学会異流義化の「原点」
―自説の補完に仏法を"利用"した牧口氏―
―日蓮正宗の教義よりも「価値論」を優先―
(『慧妙』H24.2.1)
創価学会が平成3年に破門されてから20年目にあたる昨年、宗門は折伏誓願を達成した支部99%、折伏総数は誓願目標を遥(はる)かに上回る、という実質上の大勝利となった。
昨年の前半こそはなかなか折伏活動も波に乗らず、誓願達成も危ぶまれる支部も少なくなかった。しかし、後半戦、特に年末にかけて、唱題を根本とした僧俗一致の功徳の実証が折伏成就として結実し、結果として先のような数字となって現われたのである。
本年も、この年末来の勢いそのままに、全国各地で本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈の"正法の旗印"をもって日夜折伏に励んでいる。
よって連日報道される学会のネガティブキャンペーンなど、宗門では誰も信用していない。聞こえてくるのは、哀れな学会員の青息吐息のみである。
さて、創価学会は、牧口常三郎氏が創設した「創価教育学会」に端を発する。牧口氏は明治4年6月6日新潟県柏崎市にて渡辺長松・イネの長男として出生。のちに親戚の牧口善太夫の養子となる。明治26年に小学校の教師となり、名を常三郎と改名する。
明治35年、地理学者の志賀重昂に師事し薫陶(くんとう)を受ける。
志賀は国粋主義者としても知られるが、その影響もあってか牧口氏は、南朝天皇を正統として新たな皇道を教育せんとする大日本皇道立教会に参加した、といわれている。
また、大正5年頃には、国柱会創始者の田中智学の講演会に何度も出席し聴講していた。
大正13年に発行された田中智学の三男である里見岸雄著『法華経の研究』には、
「日蓮上人においては、本尊は…価値創造である」(P101)
とあるが、牧口氏がこの書籍を手にした可能性は高く、また「創価」の名の由来となったとも考えられる。
昭和3年6月、東京・常在寺所属の信徒で、後に直達講の講頭となる三谷素啓氏の折伏によって、57歳で日蓮正宗に入信。後に、戸田城聖氏もこの縁で入信する。
昭和5年2月18日、牧口氏は「創価教育学会」を設立。11月18日には『創価教育学体系 第1巻』を発刊する。のちに11月18日が学会創立の日とされるが、これはこじつけで、実際には2月18日である。
翌・昭和6年には、教職を辞して宗教活動に専念するようになり、『創価教育学体系 第2巻』を発刊。これが牧口氏の独自の思想の集大成ともいえる『価値論』であり、この自身の思想に固執するあまり、種々の問題が生ずる。
まずは、折伏の親である三谷素啓氏との断絶である。
牧口氏はこの価値論を自賛して、
「百年前及び其後の学者共が、望んで手を着けない『価値論』を私が著はし、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て自分ながら驚いて居る、これ故三障四魔が紛起するのは当然で経文通りです」(牧口常三郎『獄中書簡』)
と評している。すなわち、牧口氏にとっての『価値論』とは、あたかも釈尊入滅後の智者達が、知ってはいても説き弘(ひろ)めようとしなかった文底下種妙法のような、哲学の最高峰にあたる"教"であり、これを"行"ずる実践形態として法華経の信仰を結び付けることにより、万人の生活上に『価値論』で説く価値(大善生活)が"証"される、それほどの『価値論』を説き顕(あら)わしたのだから、三障四魔が紛然と競(きそ)い起こるのは当然だとする。
この増上慢きわまる信仰姿勢によって、
「昭和5年暮れまでの時点では、牧口先生は三谷氏の指導の傘下にいた。そして三谷氏から『価値論は宗祖の教えとは無関係だから信心の中へ持ち込むな』と諌(いさ)められていた最中である。そして、おそらく、このためであろうと思うが、先生は三谷氏と絶交するに至る。絶交の時は、おそらく三谷氏最晩年の昭和7年か、早くても6年中かであろう」(石田次男『内外一致の妙法』)
と、教化親の訓誡も聞かずに三谷氏から離れ、また、講中から孤立してしまうのである。
また、価値論を中心とする牧口氏の教義解釈の甘さを、「直達講」の副講頭であった竹尾清澄氏は、
「牧口氏はあれだけの学識がありながら、仏法上の総別ということになると、どうも認識が浅いようなところが見られた」(竹尾清澄著『畑毛日記』)
と評している。
この一件により、牧口氏は直達講を離れ、歓喜寮で日淳上人の指導を受けることになったものの、
「牧口氏は所属寺院の歓喜寮主管堀米泰栄師と議論し、『もう貴僧の指導は受けない』と席を蹴(け)って退去し、本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会はここで日蓮正宗とは縁が切れ」(前出『畑毛日記』)
とあるように、創価教育学会は発足早々、日蓮正宗とはその信仰を異にした独自路線を進んでいこうとしていたのである。
―獄死は「誹謗の罪」―
(『慧妙』H18.4.1)
さて、弾圧時の牧口氏の信仰の中身はどうであったかというと、ここに驚くべき資料が存在しています。それは、逮捕後の牧口氏に対する、特高警察の尋問調書です。その中で牧口氏は、
「私は正式の僧籍を持つことは嫌いであります。僧籍を得て寺を所有する事になれば、従って日蓮正宗の純教義的な形に嵌(はま)った行動しかできません。私の価値創造論をお寺に於て宣伝説教する訳には参りませんので、私は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採入れた処に私の価値がある訳で、此に創価教育学会の特異性があるのであります」
として、純然たる日蓮正宗の教義に沿った修行はしたくない(言い換えれば、日蓮正宗の教義を自分流に曲げていきたい、ということ)、また、日蓮正宗の信仰を価値論と結び付けるところにこそ学会の特異性がある、などと述べているのです。
