特高警察に人脈もっていた牧口会長(仮題)

―池田創価王国の始原を検証するF―
(『慧妙』H24.9.1)

「法華経かマルクス主義か」
             創価教育学会の渉外を担当した 矢嶋秀覚

 親友・渋谷信義君の紹介で、昭和十年の正月、目白の牧口先生のお宅を紡ねた。先生は「君はマルクス主義によって世の中が救えると考えているそうだね。わしは法華経の修行者です。法華経によって世を救おうと思っています。法華経が勝つか、マルクス主義が勝つか、大いに議論をしよう。もしマルクス主義が勝ったら、わしは君の弟子となろう。もし法華経が勝ったら、君はわしの弟子となって、世のためにつくしましょう」といわれた。私はすごい人だと思い、先生の提案に快諾した。
 それから約束通り二日おき、あるいは三日おき位に、夜分に先生のお宅を訪ねて、議論をした。というよりは、先生より法華経の大要をお聞きしたのです。かくて約三か月後の四月中旬の頃になって「恐れ入りました。長い間ありがとう存じました」といって、先生のお宅を立ち去ろうとしたところ「おい君、待ちなさい。初対面の時の約束をよもや忘れはしないだろうね」と引き止められた。私が頭をかいて座り直すと、「これから早速、中野の歓喜寮へ行って御授戒を受けるのです。さあ行こう」といわれて連れられて行って、堀米尊師のお弟子となった。
 それから牧口先生の折伏のうえの弟子となった。先生は入信後まもなく、私を警視庁労働課長・内務省警保局の許(もと)に連れて行かれ、完全転向をして「今後、法華経の信仰に励み、国家有為の青年となるから御安心ください」といって紹介して下さった。

『牧口常三郎』(聖教新聞社刊)に載せられている矢島氏(出家して矢嶋秀覚)の回顧録


【当局の弾圧機構・特高警察と牧口常三郎】
 矢島周平氏は入信当時を回想して「先生は入信後まもなく、私を警視庁労働課長・内務省警保局長の許(もと)に連れて行かれ、完全転向をして『今後、法華経の信仰に励み、国家有為の青年となるから御安心ください』といって紹介して下さった」と述べている。
 昭和10年の時点では牧口と治安当局の関係は悪くない。むしろ友好的である。
 特高警察とは思想取り締まりのための政治警察である。1911年8月、警視総監官房高等課から分離され、特別高等課となる。以後、全国に設置され、厳しい取り調べをくり返して猛威をふるった。
 その陣容は「警視庁を例に取れば特高課員は最盛期で750人以上を数え、全国の特高課は各県知事の命を受ける県警察部長の指揮下にあったにもかかわらず、現実には内務省警保局保安課長の直轄下に置かれて暗躍した。」(『日本の公安警察』青木理 講談社現代新書)
 矢島氏は日蓮正宗への入信を昭和10年4月と述べている。牧口が矢島氏を警視庁に連れて行ったのは、早ければ昭和10年夏ごろであろう。昭和11年7月、特高部の機構拡充が行なわれているから、この時は昭和7年6月の特高部に昇格したころの体制であっただろう。労働係は課に昇格し第1係と第2係を下部組織に持つに至っている。
 その頃の組織略図に照らしてみると、牧口常三郎が紹介した相手は、まぎれもなく特高部労働課長と、内務省警保局長である。矢島氏の証言の正確さに驚かされる。
 労働課長とは何者か。


【特高部労働課長とは】
 昭和3年2月20日、第1回普通選挙が行なわれた。納税額に関係なく、25歳以上の男性全員に選挙権が与えられ、有権者は327万人から千240万人へと増えた。票読みのできない審議有権者が約9百万人も増えたのだ。パニックを起こすに十分である。「ポスターの枚数や掲示場所の制限はなく、慶応大の玉井清教授(近代日本政治史)の研究によると、全国に3千万枚超があふれた」という。今のツイッター現象みたいなものだ、という学者もいる。
 田中義一内閣は露骨(ろこつ)に選挙干渉を強め、対立を深めた。「結果は政友会が217議席、民政党が216議席、2大政党で定数(466)の93%を抑(おさ)えた。」(『朝日新聞』2012.6.23夕刊)
 戦前の政党政治の全盛期である。しかし4年後の5.15事件で政党政治は息の根を止められてしまう。息の根を止める大きな役目を果たしたのは特高と言ってよい。
 特高は、普通選挙が行なわれた直後の3月15日に、日本共産党や労働農民党のメンバーなど、約1千6百名を一斉検挙した。いわゆる3.25事件である。このとき辣腕(らつわん)を振るったのが労働課長である。


