日顕上人による『価値論』批判(仮題)

―第67世日顕上人 第41回全国教師講習会の砌―

 とにかく、牧口氏は本当に真剣に信心をし、また、折伏をされておりました。ただ、「価値論」については、学会との対応において、皆さん方も内容を知っておく必要はあるのではないかと思います。
 私は哲学のことは専門外ですが、普通、哲学における価値は「真・善・美」に分類されております。しかし、19世紀後半から出たという経験学派、経験主義の哲学の方面から特に価値論が見直されてきて、牧口さんの経験的な立場からの価値論になったと思うのです。それ以前における実在論の面からの価値論はすべて真・善・美だったのです。ですから明治以降の人は、仏教を論ずるときにそれを取り入れて、真・善・美という意味のことを説いている方が多くおられます。
 したがって、当時は価値論といえば、だいたい真・善・美だったわけです。それを「利・善・美」としたのが、牧口氏の哲学です。これは、価値は内容ではなく、実在自体であり、経験的に我々が体験するものであるから真では誤りであるとして、真を排除して代わりに利を入れたものであります。
 これについては、いまだに論議があるところでありますが、とにかく、利・善・美ということを言い出したのが、牧口さんの価値論の第1の特徴であります。そして、経験の立場に立って、真理は実在の表現対象の概念として脇へ除いて、一方、価値の対象は人間の生命と感情、情的関係性において成立すると考えたというようなことをいっております。
 さらに、利ということをすべての価値の根底において、利の価値は、善や美の価値の説明の基礎であるとしております。つまり、善は社会的公共的な利益、公益であり、美は生命の維持に必要な精神的な糧であるが、この善や美の価値においても利の契機を持っており、利はすべての価値を貫いておる存在であるとするのです。ですから、どうしても利というものを中心に考える意味が出てくるのです。
 したがって、利をすべての価値の根底におくというところに、牧口氏の価値論の第2番目の特徴があるとされております。しかしながら、それだからといって、では利が最高の価値であるかというと、けっして、そうではないのです。価値の区分からいえば、善を最高の位置とし、その次が利で、その次に美が来るとするのです。
 それから、反価値ということをいいまして、善に対しては悪、利に対しては害、それから美に対しては醜ということを挙げるわけです。それで、美醜よりも利害の価値のほうが上位にあるということを、腐った饅頭は、見かけは美味のようだけれども、身体には大きな害があるというような例を挙げて述べております。
 また、価値があるようであっても、すなわち利益があっても、一番上位である善悪の基準に照らして、反価値である悪であれば、本当の利の価値ではないという言い方をするわけです。
 したがって、例えば、悪い行いをして金もうけをするということは利益のようだけれども、善に背くから本当の意味の価値ではないという次第です。そして、さらにこのような説をたんたんと進めて仏法のところに到達せんとするわけです。
 しかし、結局、この牧口氏の哲学は、やはり根底に利があるというところに功利主義的契機を含むという批判もあります。しかし、利よりも善を優位に置くことによって、功利主義を超えて、また抽象的、形式的道徳をも超えて、具体的な道徳を示したというようにも述べております。
 さらに、個人を社会的存在として考え、その人格が人としての価値を含んでおるとしております。その人格とは、既に存している評価を意味し、その結果たる価値を表しているというのです。だから、人格が他のいかなる価値に比しても絶対的価値を有しており、その人格的価値は、価値創造力というものによって高められるということを主張して、そこからさらに、価値を自ら創造していかなければいけないということを述べて、それを教育学のほうにも応用するわけです。
 それから、ウインデルバントという人が真・善・美の価値のほかに、聖という宗教的価値を立てておりますが、牧口氏はこれをにべもなく否定しております。これも結局、個人的考察よりすれば、聖によって安心立命の境地に至るということは道徳的価値、利的価値であるという意味から、結局、人を救うこと、世を救うことについて、何も聖という概念を立てる必要はないとするのです。
 結局、宗教的価値は、利的価値と道徳的価値として、利と善に吸収をされるということでありまして、これも牧口氏の価値論の特徴の1つでもあります。
 しかしながら、この利・善・美は、あくまで世間法としての価値だということを、一往、限定するわけです。つまり、善という道徳的価値を最高の位置に置いたけれども、これは世法、すなわち社会法則における標準であるから、まだ相対的な善であって、最高絶対的なものではないとするわけです。
 そして、その最高絶対的な存在こそが本当の宗教の領域であるとして、三世常住永遠不滅の霊魂の生活に一貫する因果の法則を見いだして、絶対的な正邪、善悪の標準を確立し、その規範に則ることによって至高・至福というべき生活を遂げようと主張するのです。また、これこそが人の心の最も深いところに横たわる要求であると述べるわけです。
 したがって、当然、この最高絶対的な存在、一番正しい宗教とは日蓮大聖人の教えであるというところに到達するわけです。ですから、牧口氏の価値論においても、その究極のところは価値を超えた仏法にあるというところまでは説くのだけれども、また、仏法と世法が背反をしないという意味も述べているけれども、しかし、価値論と仏法との関係がきちんとした形で説いてあるかというと、そこまでは説いていないのです。あとは教育学としての実践論的な社会学的、教育学的なものが色々と説いてあるけれども、仏法との関係はきちんと説ききっていないと思われます。
 したがって、大聖人の仏法を牧口氏の価値論で解釈するというような傾向の上から、牧口氏の弟子達が、今の創価学会にもまだいると思いますが、そういう人達が価値論的な1つの利的価値を中心として大聖人の御法を色々に考えたり、述べたりしたなかにおいて、やはり催尊入卑というような傾向があったのではなかろうかと思うのです。

