「貫首」の範囲について

(試論<法蔵>H22.3.7)

①時の貫首或は習学の仁に於ては、設(たと)い一旦の媱犯(ようはん)有りと雖も衆徒に差置く可き事(『日興遺誡置文』全集1619頁)

②時の貫首為りと雖も仏法に違背して己義を構えば之を用う可からざる事(『日興遺誡置文』全集1618頁)


【重須の貫首】
●大石寺建立(大坊棟札)(正応〈1290〉3年10.12『富士年表』)
●日興 日目に法を内付し本尊を授与〔譲座本尊〕(正応〈1290〉3年10.18『富士年表』)
●日興 重須に御影堂を建立して移る(永仁6〈1298〉年2.15『富士年表』)
●日興 遺誡置文二十六ケ条を定む(元弘3〈1333〉年1.13『富士年表』)
●二祖日興 重須に入滅(元弘3〈1333〉年2.7『富士年表』)
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日興上人が重須に移られて35年後に著わされたのが『日興遺誡置文』である。そうであれば重須の日興上人を「貫首(かんず)」と称しても不思議ではない。

●粤(ここ)に、興師御遷化たりと雖も最前厳重の遺状賜るが故に代師を崇敬すること先師に違はず、興師の跡を相続し重須の貫長と作る(第17世日精上人著『家中抄』/『富要』第5巻203頁)

●[貫首]〔「かんしゅ」とも。貫籍(かんじやく)の筆頭人の意〕
(1)最上位の人。「家の―として一門の間に(けん)をおし開き/海道記」
(2)蔵人頭(くろうどのとう)の別名。
(3)天台座主(ざす)の別名。のち各宗派の本山や諸大寺の管長の呼称。管主(かんしゆ)。貫長。(『大辞林』第2版)



【総貫首】
1●但し直授結要付嘱は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付嘱せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(『百六箇抄』全集869頁)
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第59世日亨上人は「後加と見ゆる分の中に義において支語なき所には一線を引き」(『富士宗学要集』第1巻25頁)とあるごとく、史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのである。後加文だといって無視する学会だが、少なくとも日亨上人の御指南であると考えるべきである。

[大将]=全軍または一軍の指揮・統率をする者。(『大辞泉』)
[総大将]=全軍を指揮する大将。(『大辞泉』)

「総貫首」といえば大石寺の住職に限定されるが、単に「貫首」といえば重須の住職も含まれる。

唯授一人に関する種々の御指南からすれば、上記①②の「貫首」とは、重須の住職に限定されるべきである。

●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり(『池上相承書』全集1600頁)
●日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、(中略)血脈の次第 日蓮日興(『身延相承書』全集1600頁)
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もし、結要付属に総別がないのであれば、大聖人は日興上人御一人を付弟とし、「背く在家出家共の輩は非法の衆たるべき」とは仰せにならなかったであろう。また「血脈の次第」とは、この血脈に順序・次第があるということである。もし、血脈に総別がないのであれば、大聖人滅後も含めて全ての門下が平等に血脈を受けられるのだから順序・次第が存在するはずがないし、日興上人への付嘱をわざわざ文書によって証明する必要もない。唯授一人の血脈だからこそ順序・次第が存在するのである。

●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
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「塔中及び蓮・興・目」とあるように、塔中における上行菩薩への別付嘱(内証相伝)が、末法においては唯授一人血脈相承として歴代上人に伝わっています。



【貫首の「己義」(上記②)】
●一分の信あり、一分の行あり、一分の学ある者が、なんで仏法の大義を犯して勝手な言動をなそうや。(中略)いかに考えても、偶然に、まれに起こるべき不祥事としか思えぬ。(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝(下)』270頁)
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 日亨上人は"貫首が仏法に違背して己義を構えるはずがない"というお考えであることがよく分かる。「一分の信あり、一分の行あり、一分の学ある者」が「仏法の大義を犯して勝手な言動」をするはずがない、ましてや「日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付嘱せしめ」(下記1●)られた血脈付法の「総貫首」(1●)においてをや。
 『日興遺誡置文』が作成され、日興上人が御遷化されてほどなくして、重須第2代貫首となった日代が方便品読不の問答で「己義」を構えた史実(下記参照)から推測するに、当該御文の「貫首」とは別して重須の住職を指していたものとも考えられる。近い将来に起こるであろう混乱を予期された日興上人の深いご配慮が「貫首」云云の遺誡となったのではあるまいか。
 とはいえ、日代の主張も「種本脱迹を明らかに立てており、当時の富士門家一方の旗頭として、その教学の大綱に外れるところはなかった」(下記2●)のであるから、「仏法の大義を犯」したとまでは言えないのかも知れない。


