僧侶軽視、血脈軽視の独善体質
<昭和12年>
牧口氏らは東京の中野にあった歓喜寮(のちの昭倫寺)へ参詣を始め、信心活動をするようになった。当時の歓喜寮主管は堀米泰栄尊師(のちの第65世日淳上人)であられ、当初のうちは、その指導に従順に従って信仰に励んでいたようであるが、昭和12年の夏、創価教育学会発会式(会長=牧口氏、理事長=戸田氏)を境として、堀米尊師に反抗するようになったのである。
その原因は、当時の僧侶・信徒の証言によると、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を堀米尊師に申し出たところ、堀米尊師がこれに危惧(きぐ)を感じて許されなかったため、やむなく牧口氏は、教育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が師に対する反抗の原因となった、といわれている。
実際、『創価学会年表』によれば、これまで歓喜寮で開いていた会合を、この時期から開催しなくなっている。
この一件から推(すい)するに、創価教育学会の発会を巡る堀米尊師との確執は、そうとう根深かったと考えられる。(『慧妙』H24.3.1)
<昭和17年>
さらに証言によると、反発を増した牧口氏は会員達を使って、堀米尊師に対する誹謗(ひぼう)・罵倒(ばとう)・吊(つる)し上げまで行なった、という。その1つの事例が、昭和17年11月16日に、学会幹部十数名で堀米尊師を取り囲んで行なった、学会の指導方針を巡(めぐ)る押し問答である。
客観的に見ても、たった1人の僧侶を十数人で囲むとは、まともな話し合いなどではない(すなわち吊し上げである)ことが容易に想像できる。現在まで続く創価学会の暴力的体質は、前身たる教育学会の発足当初から受け継がれたものなのだ。
こうして、堀米尊師との関係が悪化したことから、牧口氏は会員が所属寺院の歓喜寮に近づくことを禁止するようになり、これを破(やぶ)った者(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対しては、烈火のごとく叱(しか)りつけた。(『慧妙』H24.3.1)
◆「過去十年来の結果に於て創価教育学会の信仰指導には何等の弊害はなかつた。但し将来は弊害がありそうである。」とは堀米尊師が昭和17年11月16日、学会本部に於ける幹部十数人の面前に、数回の押問答の末に、漸く断言されたものである。
従来本会の指導に対して多少の非難誹謗をするものがあつたらしく、又大した好感も持たれぬ様子であり、新しい信者が学会員の折伏によつて続々入信するのに対して、未だ曾つて一言の注意も、忠言も、はた感謝の辞も聞いたこともなかつた上で、斯かる断言を聞いたのは吾等の無上の安心とする所である。「愚人にほめられたるは第一の恥なり」といふ宗祖大聖人の仰をかしこむ吾々は、これこそ日蓮正宗の法義を正しく実践しようと念願して来られた結果と思へば、将来はともかく、今までのみではこれ以上の満足はないとするのである。(『大善生活実証録-第5回総会報告-』/『牧口常三郎全集』第10巻P180)
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日淳上人は「創価教育学会の信仰指導」について「将来は弊害がありそうである」と「断言」された。これに対し牧口会長は「愚人にほめられたるは第一の恥なり」という御書を引用して「斯かる断言を聞いたのは吾等の無上の安心とする所である」とまで言っている。まるで日淳上人が「愚人」であるかのような言い草であり、増上慢としか言いようが無い。これは、当時の牧口会長が日淳上人を快く思っていなかった証拠である。
<昭和18年>
翌昭和18年、牧口氏と堀米尊師は完全に決裂する。『畑毛日記』には、
◆牧口氏は所属寺院の歓喜寮主管堀米泰栄師と議論し、「もう貴僧の指導は受けない」と席を蹴(け)って退去し、本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率(ひき)いられる創価教育学会は茲(ここ)で日蓮正宗と縁が切れ、後に戸田氏が宗門に帰参してからも、学会は寺院を離れた独自の路線をとることになった(『畑毛日記』)
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と伝えている。
創価教育学会結成から13年、発足してからわずか6年足らずにして、信仰上、日蓮正宗とは断絶に近い状態に陥(おちい)っていたのである。
だが、堀米尊師の側では、このような牧口氏率いる創価教育学会に対しても再起の道を残しておられ、その気があれば元の所属寺院である常在寺へ戻れるように手配をされていた。(『慧妙』H24.3.1)
◆昭和18年6月に学会の幹部は登山を命ぜられ、「神札」を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうかと、2上人立ち会いのうえ渡辺慈海師より申しわたされた。
御開山上人の御遺文にいわく、
「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(御書全集P1618)
この精神においてか、牧口会長は、神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山したのであった。(『戸田城聖全集』第3巻所収『創価学会の歴史と確信』より一部抜粋)
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「2上人立ち会いのうえ」での指導に対して「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば……」の御書を引用して批判している。この一事をもってしても、唯授一人の血脈に対する尊信の念が希薄であったことが窺われる。
尚、『富士宗学要集』では、同じ場面について牧口会長が本山の指導に従い、「応急策」を講じたことになっている。実際、「皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様」と記された「通諜」が戸田理事長名で出されている。
本山での会話は『創価学会の歴史と確信』が事実で、後に戸田会長が独断で「応急策」として「通諜」を作成したのかも知れない。
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◆仏教の極意たる妙法の日蓮正宗大石寺にのみ正しく伝はる唯一の秘法があることを知らねばならぬ(『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻/『大白法』H25.9.1)
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牧口会長は大聖人の仏法こそが仏教の唯一最高の教えであり、それが日蓮正宗の、しかも歴代法主のみに正しく伝わることを知っていた。しかし、歴代法主の振舞が常に正しい教義に基づくとは思っていなかったようである。