創価学会破折

言論人の懐柔に長(た)けた池田大作の"手駒"「池田克也」

―権謀術数は師匠譲りだがリクルートで自滅―
―〈公明党幹部は"手駒"その6〉―
―策士が策に溺れて―

(元学会本部職員・小多仁伯『慧妙』H22.5.16)

 1990年(平成2年)前後は、池田大作にとって「破門」「除名」「学会製ニセ本尊配布」と、地獄に転げ落ちる大事件が続いた。
 加えて"手駒"にしていた公明党最高幹部たちの、次々と明るみに出る汚職・収賄(しゅうわい)事件に、池田は怒り心頭の修羅地獄にあった。
 その事件とは、田代富士男の「砂利船汚職事件」、矢野絢也の「明電工事件」、池田克也の「リクルート事件」である。いずれの3名も、池田大作が最も頼りにしていた公明党議員である。
 これを契機に次の1993年の衆議院選挙から、池田大作は公明党国会議員の総入れ替えを命じた―。
 さて、池田克也は、1976年(昭和51年)の衆議院選挙に、東京3区から言論界を代表するホープとして立候補し、39歳で初当選している。
 池田克也は総合月刊雑誌『潮』の取締役編集長として、長くその任についていた。彼の役割は、その『潮』を舞台に、有名な作家・ジャーナリスト・評論家を創価学会のシンパにすることにあった。
 学会員が90%購入している大赤字経営の『潮』が、他の雑誌では考えられない破格な原稿料を支払う事ができるのも、著名人対策には「金を湯水のごとく使ってよい」との池田大作の決裁があったからである。
 今では、その毒まんじゅうが効果を上げたのか、『潮』誌に登場する文化人は跡を絶たない。
 私も、友人が潮職員に多くいた関係で、よく飯田橋の潮出版社に出入りしていた。今をときめく田原総一朗はその当時、あまり売れておらず、潮職員と食事を共にしながら、企画を練(ね)っていた事が思い出される。
 池田克也は、毎月開催されていた「本部全体会議」に、言論界の状況や文化人の誰それがシンパになったなどと報告しており、池田大作の信任も厚くなっていった。
 当時の記録によると、池田克也は、昭和40年頃から、秋谷栄之助、森田一哉、青木亨、横松昭らと本部職員の指導に当たっていた。
 昭和42年11月25日の「全体会議」では、池田克也は、「活字を担当する者は充分注意していきなさい。密接な連絡と正確を期す」と、池田大作からの伝言を伝えている。
 同じく昭和45年1月22日の「全体会議」では、「つまらぬ投書に惑(まど)わされないように」、また「私たちの投書活動は慎重に(敵に逆用される)」「言論部の成果を煽(あお)らない。数より理路整然として投書するように」と伝達したことが記録メモに記されている。
 これらのことからも窺(うかが)われるように、池田克也が中心者となって「言論部」を育成し、青年部を中心に組織化したことがあった。この「言論部」の役割は、後に創価学会を批判する言論人やマスコミから恐れられた、「投書の山」を送りつけるという悪業であり、その悪しき伝統を池田克也が作ったのである。
 1988年(昭和63年)6月『朝日新聞』の記事から発覚した、戦後最大級の構造汚職疑惑「リクルート事件」が、連日のようにテレビで扱われていた。
 その中では、池田大作から重くみられた池田克也が「リクルート事件」に関与している、との報道がなされた。
 私もテレビ報道をできるだけ見ていたが、田原総一朗がキャスターをしていた人気番組において、「リクルート問題」で東京地検から参考人として事情聴取を受けた池田克也に対し、「ぜひテレビに出演して真実を語ってほしい」と呼びかけていた。池田克也は、田原との誼(よしみ)で番組に出演し、親しげに「どうぞお手柔らかに」などと笑みを浮かべながら身の潔白を主張していた。
 その時の田原総一朗と池田克也のやり取りが、何故か身びいきのようで不快に感じたことを覚えている。
 テレビ出演から半年後、未公開株を5千株取得していたとして、池田克也は在宅起訴され、懲役3年・執行猶予4年が確定した。
 当時、経済界をはじめ63名の政治家が、リクルート社の未公開株を取得し、不正な利益を得ていたのである。
 池田克也は、池田大作の走狗(そうく)として、文化人を創価学会シンパにし、最後は政治生命を失い、社会からも断罪されてしまった。
 池田大作が常に指導している「バレなければ、どんな悪事をやってもよい」との、狂った行動原理が不幸の原因であったといえよう。


▲本年5月号の『潮』に登場した田原総一朗は、「今こそ創価学会の出番」と学会にエ-ル


 池田の最初の文化而へのスタートは昭和35年6月創刊の『潮』できられた。同誌は当初、青年部の機関誌で、市販されなかったが、38年4月から、現在の創価学会臭をほとんど感じさせない月刊総合雑誌へと編集方針を転換した。『潮」は創価学会の「一般への窓」(央忠邪)最たるもので、上条末夫(かみじょうすえお)はその機能を、「第一は、文化人の"撫徇工作"であり、第二には一般人の"懐柔工作"である」(上条「創価学会の"文化人工作"」、『改革者』昭和45年3月号)と評している。執筆場所の提供や高額な謝礼によって、大学教授や文化人に関係をつけ、また心理的な負い目を負わせて彼らを自陣、もしくは中立に立たせ、さらに購読者に対しては、著名な文化人の執筆論文で釣り、創価学会アレルギーを解消するという戦術である。
 昭和56年現在の発行部数は32万部といわれ、発行は潮出版社(42年12月設立、資本金千6百万円、従業員86人)が行っている。同社は一時期、『週刊言論』(公称50万部)、季刊雑誌『日本の将来』を発行していたが、『週刊言論』『日本の将来』とも47年11月で休刊している。潮新書、潮文庫などを持ち、44年には2億169万円の利益(税務申告)をあげている。
 代表取締役は旧華族の島津矩人(のりと)、取締役に創価学会総務の池田克也(編集局長兼任)、八矢洋一、他に公明党国会議員の黒柳明、渡部通子も取締役だったが、言論抑圧問題の最中、45年3月11日に、同年1月5日付の辞任の登記をしているという(「黒い"鶴"のタブー」25、『赤旗』昭和45年4月8日)。
 昭和56年現在の社長は富岡勇吉、編集代表・志村栄一であり、「ヤングミセスの生活全般にわたる実用実利を追求する」と銘打つ『婦人と暮し』(月刊、48年4月創刊、公称52万部、編集長・鈴木征四郎)、少年漫画誌『少年ワールド』(月刊、53年7月創刊、公称30万部、編集長・門脇良充)、『別冊少年ワールド』なども刊行するようになった。(溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』275頁〜)