『曾谷殿御返事』と総別の二義

曾谷殿御返事
建治二年八月二日  五五歳

 夫(それ)法華経第一方便品に云はく「諸仏の智慧は甚深無量なり」云云。釈に云はく「境淵(きょうえん)無辺なる故に甚深と云ひ、智水測り難き故に無量と云ふ」と。抑(そもそも)此の経釈の心は仏になる道は豈境智の二法にあらずや。されば境と云ふは万法の体を云ひ、智と云ふは自体顕照の姿を云ふなり。而るに境の淵(ふち)ほとりなくふかき時は、智慧の水ながるゝ事つゝがなし。此の境智合しぬれば即身成仏するなり。法華以前の経は、境智各別にして、而も権教方便なるが故に成仏せず。今法華経にして境智一如なる間、開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり。此の内証に声聞・辟支仏更に及ばざるところを、次下に「一切声聞辟支仏所不能知」と説かるゝなり。此の境智の二法は何物ぞ。但南無妙法蓮華経の五字なり。此の五字を地涌の大士を召し出だして結要付属せしめ給ふ。是を本化付属の法門とは云ふなり。
 然るに上行菩薩等末法の始めの五百年に出生して、此の境智の二法たる五字を弘めさせ給ふべしと見えたり。経文赫々(かくかく)たり明々たり。誰か是を論ぜん。日蓮は其の人にも非ず、又御使ひにもあらざれども、先づ序分にあらあら弘め候なり。既に上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて、末代悪世の枯槁(ここう)の衆生に流れかよはし給ふ。是れ智慧の義なり。釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。又是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死のもとゐたらん。例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は、全く弥陀・薬師に遇ひて成仏せず。譬へば大海の水を家内へく(汲)み来たらんには、家内の者皆縁をふるべきなり。然れども汲み来たるところの大海の一滴を閣(さしお)きて、又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり、大愚癡なり。法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余(よそ)へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし。但し師なりとも誤ある者をば捨つべし。又捨てざる義も有るべし。世間仏法の道理によるべきなり。末世の僧等は仏法の道理をばしらずして、我慢に著(じゃく)して、師をいやしみ、檀那をへつらふなり。但正直にして少欲知足たらん僧こそ、真実の僧なるべけれ。文句の一に云はく「既に未だ真を発さゞれば第一義天に慙(は)じ諸の聖人に愧(は)づ。即ち是れ有羞(うしゅう)の僧なり。観慧(かんね)若し発するは即真実の僧なり」云云。涅槃経に云はく「若し善比丘あって法を壊(やぶ)る者を見て、置いて呵責(かしゃく)し駈遣(くけん)し挙処(こしょ)せずんば、当(まさ)に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子、真の声聞なり」云云。此の文の中に見壊法者(けんねほうしゃ)の見と、置不呵責(ちふかしゃく)の置とを、能く能く心腑(しんぷ)に染むべきなり。法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし。南岳大師の云はく「諸の悪人と倶(とも)に地獄に堕ちん」云云。謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべ。しはかなしはかなし。何(いか)に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にを(堕)つべし。うるし(漆)千ばい(杯)に蟹の足一つ入れたらんが如し。「毒気深入、失本心故」とは是なり。経に云はく「在々諸の仏土に常に師と倶に生ぜん」と。又云はく「若し法師に親近せば速やかに菩薩の道を得、是の師に随順して学せば恒沙(ごうじゃ)の仏を見たてまつることを得ん」と。釈に云はく「本(もと)此の仏に従ひて初めて道心を発し、亦此の仏に従ひて不退の地に住す」と。又云はく「初め此の仏菩薩に従ひて結縁し、還(また)此の仏菩薩に於て成就す」云云。返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。釈尊は一切衆生の本従の師にて而も主親の徳を備へ給ふ。此法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆ふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然れどもいまだこりず候。法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。恐恐謹言。

