学会の政界進出の目的は「国立戒壇」だった

―その事実を伏し政党結成が既定路線だったことに―
(『慧妙』H24.7.1)

 『新・人間革命』第1巻「新世界の章」に、昭和35年当時問題となった日米安保条約の是非について論じた一節がある。
 もとより、政治や経済・生活などについて種々の意見・見方があることは当然で、その論陣自体はさほど問題とはならない。しかし、ここでの山本伸一こと池田大作の発言は創価学会の選挙活動を正当化するものと考えられるので、あえて取り上げておきたい。
************************************************************
 伸一は、彼らを包むように見回すと、にこやかに語り始めた。
 「青年部の君たちの間でも、これだけ意見が食い違う。一口に学会員といっても、安保に対する考え方はさまざまだよ。反対も賛成もいる。そして、どちらの選択にも一長一短がある。それを、学会としてこうすべきだとは言えません。私はできる限り、みんなの意見を尊重したい。大聖人の御書に、安保について説かれているわけではないから、学会にも、いろいろな考えがあってよいのではないだろうか。政治と宗教は次元が違う。宗教の第一は、いっさいの基盤となる人間の生命の開拓にある。宗教団体である学会が政治上の1つの問題について見解を出すのではなく、学会推薦の参議院議員がいるのだから、その同志を信頼し、どうするかは任(まか)せたいと思う」。(『新・人間革命』第1巻「新世界」の章P100)
------------------------------------------------------------
 何となく分かったような分からないような文章の作りだが、この一文は最初の定義と結論が矛盾(むじゅん)している。
 発言の最初では「創価学会員では考え方も様々。学会としての意見は述べられない」と言い、個々の創価学会員の自主性に任せるかのような物言いとなっている。
 しかし、結論部分では、「学会推薦の議員に任せるべきだ」と、個々の創価学会員の相対立する意見を無視し、学会推薦議員に任せればよい、と述べている。竜頭蛇尾ともいえる矛盾の極みである。
 実際にこのような発言があったかどうか、確認のしようがないが、創価学会推薦の議員の存在は後の公明党であり、事実上、この池田発言は公明党について述べたものとみることができる。
 そこで、創価学会が国会議員を出すに至った経緯と歴史を振り返り、この言葉を検証したい。
 そこで、まず戸田城聖2代会長の政治への関与に関する見方を見ておこう。
 戸田氏は「王仏冥合(おうぶつみょうごう)論」という論文の最初で次のように述べている。
●われらが政治に関心をもつゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである。ゆえに、政治に対しては、三大秘法稟承事における戒壇論が、日蓮大聖人の至上命令であると、我々は確信するものである。(『戸田城聖先生巻頭言集』P204)
-------------------
 昭和30年当時の発想であり、現在とは隔世(かくせい)の感があるが、要は、国立戒壇(明治期以降、他派が言い始めた王仏冥合の実現のための戒壇のこと。民主主義が徹底した現在においては用〈もち〉いられない)建立のために政界に学会員を送り出したというのだ。
 つまり、戸田氏は単純かつ純粋に「王仏冥合」実現のために選挙に臨(のぞ)んだということである。
 それは次のような発言にも表れている。
●わしの力あるかぎりは、断じて政党などやらんぞ。(戸田城聖『総合』S32.9)
-------------------
 一般の国民がそれぞれの立場で信仰し、それぞれに理想を開花させるように、政治の世界でも各々の議員が理想実現に向かって邁進(まいしん)すればよい。それゆえ独自に作る政党はいらない、という意味になろうか。
 少なくとも、戸田氏にしてみれば、議員となった学会員が増えれば、戒壇建立の気運が盛り上がり、自ずと国会の議決・承認を経て天皇から勅許(ちょっきょ)が降り国立戒壇建立がなされる、という単純な図式で選挙に臨んだことが窺(うかが)われる。
 創価学会の政治の出発点は上記のように単純明快なものであった。
 池田大作も、会長職を継いだ当初は
創価学会は衆議院には出ません。なぜかならば、あくまでも宗教団体ですから。政治団体ではありません。参議院のほうは、これはあくまでもあらゆる団体の代表が出て、衆議院の方から回った、いろいろな法案というものを、厳正中立の立場で「これはよし、これはいかん」というふうに審議する立場ですから、これはかまわないわけです。各団体が出るところですから(池田大作・中部総支部幹部会S35.6.10『会長講演集』第1巻P86)
◆われらは政党ではない。ゆえに、けっして、衆議院にその駒を進めるものではない。参議院ならびに地方議会等、その本質にかんがみて、政党色があってはならない分野に、人材を送るものである(池田大作『大白蓮華』S36.6)
-------------------
などと発言していた。
 当時の創価学会は選挙に際して、「王仏冥合」「国立戒壇建立」を口にしていたから、戸田氏と池田の視点の相違は見落とされてきた感がある。しかし、この『新・人間革命』の記述を見ると、明らかに後の学会員議員たちの政党化、すなわち「公明政治連盟」結成、転じて「公明党」の結党に繋(つな)がり、ただ盲目的に「同志だから信頼して政治を任せる」という単純な会員たちに図式を植え付けてきたことは明らかであろう。
 戸田氏逝去(せいきょ)後、前述のごとく、池田はしばらくの間は選挙戦の位置づけを「王仏冥合」を主旨とし、政党化を否定していた。
 これが後に、
◆公明政治連盟を1歩前進させたい。すなわち、公明政治連盟をば、皆さん方の賛成があるならば、王仏冥合達成のために、また時代の要求、民衆の要望にこたえて、政党にするもよし、衆議院に出すもよし、このようにしたいと思いますけれども、いかがでこざいましょうか。(中略)したがって、本日をもって、創価学会の政治部は発展的解消といたしたいと思うのであります。なぜならば、この十年間、わが同志である議員は、戦い、勉強し、一流の大政治家に育ってまいりました。恩師戸田先生も、時きたらば衆議院へも出よ、とのこ遺訓があったのです(池田大作「第27回本部総会」S39.5.3)
-------------------
と変化していく過程には、冒頭に示した池田大作の巧妙なスリカエがあったことは間違いない。
 すなわち、冒頭の池田の青年部に対する指導がフィクションであれ事実であれ、巧(たく)みに戸田氏の指導を援用し自説を作り上げていった歴史を証するものといえよう。


▲雑誌『総合』に掲載された神山茂夫氏との対談の中でも、戸田氏は「断じて政党などやらん」と言明していた