 以上、価値論についてのごく簡単な特徴だけを述べた次第ですが、結局、この価値論は、利ということがすべての価値の根底にあるというところから、人間の自己本位という考え方によって、自分に都合のいいこと、利益のためにはどんなことをやってもいいのだというような考え方に堕落していく可能性があると思うのです。
 たしかに牧口氏の価値論自体は、究極的には大聖人の仏法を目標にして、形の上ではそこに到達しておるのですが、価値論と仏法のなかの法華経の絶対的妙法との関係がきちんと明らかになっていないという意味においては中途半端なところも存しておるのです。そのところから、また、利的価値が一切の価値の基準であるような考えから、仏法のため、さらに、仏法を弘める自分達のためにはどんなことをしてもいいのだというような思想が、牧口氏や戸田氏のあとの創価学会の根底にずっと胚胎してきている意味があるのではないかと思うのです。
 つまり、自分達の利のためには、どんな筋違いも、無節操も行うというような、利本位の考え方にすり替えられているのではないかと思うのであります。
 もちろん、法華経のなかに功徳利益妙という大事な問題がありますが、それは仏法の真理を元とする教行と人に体験されるものと思います。しかし、むしろ価値論をもって、こういった仏法の利益を考えたり、あるいは自己中心、自己本位な考え方でもって、仏法の展開や護持、その他色々な問題を考えるところに、本末転倒の大きな誤りを生じてきたのではないかと考えられるのです。
 今日の創価学会の狂った在り方において、例えば、私を倒さんがためには、全く事実無根のことを証人まで作って捏造し、中傷誹謗するというような姿がありますが、これなどは、やはり価値論の利を根底とする考えが、さらに逸脱した弊害といえるのではないかと思います。
 そのようなところから考えるならば、牧口さんは否定したけれども、真・善・美の、真という意味の価値についても考えてみる必要があると思うのです。法華経の十界互具・百界千如・一念三千、すなわち、仏の不思議の悟りによって真理が直ちに功徳(利益)となる境智冥合の本義を忘れて、利得中心の考えで律してはならないと思います。
 法華経に説かれる法理、大聖人様の御法門、あるいは仏教の大きな流れ、例えば「空仮中円融三諦」というような在り方について考えてみても、それは利でもなければ、美でもありません。やはり真理であります。その正しい全分の真理を悟り行ずるところに、最高の善が存するのであります。
 また、釈尊は小乗の偏空の諦理を説いておりますが、これと大乗の空、あるいは実大乗の円融三諦等と比べてみれば、真理自体は客観的存在だとしても、当然、修行者にとっては大小、優劣という意味において価値が存するわけですから、我々と直接、関連が出てくるわけです。その意味において、真理が全く価値の内容ではないということが、はたして言えるかどうか。境智冥合の境とは仏の悟られた真理・真如の全体であり、そこを外れて成仏の大利はないはずです。
 このような哲学や価値論等の問題についても、皆さん方が色々な法門の内容を学んでいくなかにおいて、その一分として先人の誤りを正しつつ研鑽をしていただきたいと思います。とにかく、仏法と哲学とを混乱せずに、正しい見方を持っていくことが大切でしよう。