 建治二年丙子八月二日
日 蓮  花 押
曾谷殿


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 夫(それ)法華経第一方便品に云はく「諸仏の智慧は甚深無量なり」云云。釈に云はく「境淵(きょうえん)無辺なる故に甚深と云ひ、智水測り難き故に無量と云ふ」と。抑(そもそも)此の経釈の心は仏になる道は豈境智の二法にあらずや。されば境と云ふは万法の体を云ひ、智と云ふは自体顕照の姿を云ふなり。而るに境の淵(ふち)ほとりなくふかき時は、智慧の水ながるゝ事つゝがなし。此の境智合しぬれば即身成仏するなり。法華以前の経は、境智各別にして、而も権教方便なるが故に成仏せず。今法華経にして境智一如なる間、開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり。此の内証に声聞・辟支仏更に及ばざるところを、次下に「一切声聞辟支仏所不能知」と説かるゝなり。此の境智の二法は何物ぞ。但南無妙法蓮華経の五字なり。此の五字を地涌の大士を召し出だして結要付属せしめ給ふ。是を本化付属の法門とは云ふなり。
 然るに上行菩薩等末法の始めの五百年に出生して、此の境智の二法たる五字を弘めさせ給ふべしと見えたり。経文赫々(かくかく)たり明々たり。誰か是を論ぜん。日蓮は其の人にも非ず、又御使ひにもあらざれども、先づ序分にあらあら弘め候なり。
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●仏になる道は豈境智の二法にあらずや
●境智の二法は何物ぞ。但南無妙法蓮華経の五字なり。
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仏になる道は「境智の二法」=「南無妙法蓮華経の五字」である。

●此の五字を地涌の大士を召し出だして結要付属せしめ給ふ。
●上行菩薩等末法の始めの五百年に出生して、此の境智の二法たる五字を弘めさせ給ふべし
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釈尊は南無妙法蓮華経の五字を上行菩薩等に結要付嘱した。故に上行菩薩等が末法の始めにこの五字を弘める。

※以上のように『曾谷殿御返事』は、冒頭より、結要付嘱についてのみ述べられている。



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既に上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて、末代悪世の枯槁(ここう)の衆生に流れかよはし給ふ。是れ智慧の義なり。釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。又是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死のもとゐたらん。例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は、全く弥陀・薬師に遇ひて成仏せず。譬へば大海の水を家内へく(汲)み来たらんには、家内の者皆縁をふるべきなり。然れども汲み来たるところの大海の一滴を閣(さしお)きて、又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり、大愚癡なり。法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余(よそ)へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし。(中略)釈に云はく「本(もと)此の仏に従ひて初めて道心を発し、亦此の仏に従ひて不退の地に住す」と。又云はく「初め此の仏菩薩に従ひて結縁し、還(また)此の仏菩薩に於て成就す」云云。返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。釈尊は一切衆生の本従の師にて而も主親の徳を備へ給ふ。此法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆ふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然れどもいまだこりず候。法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。恐恐謹言。
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 「釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ」の御文は、別して釈尊から上行菩薩へ結要付嘱されたことであり、大前提としてまず、別して能化から能化への唯仏与仏の付嘱があって、「上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて、末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給ふ」の御文は、それを受けて、総じて上行菩薩から末法の衆生への付嘱があること、つまり能化から所化への付嘱を示されているのです。
 そして、「上行菩薩」と「末代悪世の枯槁の衆生」とは、日蓮大聖人と私たち末法の衆生を意味します。したがって、「日蓮又日本国にして此の法門を弘む」の御文は日蓮大聖人の御化導においても、「釈尊→上行」「上行→末代衆生」と同様、付嘱ということに二義があることを示しています。それは、「又是には総別の二義あり」との御文に示される通り、最初に大聖人から日興上人、日目上人へと、師弟に(能化から能化)、唯仏与仏の御境界の上の付嘱があって、そこから総じての血脈、一切衆生に(能化から所化)、信心の血脈が繋(つな)がっていくのです。これが厳然と存在する「総別の二義」の立て分けです。もしこれを見誤ることになれば、「総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず」との御教示に照らし、堕地獄は免れ得ないことになります。(『大白法』H26.6.1)

