牧口会長は「正法を守った」のか!?

―靖国参拝を肯定していた牧口氏―
―牧口氏の最大目的は「価値論」の弘宣―

(『慧妙』H25.7.16)

【神社参拝】
 『創価新報』は、"戦時中、牧口氏が特高警察に逮捕された際、宗教の正邪を堂々と論じ、国家神道の誤りを正した。大聖人の仏法を守ったのは学会だ"などと歴史的認識を無視した戯論(けろん)を述べているが、牧口氏は靖国神社参拝について、次のように述べている。
◆この問題は将来も起こることと思うから、此の際明確にしておきたい。吾々は日本国民として無条件で敬神崇祖をしている。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは「よくぞ国家の為に働いて下さった、ありがとうこざいます」というお礼、感謝の気持ちを現わすのであって、ご利益を下さいという祈願ではない。もし、「あゝして下さい、こうして下さい」と靖国神社へ祈願する人があれば、それは恩を受けた人に金を借りに行くようなもので、こんな間違った話はない。天照太神に対し奉(たてまつ)っても同様で、心から感謝し奉るのである。独り天照太神ばかりにあらせられず、神武以来御代々の天皇様にも、感謝し奉っているのである。(『大善生活実証録』第5回総会記録・牧口氏発言)
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牧口氏自身が「吾々が靖国神社へ参拝するのは」と述べているごとく、靖国神社参拝を容認(あるいは実際に参拝)していたことは明らかである。

[画像]:『大善生活実証録』に掲載された靖国参拝についての指導。そこには靖国参拝を是認する牧口氏の思想が。


【日蓮正宗との関係】
 また、弾圧時の牧口氏の信仰の中身はどうであったか、逮捕直後の牧口氏に対する特高警察の尋問調書の中で、牧口氏は、
◆私は正式に僧籍を持つことは嫌いであります。僧籍を得て寺を所有する事になれば、従って日蓮正宗の純教義的な形に嵌(は)まった行動しかできません。私の価値創造論をお寺に於て宣伝説教する訳には参りませんので、私は矢張(やは)り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採(とり)入れた処に私の価値がある訳で、此(ここ)に創価教育学会の特異性があるのであります(牧口『尋問調書』)
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として、純然たる日蓮正宗の教義にそった修行はしたくない(言い換えれば、日蓮正宗の教義を自分流に曲げていきたい、ということ)、また、日蓮正宗の信仰を価値論と結びつけるところにこそ学会の特異性がある、などと述べているのである。
 この牧口氏の主張には、さすがに未入信の検事すらも不審を感じたらしく、
 「創価教育学会の信仰理念の依拠(いきょ)するところは、日蓮正宗に相違なきや?」
との質問をしている。
 これに対し牧口氏は、
◆会員は悉(ことごと)く日蓮正宗の信者として、常在寺、歓喜寮、砂町教会、本行寺において授戒しておりますが、創価教育学会其(その)ものは前に申上げた通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採り入れた処の立派な一個の在家的信仰団体であります(牧口『尋問調書』)
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などと答え、重ねて、
学会は飽迄(あくまで)も日蓮正宗の信仰を私の価値論と結び付ける処に特異性があるのであります(牧口『尋問調書』)
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と強調しているのである。
 要するに牧口氏は、正宗の信仰を自身の価値論に結び付けるところに、日蓮正宗とは大いに異なる学会の特異性がある、として、学会そのものを一個の独自な在家宗教団体として意義付けていたのである。
 これでは、日蓮正宗は学会を成立させるために利用されていただけであり、もし、この弾圧がなかったならば、行き着くところ、学会は実質的に牧口教となっていたであろう。


【国家諌暁の目的】
 また、当時の牧口氏は「国家諌暁(かんぎょう)」を口にしていたのだが、これは、「戦争反対」を目的としていたのではなく、日蓮正宗を利用して、戦争に勝利したがっただけである。戸田氏著『人間革命』中、牧口氏の言動に明らかである。
◆国家諌暁だね。陛下(へいか)に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ。(戸田氏著『人間革命』S40発行・戸田城聖全集収録版)
◆日本は危ない!国家諌暁をしなければ、日本は惨憺(さんたん)たる敗戦を招く!(戸田氏著『人間革命』単行本版)
◆日蓮正宗の潰(つぶ)れることを恐れて、なにになる!仏法の力によって、日本を栄えさせてこそ、大聖人はお喜びになるのではないか!総本山の安泰のみ願うのは、弟子の道ではない!(同前)
◆大聖人の御意思をそのまま実行しようというのに、なんの障(さわ)りがありましょう!万一、日蓮正宗が潰れたとしても、仏法の力によって国家が立ち上れば、大聖人はお喜びになりましょう!仏法は観念の遊戯(ゆうぎ)ではない!国を救い、人を救うものです!救わなければならない時に、腕を拱(こまね)いていて救わないのは、仏智に背(そむ)くものではないか!(同前)
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等々。
 牧口氏は、「国家諌暁」をもって、敗戦に向かっていた戦争に勝利しようと考えていたのであり、現在の学会が言うような「反戦」という思想が当時の学会になかったことは明らかである。
 牧口氏にとって、日蓮正宗という大聖人の仏法は戦争勝利の手段でしかなく、でなければ、「日蓮正宗の潰れることを恐れて、なにになる」との言葉は出てくるわけがない。
 そして、この言こそ、宗祖御遺誡(ゆいかい)への違背(いはい)である。なぜならば、
●仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(御書P268)
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と仰(おお)せのごとく、仏宝・法宝は僧(なかんずく唯授一人血脈付法の御法主上人)によって伝えられるのであり、また、この御金言どおり、7百年間、戒壇の大御本尊を護(まも)り、今日の我々にまで伝えてくださったのである。
 したがって、僧たる宗門なくしては、仏宝・法宝も滅尽(めつじん)することになる。
 その重要な役割を担(にな)う日蓮正宗をさして、「潰れることを恐れて、なにになる」というよう言動は、まさに仏法破壊の魔の所業であり、大聖人の御金言への大違背、と言わずして何と言おうか。

以上のように、今日の池田創価学会が、長い間、日蓮正宗との二重形態をとりつつ、あくまでも日蓮正宗とは異質の在家教団(池田教)を志向してきた原体質、それは、すでに初代会長・牧口氏の行き方の中に萌芽(ほうが)していたのである。

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