創価学会の「広告」考

―広告を氾濫させる目的はマスコミ操作に―
―イメージ戦略は折伏を忘れた動かぬ証拠―

(『慧妙』H23.3.16)

 日蓮正宗から破門されてより、本年11月で20年を迎える邪教創価学会は、正法の信仰を失った上に、加えて大聖人門下としての誇(ほこ)りも忘失した。
 学会の動向で近年、目立つのが、テレビ・ラジオを使っての過剰なCM放送や、学会員タレントの過多なる出演である(このうちの広告料だけでも、年間数十億はかかっていると思われるが、これらも会員から収奪した金で賄〈まかな〉われていることは、いうまでもない)。
 こうした学会のメディア戦略は、布教の一環であるとともに、各メディアを思いどおりにコントロールすることに目的がある。
 そして、その結果、本来なら、公平な立場で真実を伝えるべきメディアが、創価学会にマイナスな事柄については、いたって消極的になる。特定の宗教団体、ましてや仏法上から見て現代の一凶たる邪教創価学会に、多くのマス・メディアが支配される在(あ)り様を見て、この国の将来を危ぶまずにはいられない。
 また、仏法上から見て、メディア戦略により不特定多数の人々に布教しようとする在り方は、大聖人の精神に反するものである。
 これについて少々述べてみると、本来、仏の化導方法に2種類ある。摂受(しょうじゅ)と折伏である。
 摂受とは、仏の本意を説かず、衆生の思想や見解に違義があっても、それを直ちに指摘し呵責(かしゃく)することなく、容認納受しつつ仏法に引き入れていく化導である。また折伏とは、破折・摧伏(さいぶく)の義であり、仏が直(ただ)ちに本意の法を説き、衆生の邪義・偏義・悪見を許さず、これを破折し屈伏せしめる大慈悲の化導である。
 この2つの化導の違いは、単なる化導方法としての強弱・硬軟の違いではなく、まさに弘める法それ自体が方便であるか、真実であるか、という違いによっている。
 すなわち摂受は、衆生の機に合わせた随他意の化導であるが故に、弘める法も方便の教法である。これに対し折伏は、仏の本意を説示した随自意の化導であるから、弘める法も真実の教法である。
 しかして、天台大師が
 「法華は折伏にして権門の理を破す」(法華玄義)
と示されるように、仏が正直に方便を捨てて真実を説き明かした法華経は、そのものが折伏を体(たい)とするのである。
 では、末法における日蓮大聖人の弘通はというと、弘める教法は五重相対等によって選び出される最高真実の妙法である(法体それ自体が折伏である)から、これを弘めていく化導方法も、
 「邪智、謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品のごとし」(御書575頁)
 「日蓮は折伏を本とし摂受を迹と定む」(御書1700頁)
とあるように、相手の思想見解を容認していく摂受の布教ではなく、相手の邪義を破折屈伏せしめる折伏となるのである。よって、海外布教などのなかに、折伏の中の摂受という形はあるものの、末法の布教は折伏を面(おもて)とするのが大聖人の教えなのである。
 しかるに、こうした折伏の本義を亡失して、創価学会のように、単に会員獲得のための宣伝や勧誘に狂奔(きょうほん)するところには、当然といえば当然だが、大聖人の正義は存在しない。否、正法正義を失ったからこそ、布教の方式も全く摂受のような形へと変貌(へんぼう)してしまった、というべきであろう。
 正法を失い折伏を亡失した創価学会が、マス・メディアなどを牛耳(ぎゅうじ)り社会に向かって勧誘を行ない、また、一方では反対者への悪口罵詈(あっくめり)・中傷誹謗(ひぼう)を繰り返す所行は、正法に背反(はいはん)する邪宗教の姿そのものである。
 このような学会が社会に与える悪影響と正法広布を妨(さまた)げる所為は、まさに破仏・破国の大罪というべきである。


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 或る人は利口気にいう。布教に、ラジオを使うべきだ、テレビを使用すべきだ―と。
 何と、浅墓な言であろうか。俗にいう、PRなど、学会には、絶対に必要ないのだ。それこそ、多くの新興宗教の取るべき、悪質な企業宗教の手段にほかならない。
 正法は、断じて法を下げるような方法は取らない。取る必要がないのである。この座談会こそ、牧口会長以来の、学会の尊い伝統なのである。(『人間革命』第2巻)
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▲池田大作は『人間革命』で、"PRなど必要ない、法を下げる方法は断じてとらない"とまで言っていたのだが…