<「妙法の智水」=「智慧の水」=「本化付嘱の法門」=血脈>
●此の五字を地涌の大士を召し出だして結要付属せしめ給ふ。是を本化付属の法門とは云ふなり。
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釈迦如来より「地涌の大士」へ付嘱されたのは本化付嘱の「法門」である。

●上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて、末代悪世の枯槁(ここう)の衆生に流れかよはし給ふ。是れ智慧の義なり。釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む
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上行菩薩より釈迦如来へ伝えられた「妙法の智水」とは「法門」である。

●[血脈]=師匠から弟子へ法門が受け伝えられるさまを人体の血脈が絶えることなく連なっていることに譬えたもの。その伝法に書伝、口伝、心伝がある。(『新版仏教哲学大辞典』初版)
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血脈とは師匠から弟子へ伝えられる法門のことである。

以上のことから

「妙法の智水」=「智慧の水」=「本化付嘱の法門」=血脈

である。

※当該御文の「総別の二義」とは血脈・付嘱に関する御指南である。よって「例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし」以下の例示も血脈・付嘱に関するものでなければならない。



@大通智勝仏→釈尊(16人の弟子の1人)→娑婆世界の衆生(在世「今日の声聞」)
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●此の世界の六道の一切衆生は他土の他の菩薩に有縁の者一人も之無し、法華経に云く「爾の時に法を聞く者は各諸仏の所に在り」等云云、天台云く「西方は仏別に縁異り故に子父の義成せず」等云云、妙楽云く「弥陀釈迦二仏既に殊なり況や宿昔の縁別にして化導同じからざるをや結縁は生の如く成熟は養の如し生養縁異れば父子成ぜず」等云云、当世日本国の一切衆生弥陀の来迎を待つは譬えば牛の子に馬の乳を含め瓦の鏡に天月を浮ぶるが如し(『法華取要抄』全集332頁〜)
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師を選ぶ上で大切なことは、我々に有縁であるか否かということ。

●阿弥陀仏等の十六の仏は昔大通智勝仏の御時・十六の王子として法華経を習つて後に正覚をならせ給へりと見えたり、弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は妙法蓮華経の五字を習つてこそ仏にはならせ給ひて侍れ(『題目弥陀名号勝劣事』全集115頁)
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大通智勝仏の16人の弟子の中には阿弥陀仏もいた。釈尊も阿弥陀も同じ師匠から教えを受けたのであれば、阿弥陀の教化を受けてもよさそうなものだが、有縁の方以外の教化では「他方の大海の水を求めん事」となり「大僻案」である。

●教主釈尊は娑婆世界の衆生には主師親の三徳を備て大恩の仏にて御坐す此の仏を捨て他方の仏を信じ弥陀薬師大日等を憑み奉る人は二十逆罪の咎に依つて悪道に堕つ可きなり(『念仏無間地獄抄』97頁〜)
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当該御書では釈尊を師と崇めるべき理由として娑婆世界に縁のあることを挙げられている。16人の弟子のうち娑婆世界を教化されたのは釈尊のみであるから、娑婆世界の衆生にとっては大通智勝仏→釈尊→という付嘱によってのみ正しい教えを受けられるのである。

※以上は在世「今日の声聞」が崇めるべき仏について論じられたものであるが、結縁の有無を付嘱の総別にあてはめられていると考えられる。


A釈尊→上行菩薩(地涌の菩薩の上首)=日蓮大聖人
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●但南無妙法蓮華経の五字なり。此の五字を地涌の大士を召し出だして結要付属せしめ給ふ。是を本化付属の法門とは云ふなり。
 然るに上行菩薩等末法の始めの五百年に出生して、此の境智の二法たる五字を弘めさせ給ふべしと見えたり。
●釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。
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「南無妙法蓮華経の五字」は総じて「上行菩薩等」の「地涌の大士」に「結要付属」されたのであるが、別して「上行菩薩」御一人へ「譲り与」えられたのである。