【創価教育学会、弾圧当局と接触】
 3.15事件の検挙の主導権は労働係(当時)がにぎった。
 たたきあげの特高刑事である宮下弘は
 「3.15事件は、そもそもの端緒も検挙の主導権も特高課の労働係で、治安維持法違反を担当する特高係じゃなかった。そのわけは労働係次席に優秀な毛利基警部がいたためで、特高係は当時面目ない状態だったということでした。」
 「特高課には、特高、労働、内鮮、検閲などの係があって、治安維持法違反の検挙についていえば、制度上の主管は特高係ということなのですが、労働係は争議取締りなどの関係で、過激な労働者に多く接触しているし、…そのため、4.16以前には、共産党取締りの覇権(はけん)をもっぱら労働係にとられているというような時期もあったわけです。」(『特高の回想』田畑書店)
と回想する。
 牧口の引き合わせた労働課長は、特高司令部の花形幹部であり、警保局はそれを管掌(かんしょう)する国家機関である。
 昭和20年10月4日GHQ(連合軍総司令部)は「人権指令」を発して、以下の即時実行を求めた。
@治安維持法などの治安法規を廃止すること
A政治犯、思想犯を即時釈放すること
B一切の秘密警察機関、検閲などを営む関係機関を廃止すること
C内務大臣、警保局長、特高警察宮を罷免(ひめん)すること
 このC項に名指しされているのが警保局長である。
 「この指令によって、特高警察の総元締めだった内務省警保局長ら計約5千人の内務官僚や特高関係者が追放され、投獄されていた約3千人の政治・思想犯が釈放された。この時点で、特高警察が有していた行政警察・予防警察としての強大な機能は、そのほとんどが失われたのである。」(『日本の公安警察』)
 初信者にすぎない矢嶋氏を引き合わせるには危険すぎる相手ではなかったか。
 この弾圧機構は、明治44年にできた。大逆事件で幸徳秋水が処刑された、その年のことである。政府は内務省警保局保安課内に専門の職員を置き、警視庁に高等課から特高を独立させた。思想警察の誕生である。
 思想警察とは何か。端的に言うと、人が心のなかで考えていることを取り締まる警察のことだ。ということは、表現の自由はもとより、思想、信教の自由を許さず、そこから運動として起こされてくる集会、結社の自由を認めない。
 そんな権力の身勝手さを憲法は認めているのだろうか。しかも、逮捕する判定基準は特高と思想検事の判断下にあったのだという。それならば、帝国憲法はここですでに死んでいる。
 司法当局から睨(にら)まれたら、犯罪事実の有無にかかわらず有罪に仕立て上げることも可能だ。「正義の牙(きば)」がいつ「狂った牙」になっても誰も止められない。誰も分からない。


▲『牧口常三郎』(聖教新聞社刊)に載せられている矢島氏(出家して矢嶋秀覚)の回顧録。これによって、牧口が特高警察幹部に人脈を持っていたことが明らかに


【日本の特高】
(ウィキベディア)

 無政府主義者による天皇暗殺計画とされた大逆事件(幸徳事件)を受け、1911年、警視庁に、従来より存在した政治運動対象の高等警察から分かれて、社会運動対象の特別高等警察課が設置されたのが特別高等警察の始まりである。これにはフランスの秘密警察の影響がみられる。このとき、地方長官や警察部長などを介さず、内務省警保局保安課の直接指揮下に置かれた。1913年の警視庁官制の改正によって、特別高等警察・外事警察・労働争議調停の三部門を担当する課として位置づけられた。
 1922年に日本共産党が結成されると、翌年1923年には大阪府や京都府など主要9府県の警察部にも特別高等課が設けられ、1925年には治安維持法が制定され取り締まりの法的根拠が整備された。3.15事件をうけ、1928年には「赤化への恐怖」を理由に全府県に特別高等課が設けられ、また、主な警察署には特別高等係が配置され、全国的な組織網が確立された。1932年に警視庁の特別高等警察課は特別高等警察部に昇格する。特高警察を指揮した内務官僚には安倍源基や町村金五(町村信孝の父)などがいる。
 1932年に岩田義道、1933年には小林多喜二に過酷な尋問を行なって死亡させるなど、当初は、共産主義者や共産党員を取締りの対象としているが、日本が戦時色を強めるにつれ、挙国一致体制を維持するため、その障害となりうる反戦運動や類似宗教(当時の政府用語で、新宗教をこう呼んだ。『似非宗教』に近い意味)など、反政府的とみなした団体・活動に対する監視や取締りが行われるようになった。第2次世界大戦中には「鵜の目鷹の目」の監視網を張り巡らせたほか、横浜事件など言論弾圧といわれる事件をひきおこした。


【治安維持法】
(ウィキベディア)

治安維持法(ちあんいじほう)は、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。(中略)
<「国体変革」への厳罰化>
1925年(大正14年)法の構成要件を「国体変革」と「私有財産制度の否認」に分離し、前者に対して「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」として最高刑を死刑としたこと。


 国体(皇室)を否定したり戦争に反対する者は、特高警察の取り締まり対象であった。その特高警察のもとへ牧口会長は、氏が折伏した元マルクス主義者を連れて行き「今後、法華経の信仰に励み、国家有為の青年となるから御安心ください」と紹介したという。戦時下の治安当局に対して「法華経の信仰に励」むことが「国家有為の青年となる」と明言したのである。
 この事実から分かることは、牧口会長は決して戦時下の国家権力=軍国主義に批判的ではなかった、それどころか、国家の方針に積極的に賛同していた、ということである。
 牧口会長は神札拒否によって逮捕されたが、決して天皇を冒涜したり戦争に反対する意思はなかったのである。(法蔵)