相伝を知らない悪行

―大聖人の御制誡に背逆―
(『大白法』H24.6.1)

【依義判文の正義】
 『創価新報』では、性懲りもなく、
 「"法主の開眼が不可欠"なる言い分は御書のどこにもない邪義」(『創価新報』H23.12.7)
などと、御法主上人の開眼がないことを挙げて『ニセ本尊』を破折されることに、何とか言い訳し正当化しようとしている。
 「御書にない」と言いさえすれば、それでまかり通ると思い込んでいる様は、何とも哀れなものだ。
 「依義判文」の意義を知らないのだろうか。正義に基づいて御書を拝してこそ、その文意も正しく知ることができるのであり、そこから離れてしまえば、いかに御書を拝そうとも、その意義内容を正しく理解することなどできない。
 その根本とすべき正義こそが、唯授一人血脈相承に存するのである。故に、この御相承から離れれば、御書の文意を正しく拝することなどできない。
 その証拠に、他の日蓮各派でも御書を読むが、7百年来、全く正解に到達できずにいるではないか。


【正義は付嘱にある】
 日蓮大聖人は『三大秘法稟承事』に、
●此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)、地涌千界の上首として、日蓮慥(たし)かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾(けに)計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり(『三大秘法稟承事』御書P1595、全集P1023)
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と、釈尊よりの口決相承を示されている。
 これは、一往外用の御立場を前提とされて釈尊からの付嘱という形式を用いられているものの、再往内証深秘の上から考えれば、この三大秘法は釈尊の所有ではなく、元来が大聖人御所持の法体なのである。
 その深義はさておき、大聖人は「日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承」とまで仰せになり、御相承の重要性を教示されている。にもかかわらず、この御相承を軽んずることは、大聖人の御指南に背く所業に他ならず、これではいかに仏法を学ぽうと、正義に通達することなど、夢のまた夢である。


【根本の筋目たる血脈相承】
 また、大聖人は御入滅に際し、その一期御化導の締め括りとして、
●日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す(『身延相承書』御書P1675、全集P1600)
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と遺言せられた。
 この「日蓮一期の弘法」の正体とは、大聖人御教示の三大秘法にして、その中心は本門戒壇の大御本尊に在すのである。そして、
●上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(『百六箇抄』御書P1702、全集P869)
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と示され、尽未来際に至るまで、大聖人の仏法の正義たる三大秘法は、付嘱によって相伝されると遺誡された。
 今、その正義は、御法主日如上人猊下が伝持されるところであり、そのお立場に基づき、御書写をはじめ御本尊に関する一切の権能を所持されるのである。
 この正しい筋目から離れて、どうして正義が語れようか。したがって理の推すところ、創価学会が独自に作製販売する『ニセ本尊』には、いささかも大聖人の正義は存しないのである。


【創価の立義は御書にある?】
 逆に、「御書のどこにもない邪義」と言い張る学会員に聞いてみたいものだ。
 「大聖人直結」なる語は御書のどこにあるのか?
 「友人葬」はどこに示されているのか?
 「永遠の指導者」の意義は御書に書かれているか?
 そもそも「創価」の語が御書のどこにあるのか、と。
 これらは、すべて造語であるから、血眼(ちまなこ)になって探しても見つかりはしない。
 詰まるところ、創価学会は、大聖人直結、御書根本などと言いながらも、その意味するところは、池田大作が解釈する御書の説明に直結しているに過ぎない。
 池田教とか池田創価学会と呼称される所以であり、大作の大謗法が、こうやって学会員の命の奥底にまで浸潤していくのである。
 大作の恣意に翻弄(ほんろう)されていながら、「大聖人直結」「御書根本」とは、全くもって呆れた言い分である。