●二仏並座・分身の諸仏集まつて是好良薬の妙法蓮華経を説き顕し釈尊十種の神力を現じて四句に結び上行菩薩に付属し給う其の付属とは妙法の首題なり(中略)秘す可し秘す可し唯受一人の相承なり、口外す可からず(『御義口伝』全集782頁〜)
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「四句に結び上行菩薩に付属し給う」「唯受一人の相承なり」とあるように、結要付属は別して上行菩薩一人への付嘱である。そのことは、上行菩薩の再誕である日蓮大聖人御一人が末法に御出現になり、下種仏法の法体を建立弘通されたという歴史的事実とも符合する。


B日蓮大聖人→日興上人(六老僧の1人)→
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●日蓮又日本国にして此の法門を弘む。又是には総別の二義あり。
●「初め此仏菩薩に従つて結縁し還つて此仏菩薩に於いて成熟す、此に由つて須らく下方を召すべきなり」と云ふ文句の文なり、(中略)此仏と云ふも此の菩薩と云ふも・共に久遠元初仏菩薩同体名字の本仏なり、末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり、猶一層端的に之を云へば・宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり(第59世日亨上人著『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻117頁)
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「是即血脈の直系なり」とあるように、血脈に直系傍系がある。直系とは別しての唯授一人の血脈であり、傍系とは総じての信心の血脈である。


結縁の有無や付嘱の内容によって、付嘱に総別が存在する。我々は、あくまでも血脈の直系、別付嘱の方に随順しなければならない。



●昔三千塵点劫の当初・大通智勝仏と申す仏います其の仏の凡夫にていましける時十六人の王子をはします、彼の父の王仏にならせ給ひて一代聖教を説き給いき十六人の王子も亦出家して其の仏の御弟子とならせ給いけり、大通智勝仏法華経を説き畢らせ給いて定に入らせ給いしかば十六人の王子の沙弥其の前にしてかはるがはる法華経を講じ給いけり、其の所説を聴聞せし人幾千万といふ事をしらず当座に悟をえし人は不退の位に入りにき、又法華経をおろかに心得る結縁の衆もあり其の人人・当座中間に不退の位に入らずして三千塵点劫をへたり、其の間又つぶさに六道四生に輪廻し今日釈迦如来の法華経を説き給うに不退の位に入る所謂・舎利弗・目連・迦葉・阿難等是なり猶猶信心薄き者は当時も覚らずして未来無数劫を経べきか知らず我等も大通智勝仏の十六人の結縁の衆にもあるらん(『唱法華題目抄』全集1頁〜)

●大通結縁の者をあらあらうちあてがい申すには名字観行の者とは釈せられて侍れども正しく名字即の位の者と定められ侍る上退大取小の者とて法華経をすてて権教にうつり後には悪道に堕ちたりと見えたる上正しく法華経を誹謗して之を捨てし者なり、設え義理を知るようなる者なりとも謗法の人にあらん上は三千塵点無量塵点も経べく侍るか(『唱法華題目抄』全集2頁〜)

●彼の久遠下種・大通結縁の者の如き五百・三千の塵劫を経るが如きは法華の大教を捨てて爾前の権小に遷るが故に後に権経を捨てて六道を回りぬ(『守護国家論』全集56頁)

●大通結縁の者の三千塵点を経しは法華経を退して権教に遷りしが故なり(『守護国家論』全集71頁)

●大通智勝仏の十六王子・十方に土をしめて一一に我が弟子を救ひ給ふ、其の中に釈迦如来は此土に当り給ふ我等衆生も又生を娑婆世界に受けぬ、いかにも釈迦如来の教化をばはなるべからず而りといへども人皆是を知らず委く尋ねあきらめば唯我一人能為救護と申して釈迦如来の御手を離るべからず、而れば此の土の一切衆生・生死を厭ひ御本尊を崇めんとおぼしめさば必ず先ず釈尊を木画の像に顕わして御本尊と定めさせ給いて其の後力おはしまさば弥陀等の他仏にも及ぶべし。
 然るを当世聖行なき此の土の人人の仏をつくりかかせ給うに先ず他仏をさきとするは其の仏の御本意にも釈迦如来の御本意にも叶ふべからざる上世間の礼儀にもはづれて候(『善無畏三蔵抄』全集885頁)

