尊厳なる意義と歴史D

(『大白法』H21.11.1)

【敬台院の追善菩提の志】
 前回まで述べてきたように、寛永8(1631)年10月、総本山大石寺は火災に見舞われ、多くの諸堂宇を失い、その復興の中、敬台院の寄進によって現在の御影堂が建立されました。
 この敬台院の功績を讃えられ、御影堂裏手に建立されたのが敬台院の供養塔です。この供養塔には逝去の後に建てられた墓碑と共に敬台院の生前に建立された逆修塔があります。
 注目すべきはその左手、敬台院の息女、鎮姫こと芳春院の供養塔の存在です。この墓地について古来、この場所が芳春院の正墓(お骨が埋葬されている墓所)であると言われてきました。
 常泉寺文書『口上覚』には、芳春院の廟所(びょうしょ)が当初敬台院が開創した江戸・法詔寺にあり、法詔寺が廃寺となった際に常泉寺5代住職の本行院日優師(日精上人の教化によって大石寺に帰依)によって向島常泉寺(東京都墨田区)に遷(うつ)され、後年、同師によって大石寺の御影堂裏に埋葬されたとの内容が綴(つづ)られています。事実、近年、同所を発掘した際には、墓碑の地下より瓶(かめ)に収められたお骨が確認されています。
 実は芳春院は、寛永9年1月29日、江戸屋敷において逝去されています。このことから、敬台院の御影堂建立寄進には、小さい子息を残し、若くしてこの世を去った息女、芳春院に対する追善菩提の志をも込められていたものと拝せられます。
 また、芳春院の夫である岡山藩主池田忠雄(ただかつ)も同年に逝去しており、この頃、敬台院の身近では立て続けに不幸が起こりました。それより以前にも敬台院は自らの夫である阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)を35歳という若さで亡ぐしています。
 敬台院は御影堂建立を端緒として、物心両面において、大石寺の外護に尽くされましたが、その敬台院の篤い信仰心の背景には、護法の念、広宣流布への願いと共に一族の罪障消滅・追善菩提への強い思いがあったように拝察されます。
 その後、敬台院は正保2(1645)年に江戸法詔寺を阿波徳島に移して敬台寺(徳島市)を創立するなど、その生涯を宗門の興隆のために尽力され、寛文6(1666)年1月4日、74歳の生涯を終えました。正墓は敬台院自らが開創した敬台寺にあります。
 同年6月、芳春院の子息である鳥取藩初代藩主・池田光仲は母の33回忌に際し、、鳥府(ちょうふ)城下(鳥取市)にその菩提として寺院の建立を発願し、大石寺より日興上人御直筆の御本尊をお迎えして、妙囿(みょうゆう)山日香寺を建立しました。
 その山号寺号は芳春院の法号である「芳春院殿妙囿日香大姉」に因(ちな)んで命名されたものです。敬台院の寂したその年に日香寺が建立されていることは、この寺院が敬台院に対する菩提の志をも含めた意味があったと考えられます。昨年、この日香寺は創立340周年を記念し、本堂が新たに新築され、御法主日如上人猊下大導師のもと新築落慶法要並びに御親教が厳粛かつ盛大に奉修されました。
 現在、敬台院の寄進された御影堂が大改修されていることと考え合わせるとき、仏法の不思議なる因縁を感じざるを得ません。敬台院ゆかりの寺院である敬台寺及び日香寺が今日まで大石寺の末寺として存在し、さらには広布の法城としてますます発展している現実こそ敬台院の御意に適った姿と言えるでしょう。


【御影堂建立に伴う境内整備】
 さて、当時の記録によれば現在の御影堂建立を契機として、総本山では大規模な境内整備が行われたことが窺(うかが)えます。
 伝承では、御影堂は当初、現在の二天門周辺にあり、この寛永9(1632)年の建立の際に現在地に移築されたと言われています。この御影堂移転に伴い、それまで現在の二天門の東南側にあった蓮仙坊(現在の了性坊)が本境坊の南側に移築されています。
 また、6年後の寛永15年には二天門(中門)の建立、総門の再建、さらに鐘楼等が新たに建立されるなど、参道を含む、御影堂から塔中に至る現在の表塔中の原形はこの時の整備によって出来上がったものと考えられます。
 この敬台院の建立寄進による御影堂建立から始まった境内整備は、第17世日精上人の御構想によるものであることは言うまでもありません。
 これらは大石寺開山以来、宗祖本仏義を根本としてきた教義信条と本門戒壇の霊場としての格式をさらに具象化し、広宣流布に向けた機能的な寺院とすべく、荘厳あそばされた御化導が拝せられます。
 前回記したように、この日精上人の御化導は宗史上非常に重要な意義を持っています。下谷常在寺(現在の東京都豊島区常在寺)に移られて後、江戸において本格的な布教活動を展開され、かの有名な金沢法華講衆や向島常泉寺の帰伏、江戸幕府第6代将軍正室・天英院の帰依も、元をただせば日精上人の折伏によるものです。
 また、第26世日寛上人は日精上人の御説法を聴聞したことが出家のきっかけとなったと言われております。
 歴史に赫々(かくかく)たる法勲を残された日精上人の御化導の初めに、御影堂の建立があることは広布進展の意味から見ても深い意義が存すると拝するべきです。


▲御影堂の北側にある敬台院殿の供養塔(左から5番目)、逆修塔(左から3番目)、及び芳春院殿の供養塔(左から2番目)


▲敬台院殿画像(正法寺蔵)