軸足を価値論に置いたための流転(るてん)

―紹介者や指導教師と衝突した牧口氏―
―寺院を渡り歩き宗門とも疎遠に―

(『慧妙』H24.3.1)

 前回、主に創価教育学会の発足当初からの特異体質を述べたが、今回は、その後半部分で略述した宗門からの離反を詳述する。
 昭和5年、牧口氏のもとに結成された「創価教育学会」だが、結成当初から、日蓮正宗とは異色の様相を呈(てい)していた。また、牧口氏は、正宗の教義を自身の哲学に取り入れた『価値論』を発表し、これが原因で、折伏の親である三谷氏と絶交するに至る。
 その後、牧口氏らは東京の中野にあった歓喜寮(のちの昭倫寺)へ参詣を始め、信心活動をするようになった。当時の歓喜寮主管は堀米泰栄尊師(のちの第65世日淳上人)であられ、当初のうちは、その指導に従順に従って信仰に励んでいたようであるが、昭和12年の夏、創価教育学会発会式(会長=牧口氏、理事長=戸田氏)を境として、堀米尊師に反抗するようになったのである。
 その原因は、当時の僧侶・信徒の証言によると、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を堀米尊師に申し出たところ、堀米尊師がこれに危惧(きぐ)を感じて許されなかったため、やむなく牧口氏は、教育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が師に対する反抗の原因となった、といわれている。
 実際、『創価学会年表』によれば、これまで歓喜寮で開いていた会合を、この時期から開催しなくなっている。
 この一件から推(すい)するに、創価教育学会の発会を巡る堀米尊師との確執は、そうとう根深かったと考えられる。
 一方、いつの頃からか、牧口氏は第59世日亨上人と接点ができたとされる。「直達講」副講頭の竹尾清澄氏著の『畑毛日記』には、
 「牧口氏は早くから日亨上人に近づき、上人から雪山坊の解体材料のお下げ渡しを受け、理境坊に別棟を建てそれを学会の宿坊とした。これが学会の本山に根拠を占める発端となり」
とある。『富士年表』の昭和14年の欄に、「日亨 大石寺内雪山坊の一部を同塔中本境坊内に移す」(富士年表P424)
とあることから、この時期に、下げ渡された材料で理境坊に別棟を建てたと考えられる。
 そしてこの頃から、理境坊に出入りするようになったのであろう。
 さらに証言によると、反発を増した牧口氏は会員達を使って、堀米尊師に対する誹謗(ひぼう)・罵倒(ばとう)・吊(つる)し上げまで行なった、という。その1つの事例が、昭和17年11月16日に、学会幹部十数名で堀米尊師を取り囲んで行なった、学会の指導方針を巡(めぐ)る押し問答である。
 客観的に見ても、たった1人の僧侶を十数人で囲むとは、まともな話し合いなどではない(すなわち吊し上げである)ことが容易に想像できる。現在まで続く創価学会の暴力的体質は、前身たる教育学会の発足当初から受け継がれたものなのだ。
 こうして、堀米尊師との関係が悪化したことから、牧口氏は会員が所属寺院の歓喜寮に近づくことを禁止するようになり、これを破(やぶ)った者(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対しては、烈火のごとく叱(しか)りつけた。
 翌昭和18年、牧口氏と堀米尊師は完全に決裂する。『畑毛日記』には、
 「牧口氏は所属寺院の歓喜寮主管堀米泰栄師と議論し、「もう貴僧の指導は受けない」と席を蹴(け)って退去し、本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率(ひき)いられる創価教育学会は茲(ここ)で日蓮正宗と縁が切れ、後に戸田氏が宗門に帰参してからも、学会は寺院を離れた独自の路線をとることになった」
と伝えている。
 創価教育学会結成から13年、発足してからわずか6年足らずにして、信仰上、日蓮正宗とは断絶に近い状態に陥(おちい)っていたのである。
 だが、堀米尊師の側では、このような牧口氏率いる創価教育学会に対しても再起の道を残しておられ、その気があれば元の所属寺院である常在寺へ戻れるように手配をされていた。


▲牧口氏と宗門との食い違いが赤裸々に記された、竹尾清澄氏の『畑毛日記』