<方便品読不の問答>
●日興上人御跡の人人面面に法門立て違へ候、或は天目に同じて方便品を読誦せず、或は鎌倉方に同じて迹門得道の旨を立て申し候、唯日道一人正義を立つる間強敵充満候(建武2年正月の日道上人より日尊への書簡『日宗全』2-262/『日蓮正宗要義』初版249頁)
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正慶2年日興上人、日目上人相次いで遷化の後、日仙、日代の方便品読不の問答を切っ掛けに、門下の争論を来したことについて(『日蓮正宗要義』初版249頁)
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 ここで日道上人の教学について述べよう。かの仙代問答は日仙が方便品は無得道の教であるから読むべからずと立てるのに対し、日代は大聖人日興上人の先例を引いて方便読誦を主張したが、この問題が更に尾を引いて論ぜられる間に、日代の説が迹門得道の意を含むようになったという大石記の説が妥当でもあろう。
 日仙の義は日興上人違背の弟子たる天目の方便品不読に同ずるもので、先師違背を免れないが、むしろ日代方便読誦を主張しつつ、理由づけの点で本迹一致的な主張に落ちたようである。大石記によれば重須の地頭石川殿の発義でこの読不問題に日道上人の採決を求められ、「(本門の)施開廃の三ともに迹(門の施開廃の三義)は捨てら(れて実義を失うものとな)るべし(したがって所破のため読むべし)」と返事されたという。また日叡類集記によるに、日道上人は本迹勝劣を立て、読誦について「開迹顕本の心」といわれるところに、本門体内の迹門を読誦の意とすることを示しているようである。更に日代妙性日道の問答記録でも、所破のために読む迹は本門を開会した迹門で、その迹の文を借りて本門を知ることを述べられている。故に日道上人は日尊への自負の如く、方便不読と迹門得道の何れにも与せず、本門の正義において方便読誦に関する所破・借文の二義を立てられたようである。この問題に関しても、日道上人と三位日順は同一の義であったといえるし、後年の日寛上人の巧妙周到な論証もその綱格は既に日道上人及び日順にあったことが看取される。(『日蓮正宗要義』初版250頁)

2●要するに日代の教判論としては、明らかに本因妙を立て、また一品二半より一重立入る判教を日興上人より受ける点、五段の相対に暗いとはまったく考えられないが、むしろ一歩手前の文上本迹のけじめについて天台流の解釈があったといえる。文上本迹いわゆる経旨本迹に限定するならば、天台の一経付嘱の立場において一括する故に、外用においての本迹一致は当然である。但し末法大聖人の五重の相対観において、従浅至深の綱格よりすれば、釈尊の本迹についても相対して勝劣を立てなければならない。そして本門体内の迹と体外の迹とのさばきが生ずる。この辺が当時の読誦論に関連する教判の問題点であったと思われる。上野重須の所破、借文義はともに本迹相対して、迹門無得道と勝劣を立て分けた上での本門体内の迹門、いわゆる大聖人の観心本尊得意妙の
 「今我等が読む所の迹門」(新定2-1355)
についての2義であり、日代を中心とする各方面との問答対論を通じて、富士門家の教学的棟梁である日道上人によって、日興上人の義が更に明らかに確認されたものである。
 次に日代の重須離山の原因も日叡の問答記録と、大石記との2説があり、日精上人は叡記の本迹迷乱による重須大衆の擯斥説を採って、大石記の焼亡による退出説を退けられているが、離山については問答の顧末によるのみの擯斥とか、焼亡とかの一原因だけとは必ずしも言い切れないのではなかろうか。ともあれその要因が重須後董日妙と当時の地頭との背後関係にあったことは言えるようである。
 また日印の質問に対する本門寺建立時の造像を示す文の真意は、前来ふれているのでここでは省略するが、寸条を付記すればかの文の後に、大聖人の臨終における大曼荼羅奉掲を述べてその正意を示している点、日代の意を知るべきであろう。
 要するに日代は大曼荼羅本尊論であるとともに、種本脱迹を明らかに立てており、当時の富士門家一方の旗頭として、その教学の大綱に外れるところはなかったのである。(『日蓮正宗要義』初版264頁~)