより御宗門として呑めない条件の法論に、小生ごときが、それも畏(おそ)れ多くも猊下の代人として出ることなど、絶対にありえない。これまた当然の道理である。

 されば、この法論は実現するはずがない、それを見越した上で浅井は、わざわざ「対決申し入れ書」を日顕上人に送達し、平成17年3月28日の総幹部会の席上、"日顕上人に法論の申し入れを行なった"と発表した。

 こうして浅井は、日顕上人が法論から逃げた、大草も逃げた、という筋書ぎを、妄信の会員達に信じ込ませ、宮下某が口火を切った小生との一対一の法論から、まんまと逃避してしまったのである。

 

 

【逃げ続ける浅井に法論開始を促す】

無慚無愧の浅井よ、観念して法論に出よ

 この浅井の奸計(かんけい)に騙(だま)された顕正会員達が、近年においても、妙観講の講員に向かって「いつも大草は法論から逃げる」「なぜ大草が平成17年3月の対決申し入れから逃げたのか、説明しろ」等々と真顔で言ってくるという。だが、これまでの経緯で明らかなとおり、常に回答不能となり、法論から逃げ回ってきたのは、浅井昭衛の側である。

 そこで小生は、本紙4月1日号に、浅井に法論実現を促す一文を発表した(写真)のだが、またも浅井は黙(だんま)りを決め込んでいる。まったく情けない、というか、無慚(むざん)この上ない。

 そもそも日蓮大聖人は

 「一丈のほり()をこへぬもの十丈二十丈のほりを越ゆべきか」(御書P1058)

と仰せである。一在家(それも除名された謗法者)の浅井昭衛が、在家同士の一対一の法論から逃げ回わりながら、御宗門に向かって(それも宗祖大聖人の後継者たる御法主上人を相手取って)法論を要求するなど、千年早い。まずは一丈の堀を越えるべき(小生との法論で正邪を決すべき)が道理である。

 最後に、紙面を借りて浅井昭衛に告ぐ。其方が最初の文書対決を逃げてから30年も経ってしまったが、今からでも遅くはない、いいかげんに観念して小生との法論に立ったらどうか。

 急がないと、其方の余命が尽きて、罪障消滅の機会を失うことになろう。

 法論の条件は「敗者が勝者の弟子となる」ただ、この一箇条である。