●浄土宗は主師親たる教主釈尊の付属に背き他人たる西方極楽世界の阿弥陀如来を憑む故に主に背けり八逆罪の凶徒なり違勅の咎遁れ難し即ち朝敵なり争か咎無けんや、次に父の釈尊を捨つる故に五逆罪の者なり豈無間地獄に堕ちざる可けんや、次に師匠の釈尊に背く故に七逆罪の人なり争か悪道に堕ちざらんや此の如く教主釈尊は娑婆世界の衆生には主師親の三徳を備て大恩の仏にて御坐す此の仏を捨て他方の仏を信じ弥陀薬師大日等を憑み奉る人は二十逆罪の咎に依つて悪道に堕つ可きなり(『念仏無間地獄抄』97頁〜)

●経に云く「我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩有り一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属有り是の諸人等能く我が滅後に於て護持し読誦し広く此の経を説かん、仏是を説きたもう時・娑婆世界の三千大千の国土・地皆震裂して其の中より無量千万億の菩薩摩訶薩有り同時に涌出せり、乃至是の菩薩衆の中に四たりの導師有り一をば上行と名け二をば無辺行と名け三をば浄行と名け四をば安立行と名く其の衆の中に於て最も為上首唱導の師なり」等云云、天台云く「是れ我が弟子応に我が法を弘むべし」云云、妙楽云く「子父の法を弘む」云云道暹云く「付属とは此の経は唯下方涌出の菩薩に付す何が故に爾る法是れ久成の法なるに由るが故に久成の人に付す」等云云(『曾谷入道殿許御書』全集1033頁)




【問答篇】
―日顕上人の御指南について―
(『慧妙』H23.4.16)

