「妙修尼」報道に顕われた学会の独善

―昔は双手(もろて)で讃歎(さんたん)、今は悪口誹謗三昧―
(『慧妙』H22.4.16)

 3月17日付『創価新報』の第6面において、「日顕 母親の回忌法要で出したお粗末冊子で恥さらし」などという見出しのもと、日顕上人に対し愚にも付かぬ誹謗(ひぼう)中傷を加えている。
 これは、御隠尊日顕上人の御母堂であり、第60世日開上人の御内室であった、妙修房日成大徳の第37回忌(1月18日)を迎えるに当たり、日顕上人が追憶談集を発刊されたことと、その内容に対する創価学会の難癖(なんくせ)である。
 該書『妙修房日成大徳第三十七回忌に当たりて』を一読すれば、何ぴとも妙修房日成大徳の尊(とうと)いお姿を拝して感慨を覚え、また、創価学会による誹謗が日顕上人への単なる嫌がらせであることは明らかであるから、その内容の一いちについて取り合うことはしない。
 ただ1点、今回の『新報』記事が昔の『聖教』報道と正反対の報道となっている、という自家撞着(じかどうちゃく)を指摘し、前出『三十七回忌に当たりて』を目にする機会のない学会員にも、学会のデタラメぶりを知らしめておきたい。
 かつて、創価学会は、機関紙『聖教新聞』において、妙修尊尼について、「正宗の尼さん」「夫、日開上人を師に」との表題のもと、つぎのように述べて讃歎(さんたん)していた。
 「大講堂を拝見してもつくずく思うことは、日開上人の"広宣流布は時の猊下に人を得、国主に人を得、非常な苦難をのりこえて世間の世論が起きなければならない"といわれた言葉。これを妙修さんはまだはっきりと記憶し、思索しつづけているのである。」(S33.4.11)
 つまり、以前は、日蓮正宗最後の立派な尼僧(にそう)として持ち上げていたが、今は「出家とは名ばかりの堕落」と批判しているのだ。
 いったい、どのような心理から、前後で正反対の評価をするのであろうか。
 じつは、それこそが創価学会特有の体質である。
 つまり、創価学会にとって価値があれば利用し、価値がなければ切り捨てる、まして不利益になるものについては、徹底して攻撃し排除する、という超排他的な独善性こそが創価学会に流れる思想なのである。
 具体的な事柄を摘示すれば、破門以前は、唯授一人の血脈を認め第67世御法主日顕上人への信伏随従を説いていたが、日顕上人が創価学会の逸脱謗法を厳しく追及し、ついに破門してからは、血脈を否定し、口を極めて日顕上人を誹謗中傷しはじめたのである。
 そもそも日顕上人は、大聖人の仏法をどこまでも正しく守護し、末代に令法久住せしめるために、大謗法と化した創価学会を破門に処したのである。
 しかし、学会の側から見れば、日顕上人は憎き大怨敵である。
 ゆえに、末端の会員の学会離れを食い止め、間違っても宗門に行かせないために、「相承詐称の後ろめたさ」等といって、かつてと正反対の悪宣伝を展開するのだ。
 そして今回の『新報』の誹謗記事においても、「出自が無欠であるかの如く装うため、家系まで偽(いつわ)り、ウソの物語をデッチ上げている」等と報道し、大怨敵の日顕上人を極悪法主に仕立てる一環として、その出自を下卑(げび)たものにしてしまおうとの狙いから、誹謗中傷を加えていることが明らかである。
 最後に、創価学会がいちおうは認める第66世日達上人が、妙修房日成大徳の第五七日忌の法要において、次のように御指南されているので紹介したい。創価学会員よ、目を見開いて、拝すべし。
 「(妙修尊尼は)私にも書いたものを残され、それは私の、管長としてやっておる私の後々のための注意のようなものである、私は注意であると深く感謝しております。それは『今日は喜び明日は悲しむ八風に侵されざるの腹すえて何をか言わん命果つる迄』ということを書き残されております。(中略)妙修尼が若い私の方に、若いといっても72になったのですけれども、妙修さんは76、その若い私に、とにかく喜びのことも悲しいことも、世間の八風におかされない腹をすえて、何をかいわん、なにも苦しいことも明かさない、そして命果つるまで、これを守ってもらいたい、という遺言であると、深く私は感謝している次第であります。さらにまた、別れの言葉として『我に名も無し、位も無し、道の端の雑草に似たれども、踏まれてもまた踏まれても恵みの露と、太陽の幸を受けて、起きあがる生命のありがたさ、妙法の慈愛の中に、我が命を感じぬ 妙修』という、これが最後の遺言でこざいます、そしてこの世の苦しいこともすべて常に、この太陽の光、恵み、大聖人の妙法蓮華経の利益によって、永遠なる生命に生きていく、ということを書き残されております。(中略)まことに女ながら、じつに仏法の一分を体得せられたということを、今日、皆さんにお伝えして私の言葉といたします。」(日達上人全集第2輯6巻257頁)

▲かつての『聖教』は妙修尊尼を讃歎