この牧口氏の主張には、さすがに未入信の検事すらも不審を感じたらしく、「創価教育学会の信仰理念の依拠(いきょ)するところは、日蓮正宗に相違なきや?」との質問をしています。これに対し牧口氏は、
「会員は悉(ことごと)く日蓮正宗の信者として、常在寺、歓喜寮、砂町教会、本行寺において授戒して居りますが、創価教育学会其ものは、前に申上げた通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採入れた処の、立派な一個の在家的信仰団体であります」
などと答え、重ねて、
「学会は飽迄(あくまで)も、日蓮正宗の信仰を私の価値論と結び付ける処に、特異性があるのであります」
と強調しているのです。
なんたることでしょうか。要するに牧口氏は、正宗の信仰を自身の価値論に結び付けるところに、日蓮正宗とは大いに異なる学会の特異性がある、として、個々の学会員は正宗寺院で御授戒を受けていても、学会そのものは1個の独自な在家宗教団体である、と意義付けていたのであります。
これでは、日蓮正宗は学会を成立させるために利用されていただけであり、もし、この弾圧がなかったならば、行き着くところ、学会は実質的に牧口教となっていたことは間違いありません。
また、これを見るならば、今日の池田創価学会が長い間、日蓮正宗との2重形態をとりつつ、あくまでも日蓮正宗とは異質の在家教団(池田教)を指向してきた原体質は、すでに初代会長・牧口氏の行き方の中に萌芽(ほうが)していた、と言わざるをえないのであります。
結局、投獄された牧口氏は、1年有半を経た昭和19年11月18日、獄中に死去し、その一生の幕を閉じました。そして、牧口氏の1番弟子であった戸田理事長は翌年7月、釈放されましたが、創価教育学会は半ば壊滅(かいめつ)同然の状態となっていました。
こうして、学会に対する官憲の弾圧は終わったのです。
が、しかし、牧口氏の中に根付いていた異流義思想の実態や、日淳上人に対する吊るし上げと背反、偏(かたよ)った布教の在り方等々を知る時、これを、純然たる日蓮正宗信仰を貫いた結果の法難、などと呼ぶことは、とうていできません。
『佐渡御書』には、
「善戒を笑へば国土の民となり王難に値(あ)ふ。是(これ)は常の因果の定まれる法なり。
日蓮は此の因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易(きょうい)せし故に、法華経は月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山(かざん)に華山をかさね、玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を、或は上げ或は下(くだ)して嘲弄(ちょうろう)せし故に、此の八種の大難に値へるなり」(御書582頁)
と仰せられ、投獄されたりするのは法華経を持つ人を誹謗(ひぼう)した罪、と明かされていますが、獄中にあっての戸田理事長は、この御金言の厳しさを我が身に引き当てて感じたのでしょう、
「堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。『法の師をそしり』し罪を懺悔しつつ『永劫の過去を現身にみる』と言っております、と」(前出『獄中書簡』)
と述べて僧誹謗の重罪を懺悔し、さらに牧口氏が獄死してしまったことについては、やや曖昧(あいまい)に、
「牧口先生の先業の法華経誹謗の罪は深く、仏勅のほどはきびしかったのでありましょう」(『創価学会の歴史と確信』)
と述べています。
仏法の因果の厳しさ、不思議さに、慄然(りつぜん)とさせられるではありませんか。
また、これら獄中書簡等を見るかぎり、戸田理事長は、師たる牧口氏の謗法に気付いていたものと思われます。
現に、出獄の2日後(20年7月5日)、戸田理事長は
「足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して『申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました』といって平身低頭、深くお詫(わ)び申し上げ、さらに『これからは何もかも、お任(まか)せいたしますので、よろしく頼みます』」(日淳上人夫人の証言)
と、お誓いしたとのことです。
さらに戸田理事長は、学会再建に着手するにあたり、まず牧口氏の根本的誤りを払拭(ふっしょく)する(それも、師たる牧口氏の遺徳を傷つけることなく、むしろ顕彰しながら行なう)ことから始めました。その事実は、かつて池田大作が、迂闊(うかつ)にも『人間革命』第1巻の中に、次のように描写してしまったことからも明らかです。
「牧口の価値論から入った、大善生活を思うとき、そこには、彼独特の、倫理的臭味(しゅうみ)を帯びてくる。
さらに、大善生活の実践のために大御本尊を仰ぐ時、大御本尊は、価値論の範疇(はんちゅう)に入ることになってしまう。
--ここに摧尊入卑(さいそんにゅうひ)のきらいが影となって射して来るようだ。
戸田は、出獄以来、ひとまず価値論を引っ込めた。
そして、南無妙法蓮華経そのもの自体から出発したのである。それは、幾多の苦難の歳月を経て、身をもって体験した確信からであった。
彼は、価値論を、現代哲学の最高峰であるとは思っていた。…しかし、大聖人の大生命哲理からするならば、時に『九重の劣』とすら思えた。」
遠回しな表現ですが、要するに、牧口氏は自説の「価値論」を第1とし、「価値論」を実践証明するための手段として、日蓮正宗の大御本尊を利用する格好となっており、これが摧尊入卑(尊極な教えを摧〈くだ〉いて、低下な教えの中に取り入れ、卑しい教えを尊く見せかける謗法行為)に当たっていた、というのであります。