〈法華講員A〉次に、『曾谷殿御返事』には
●既(すで)に上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて、末代悪世の枯槁(ここう)の衆生に流れかよはし給ふ。(中略)然(しか)るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。又是には総別(そうべつ)の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死(りんねしょうじ)のもとゐたらん(御書1039頁)
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とあります。ここでは、血脈には別しての血脈と、総じての血脈とがあることが示されています。我々は、別しての血脈相承を受け継がれた方を師匠として信心修行に励むところに、成仏の功徳に浴することができるのであって、これを弁(わきま)えなければ成仏ができないと、大聖人は仰せられています。
〈学会員A〉この『曾谷殿御返事』が、別しての血脈についての文証なんですか?かつて昭和56年と57年の『大日蓮』に、『曾谷殿御返事』の文は、法華経文上の総付嘱・別付嘱のことだけを述べている、と言われた日顕上人の言葉が掲載してありましたけど。
〈法華講員A〉その後で、日顕上人猊下が御自らの解釈について述べられているのをご存知ですか?
〈学会員A〉知りません。
〈法華講員A〉日顕上人は
●以前に私がこの御書を講じたとき、冒頭よりの南無妙法蓮華経の付嘱に関する一連の文を受けている"総別の二義"の文を、通途(つうず)の法華経本門の神力・嘱累(ぞくるい)の二品における総付嘱・別付嘱の関係に当てて、一往(いちおう)、解釈したことがあります。これは、地涌・上行菩薩への付嘱が神力結要(けっちょう)を中心としつつ、かたわら嘱累総付嘱にもわたっていることと、その嘱累一経付嘱を中心とする迹化(しゃっけ)付嘱をも含むことから、意味を広く見たのです。すなわち、この御書の総別の関係を、与(あた)えて法華経の別付・総付に一往当てはめ、さらに進んで、別付の法体を寿量文底、すなわち種脱のけじめより、本仏大聖人の三大秘法として拝すべき趣意で述べたのであります。しかし、『曾谷殿御返事』の冒頭より、南無妙法蓮華経の七字の上行結要のみを説き給う御文と、これを受けて"又是には総別の二義あり"に続く文義・文脈を子細に拝するとき、この文の正意は神力結要のみであって、嘱累にわたる意は全くありません。したがって、この御文の正義は、奪(だつ)の意をもって、神力結要の一筋に絞って総別の二義の立て分けを拝するところにあります。故(ゆえ)に、以前の解釈は経文上の全体より見た与(よ)の義でありましたが、これより拝考するところは、御文のとおり、神力別付の上の授与と弘通の御指南を元とする奪の義としての立て分けであることを、まず申しておきます。彼等(学会)は"総別の二義"という問題について、血脈伝承との関係において、まず"本来の意味と違うことを主張しておる切り文だ"との旨(むね)を言っておるのです。しかし、きちんと御書を拝せば、総別の二義とは、仏法の本筋たる一切衆生の成仏教導と、血脈付法の相承・相伝、の上からの意義があり、そのように拝すべきであります(『価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』52頁)
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と、仰せです。
 つまり、あなたが挙(あ)げた『曾谷殿御返事』に関する日顕上人の昔の御指南は、与えていわれた場合の解釈で、奪(うば)っていうならば、大聖人の仏法の本筋たる一切衆生の成仏教導と、血脈付法の相承・相伝の上からの意義についての仰せとして、立て分けなければならないと、日顕上人御本人がおっしゃられています。あなたが昭和56年、57年の日顕上人の御指南を持ち出すのならば、この日顕上人のお言葉も受け入れるべきです。いいですね?
〈学会員A〉わかりました。もう、これは言いません。
〈法華講員A〉その上で『曾谷殿御返事』を拝したならば、「既に上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて」というのは、上行菩薩、つまり大聖人が釈尊から別しての血脈を受け、さらに、それを「末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給ふ」と仰せられ、我々末法衆生に総じて血脈を流れ通わしてくださる、との意です。「然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む」つまり、上行再誕にして末法大導師である日蓮大聖人が、その正法を弘めると宣言されたのち、「又是には総別の二義あり」、この大聖人の仏法には、別してただお一人に与えられる血脈と、総じて広く大衆にも与えられる血脈とがある。そして「総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死のもとゐたらん」と、ここが一番肝心なところで、この総別の血脈の立て分けを弁えなければ、血脈の流れ通う筋目を破壊することになって、成仏は思いもよらず、それどころか悪道に堕(お)ちる根源となる、と仰せられているんです。
〈学会員A〉意味がわからない。血脈って出てきますか?
〈法華講員A〉「妙法の智水」とありますね。これすなわち法水、血脈のことです。
〈学会員A〉これは大聖人の仏法に、別しての血脈がある、と仰せられているんですか?
〈法華講員A〉「又是には」と、言われている。「是」というのは大聖人の仏法における血脈のことです。前後の脈絡からいって、当然そういう意味ではないですか。
〈学会員A〉でも日顕上人は昔…
〈法華講員A〉それについては、もう言わないということにしたんでしょ!
〈学会員A〉あ、そうだった。でも、どうしてもわからない。この御文が大聖人の仏法の血脈のことを言われているとしたら、その後の「例せば大通仏(だいつうぶつ)の第十六の釈迦如来に下種(げしゅ)せし今日の声聞は、全く弥陀(みだ)・薬師(やくし)に遇(あ)ひて成仏せず。譬(たと)へば大海の水を家内へくみ来たらんには、家内の者皆縁をふるべきなり。然れども汲み来たるところの大海の一滴を閣(さしお)きて、又他方の大海の水を求めん事は大僻案(びゃくあん)なり。大愚痴(ぐち)なり」という例えの意味がわからない。
〈法華講員A〉それは、正しき師を仰がねば成仏できない、という例であり、これを挙げて、別して正しき血脈を受けた正師を仰がなければ成仏できない、ということを教えられているんです。
〈学会員A〉違うでしょう。
〈法華講員B〉私達の話を聞いていますか?もう1度、話しますよ。(同じ話を繰り返す)
〈学会員A〉どうしても後の例えと結びつかない。
〈法華講員A〉もう1度、話します。
〈学会員A〉途中まではわかりました。でも…(結局、曾谷殿御返事を十回以上、話す)

曽谷殿御返事