内証と外用とを混同した言いがかり

―池田はかつて「猊下は大聖人」と指導―
(『慧妙』H23.12.1)

 創価学会は池田大作の大謗法の核心ともいうべき「会長本仏論」を破折された腹いせなのか、破門以降、御法主上人の御内証である唯授一人の血脈に対して、あろうことか「法主本仏論」などという表現をもって誹謗(ひぼう)してきた。
 学会がそのような言いがかりをつけてきた端緒(たんしょ)は、いわゆる「能化文書」の中に「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします」(『大日蓮』H3.9P87)
との文があったことに依(よ)っているが、それは、まったくの曲解から捻(ひね)り出した、的はずれな論難である。
 学会は文書中の「血脈の当処」を「御法主上人」と全同であると決めつけ、それならば法主が本仏だということになる、と主張しているのである。
 しかしこれは、唯授一人血脈付法の御法主上人について、所持あそばされる御内証と外用とを、悪意をもって混同したものである。
 御隠尊日顕上人は、
●たしかに本宗信徒の立場からは、歴代法主の内証を大聖人様と拝することが、信仰上、大切でありますが、そこには三宝における内証と外用等の甚深の立て分け、筋道があるのです。(中略)しかし、それと学会が論難する「法主即大聖人」や「法主本仏」などとは、筋道も意義も異なるのであり、そのようなことは全く宗門には存在しておりません(『仏法破壊の邪難を粉砕す』P245)
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と、御法主における内証と外用の立て分けを示し、法主本仏などということは全く存在しない、と明確に破折されている。

さて、翻(ひるがえ)って創価学会2代会長である戸田城聖氏は、次のように指導していた。
◆御法主上人は唯授一人、64代のあいだを、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下を通して大御本尊様を拝しますれば、かならず功徳がでてくる。(『戸田城聖全集』第4P399)
◆法水写瓶(ほっすいしゃびょう)というのは、ここに2つの茶碗が、どんな形に変わっても、この中の水をうつせば中の水は変わらないのであります。ですから、代々の御法主上人は、お人によって、いろいろとお姿は違うのでありますが、日蓮大聖人の法水が、そのまま変わりなく移されているのであります。(『戸田城聖全集』第5巻P439)
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これらは内証と外用をしっかりと立て分けた正論であり、先の日顕上人の御指南とも符合するものである。

次に、破門される前の池田の指導を見てみよう。
◆本宗における厳粛なる法水潟瓶唯授一人の血脈は、法灯連綿と、代々の御法主上人に受け継がれて、今日に至っております。あくまでも、御本仏は、日蓮大聖人様であらせられ、唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります。私がごとき者を、かりそめにも、本仏などと、言うことはもちろん、思ったりすることも謗法なのであります(池田大作『大白蓮華』S54.6P16)
◆御法主上人猊下に対しては、御法主上人猊下こそ経文に説かれている遣使還告(けんしげんごう)のお立場、すなわち大聖人様と拝してお仕え申し上げていくことでありました。これが唯一の学会精神であります(池田大作『会長講演集』第4巻P145)
◆御法主上人猊下様は遣使還告で、日蓮大聖人様と拝し奉るのです。このことは信心の上からはっきりしたものです(池田大作『巻頭言・講義集』第3巻P184)
◆遣使還告であられる御法主上人猊下は、日蓮大聖人様であります(池田大作『会長講演集』第10巻P43)
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同趣旨の指導を挙(あ)げれば、枚挙に遑(いとま)がない。そして、これらもまた、正しい立て分けの上に、信徒の立場からの御法主上人の拝し方が指導されている。これらの指導を基にして、冒頭の能化文書を、いま1度、読んでみよう。

●唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします
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その正意は明白であろう。「法主本仏論」なる言葉は為(ため)にする誹謗でしかなく、曲解による当てつけであることが明らかである。

最後に、このような難癖(なんくせ)を付けて御法上人を誹謗する者への、池田の戒(いまし)めの指導を紹介する。
●いま、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきことである。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである。(池田大作『広布と人生を語る』第3巻P294)


▲かつての池田の"正論"が載る『巻頭言・講演集』